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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   3/6 アブラハムの生涯(9)わたしの前を歩め 創世記17:1〜14
☆聖書箇所    創世記17:1〜14

1アブラムが九十九歳になったとき、【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。
  「わたしは全能の神である。
  あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
2 わたしは、わたしの契約を、
  わたしとあなたとの間に立てる。
  わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
3アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。
4 「わたしは、この、わたしの契約を 
    あなたと結ぶ。
   あなたは多くの国民の父となる。
5 あなたの名は、
  もう、アブラムと呼んではならない。
  あなたの名はアブラハムとなる。
  わたしが、あなたを多くの国民の
  父とするからである。
6  わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。
7わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。
8わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」
 9ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。
10次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。
11あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。
12あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。
13あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。
14包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」

☆説教    アブラハムの生涯(9)わたしの前を歩め 

創世記の17章です。聖書をず〜っと開いていてくださらないと、全然解らなくなってしまいますので、どうか聖書を見つめてよろしくお願いいたします。
1節で――

1アブラムが九十九歳になったとき、【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。……

と始まります。ということで、その17章の1節の前、すなわち16章の最後16節で、「ハガルにイシュマエルが生まれたとき、アブラムは八十六歳であった」と記されていますから、16章と17章の間には13年間の空白があります。
13年間、神さまはアブラハムに現れることはありませんでした。
夢の中でも使いを通してでも、神さまはアブラハムに語りかけることはありませんでした。
もちろんここに記されていない他の出来事もあったに違いありません。
しかし何も記されていないということにも意味はあります。

13年前、いやそれを遡るところ1年、14年前にアブラハムとサラは約束の子どもがなかなか与えられない――そういう中でとうとうサライは女奴隷ハガルを使って、アブラハムとの間に子どもを儲けようとします。
あたかもそれが人間的、肉的な努力であり、それを完全に断ち切るために、神さまは14年間無言でいらっしゃったかのように感じます。
そうしてさらに子どもを産める可能性が全くゼロになった時に、改めて神さまはアブラハムに声をかけます。

今日はその個所を一緒に学んでみたいと思います。
すなわち、私たち人間の可能性がゼロになった時に、神は新しい声を私たちにかけてくださるという前提で、これからの所を一緒に読みたいと思います。
短く3つのポイントで話をします。第一番目に――

1)その神さまご自身は、ご自分を「わたしは全能の神である」と呼びます。

17章の1節の3行目、「わたしは全能の神である」――ヘブル語では「エルシャダイ」です。
「エル」は神。「シャダイ」が全能です。

アブラハムの家庭に、子どもがなかなかできませんでした。
やきもきして神さまの約束を疑い、自分たちで様々な画策をしてしまったアブラハムとサライに対して、その可能性がゼロになった時を待って、神さまはいよいよ声をかけます。
その声が「わたしは全能の神である」。

旧約聖書に「エルシャダイ」は48回出て来ます。有名な神さまの呼び名です。
そしてここが、「エルシャダイ」、一番はじめに出て来る場面です。
可能性がゼロになった人間に、神さまは祝福を実行されます。
4節〜8節に、「わたしは〜する」という表現が5回出て来ます。
4節に「わたしは、このわたしの契約をあなたと結ぶ」
5節に「わたしが、あなたを多くの国民の父とする」
6節に「わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする」
7節に「わたしは永遠の契約を立てる」
8節に「わたしは、全土をあなたの所有として与える」

4節から始まります神さまの御告げというのは、徹底的に「わたしはあなたに対して〜をする」でありました。
全能の神がアブラハムを祝福し、私たちを祝福されるとき、それは、絶対性、確実性が強調されているということでありましょう。
神さまはアブラハムに――「もしかしたらそうなるかもしれない」「場合によっては、うまくいったら、そうなるであろう」――そんなことは仰いませんでした。
「わたしは、あなたを祝福する。それは契約である」(と神は仰ったのです)。

私たちは、聖書に出て来る様々な神のことばを、文字通り信じたいと願っています。
信じるべきであると、私たちは考えています。
なぜなら神は全能の神だからです。
私たちの可能性、私たちの能力がどんなに乏しくても、貧しくても、神がそうすると仰ればそうなる――それを信じているのが信仰です。いいですか?

2)さて神さまがアブラハムに声をかけられた時――もう一度(17章)1節をご覧ください――神さまはこんなことを仰います――

「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」
「前を歩み」というのは、地理的な問題ではないです。これは関係的な問題です。
人生における神さまとの関係で、「わたしの前を」というのは、あなたの人生が全て見える位置にわたしはいる。
その中で「あなたは全き者となれ」。
「全き者」とは――完全無欠という意味ではありません――成熟した者、責められるところがない者。
もう少し普通に言いますと、「誠実な者、真実な者、成長した者、しっかりした者、大人、信頼できる者になりなさい」
神さまは仰った、アブラハムに――「わたしはあなたのすべてが見える。わたしの前で、真実で誠実な者であれ」と。

いいですか?今日でアブラハムの学びは9回目です。元旦礼拝から始まりました。
元旦礼拝で、アブラハムは、「行き先知らずして」、神さまが召してくださった人生に踏み出して行きました。
踏み出して約束の地に入った時に、そこに飢饉が起こります。
飢饉に見舞われると、思わずエジプトに逃避して、これまで見たこともない、とんでもない危険な目に遭います。
そこから出て、甥のロトと争いになり、二人は別々の道を行くようになります。
その時にアブラハムはすべてを神さまに委ねて、損な道を行くことになりました。
でも彼は信仰をもって、「損な道でも、神さまが祝福してくださる」という信頼で進んで行きます。
さらに、アブラハムは人生初めての戦いにあって勝利を勝ち取った時に、「褒美を取らせよう」と言うソドムの王さまに対して、「私は糸一本でもあなたから受け取らない」ときっぱりと悪との関わりを絶ち切りました。

それでも待てど暮らせども、約束の子どもは生まれない。ハガルを使って子どもを儲けようとしました。
ハムラビ法典を見ますと、そのように教えられていますから、「あなたの子孫がいない場合は、自分のしもべと結ばれて子どもを儲けて良し」という風になっています。
しかし13年間、神さまは沈黙でした。いいですか。これは今までのおさらいですね。

そして17章の1節で、神さまは沈黙を破ってアブラハムに仰った。
「わたしは全能の神である。(あなたは)わたしの前を歩んで、全き者であれ」
っていうのは、多分こういうことです――「あなたの信仰のレベルを一段上げろ」と。

行き先解らずして故郷を出たのは75歳です。そしていま彼は99歳。
ということは、24年間、信仰生活24年間、アブラハムは不信仰であったとは、私(藤本牧師)は思いません。
神さまの前を歩んで、いい加減であったとも私は思いません。
ソドムの王の「褒美は全部あなたに取らせる」という申し出に、「私は糸一本でもあなたからは受け取らない」という程、彼は悪との関係をきっぱり絶っていたような、非常に気持ちのいい人間です。
99歳になる14年前、神さまに、夜空を眺めて「あなたの子孫をこの星のように増やす」と言われた時に、アブラハムは「アーメン」と言って信じました。
それを神さまは彼の義と認めてくださり、動物を切り裂いて、アブラハムの不安を取り除くように、ご自身が切り裂かれたものの間を通って、アブラハムに平安を与えました。
それはまさに、信仰者の24年であり、信仰生涯の24年であったのではないでしょうか?

でも神さまはここでアブラハムに仰います――「全き者であれ」「信仰のレベルを上げなさい」と。
私たちが自分の人生の不可能を経験する時、自分の可能性がゼロになってしまう時に、何が求められるのか?
神さまは仰る――「あなたの人生はわたしの前に全て見える。あなたの人生の信仰のレベルを上げなさい」と。

この場面が、もちろん彼の生き方を決定します。
そして何がどういう風に求められているのかは、実はあまり定かではありません、17章では。
例えば神さまは、アブラハムを変えるために、アブラハムの信仰のレベルを上げるために、アブラハムに新しい名前をくださいます。
ちょっと見ていただきたいと思うのですけれども、アブラハムに与えられた新しい名前、5節――

5  あなたの名は、
     もう、アブラムと呼んではならない。
     あなたの名はアブラハムとなる。

「アブ」というのは父という意味です。イエスさまが「アバ、父よ」と仰いましたでしょう、アラム語で。
「ラーム」というのは、高められた。ですから「アブラム」というのは、高められた父という名前です。
そこに「ハーモン」という多くのという言葉が入ります。
そのハーモンのハを取って、アブラハム、ですから「多くの人々の高められた父」という名前をもらいます。

妻のサラも新しく名前をもらいます。15節をちょっと見ていただけます?15節一緒に読んでみたいと思います。

15また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。

こちらの方は少し解りません。サライというのは「私の王女」という意味です。
その「私の」という部分を取るのですね。ですから、「サラは王女」という意味になります。
「私の」ということを取ることによって、「より多くの人々の王女となる」という風に解釈するのが一般的だろうと思います。

約束がそのまんま、アブラハムとサラにとって、新しい名前になりました。
でもこれで(信仰が)レベルアップするのか、というのが一つの問題です。

3)私(藤本牧師)が思うに、レベルアップのものすごく大事な所です。
ちょっと9節から読んで行きますので、見てください。

  9ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。
10次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。
11あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。

これがアブラハムの信仰がレベルアップするために、神さまが用意された方法です。
「神さまの御前を歩んで、全き者となる」ということの一つの形がここに現れています。
神さまはご自分からは契約をお出しになりました。

かつて私たちは15章の10節を学びました。
夜空を見上げて、「あなたの子孫はあの星のようになる」と言った時に、アブラハムは「アーメン」と言いましたね。
その時神さまは動物を用意しろと、「雌牛、雌やぎ、雄羊、山鳩とひなを持って来なさい」と神さまは仰いますね。
一緒に礼拝で学びましたが、持って来た時に、神さまから言われていないのに、アブラハムはなんとそれらを全部持って来て、山鳩を除いて、残りの動物は真っ二つに切ります。そしてその二つを半々、互いに向かい合わせに置きます。

あの時申し上げたことは、「契約というのは、旧約聖書では文字で書くものではない。いのちを切るものだ」と申し上げました。
それは、もし契約を破ったなら、このように切り裂かれてもかまわないという意味で、契約を結ぶ者同士が、動物を真っ二つに切って相互いに置きます。

その時神さまは黒い煙となって、切り裂かれたものの間を通られました。
それは神さまからの宣言で、「もしわたしが約束を破ったならば、わたしは切り裂かれてもよい」と新約聖書の表現では、「神さまはご自身をかけて真実を誓われた」と。
「もしわたしがあなたに対する契約を破るなら、この動物のように切り裂かれてもよい」とご自身を賭けて真実を誓われた。

あの場面は奇妙ですよ。なぜかと言いますとね、神さまがそのように間を通ったのたのなら、神さまはアブラハムに、「じゃ今度はおまえが通れ」と言ってもいいんですよ。
でも神さまはアブラハムに同じことを要求されませんでした。
契約は一方的に、圧倒的に、神さまが与えてくださった恵みです。

でもここで初めて神さまはアブラハムに言うんですね、「あなたも切りなさい」と。
私たちは神さまのために、いったい何を切って来たんだろうか?
というのは、私たちの可能性がゼロになり、「わたしはエルシャダイだ。全能の神だ」という神が現れ、そして私たちには圧倒的で絶対的な「わたしは〜する」という約束が5回ありましたでしょう?
そしてアブラムもサライも名前を変えてくださいますよね?
それは、シモンがペテロという名前になったように、神さまが約束を与えてくださるんですよね?
でもその約束が実現するために、つまり信仰がレベルアップされていくために、信仰生涯24年送って、神さまがいきなり仰ったことは「あなたも切れ」。

私たちの側で何か切り捨てることをしない限り、私たちの信仰というのはレベルアップしないものです。
そしてなかなかレベルアップしませんから、神さまは私たちに試練を与えて、無理やり切り取る機会を与えてくださいます。
「わたしはあなたととこしえの契約を結ぶ。しかしあなたも信仰の犠牲を払いなさい」
傷をつければ、血も出ます。痛みもあります。そしてそれは身体の一部分を切ることです。
神が「切れ」と仰っているのがいったい何であるのかは私にはわかりません。
それは皆さんにとって、それぞれでありましょう。でも切った時にその痕は残る。

(創世記17章の)13節をちょっとご一緒に読みましょう。

13あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。

こういう形でイスラエルの人々は、またユダヤの人々は、みな神さまのものであるというしるしを体に帯びるようになるんですが、
ここにあるように――「肉の上にしるされなければならない」――やがてこれが問題になりますね。

エゼキエルは「肉の上に記されても意味はない。割礼はあなたの心に記されなければならない」
何かものを切り取ればいいというものではない。
ま、ものと言っても肉体の一部ですから、自分自身の一部ですけれどもね。
でも「自分自身の一部の中で、もっとも自分が大事にしているもの、あるいは自分の心の一部を切り取れ」。

それはイエスさまが仰った。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨てろ」と。
自分を捨てろと。もう私のことばっかり考えている自分。私が豊かになり、私が祝され、私の願いが通り、とその「私」「私」と言っているその「私」を切り捨てなさい。そしてわたしについて来なさいと。

キリスト者にとって、必要なのは肉の割礼ではない。
パウロは散々これを強調していますね。たましいの割礼だと。
でも肉の割礼と同じように、たましいの割礼を受けることも、犠牲を伴います。
それは痛いことで血を流すほど痛いことだろうと思います。

パウロが非常に興味深いことを言っているので、それをご覧いただいて終わりにしたいと思います。
あと、ちょうど2〜3分で終わりにしますので、ちょっとこれだけ付き合っていただきたいと思います。
ガラテヤの6章の17節です。6章の17節をご一緒に読んで、ちょっとだけ話をして終わりにします。これがパウロの言う割礼ですね。

<ガラテヤ6:17>
17これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。

イエスの焼き印というのがあります。
それは割礼で言うならば、あなたがたの身体の上に付けられたしるしですね。
もしかしたらこれは、パウロが沢山今まで経験していた迫害のしるしなのかもしれません。
ギリシャ語でスティグマータです。
よくオカルトの世界で、トランス状態に入って、なにか十字架のマークが現れるとかあるじゃないですか。あれをスティグマって言ったりしますでしょう?

私(藤本牧師)は、疲れますとですね、お疲れマークって言うのが出るんです(大笑)。
それはここ(額)に、赤いしるしが出るんですね。
それがちょうど半月のように出ますので、何かツキノワグマのようだなぁと思いながら(笑)、皆さんに会うたびに「ぶつけたんですか」とか言われるので、コンシーラーを買って来てこれをこうつけておけば、ま、見えないようになるわけですよね。
私(藤本牧師)は、あれが十字架の形で出てくれれば(大笑)どんなに名誉あるかなと思いますね。
よその教会に行ってもうボロボロに疲れていても、「私には十字架のしるしがある。パウロと同じキリストの焼き印です」と言えますよね(大笑)。

旧約聖書にとっては「肉の割礼」であるとすれば、新約聖書では「スティグマータ」だと覚えてください。いいですか。
このスティグマータの意味を説明しますので、ちょっと聞いていただければ、この最後のところは難しいですから、ちょっと聞いて咀嚼して、皆さん家に帰って考えてみていただきたいと思いますけれども。

1850年に、ナサニエル・ホーソン(1804〜1864アメリカ人)が書いた「緋文字」という小説が出ます。
主人公のヘスター・プリンは背が高く美しい品格を持った女性です。
でも彼女の洋服には、「姦淫の女というadulteressアダルトレス」の「A」という文字の刺繍された服を着ることが彼女は義務づけられています。
「A」というのが赤い文字ですから、緋色の緋ですね。ですから「緋文字」で、原書のタイトルは“The Scarlet Letter”です。

自分はかつて姦淫を犯した。ピューリタンの厳しいコミュニティーの中にあって、彼女は姦淫の女だということを、もうそのまんま印しているわけですね。
ボストンのピューリタンの信仰の色濃い世界にあって、彼女の存在というのは、ま、本当に罪深い存在です。
物語はこの女性が広場で、緋文字を胸に付け、そしてさらし者にされている場面から始まって行きます。

彼女は最初っから、自分の罪深さという緋文字を負っているわけです。
それは私たち人間が、罪人としてこの世界に生まれてきたのと同じです。
私たちが十字架を愛するというのは、私たちが聖なる者であるから十字架を愛しているわけではない。私たちが罪人であるから十字架を愛しているんですよ。

しかしへスターは緋文字を帯びていながらも、罪の重荷をしかと受け留めながらも、病人や苦しむ人のために生きていきます。
そして彼女は病人や苦しむ人のために尽くしながら、その罪の烙印のゆえに、決して傲慢になりません。
「十字架は我が罪のために」と、こう思っている時に、私たちはどんなに人のために役に立ったとしても、決して傲慢にならない。
私たちの割礼は、この緋文字のような、十字架の「スティグマータ」ですね。

本来罪深い者でありながら、キリストの十字架によって罪赦され、のみならず感謝に溢れて受けた神さまの愛を周囲に向かって注ぎ出していく――それが「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩んで、全き者であれ」。

ちょっと物語を読んでいきますね。最後の方にこう書いてありますから。
「へスターの一生、苦労の多い、思いやりに富んだ、献身的な年月が経過していくうちに、緋文字は世間の嘲笑とひんしゅくを買う烙印であることを止め、悲しむべき何かの象徴となり、恐れを覚えながらも尊敬をもって眺めるべき象徴となっていきました。
そしてへスターは自己的な目的を持たず、自分自身の利益と楽しみのために生きることが全くなかったので、人々は悲しいことを困ったことをことごとく彼女のところへ持ってきて相談を持ちかけました。
彼女自身が大いなる困難を克服して来た人だったからです。」
――ここまで引用終わり――

ということはへスターは「完全な者」となった。
自分自身の罪深さを覚えながら、自分が受けている恵みに決しておごらず、遜る。
のみならず、そのように憐れみをかけてくださった神の愛を、何とかして周囲に注ぎ出そうとする十字架の烙印――パウロはこの十字架の烙印を帯びていたんです。
私たちにとっては、かつては罪の烙印です。
しかしその罪をキリストが負ってくださり、十字架の烙印となり、その十字架の烙印を自分自身に感じる度に、自分自身の内側から愛が神へと、周囲の人へと流れて行く。

信仰生涯をもって24年目、アブラハムはこれまでも立派な信仰を成し遂げて来ました。しかし「あなたの人生は、わたしの前にすべて明らかだ。わたしは全能の神だ。あなたが今の様々な問題を乗り越えて行くために、わたしの前で全き者となれ」と言えば、アブラハムはひれ伏した。
14年間沈黙を守られた神に――「どうして私のことをほっといたのですか?」――いや、そんなことは言わない。
アブラハムはただ神の御前にひれ伏して神を礼拝し、そして即座に自分の切り捨てるべきものと言われたものを切り捨て、自分のしもべたちも自分の家族も全員そのようにしたのです。

もし主が私たちの心に、切り捨てるべきものというものを示しておられるなら、私たちもまたそれを切り捨てた時に、レベルが上がります、信仰のレベルが。
そして私たちは、イスラエルの民がそうであったように、完全に神のものとなるということを覚えておきたいと思います。

☆お祈り――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、もし私たちに、私たちがあなたのものであるという証し、しるしがあるとすれば、それは十字架以外のなにものでもありません。それは十字架のアクセサリーを身に着けることによっては表現することができません。できたらこの身に烙印が押されたらと思いますが、しかし、それも形だけのことではなく、「あなた自身がキリストの十字架のように、変えられて行くことこそがスティグマータなんだ。キリストの烙印なんだ」と、パウロが教えてくださいました。(ガラテヤ6:17)。

24年間信仰生涯を送って来たアブラハムは、決断して、切り取るものを切り取り、完全に神のものになろうとします。どうか私たちにもアブラハムのように声をかけてください。私たちに新しい名前をください(アーメン)。私たちに新しい可能性をください(アーメン)。同時に、私たちの心に切るべきものを切り、たとえそれがどんなに痛かったとしても、あなたにお捧げすることができるように助けてください(アーメン)。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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