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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   4/10 アブラハムの生涯(11)神の訪れ 創世記18:1〜8
☆聖書箇所     創世記18:1〜8

1【主】はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。
2彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。
3そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。
4少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。
5私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」彼らは答えた。「あなたの言ったとおりにしてください。」
6そこで、アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言った。「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」
7そしてアブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。
8それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した子牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。

☆説教     アブラハムの生涯(11)神の訪れ

創世記18章はこういう風に始まります。
アブラハムの生涯の第11回目、「神の来訪」と題して、今日はこれをこの箇所から学びます。

1主はマムレの樫の木のそばでアブラハムに現れた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。
2彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。……

とこう始まります。
マムレの樫の木――今でもあります。死海の西側の乾燥地帯にあります。
昼間でありましたならば、荒野に焼け付く日差しを避けるように、アブラハムは自分のテントの入口に座っていたと考えられますが、
目を上げて見ますと、自分の方に三人がやって来る――アブラハムはそれが神の訪れだと知っていたのでしょうか?
今朝のテーマは「神の訪れ」です。
3つのポイントでお話をしますが、第一番目に――

1)神は私たちのところに来てくださる。私たちの家に、私たちのところに来てくださるお方です。

神さまがアブラハムを訪れられるのは、これで何度目かわかりません。
<15章の1節>で、「【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨み」と始まります。
主が夢の中で現れてくださり、言葉をもって語りかけてくださいました。

<16章>では、【主】の使いがハガルに現れます。
女主人サラからいじめられ、荒野に逃げたハガルのもとに主の使いが来られ、その場所は「エル・ロイ」――神は見る・神を見る――という名前がつけられるようになります。
神がハガルを見つけられたのと、ハガルのもとに訪れてくださったという事実、そしてその神を同時にハガルは見たということで、「エル・ロイ」という名前がつけられます。

<17章1節>、ちょっと見ていただきます?こちらは――
1アブラムが九十九歳になったとき、【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。

この出だしは<18章の1節>と同じですよね――
1【主】はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた。

神が現れる、神がアブラハムのところに来てくださるということで、ほとんどすべての物語が記されています。
もし私たちが自分の人生の物語を晩年に書くとしたならば、いったいどういう場面で――勿論誰かと出会うことができた――でもその背景で、「自分は神と出会った」という場面がいくつも入って来るのではないかと考えさせられます。

18章は「【主】はアブラハムに現れた」ですが、ま、ヘブル語では「バイエラ」という言葉が使われているんですが、18章の10節に「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます」で、このセクションは終わりますね。

「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来る。また現れる」――主はアブラハムに現れ、また戻って来ると主は仰せになる。
神さまは幾度もアブラハムを訪れておられます。
祝福を携えて来てくださる――それが神さまです。
「恐れるな。わたしがあなたの味方だ。わたしが神だ」と力づけてくださり、
「あなたの子孫を夜空の星のように、数え切れないほどにする」と祝福してくださり、
時には、「全き者であれ」とさまざまな罪と汚れを振り払い、真っ直ぐに神さまを見るように教えてくださり、
戦いがあれば「わたしがあなたを守る」と、
神さまは私たちの天幕の入口に、すなわち私たちの日常に訪問してくださる、という何とも言えない温かみがこの18章にはあるということを、一つ覚えてください。

牧師の職務にとって一番大切な一端がありますが、私(藤本牧師)はほとんどその役割を果たしていません。
私がほとんど果たしていない、牧師がすべき職務は何か?――それは牧会訪問です。
私は訪問するのが苦手で、勝手に私は、皆さんは訪問されるのが苦手な会員でいらっしゃるだろうなぁ(大笑)という風に理解をし、成り立っているわけですね。
お電話・メールの類はいつでもなんですが、訪問するのは苦手。
皆さんもきっと訪問されるのは苦手だろうなぁと勝手に想像しておりますが、でもいつでも声をかけてくださいましたら、どこへでもまいりますが。

私(藤本牧師)は昨日ぼーっと考えていまして、自分の人生で、ああ、決定的に大事な場面で牧師の訪問を受けたということが二回ありました。
最初は、アメリカのニュージャージーの大学院で学んでいた時、日本人が経営しているお店で、――「大道」と言いますが、「大道」がきれいになったのは私のおかげなんですけれども――生のミル貝を買って来て、死ぬほど食中毒に当たりました。
これはもう死ぬなと思いましたね(大笑)。
お医者さんは抗アレルギー剤を入れるだけで、食中毒に関しては何も対応することはありません。
何を食べたの?わけのわからない貝を食べた。じゃあ死んでも仕方がないね、みたいな(大笑)、そういう会話ですね。何の同情もなしで。
私はモリスタウン(***NJの町)の、最新医療機器が沢山並び、医者と看護婦さんが行き交う中で、その時、明確に思いました。あ、人はこうやって救急病棟で死んでいくんだろうなぁと。
こんなにお医者さんがいて、自分もいろいろ繋がれていますけれども、あ、こうやって死んでいくんだろうなぁと。何度も意識が飛ぶんですね。
ずっとついていてくれた圭子(夫人)が、夜になって――まだ子どもたちが0歳と三歳でした――家に帰るということで、私は一人で寝ておりましたら、

しばらくしてマスクをした男性が私を見つけたんです。見つけて私のところに来て、ま、言うなれば、
「あれ、藤本君じゃない?こんなところで何をしているの?」ってことを言うわけですよ。
私は何も話すことはできないんですが、マスク越しに見た彼の目は、私と同じ学生寮に住んでいる神学生でした。
で、後にわかったんですけれども、彼は「病院で、末期の患者や家族を訪問しなさい」という実習がありまして、そして「今日は救急介護室というものを、救急病棟というものを一回見ておいた方がいいよ」ということで彼はたまたまやって来た。
そして私と目が合ったんですね。

その日、私は何も説明することはできませんでしたけれども、彼は事情を察してか、近くに来て祈ってくださいました。
これを「神の来訪」と言います、ね。

二回目は、インドの神学校で教えていた時、また腸チフス並みに激しい痛みと嘔吐で入院しました。これも厳しかったですねぇ。
二時間おきに下痢をするというのは、どういうことか?
中に何にも入ってないんですけれども、もう二時間おきに、水の下痢をするわけですね。
病院に入院しまして、退院してなかなか食べられず、体力がないまま神学校の授業を始め、食べる物にも困るんですけれども、なんとかかんとか生きていたある日、男性が私の家に来てくれました。
村の教会の牧師先生でした。
げっそり痩せている私(藤本牧師)のために、その先生も、静かな声でゆっくりお祈りをしてくださいました。

今でも思います。アメリカの彼は、今頃どんな牧師になっているのだろうか?インドの先生はまだお元気なんだろうか?と。
その後連絡が途絶えてしまっています。

神さまは、そうして私の天幕の入口に、私の日常に、癒しを携えて来てくださる、ということを今更ながら思った方がいいです。
(神さまは)来てくださるんです。

2)果たしてその時、私は神の来訪をアブラハムのように迎えることができたんだろうか?

その時は余裕がなかったとしても、アブラハムのように神の来訪を感激して、歓待してもてなす自分だったんだろうか?と思います。
(創世記18章)3節を見てください。ちょっとここは丁寧に見て行きますね。歓待ぶりがよく書かれています。

3そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。

「どうか、私のところにお寄りください。おとどまりください」
私たちは、この忙しい余裕のない日常の中で、何度となく神さまは私たちの天幕の入口に来てくださるんですけれども、せっかく来てくださるとわかっていながら、お入れしないんです。
日常が散らかっているから、他のことで忙しいから、中にお招きすることはしません。
ゆっくり神さまとお交わりをすることをしないんですね。

6節を見てください。ま、4節から読んでいきますね。

4少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。
5私は少し食べ物を持ってまいります。(***何でも少し、少しなんです。でも彼が持ってくるのは沢山なんです。でも少し、少しと言う、と説明)。それで元気を取り戻してください。それから旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」彼らは答えた。「あなたの言ったとおりにしてください。」

それからですよ(とアブラハムの気持ちを説明しながら読む藤本牧師)。
6……アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言った。「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」
7そしてアブラハムは牛のところに走って行き、(もう、「早く」とか「走って行く」んですね、と説明、)柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。
8それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した子牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。……

ま、あっという間の出来事だったのかもしれません。
奥さんに行って、「早くパンを焼いてくれ」と。若い者に行って、「早く牛を料理してくれ」と。そして少し会話でもしたのでしょう。料理が出来上がってきたら、彼は自ら給仕して、「どうかおとどまりください」
それはどういうことかと言いますと、神の来訪を心から受け留め、足を洗い、水を差し上げ、少し涼んでいる間に、手早く料理を整えさせて、戻って来て一生懸命にもてなしているアブラハムの姿です。

ひと言で言いますと、神が来られる時、私たちはどのようにお迎えしているんだろうか?です。
どのようにお迎えしているんだろうか?
素通りしてもらいたいと思うのか?
いや、私たちはアブラハムのように出迎えて、ひれ伏して、来てくださったことに大喜びでお迎えするのか?

私たちがもし心を開いて、神さまを大喜びでお迎えするならば、神は5節の最後にありますように、「あなたの言ったとおりにしてください」
どういうことかというと、神さまは、私たちの整ってもいない、散らかし放題の日常の中に入って来てくださるということです。
あなたが時間を取るなら、わたしはあなたを祝福する。あなたを癒す。
あなたがわたしを迎えるなら、わたしがあなたを教える。あなたを力づける。
あなたがわたしを迎え入れるなら、わたしはあなたのところで食事をしよう。あなたのところでくつろごう。
あなたがわたしを迎え入れるなら、わたしは素通りしない。

私たちはこういう風に考えますよねぇ?
日曜日、時間を取って礼拝にやって来る。そのことによって神さまのところに訪問をする。
そして新しい一週間を始めようとする。
しかし神さまは、一週間の中で何度も私たちを訪れられる。
でも私たちは神さまとお会いするのは教会だけで、日常生活の中では会おうとは考えていないので、神さまは素通りされて行くのが私たちの人生だと思っても過言ではない。
「神さまが来られる」という期待感がない限り、「神さまはきっと私のところに来てくださる」という思いがない限り、私たちはこの世の人と同じように、神さまのことを考えずに素通りする。神さまもまた素通りされるんですね。

私(藤本牧師)は先程の自分が病んだ時に、神学生がやって来て、見たこともない村の教会の牧師がやって来て、祈ってくださったことを温かく思い出します。
あ、あの時神さまは私のところに来てくださって、心弱って、身体弱っている者を助けてくださったんだなぁと。

迎え入れる。素通りさせない。のみならず、精一杯のもてなしをする。
もしそうするなら、神さまはあなたの家でくつろぐ。あなたの家でくつろいでくださる。
どういうことか?あなたは神さまと一緒に、一杯の紅茶を飲むことができる。
私たちは神さまと一緒に、一回の食事を食べることができる。
神さまをお招きするなら、神さまは、イエスさまは食べてくださる。でも招かなければ、素通りです。

日常生活のふとした瞬間に、今日のこの記事を思い出していただき、神さまはいつでも私たちの心の扉をたたいていてくださり、私たちの心の中でくつろごうとされているということを覚えておいてください。

3)アブラハムは、この三人を神の使いとわかってもてなしていたのだろうか?

当時宿屋があるわけではありません。
ですから遊牧民の間では、旅人をもてなすということは大変尊いことだと教えられていました。
しかし、そうだったとしてもこのアブラハムのもてなし方は、尋常ではないですね。
どこかで彼は、この三人が神の使いであるということに気づいていたんだろうと思います。

しかし、それでも彼は知らずにもてなしたと考えるべきで、それはへブル人への手紙の13章の1節にこうあるからです。

<へブル13:1〜2>
1兄弟愛をいつも持っていなさい。
2旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。

へブル人への手紙の13章2節に「こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました」と(あります)。
へブル人への手紙が教えているのは兄弟愛です。
でもそのようにしてもてなすことによって、私たちは神をもてなすのです。
「ある人々は」とあるのは、アブラハムのことでしょう。
主は訪れてくださる。姿を変えて訪れてくださる。
そしてそれが突然の客である場合、私たちがその方の言葉に耳を傾け、その方の悩みに心を合わせて祈り、その方に食事を振る舞う時、私たちはイエス・キリストに対してそれをなすんだと(へブル書は言っているのです)。

興味深い証しをポーランドの女性が語っておられますので、それをちょっと引用して終わりにいたします。
第二次世界大戦の最中、ポーランドの小さな村に住んでいたユダヤ人の家族が、ナチスによって処刑されるという事件があったわけですね。
壁に沿って、彼らは自分の手で葬られる溝をまず掘ります。掘り終えたら、壁に沿って一列に並び、そして一斉に銃殺されます。
みんな掘り終わったその穴の中に、自分が自動的に倒れて、そして土をかけられるという処刑法なんですけれども、中に10歳の少年が混じっていました。

彼は銃の激しい音とともに、みんなの身体が溝を目がけてなだれ落ちて行きましたから、彼も一緒に溝の中に落ちました。
隣にいた両親も銃弾に当たって、そしてこの少年の身体には両親の血が飛び散ります。
しかし不思議にも、何十発も放たれた銃弾の一つたりともこの少年の身体をかすめることはありませんでした。
打たれたという衝撃を感じた彼も、自分は打たれたんだと思って、溝の中にうずくまり、そしてナチスの兵士は死体を埋めるために、土をかぶせるんです。

でも実に簡単な処刑であったために、溝は浅く、そして被された土はわずかで、銃弾を免れた少年は土の隙間から漏れてくる空気を吸いながら、暗~くなるのを待って、そこから這い出して行くんですね。
血と泥が顔にも身体にもべったりとついています。
少年は助けを求めて、ポーランドのその民家を歩くんですが、
ところが、ナチスによって殺されるはずであった、この少年を見た途端、どの家庭もドアはピシャリと閉じられてしまいます。

その時、血だらけで泥にまみれた少年は、寒さで震えて次の家へと足を向けた時、その瞬間、ユダヤ人の少年には考えられないような、不思議な思いが彼の心に湧いてきます。
彼は次の家のドアを叩きながら、大きな声でこう叫ぶんです。
「わたしです。わかりますね。あなたが愛すると言っているイエスです」

それが少年の口から出てきた言葉です。
「わかりますね。あなたが愛すると言っているイエスです」
イエスさまのことなんか何にも知らないこの少年、この少年の口からその言葉が発せられ、そのシーンと緊張した後に、ドアは開けられて、中の婦人は少年を抱きかかえるように迎えて家に入れました。
そしてその日から、この少年はこの家で家族の一員として過ごし、成長していきます。

迎えたということが、この婦人にとってどれほどの喜びとなったのか、というその証しの文章を読んだわけですけれども、
傷つき倒れているこの少年を迎えたということが、文字通り、イエスさまを迎えたことになったわけです。

神の来訪と知っていて、アブラハムは精一杯の努力をしたのか?
いや、それとは知らずに、精一杯を尽くしたのか?
それは、どちらでもいいんだろうと思います。どちらでもいいんです。
イエスは来られる。私の天幕の入口に、私の座っているところに、イエスは来られる。
祝福を携えて来られる。
しかし往々にして、姿を変えて来られる、ということは覚えておいた方がいいと思います。

そう思いますと、もてなすことの大切さを改めて覚えます。
どうか心を開いてお迎えすることができますように。
どうか心を開いて、心を尽くして、アブラハムのようにお迎えすることができますように。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、あなたがアブラハムに何度となく現れてくださったように、私たちの人生の天幕の入口に、私たちが呆然と座っている中、私たちに向かって立って、果たして素通りするのか、しないのか、あなたが考えておられるのが見えます。

アブラハムはその時、三人の男を見つけて大急ぎで走り寄って、ひれ伏し、「どうか、ご主人さま、私のところにとどまってください」と、彼は胸を広げてあなたを迎えました。「その通りにするがよい」と、あなたはアブラハムの天幕の中でくつろいでくださいました。

私たちの人生も、このような場面が何回ともなくやって来るにもかかわらず、自分の前に立っている人物がつまらない人物かのように思えて、あなたの来訪をそのまんま通り過ぎさせているとしたならば、なんと残念なことでしょう。なぜなら、あなたはお願いするなら、どんなに散らかっている日常の中にも入って来てくださり、くつろいでくださり、語ってくださり、教えてくださり、慰めてくださるお方でありますから。

どうか一週間の中で、あなたのくつろぎをいただきながら、あなたとともに交わる時間をお与えください。そのことによって、荒野で干からびてしまうような私の心の中に、リフレッシュさせてくださるような、新鮮な恵みを注いでください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2016.04.11 - 13:17
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