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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   4/21 神の人モーセ(34) 破れの狭間に立つ 出エジプト32:11〜34
☆聖書個所       出エジプト32:11〜34

11しかし、モーセは、彼の神、【主】に嘆願して言った。「【主】よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。
12また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面(おもて)から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。
13あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚えてください。あなたはご自身にかけて彼らに誓い、そうして、彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる』と仰せられたのです。」
14すると、【主】はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。
 15モーセは向き直り、二枚のあかしの板を手にして山から降りた。板は両面から書いてあった。すなわち、表と裏に書いてあった。
16板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。
17ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。「宿営の中にいくさの声がします。」
18するとモーセは言った。
  「それは勝利を叫ぶ声ではなく、
  敗北を嘆く声でもない。
  私の聞くのは、歌を歌う声である。」
19宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった。
20それから、彼らが造った子牛を取り、これを火で焼き、さらにそれを粉々に砕き、それを水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませた。
 21モーセはアロンに言った。「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らにこんな大きな罪を犯させたのは。」
22アロンは言った。「わが主よ。どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、民の悪いのを知っているでしょう。
23彼らは私に言いました。『私たちに先立って行く神を、造ってくれ。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。』
24それで、私は彼らに『だれでも、金を持っている者は私のために、それを取りはずせ』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。」
 25モーセは、民が乱れており、アロンが彼らをほうっておいたので、敵の物笑いとなっているのを見た。
26そこでモーセは宿営の入り口に立って、「だれでも、【主】につく者は、私のところに」と言った。すると、レビ族がみな、彼のところに集まった。
27そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、【主】はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」
28レビ族は、モーセのことばどおりに行った。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。
29そこで、モーセは言った。「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、【主】に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。」
 30翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。それで今、私は【主】のところに上って行く。たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう。」
31そこでモーセは【主】のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。
32今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」
33すると【主】はモーセに仰せられた。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。
34しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いが、あなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく。」

☆説教     神の人モーセ(34)破れの狭間に立つ

久しぶりに出エジプト記に戻ってまいりました。前回モーセを学んだのは、3月の初めで、受難週に入る前にペテロに話が移ってしまいました。今回で「神の人モーセ」と題して34回目。前回の33回目は、出エジプト記の32章の前半の部分から学びました。

32章の前半の部分というのは、モーセがシナイ山に上って、神さまから十戒の石版を受け取っている間に、ふもとの民は、モーセがなかなか帰って来ないのを不安に思います。そして、アロンに皆が詰め寄り、代わりに「偶像を作ってくれ」と頼みます。
人は不安になると、よりどころを求めようとするものだという話をしました。
そしてそれが往々にして、偶像である。つまり神さま以外のものを、いとも簡単に神に仕立て上げて、拝んでしまうという弱さ、愚かさを、私たち皆が持っているという話をしました。

折りしも、モーセが神さまから受けた十戒の第一の戒めは、「あなたには、わたしのほかに、(ほかの)神々があってはならない」でありました。第二の戒めは、「(あなたは、」自分のために偶像を造ってはならない」でありました。

その戒めを受けているうちに、これまで自分たちを奴隷として捕われていたエジプトから救い出してくださり、幾度となく危険から守り、食料も水も備えてくださった神さまを、こんなにも簡単に忘れて捨てて、ほかによりどころを造り出してしまう民に神さまは失望されます。
32章の9節(と10節)をご覧ください。

9主はまたモーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい(心がかたくなという意味です)民だ。
10……わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを(というのは、モーセをです、モーセの子孫をですね)大いなる国民としよう。」

神さまがこれほどまでに愛されて、救い出された民です。しかし、この民がこれほど情けなく、これほど簡単に神さまの信頼を裏切って背を向けるとは、モーセも思っていなかったに違いない。

ここで燃え上がった神さまの怒りを前にして、モーセはどのようなふるまいをするのか。今日はそれを一緒に見ていただきたいと思いますが、後に詩篇の106篇の23節で、この時のモーセの姿がこういう風に表現されています――「モーセが神の御前の破れに立った」。破れの狭間に立った。

ダムに亀裂が入って、今この破れの部分から、民の上に神さまの裁きが下ろうとしているその瞬間、モーセは破れの狭間に自分の身を置いて、そして神の怒りを止めたということなのでしょう。ひとことで言えば、とりなしているモーセです。
        
破れの狭間に立つモーセの姿は、四段階で描かれていますので、それをそのまんま、今日は見ていただきたいと思います。

1)とても理性的で寛容なモーセです。

11節を私が読みますので、12節を皆さんが読んでください。

11しかし、モーセは、彼の神、【主】に嘆願して言った。「【主】よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。
12また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面(おもて)から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。

聖書の中で、こんなに珍しい場面はない。それは、神さまがかんかんに怒りを燃やされて、そしてその前に立つモーセが実に冷静に、そんなにお怒りにならなくてもよろしいのではないでしょうかと(言っている)。
あなたが滅ぼされるという民は、あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ上った民ですよ。どうかその燃える怒りを収めて、あなたの民へのわざわいを思い直してくださいと、(モーセは)ものすごく冷静に(神さまに)言うのですね。

なんでこんなに冷静に寛容に、神さまの御前に嘆願しているのか?
実はシナイ山の上にいたモーセには、ふもとで何が起こっているのか、見えてないからです。7節(と8節)をちょっと見てください。

7主はモーセに仰せられた。「さぁ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。
8彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ』と言っている。」

というのは、神さまはふもとで起こっている現実を見ている。でもモーセは全知ではないですから、それを見ていない。
であるがゆえに、モーセは実に冷静に、寛容に嘆願している。 ――どうかあなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください(12節)――あたかも神さまを諭すかのように、静かに落ち着いて訴える。

モーセがそれほどまでに余裕をもって話しているのは、実はモーセは罪の実態、罪の真相を見ていないからですね。

2)第二段階で、民が偶像の周りで戯れる姿をモーセは見るのです。

ちょっと17節から読んで行きますね。ふもとへ降りて行く途中、

17ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。「宿営の中にいくさの声がします。」
18するとモーセは言った。 
  「それは勝利を叫ぶ声ではなく、
  敗北を嘆く声でもない。
  私の聞くのは、歌を歌う声である。」
19宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。……

というのが、第二の段階。モーセは民が偶像の前で戯れる姿を見た。ようやくここで見たのです。するとモーセは完全に冷静さを失います。
19節(と20節)をちょっと読んで行きましょう。

19宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板(神さまからいただいた大切な十戒の板です)を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった。
20それから、彼らが造った子牛を取り、これを火で焼き、さらにそれを粉々に砕き、それを水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませた。

(19〜20節が語るのは)逆上したモーセの姿ですね。子牛を取って火で焼いただけでは気が済まない。それを粉々に砕いて水の上にまき散らしただけでも気が済まない。それを拝んでいたイスラエルの人に飲ませる。
そしてなんとモーセは責任どころを追求しますよね。27節(から読んで行きます)。

27そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、【主】はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」
28レビ族は、モーセのことばどおりに行った。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。

ここでモーセは27節の最初、「イスラエルの神、【主】はこう仰せられる。おのおのの腰に剣を帯び」というのは嘘ですよね。
神さまは一言もモーセにこんなことは言っていない。(神の命令ではありません。モーセの独断です。)
モーセは逆上したあまりに、神さまの名前を使って、そしてこの責任どころを追及するのです。

よくわかります。
罪の深刻さを知らなかった時には、とりなしもできました。愛をもって寛容にふるまうこともできたのです。
しかし、その真相、その実態、その本当の姿を見たときに、彼は失望したのか、カーッとなったのか、三千人を裁いてしまいます。
現実に直面しなければ、その目で見ていなければ、事の深刻さは人間、私たちにはわからない。事の深刻さというよりも、破れの大きさがわからない。

私(藤本牧師)はいつも火曜日に、教団の本部がOCCの6階にありますので、お茶の水のOCCに行きますが、先週行きましたら、横田めぐみさんの写真展を5階でやっていました。昨年(末から今年にかけて)までは、星野富弘さんの詩画展をやっていましたけれども、しばらくは「横田めぐみさんが家族と過ごした13年」という写真展をやっているのですね。

その中には小学校の高学年だっためぐみさんが、小さな双子の弟と両手で手をつないで笑っている写真があった。
そして学校で撮ったのか、中学校の制服を着ている写真もありますし、家族と一緒で幸せだった中学校の1年生の女の子が、新潟の海から、小舟に乗って、恐ろしい世界へと連れ去られていくのですよ。
残っている写真はみな幸せな笑顔でいっぱいなのです。

そして、それから先の出来事というのは、私たちはほんの一部しか知らない。
後に聞いた話では、中学校の一年生の女の子は、連れ去られた舟の底に押し込められて、そして北朝鮮に着いて底から上げられた時には、もうその船の壁、舟の板を掻きむしって、爪が剥がれて指からみんな血が出ていたと。
そしてどんなにか、悲しい、苦しい青春時代を過ごしたのか?

そして家にいる家族は狂ったように、お嬢さんの存在を探すのです。
お母さんは警察に届けていて、そして新潟の海で白骨の骨が上がったというと、もしかしたらめぐみさんかもしれないと思って、警察に駆けつけるわけでしょう。
いったいどこにいるのか分からない。

そしてどこにいるのか、分かった時点で、今度は手が出せない。
自分たちはどんどん歳をとっていく。――その中でめぐみさんのお母さん、咲江さんはクリスチャンになりますけれども、その生涯、めぐみさんを取り戻すためにいのちを注ぎ込んで来たこの生涯ですよね。

私たち(一般的にクリスチャン)は、祈ってます、祈ってますと言いますけれども、「祈ってます」って言うのは、どれくらい祈っているのか?(と反省させられます。)
きっと私たちの祈りは、あのOCCの5階で開かれている写真展にいらっしゃったら、少し祈りの質が変わるかもしれないですよね。

写真を眺めているうちに、心の中に悲しみ、憤り、理不尽さ、無力さ、特に無力さがこみ上げて来ますね(***この辺り多くの姉妹が共感して涙)。
もしその現実に、自分が直面したら、自分の娘や息子が北朝鮮に連れ去られていたとしたらですよ、私たちはこの世界に存在する、数々の破れの大きさに圧倒されますでしょう。
  
英姉が、福島の仮設住宅にボランティアに行かれて、帰りに津波でさらわれてしまった海岸線に立っておられたときに、圧倒的な破れにふらついて、帰りの車で気分が悪くなった、車酔いをした、そこまでのことは今までの人生でなかったとおっしゃっていました。
光楽兄が気仙沼の水産加工場の跡で、異臭を止めるためのEM菌散布にボランティアに行かれました。
私たちは私たちの教会から遣わされたそのようなボランティアの報告を聞くたびに、私たちが試みていることは、少しでも破れの現実に触れようとしているのです。

破れの現実に直に触れなければ私たちの祈りに力が出ないというのは、まさにこのモーセを見ているとよくわかります。
最初、なぜ神さまが(10節にあるように)、あんなに強い調子で裁きを語られたのか、そして、モーセが(11節にあるように)あんなに冷静に説得しているのか。
それは、モーセは、破れの狭間の大きさを知らないからです。

私たちが、誰かのためにとりなして祈るときに、破れの狭間の実際を、大きさをほとんど知らない。もしかしたら、それで良いのかもしれません。
なぜなら、その大きさを知れば知るほど、私たちはことばを失い、もしかしたら祈れなくなるのかもしれない。それほど破れの大きさというのは大きいのでしょう。

3)3番目の段階として、「翌日になって」と始まります。

30翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。それで今、私は【主】のところに上って行く。たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう。」

今度は、罪の現状を知った彼が、本当の意味で、とりなしに行く。
ようやく、ここで初めてとりなしに行くのです。
31節に、こう始まります。   

31(そこでモーセは【主】のところに戻って、申し上げた。)「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。

これが3番目の段階です。
誰かのために祈る、あるいは誰かの罪のためにとりなす、誰かの問題を代わって祈ってあげる場合、必ずこういう段階を通ると思った方がいいと思いますね。
もう一回復習しますが――

@とりなし手である私たちは、現状を、実態を、きちんと把握せずに、とりなしている。
A実態を見せられると、途端に祈る心も、思いやりも、冷静さも、失って、投げ出すような弱さを私たちは持っている。
Bしかし、私たちは決して投げないで、翌日、また主のところに戻って申し上げる。

もしも、人のために祈るなら、私たちは、神さまとこの世界を何度も行き来しなければならないのだろうと思います。
現状に失望しないで、課題を投げてしまわないで、もう一度気を取り直して、今度はさらに深く実態を把握して、主のところへ戻って行く。

4)そして、真のとりなしをしているモーセの姿を見ていただきたいと思います。
 
私はもう一回31節を読みますので、皆さんで32節を読んでください。

31そこでモーセは【主】のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。
32今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」

一番味わい深いのは、途中出て来る棒線の部分です。
「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。」(32節)と言って、モーセは口をつぐんでしまった。
その先、(祈りを)どう続けたらいいのかわからない。
この棒線が口をつぐんでいるモーセの心中すべてを語っていますね。

彼らの罪をお赦しくだされるものなら、と祈った時に、モーセの頭の中には、彼らの罪が鮮やかによみがえって、モーセは祈りながら、彼らが叫んで、子牛の偶像の回りを踊って、歌っている姿を思い出したに違いない。
途端に、神よ、もし彼らの罪をお赦しくださるなら――。その続きのことばはもう出ないですね。
恐らくそこまで来て、モーセの頬には涙があったに違いない。怒りや絶望があったかもしれません。
でも、ともかく、もうこれ以上、祈りを続けることはできない。

そして、次いで出た言葉が、「しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」(32節)と、モーセは、破れの狭間で自分のいのちを投げ出した。
主よ、裁くなら、私を裁いてください。彼らの罪は、私の罪です。私を裁いてください。モーセは、彼らの罪に自分を重ねて、彼らの罪の結果を自分が背負ってもいいと、神さまに申し出た。  

当然、この祈りで、私たちはイエスさまの十字架のとりなしの祈りを思い起こすのです。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)
主は、私たちの大きな大きな破れの狭間に立って、ご自分ののいのちを投げ出すと申し出てくださったのです。
この方は、私たちの罪の現場をご覧になって、罪の実態を、その深刻さを御存知で、破れの狭間に御自身のいのちを入れてくださる。
                    
キリストの十字架は、罪人である私たちを救うためのとりなしの祈り、そのものでありました。
この場面で、旧約聖書のモーセが、限りなくイエス・キリストのようであり、そして、後の詩編90篇で、「神の人モーセ」と呼ばれている最大の理由は、私(藤本牧師)はここにあると思う。
それは、モーセが限りなくイエス・キリストのお姿に近づいた、この場面があるがゆえに、モーセはやがて「神の人モーセ」と呼ばれるようになるのだと思います。

先週の祈祷会で、折井兄が淵田美津雄(ふちだみつお)さんに触れながら、ご自分の証しをしておられました。私はとても心に響きましたので、折井兄には申し訳ないのですが、ちょっとそこから話をお借りして、今日の説教を閉じたいと思います。
 
淵田さんという方は、真珠湾攻撃で零戦の編隊がハワイに近づくのですが、その零戦の攻撃隊長でした。ものすごく意気揚々と真珠湾攻撃に出かけて行って、そしてトラトラトラのあの(日本軍の真珠湾攻撃の成功を伝えた)通信をするのです。

日本に帰って来てから彼は英雄となります。しかし、終戦後に彼は戦争裁判にも立たされて、その裁判が戦勝国の一方的な裁判であったということに憤りを覚えて、アメリカの悪を証明しようと考え、アメリカに捕われていた日本軍の捕虜から、どういう扱いを受けていたのか、という聞き取り調査を始めるわけですね。

ところが日本軍捕虜の口から聞いた言葉は、マーガレット・コヴェルというユタ州の捕虜収容所で働くアメリカ人の女性の話だった。
マーガレット・コヴェルというのは、両親はフィリピンで伝道していた宣教師で、日本軍からフィリピンでスパイの容疑をかけられて、処刑されるのです。
両親は、死ぬ前に30分の猶予をいただきたい(と願い出て)、その間に、聖書を開いて、神への祈りを捧げて死んでいくのです。
  
アメリカで残されていた娘マーガレットは、その話を聞いて、両親の姿を覚えながら、両親の思いがいったい何であったのか、処刑される30分前に、聖書を開いて祈っていた両親の思いが、いったい何であったのかを一生懸命考える。
そして、彼女は決心して、ユタ州の日本人捕虜収容所で献身的に捕虜の世話をする、その仕事に身をささげるのです。
そして、戻って来た日本人捕虜から、このマーガレット・コヴェルの話を淵田美津雄さんは聞かされるのですね。

淵田さんは自伝にこう記しています。
「美しい行為だと思った。私は、アメリカ人の悪を暴こうと、捕虜問題を探し回った自分を恥ずかしく思った。やはり、憎しみに終止符を打たねばならぬ。」

淵田さんは、やがて渋谷で、――今度は東京を空爆したあの飛行機に乗っていた人物が、やがて中国で不時着するのですが、その人物が戦後の日本のために、自分の救いの証しをパンフレットにした――そのパンフレットを受け取るのですね。
そこから始まって、聖書をあちこちと探り読んだ。そして目に留まったのが、先程のルカの福音書23章の34節。
「父よ。彼らを赦したまえ。そのなすところを知らざればなり。」
 
そうして、真珠湾攻撃の隊長であった淵田美津雄さんは、そのキリストの姿、キリストの言葉に、淵田さんは心を打たれ、ユタ州の女性、そしてその両親のことを思い出し、クリスチャンになり、また伝道者になります。牧師になるのです。

破れの狭間に立った、フィリピンで祈りつつ処刑された宣教師、そしてその心を受け継いで、ユタ州の捕虜収容所で日本人捕虜のために力を尽くしたそのマーガレットさん――そこに見たのは、紛れもなくキリストの姿であった。
いのちを投げ出して、破れの狭間になんとか立とうするキリスト者だった。あるいはモーセだった。

私たちの祈りは「ああ、主よ、私もその一人にしてください」と、モーセのように祈る者でありますように(という祈りです)。
毎日そんな祈りをしている訳にはいかないかもしれない。しかし自分の人生でいつかこういう時が来る。
破れの狭間に真剣に立って、その現状を受け止めながら、そして可能であれば、自分のいのちを投げ出すほどの犠牲をもって祈る機会が、きっと私たちの人生どこかで訪れる。
その時に主よ、私に恵みを注いで、立たせてくださいと祈るのみです。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、憤りに燃えて、子牛を取り、火で焼き、さらに粉々に砕き、それを水の上にまき、イスラエル人に飲ませた(出エジプト32:20)と、現実を知った途端に、現実に圧倒され、憤りに満ち、失望し、もう祈ることさえできないモーセが、翌日になって、あらためて自分のいのちを差し出しに、神さまのところへ向かって行ったということに、私たちは感動を覚えます。

そしてモーセだけでなく、そのように生きて来たキリスト者も沢山いることに私たちは感謝します。
主よ、赦されるならば、もし私がそのような破れの狭間に立つ機会があったら、イエスさま、あなたのように、自分のいのちをその狭間において、祈り切るような勇気ある信仰者として、私たちを恵みで満たしてください。

そしてこのような聖書の場面を忘れることなく、また同時に、このようにして、イエス・キリストは私のいのちを助けてくださったという事実も、忘れることなく生きていくことができるように、主よ、私たちを導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2013.04.23 - 07:08

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