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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   8/21 献児式・アブラハムの生涯(22)死に際して 創世記25:1〜10
☆聖書箇所    創世記25:1〜10

1アブラハムは、もう一人の妻をめとった。その名はケトラといった。
2彼女は彼に、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハを産んだ。3ヨクシャンはシェバとデダンを生んだ。デダンの子孫はアシュル人とレトシム人とレウミム人であった。
4ミデヤンの子は、エファ、エフェル、エノク、アビダ、エルダアであって、これらはみな、ケトラの子孫であった。
5アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。
6しかしアブラハムのそばめたちの子らには、アブラハムは贈り物を与え、彼の生存中に、彼らを東のほう、東方の国にやって、自分の子イサクから遠ざけた。
 7以上は、アブラハムの一生の年で、百七十五年であった。
8アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。
9彼の子イサクとイシュマエルは、彼をマクペラのほら穴に葬った。このほら穴は、マムレに面するヘテ人ツォハルの子エフロンの畑地にあった。
10この畑地はアブラハムがヘテ人たちから買ったもので、そこにアブラハムと妻サラとが葬られたのである。

☆説教     アブラハムの生涯(22)死に際して

創世記の25章、ちょっと初めていらっしゃった方にはしんどいですが、今年は高津教会では、元旦の礼拝からずっとアブラハムという人物の生涯を学んで来まして、今日がその最後22回目、アブラハムの「死に際して」であります。7節に――

7以上は、アブラハムの一生の年で、百七十五年であった。
8アブラハム平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。

とあります。
アブラハムの生涯は創世記12章から始まりましたので、25章までかかっています。
一番最初12章の1節に――【主】はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしの示す地へ行きなさい」――と、全人類でアブラハム一人に神さまは目を留めて、アブラハムを約束の地に招いてくださいます。

創世記12章の一つ前11章では、私たちがよく知っている「バベルの塔」という出来事が記されています。
人々は――「さあ、われわれはその頂が天にまで届く塔を建てよう。そうすることによって名を上げよう」――と自分に与えられた英知・技術を結集して、人間中心の幸福至上主義の世界を積み上げて行ったという出来事が11章に記されています。
自分に与えられた英知と技術を結集して、天にまで届く塔を建てようというのは、私たちの世界と何ら変わりはありません。
また、小さなレベルで言えば、私たちの人生も塔を建てるようなものです。
しかし、神さまはその人間の傲慢さを打ち砕かれ、バベルの塔を壊され、人々をそこから地の全面に散らされたと記されています。

そこから神さまは、いきなり一人の人物、すなわちアブラハムに声をかけ、「わたしについて来なさい。わたしが示す地に行きなさい」と仰いました。(***12章)
それが私たちの、信仰者の人生であります。
そうしてアブラハムの信仰生涯が始まり、それと同じようにして、私たちの信仰生涯も始まって行きました。
アブラハムは行き先知らずして神さまに従い、神さまの与えてくださる地を求めて、そこを歩き回ります。(***13章)

神さまはアブラハムを富ませてくださいました。
でもこんな出来事もありました。一度、ソドムの王さまが戦いに勝ったアブラハムに世話になったとばかり、物を取らせようとした時がありました。(***14章)
その時、アブラハムはきっぱりと断ります。
「糸一本でもあなたから受け取らない。アブラハムを富ませたのは、ソドムの王だと言われないために、私は糸一本でもあなたから受け取らない」と。

子孫を増やすとの約束が、なかなか実現せずに悩んだこともありました。(***15章)
神さまは、じっとアブラハム夫婦の可能性がゼロになるのを待っておられました。
そして全面的に神さまだけを信頼してくるその時を待っておられました。
途中、夫婦で考えました――そうだ、妻サラの女奴隷・ハガルを夫に与えて、子どもを儲けよう。(***16章)
そうしてできたのが、イシュマエルというエジプトとそしてアブラハムの血族の混血でありました。

ここに女奴隷ハガルと自分の妻サラとの関係が悪くなり、アブラハムの人生は非常に複雑になりました。
やがて女奴隷ハガルとその子イシュマエルは、アブラハムの家から出なければなりませんでした。
しかし神さまは、奴隷のハガルに生まれたイシュマエルも同じように祝福され、イシュマエルの子孫も星の数のように大きくなっていきます。

信仰生涯、信仰生涯と言いますが、ま、アブラハムの信仰生涯は百年です。
神さまに呼び出されたのが、75歳。天に召されるのが、175歳ですから、100年ですが、そこには様々な出来事がありました。
私たちは22回重ねて、そのひとつひとつを学んで来ました。どれくらい頭に残っているのかわかりません。
しかし、聖書を振り返って読まれたら、そこには様々な出来事があったということがよくわかります。

ようやく与えられた独り子イサクを、「捧げよ」というように神さまに命ぜられ、その手にかけていのちを奪いそうになるという試練の場面もありました。(***22章)
神さまに召され、祝福され、試練の中を通され、それでも従順に従い続けて行くアブラハム。
彼の信仰はやがて突き抜けて行きます――試練を通るたびに不純なものが取り除かれて、それでも苦労しながら、そしてやがて彼は気づきます――本当の神さまの祝福は地上のものではない。物質的なものではない。天的なもの、霊的なもの、たましいに関わること、永遠の世界に通じるものである、ということをアブラハムは実感するようになります。

アブラハムは豊かになりました。しかし地上においては、土地を所有することはありませんでした。(***23章)
彼は土地に縛られたくない、とでも言うかのように、アブラハムが生涯にわたって所有した土地は一つだけ、それは妻サラの墓でした。
その墓が天の扉となって、彼は天の故郷に繋がって行きます。
その妻サラを天国に送って三十(数)年、彼もまた同じ扉を通って、天の御国に召されるという場面を今日はご一緒に見ていただきました。(***25章)

今日はこの箇所と同時に、新約聖書のロマ書の4章を見ていただきたいと思います。
新約聖書のロマ書の4章の16節、後でもう一度この聖書の箇所を読んでみたいと思いますので……声を合わせて一緒に読んでみたいと思います。

<ロマ書4:16>
そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「私は、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。

ヘブル語で、アブラハムは「イブラヒーム」と言います。
アブラハムという名前のオリンピック選手は沢山いるでしょう(笑)。
世界的に最も多い名前の一つです――皆どこかでアブラハムに繋がりたいという思いがあるに違いないですね。
アブラハムは信仰によって世界の相続人となった。神の国の相続人となった。
そして、私たちは、(ロマ書4章の)16節の4行目を見ていただきたいのです。

すなわち、律法を持っている人々にだけでなく(***ということは、ユダヤ人だけではなく、と説明)アブラハムの信仰にならう人々にも(***世界の相続人となることが、と挿入して)保証される。
私たちは、アブラハムの信仰にならう人々であります。
このアブラハムの信仰にならうために、アブラハムの生涯を22回に分けて学んで来ました。
そして今日は、その最後、アブラハムの死から学びたいと思います。

もう一度創世記の25章に戻っていただいて、週報をロマ書の方に挟んでおいてください。
二つお話をしたいと思います。第一番目に――

1)アブラハムは死に際して、残される家族を思いやりました。

アブラハムには、先ほど申し上げました、妻サラの女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエルという、もう一人の子どもがいました。
いや、それだけでなく、サラが亡くなった後、25章の1節を見てください。

1アブラハムは、もうひとりの妻をめとった。その名はケトラといった。

再婚します。そして2節には、ケトラとの間に生まれた6人の子どもの名前が出てまいります。
これは非常に複雑な事情を拡大させることになりますね。
もし自分が亡くなったら、神さまの祝福を正式に受け継ぐイサクの立場はどのようにおびやかされるのだろうかと考えますね。
いや、残された家族はどのように互いに争うんだろうか?と。
古今東西、変わらぬ問題でありながら、私たちはほとんど手を打たずに、あまり考えずに死を迎えます。
いや、もっぱら私たちの理由は一つで、残す財産がないので(大笑)というのが最大の理由ですけれども。
しかし、いやいやそんなことないですね――大した財産も残ってないのに、それでも家族の争いというものを、私は牧師として絶え間なく見て来ました。絶え間なく見て来ました。
ですから教会の長岡兄にお願いして、彼は税理士でいらっしゃいますので、遺産相続に関する講習会を開いたり、あるいは「遺言の書き方」という講習会を開いていただいたり、教会の中でも勉強して来ましたけれども、どこか私たちはほとんど手を打たず、あまり考えずに死を迎えます。
自分の葬儀のやり方をどうすべきかということも考えずに、私たちは漫然と死を迎えます。
いや、いざ死ぬという段階になったら、そんなこと考える余裕はないでしょうね。
自分が死んでいくことに精一杯で、あとに残される家族のことはあまり考える余裕がないものです。

25章の6節を見てください。

6しかしアブラハムのそばめたちの子らには、(***子らが複数です。だからそばめも複数になっているのですが、これは実は後妻ケトラの、6人の子どものことを指します、と説明)は贈り物を与え、彼の生存中に、彼らを東のほう、東方の国にやって、自分の子イサクから遠ざけた。

とあります。
いわゆる習慣はあります。でも法律のない時代。相続に関するごたごたをアブラハムは考えました。
しかし、いつ考えたかと言えば、彼は存命中に考えた。
やがて自分は去っていく。そして遺される家族が争うことのないように、彼は生前きちっと財産を分与しておいて、そしてケトラに生まれた6名に関しては、きちっとイサクから遠ざけて住むように、遠くに住むように彼は計ります。

単に相続財産のことだけではありませんでした。
9節を見てください。9節にアブラハムの葬儀に際して、

9彼の子ら、イサクとイシュマエルは彼をマクペラのほら穴に葬った。……

お母さん・サラが葬られている墓に葬るんですが、最後葬るのは、イサクとイシュマエル。
イシュマエルというのは、かつて奴隷のハガルの息子として、アブラハムの家から追い出されました(***21章)
しかし、この最後の場面を見ますと、彼らはそれから何十年もした後、全くの連絡なしではなかったということがよくわかります。
最後葬る時には、イシュマエルが戻って来て、そして一緒に二人で父親を葬っています。

ケトラの6人の息子たちは、この葬儀の場面には出て来ません。
それは存命中に、東の国へと財産を分与して自立させたからですね。
聖書を読みますとよくわかります。
アブラハムは、真っ直ぐな信仰を持っていました。そして神さまの祝福は存分に受けていました。しかし単純な人生ではなかったと。
私たち誰もがそうです。単純な人生ではない。
8節には、いかにも単純に書かれています――

8アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。

しかし、この短い表現ではひとくくりに纏めることのできない、複雑な晩年というものを、彼は生き抜いて行ったわけですね。
そして願ったことは、家族が一つになる方法だったわけです。
それは当時の慣習があって、制限があって、でも家族が一つになってほしい。
彼は自らの生涯の最後に、そのことだけを考えた。そのことだけを考えた。

ちょっと参考までに、12節以降を見ていただきたいと思うんですが、ここにイシュマエルの物語が短く記されています。
ほとんどがイサクの物語になりますけれども、イシュマエルの歴史について16節に――

<創世記25:16、18>
16これがイシュマエルの子孫で、それらは彼らの村落と宿営につけられた名であって、十二人の、それぞれの氏族の長である。

ということはイサクの子ヤコブの子どもたちが12人――つまりアブラハムの孫たちが12人になるわけですけれども、
それと同じように、奴隷の子イシュマエルも12部族になり、そして住んでいた場所はアラビアの半島ですから、アラブ人の祖先になっていくわけです。

でも18節、ちょっと読みますね――

18イシュマエルの子孫は、ハビラから、エジプトに近い、アシュルへの道にあるシュルにわたって、住みつき、それぞれ自分のすべての兄弟たちに敵対して住んだ。

これがイシュマエルの子孫の、要約の言葉です。
「それぞれ自分のすべての兄弟たちに敵対して住みついた」12部族――独特な表現です。
自分のすべての兄弟たちに敵対する――互いの仲の悪さを丁寧に表現していますね。
それぞれ自分のすべての兄弟たちに敵対して住んだ。

片や、イサクから始まりヤコブの12部族、つまりイスラエルには一つの目標がありました。
そしてその目標の達成のために、少なからずイサクの子孫たちはみな努力をして来ました。
その彼らの目標をちょっと見ていただきたいと思うのですが、詩篇の133篇です。
民族の理想とでも言いますか、民族の努力目標というものがありますね。
133篇の1節をご一緒に読んでいただきたいと思います。
これがアブラハム、イサク、ヤコブから始まります、この民族の理想です。

<詩篇133:1>
1見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
「共に住む」というのは、原文では「共に座る」です――つまり、共に食卓に座り、共に語り合い、共に慰め合い、共に励まし合い……。
旧約聖書には、この「共に」「ヤハード」という言葉は限りなく出て来ます。370回ぐらい出て来ます。
共に集まる。共に礼拝する。共に賛美する。共に苦しむ。共に喜ぶ。共に泣く。共に働く。共に祈る――「共に」という言葉は何度も繰り返し出て来ます。

イシュマエルの民族は、「それぞれ自分のすべての兄弟たちに敵対して住んだ」とあるとすると、イサクの民族の理想は、「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう」(詩篇133:1)――これこそが、神の民の理想であり、教会家族の理想であり、またアブラハムの場合、私たちの場合、自分の家族の理想です。
彼はこの事を晩年考えて、自分の周辺を整えていった、というのが今日の話です。

私が死んだあと、争いのないようにしたい。いや積極的に言えば、仲良くしてほしい。共存してほしい。
詩篇の133篇の3節を見ますと、「共に一つになって住む」ということは、3節に「それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている」という言葉が出て来ます。
ヘルモンの露にも似ている――イスラエルには、四季はありません。雨期と乾期ですね。
で、聖書を読みますと、初めの雨と終わりの雨と(あります)。
初めの雨は2月頃ですかね。
終わりの雨が秋に降りますけれども、乾期は5月〜10月ぐらい。

ところが不思議なことに、イスラエルという土地では、乾期に沢山の果物が収穫される。
沢山の果物が生長し、沢山の果物が収穫されるんですね――それは露があるからですね。
露があるというのはどういうことかといえば、寒暖の差が非常に激しい時期が乾期で、その乾期になりますと、雨は降りませんけれども、露となってヘルモンの山々に降り、そしてそこにある植物にいのちを与え、その植物が実を実らせる。
それが兄弟たちが共に一つになって、仲睦まじく互いのことを思いやり、共に住んでいることと同じだと。

雨期であるならば、それぞれがそれぞれの楽しみ、それぞれの祝福を味わうに違いない。
しかし私たちの人生には必ず乾期がやって来る。
そこには非常に寒暖の(差が)激しい日が続く。
しかし私たちが共に住むならば、その露が私たちの人生に多くの収穫を産むことになる。
詩篇133篇の3節の後半には、「【主】がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」
「そこに」というのは、「家族が仲睦まじく、共に住んでいるところに」、神の祝福を命じてくださった。
それは、教会にとっても、民族にとっても、世界にとってもそうです。

アブラハムの息子イサクは争いを避けるような性格でした。
これから少し学んでいきますけれども、彼は人と戦うとか、自分の主張を通すということができない性格でありました。
父親アブラハムは、息子の性格がよくわかっていたんだろうと思います。
ですから生前、争いをなるべく遠ざけるように、ケトラの息子たちには、財産分与をして、遠くに住まわせたんだろうと思います。
その配慮は遺された家族にも伝わったに違いありません。
彼は生前、自分の人生の最後の目標として、いかに自分がいなくなった後に家族が睦まじく過ごせるかということを、経済的にも心情的にも様々な配慮をしたということは、私(藤本牧師)は大切なことだろうなと思います。

2番目、これで最後ですね――

2)アブラハムの人生の複雑さを思いますと、神さまの憐れみの深さを感じますし、同時に信仰の尊さを覚えます。

もう一度創世記25章に戻っていただきますと、この8節に書かれています、こんな単純な最後というのは、ちょっと考えにくいですね。
おそらく葬儀の時の弔辞には読まれると思いますが、

7アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。

ま、それは決まり文句という程の決まり文句なんだろうと思います。
私たちがアブラハムの人生を振り返ってみると、そういう理想的な聖なる人生ではなかったということはよく知っています。
彼は寄留先で、二度ほど妻サラを妹と偽り、一回目は妻をエジプトの王に取られてしまいますね。(***12章)
二回目はぎりぎりのところで、神さまが王に夢の中に現れて、「あなたがいま床を共にしようとしているその女性は、他の人物の妻だ」ということを天の使いに知らされ、王は慌てて自分の奥さんを外に出してしまいます。(***20章)

アブラハムの人生の複雑さというのは、私たちと全く同じです。
しかしどういうわけか、神さまはアブラハムを選び祝福してくださいました。
矛盾だらけで足りないところだらけで、それでも何とか神さまに従って行こうとするアブラハムの従順な信仰。
試練であれば、それをありのままに受け留め、妻の死にあっては大泣きするアブラハム。
人に頭を下げて誠実を尽くすアブラハム。

そして何よりも自分の信じている神が全能の神であることを信じ、彼はどこまでも神さまの可能性に賭ける。
アブラハムが自分の可能性に賭けたという出来事は、少なくとも一度も書かれていない。
どんな場合でも、彼は神さまの可能性に賭けます。

そして私たちこそ、アブラハムに倣う人々。あのアブラハムの信仰に倣う人々。
つまりアブラハムと同じように欠けだらけで、アブラハムと同じように問題多き人生を歩んでいる私たちは、信仰においてはアブラハムに倣おうとしている私たち。
ですから私たちはアブラハムの生涯を22回に亘って学んで来たのです。

最後にもう一度ロマ書を見ていただきたいと思いますが、ロマ書の4章の19節から交替に読んでいきたいと思います。
その信仰の真骨頂がここに書いてありますね。

<ロマ書4:19〜25>
19アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
20彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
21神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
22だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
23しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
24また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
25主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

アブラハムの信仰の神髄――19節には――自分のからだが死んで(死んだも同然で)サラの胎が死んでいることを認めたとしても、その信仰は弱らない。
弱らない――きっと弱ったのだろうと思います。だけど、自分の弱っている信仰を、自分自身、あるいは周囲の者とともに励ますことをしました。20節に――

20彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、

私たちは様々な試練の中で、神の約束を疑うようなことをします。
信仰が弱くなることもあります。
でもアブラハムを見ていますと、その疑うような世界をまた突き抜けて、神さまに信頼します。
ですから、試練があればあるほど、信仰はますます強くなる。頑丈になる。柔らかになる。柔軟になる。そして21節――

21神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

神には約束されたことを成就する力がある――これが全部、24節にあるように――私たちのためなんです。私たちのためなんです。
私たちもまた、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた方を信じる、そのことによって義とみなされる。
私たち自身が、いかなる試練を、いかなる十字架を背負っていたとしても、神は私たちをよみがえらせて、栄光をくださるということを信じて、この複雑な地上生涯を生き抜いていったアブラハムにほんの少しでも倣うことができたら、私たちはアブラハムのように神の世界を相続する者となることができる。

その約束を信じて、皆さん、もし時間がありましたら、この夏の間あるいは今年のうちに、アブラハムの生涯を綴った創世記、ほんの短い創世記でありますけれども、もう一度読んでいただきたいと思います。

☆お祈り――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、人の一生はまことに複雑であり、私たち一人ひとりはまことに愚かであります。アブラハムも沢山の失敗をし、沢山の限界に直面し、自分を圧倒するほどの試練に埋もれてしまうようなこともありました。

しかしそれでも彼の信仰はますます強くなり、試練によって鍛えられ、疑いを突き抜け、そして神を信じる生涯を全うしたこのアブラハムに、私たちも一歩でも二歩でも近づくことができるように、日常で小さなアブラハムのような信仰者とならせてください。

ちょっと小さなことで揺らぐような私たちでありますけれども、「あなたにはできないことはない。約束してくださったことを必ず成就する力がある」と堅く信じる私たちとさせてください(アーメン)。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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