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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   4/17 アブラハムの生涯(12)あなたのために 創世記18:16〜33
☆聖書箇所       創世記18:16〜33

  16その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていた。
17【主】はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。
18アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。
19わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて【主】の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、【主】が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」
20そこで【主】は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪は極めて重い。
21わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」
22その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、【主】の前に立っていた。
23アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。
24もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。
25正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」
26【主】は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」
27アブラハㇺは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。
28もしや五十人に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」
29そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」
30また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」
31彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」
32彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」
33【主】はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。

☆説教    アブラハムの生涯(12)あなたのために

さて、今日は創世記の18章を見ていただきました。

前回は18章の前半から、神さまがアブラハムを訪れてくださった「神の訪れ」と題して、お話をしました。
神さまは必ず祝福を携えて、また必ずアブラハムを成長させるために、何度も何度もアブラハムのところに来られる。時には姿を変えて来られる。
アブラハムはそれが神の訪問だと知ってか知らずか、神さまを真実にもてなした、という話です。

そして今日は(18章)16節からです。
もし、今日は、自分の聖書でありましたならば、できるだけ線を引いていただければなぁと思います。
この16節からのところに、実にアブラハムと神さまが親しい交わりの中にある、ということが記されています。
よく見たらわかります。16節の一番最後に――

16……アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていた。

アブラハムは神の御使い三人といっしょに歩いていた、で出来事は始まります。
そして真ん中ぐらい22節に――

22その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、【主】の前に立っていた。

いっしょに歩いていったアブラハムは、ソドムを背に神の前に立つという出来事がず〜っと記されています。
そして出来事の一番最後に、33節――

33【主】はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。

ものすごく長く記されています。一つの出来事が。それだけ意味があるのでしょう。
でもその始まりと終わりを見ますと、神さまはず〜っとアブラハムとともにおられた、と言うよりも、神さまのご計画の中に、神さまのお考えの中にアブラハムを招き入れたということがわかります。

さて、短く3つのポイントでお話いたします。第1番目に――

1)神はご自身の心の中にあるものを、アブラハムに話された

ご自身の心の中にあるものを、アブラハムに話されました。17節に――

17……「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」

しようとすることは、ソドムを裁くということです。
18節――これから先、アブラハムは神の民の父となります。

(18アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。)

それはアブラハムの子孫、つまり神の民が――19節にありますように――正義と公正を行わせるために、アブラハムを選んだ。

(19わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて【主】の道を守らせ、正義と公正を行わせるため、【主】が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」)

すると、正義と公正をよく知っているアブラハムの子孫が、この出来事を知らないわけにはおかないだろう。
すると、この出来事の深い深〜い意味合いをアブラハムに語っておくべきだろうか、と神さまはお考えになりました。
20節に神さまのお気持ちがよく記されています――

20……「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。

この罪に対する神ご自身の苦悩を、神はアブラハムに打ち明けられました。
他ならぬアブラハムに、打ち明けてくださいました。

神さまがしようとしていることをアブラハムに話されたわけですが、単純にそういうことではないと思います。
神さまはここでアブラハムにご自分の深〜い御思いを話されました。
それは、これまでアブラハムが神から聞いて来た話とは、種類が違いました。
「わたしはあなたを祝福しよう。わたしはあなたの子孫を大いに増やそう。
わたしはあなたにこの土地を与える。
恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたを守ろう。
わたしは全能の神だ。わたしにとってできないことは何一つない」
という力強い神さまの祝福を、アブラハムは何度も何度も聞かされてきました。
そして神は、その力強い神に対するアブラハムの信仰、従順を期待しておられました。

しかし今回は違います。
神はアブラハムにご自身の心の痛みをお見せになりました。
「ソドムとゴモラの町、その人々の敗退ぶりを、わたしはこれ以上見過ごすことはできないんだよ」って話されたんです。

神さまと親しく歩んでいると、神さまはご自身の祝福を私たちに聞かせてくださいます。
「恐れるな」と言って、ご自身の御守りを私たちに教えてくださいます。
そして私たちはその祝福を仰ぎます。
しかし時に、神さまは親しくされる者には、アブラハムの時のように、ご自身の重荷を話されます。
これが神と親しく歩んでいる者の重荷となるのでしょう。

神がソドムをご覧になったように、神が今の世界をご覧になっていたら、いったいどうなるのだろうか?
日本の社会を、あるいは高津教会をご覧になった時に、神さまの心はどう痛むのだろうか?
どこにも破れがあります。自己中心な私たちのぶつかり合いもあるでしょう。あるいは無関心もあるでしょう。罪深さもあるに違いありません。
神さまの心に生まれて来る重荷を、神さまは親しい者にはお話しになる。
それを私たちは「神の御心を知る」と言うのではないでしょうか?

「神の御心を知る」と言う時に、私たちの人生に迷いがあって、右に行くのか左に行くのかわからない。どうかあなたの御心を教えてください――いやいや、そんなことだけではないですね。
親しい者には神さまご自身の悩み、ご自身の悲しみ、ご自身の痛みをも教えてくださる。
「わたしが高津教会を見た時に、こういうところが心痛いんだよね」と。
神さまがそのことを話してくださるということは、それを聞いた者の心には重荷になるに違いない。
同時にあなたにもその重荷を担ってもらえないだろうか、という意味で、神さまは伝道の重荷を、牧会の重荷を、様々な思いを私たちに教えてくださると思います。

2)聞かせていただいた時に、アブラハムは不思議に憐れみを乞いました。

アブラハムは神さまが「ソドムの町を滅ぼす」と仰った時に、「どうぞ、どうぞ、私もその時を待っていました」(笑)とは言いませんでした。
アブラハムは不思議に神の憐れみを乞います。
ちょっと23節を見ていただきますと、こうですね。

23アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。
24もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。
25正しい者を悪い者といっしょに殺し、……

と長い長〜い訴えを、アブラハムは神の御前に為していきます。
そしてそれが50人いなければ、40人ではどうですか?40人いなければ30人、そうでなければ20人、いや、それさえいなければ10人ではどうでしょうかと、何度も何度も神さまと交渉するアブラハムの姿ですね。

しかもアブラハムは交渉する度に申し上げます。(***27、30、31、32節)
「あなたにあえて申し上げます。私はちりや灰にすぎませんが、どうかお許しください。私に言わせてください。あえて、もう一度、言わせてください」
アブラハムは遜って、でも遜った者にふさわしく、どこまでもせっついて神に憐れみを乞います。
神さまは不思議にアブラハムに付き合います。
まるで神さまがアブラハムの憐れみを乞う姿を楽しんでいるかのように、アブラハムに付き合います。

そのやり取りを読んでいるうちに、私たちはアブラハムは悟ったのだろうと思います。
それは「ソドムを滅ぼす」と仰った神は、実は非常に憐れみ深いお方であるということを、アブラハムは悟ったはずです。
こういうところは聖書に印をつけてほしいと思うのですが、26節――
26【主】は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、(その次ですね、と説明)その人たちのために、その町全部を赦そう。」
28節の最後――主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」
29節の最後――「滅ぼすまい。その四十人のために。」
30節の最後――「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」
31節の最後――「滅ぼすまい。その二十人のために。」
そして32節の最後――「滅ぼすまい。その十人のために。」

神さまの憐れみの大きさがいくつかの視点から明らかになります。
いったいソドムの町の人口がどれほどであったのか、わかりません。
仮に千人であったとしたら、「五十人の正しい者のために、その町全部を赦す」と仰る――これはすごいと思いますね。
それが四十人であっても、三十人であっても、二十人であっても、十人であっても、その町全部を赦すと。
どんどん数が少なくなっても、「滅ぼすまい」という憐れみは変わってないです。
悪が増大して、どうしようもない不名誉な、劣悪な町であったとしても、神さまの憐れみは、アブラハムの要求、アブラハムの願いによって、逆にどんどん大きくなっていることがわかる。
「わたしはあなたにどうしても知ってほしい。ソドムとゴモラの町を滅ぼす」と仰った神でありますけれども、アブラハムが「神さま、どうか憐れんでください」と言った途端に、明らかになって来るのは、神さまの豊かな憐れみでした。

しかも、神さまのものの言い方はぜひ捉えていただきたいと思いますが、その五十人のために、四十人のために、十人のためにということは、「あなたのために」です。
「滅ぼすまい。あなたの家族を。あなたのために」
「滅ぼすまい。あなたの社会を。あなたのために」です。

私たちが信仰においてアブラハムの子どもであるとしたら、その私のために、神さまは私の家族を祝福しようと仰っているわけです。
私たちの家族の中には信仰を持っていない者も沢山いるでしょう。
そしてそれが時に大きな失敗をしたり、大きな出来事に巻き込まれたりする時があるでしょう。
神さまは仰います。「考え直そう。わたしの裁きを考え直そう。あなたのために」
「考え直そう。そしてわたしは、あなたとその家族を祝福しよう、あなたのために」です。

来週、私たちは19章を見ますが、そこではロトとその家族が救い出されています。
その時、神の言葉をちょっと見ていただきたいと思いますが、19章の29節、ロトとその家族が救い出された理由が書かれています。一緒に読んでみましょう。

<創世記19:29>
29こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。

全部、真ん中の(行)「アブラハム」のゆえにです。
ロトが救い出されたことは、神がアブラハムを覚えておられたからです。
これは、私(藤本牧師)ねぇ、よ〜く覚えておかなきゃいけないことだと思いますね。
自分の家族、愛する家族が何とか救われるように――これは私たちが絶やしてはいけない祈りです。
しかしだからと言って神さまは、信仰を持っていない私たちの家族をお見捨てになっているなんてことは考えてはいけない。
神さまは、神を信じるあなたのために、あなたの愛する者、あなたの仕事に関わるあなたの愛する家族、あなたの周囲を守っていてくださる。
「滅ぼすまい。あなたのために」と言っていただけるような私たちでありたいと思います。

以前、韓国からやって来られた宣教師の証しを聞いたことがあります。
彼は戦争中に、自分の家族、自分の親たちを日本軍によって殺されました。
そして韓国に対して為したその害悪が赦されるなんてことは考えられない、という思いで日本にやってまいりました。
こんな不義のはびこった歴史を荷っている国が果たして救われるんだろうか?
そして、その宣教師はある時長崎に行ったんですね。
長崎で、キリシタン禁令によって殉教して行った記念碑を彼は訪れ、そしてこの日本、ほんとうに泥に塗られたような日本の歴史の過去において、いのちを捨ててキリストに従い、信仰を守り通した人々がいたんだという事実を目の当たりにして、
「なるほど神さまは、何百年も前の彼らのために、この日本をお捨てにならないんだ」ということに気がついて、彼はこの日本で宣教師として働くようになります。
「滅ぼすまい。この国を。殉教していった、これらの聖徒たちの故に」

私たちがいま日本で、平和のうちに主を礼拝し、労し、活躍することができるとしたならば、どこかで過去において――戦中なのか、あるいはキリシタン禁令の時代なのか――その信仰を守り通していった方々の故でしょう。
そしてもし私たちの周囲が祝福を受けているとしたならば、それは私たちの信仰の故だということもまた覚えつつ、自分の信仰を大切にしなければいけないなぁと思います。

アブラハムは神の憐れみ深さを知りました。

3)神は実のところ――ご自身の深い思いをアブラハムに話しただけではなかった――実は神さまはとりなす者を捜しておられる。

モーセは破れの間に立った、ということで有名ですよね(***詩篇106:23、出エジプト32:11〜14)。
サムエルは民が罪を犯したときに、「私たちのために祈ってください」と言ったときに、サムエルは言いました。
「あなたがたのために祈ろう。祈ることをやめるならば、それは私の罪になる」と(***Tサムエル記12:23)。
それほど民のために祈ることを、サムエルは自分の本分としていました。
アブラハムのように嘆願する者を、この罪深い世界にあって、ご自身の痛みを担う者として神は捜しておられる。

捜しておられる――今日はイザヤ書の59章を読んで、もうすぐに終わりにしたいと思いますが、これはちょっと開いていただきたいと思うんですね。
私(藤本牧師)が14節を読みますので、皆さんは15節を読んでください。15節は一行飛びますので、最後の行まで読んでください。

<イザヤ書59:14〜15>
14 こうして公正は退けられ、
   正義は遠く離れて立っている。
   真理は広場でつまずき、
   正直は中に入ることもできない。
15 そこでは真理は失われ、
      悪から離れる者も、そのとりこになる。

      【主】はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。

ここにありますよね――神がソドムを見て心を痛められたように、イスラエルの世界を見て心を痛められる。
広場には、この世界には公義がない。「悪から離れる者も、そのとりこになってしまう」(15節)ほど、悪の力は強靭だと非常に心を痛められた。
ところが、16節を見てください。

16 主は人のいないのを見、
    とりなす者のいないのに驚かれた。
  
この世界の複雑な事情に心を痛めた、というのは一つのことです。
でも逆に、神さまがびっくりしたのは、この世界のためにとりなす者がいない(ということ)。
そこで、神さまは、――16節の3行目から「ご自分の御腕で救いをもたらし」――というのはイエス・キリストのことです。
ご自身の御子を「救い」、「とりなす者」となした――それが十字架であったわけですが。

改めて考えるのは、神さまというお方は、この世界の様々な出来事に心を痛めておられるんだ。
でももっと深く考えるならば――あの場面ではアブラハムがいた。荒野の場面ではモーセがいた。やがてサムエルがいた――そして今は、だれがいるのか?とりなす者(として)。

イギリスの女性の宣教師で、バックストンのもとに来た、松江に来たエイミ―・カーマイケル。
明治の終わりですね、イギリスの一人者の女性で、シベリア経由で日本に入って来て、松江でバックストン先生のもとで、半年ぐらい労して、そして気候が合わず、なおかつデング熱にやられて日本を去るんですね。

そして中国に渡り、中国で宣教しようか、どうも中国ではない――でも自分はイギリスには帰らない――彼女は途中のインドに寄ります。
そしてインドにしばらく滞在して、ある出来事に目が留まる。
彼女はそこから80代後半になるまで、一歩もインドを出ずに、インド(の南端ドノヴァ―)で生涯を過ごします。

エイミー・カーマイケルがインド入りした時に、あらゆることに心を痛めるんですが、
一番心を痛めたことは――ま、日本に来ても心を痛めるでしょうね、明治の後期ですから。
それがインドとなったら、もうどれほど心を痛めるか。
ヒンズー教の寺院で生活している、小さな小さな女の子たちに彼女は目を留めます。

それは当時のインドの習慣で、特にカーストの低い方では、お父さんが亡くなりますと、葬儀でお母さんも一緒に燃やされてしまいます(驚)。
これはガンジーぐらいで、ガンジーの活躍ぐらいで無くなった習慣だろうと思いますが、その後も随分ありましたね。

当然のこととして、親を失いますと、子どもたちは路頭に迷う。
男の子は労働力として取られて行くんですが、問題は女の子の方で、女の子の方は皆ヒンズー教の寺院に引き取られて行きます。親がいない女の子は。
そこで育てられて、やがて神殿娼婦となっていきます。
ヒンズー教の寺院の裏側には必ず娼婦街があって、そしてお参りした後その娼婦街で神殿娼婦と交われば、あなたの農作物はさらに豊かになるという、ヒンズー教のものの考え方ですから。
しかしエイミーは、これに一番心を痛めたわけですね。
それで彼女は孤児院を始めます。

すると、地元のヒンズー教寺院側が、土地の有力者に訴えに来る。
「あの外国人の女性は、私たちにとって大変な迷惑だ」
土地の有力者は、イギリスの有力者のところに訴える。
「あなたの国の女性が、このインドで問題を引き起こしている。どうにかしろ」
すると、イギリスの有力者は、イギリスの宣教師の集まりに訴えます。
「新入りのエイミー・カーマイケルという宣教師が、土地の人々との間に摩擦が生じて問題になっている。この働きを止めさせてほしい」と。
そして、エイミーの同僚の女性の宣教師が彼女の所に来て、孤児院の働きを止めるように説得するんですね。
エイミーは「でも私が止めてしまったら、あの子たちはいったいどうなるんでしょう?」先輩の宣教師が、「残念だけど、それは私たちの問題じゃないんですよ」

その回答に非常に重いプレッシャーを感じて、エイミーは帰途に就くわけですね。
この世界には、「残念だけど、不幸にしてそれは私たちの問題ではない」「私たちには関係ない」「私たちには手が出せない」という問題が沢山あるんですよ。山ほどあるんです。

エイミー・カーマイケルは自分の部屋に帰り、ベッドに手をついて祈りました。
「主よ。私はできることはすべてしました。しかしこれ以上は無理です。もうこれ以上、私がかかわる問題ではありません」
祈っている間に、エイミーは突然イエスさまを見たんです。
イエスさまは木の下にひざまずいて祈っておられました。
それはゲッセマネの園のオリーブの木の下ではなく、インドのタマリンドの木の下で、イエスさまは祈っておられた。
主は彼女に仰った。
「そうだよ。エイミー。それは君の問題ではない。それは君の重荷ではない。それはわたしの問題であり、わたしの重荷なんだ。しかし、わたしはこの重荷をともに担ってくれる者を捜している」と。

神さまは、歩いているうちに、ふと考えた。「この問題をアブラハムに話そう」と。
アブラハムに話したことによって、どうかなったわけではないです。
でもアブラハムには、後、ソドムの町がいかにして何ゆえ滅ぼされた、ということを理解するようになりました。
でもそれだけでもないです。
話しているうちに、実はこの神さまが、五十人のために、十人のために、この町を生かしておられる、憐れみ深いお方であると、しかも最終的には、「滅ぼすまい。十人のためなら」と言うぐらい、その十人、わずかな者たちの信仰と生き方によって、その周囲全体を支えることのできるほどの憐れみを持っておられるお方だということがわかった。
でもそれはすべて、アブラハムがいての話です。
最終的にロトの信仰もダメでした。でも、そのロトも救われました。アブラハムの信仰のゆえに。

私たちはものすごく伝道の難しい世界に生きています。
そして信仰を持っている者と持っていない者の区別というのが一応あります。一応ではなくてしっかりあります(笑)。
しかしその区別を、区別として考えないでほしい。
信仰を持っている人は、信仰を持っていない人のためにもとりなす。
信仰を持っている人は、信仰を持っていない人の課題のためにも祈る。
そして神さまは「滅ぼすまい。あなたのために。わたしはその人の上にも祝福を注ごう」(と言われる)。

アブラハムのすばらしい所は、神さまの胸の中にある、すごく重い痛い話を聞かされた時に、アブラハムは「ソドムなんか滅ぼしてください。私には関係ありませんから」(笑)と言いませんでした。
「あそこの中にも、正しい者がいるはずです」「彼の中にも真実なものがあるはずです」「彼は心優しい人物です」と言って、一生懸命その人物のために祈る人を神は捜しておられる。
「それはあなたの問題ではないかもしれないけれども、わたしの問題だ。わたしの問題をともに担ってくれる人をわたしは捜している」

エミーはインドを離れませんでした。
一歩も離れず、そして何百人、何千人という孤児を教育し育てて行くんですね。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、教会の歴史の中で、私たちがすばらしいと思うような人物は皆、皆あなたから重荷を託されていました。あなたの御思いを知り、あなたの心の痛みを知り、この世界とあなたの間に立ち、破れの間を塞いで、そして一生懸命とりなしていた人物であったことを覚えます。

その意味において、家族のために、地震の被害者のために、たとえ顔はわからなかったとしても、この国のために、世界のために祈り続ける私たちは、あなたにとって尊いパートナーであるということを覚えます。そしてパートナーであればあるほど、あなたはご自身の重荷を私たちに明らかにしてくださるお方であります。

あなたの重荷をしかと受け留めて、祈ることができる、憐れみを引き出すことができる人物にさせてください。それこそ、イエスさまあなたは、「わたしの姿だ」と、私たちをほめてくださるに違いありません。どうか私たちを助けて、その道へと、共に歩んでいるときにその道へと私たちを連れて行ってください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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DATE: 2016.04.18 - 16:00

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