☆聖書箇所 出エジプト33:1〜11
1【主】はモーセに仰せられた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地にここから上って行け。 2わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし、わたしが、カナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、 3乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。わたしは、あなたがたのうちにあっては上らないからである。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。」 4民はこの悪い知らせを聞いて悲しみ痛み、だれひとり、その飾り物を身に着けるものはいなかった。 5【主】はモーセに、仰せられた。「イスラエル人に言え。 あなたがたは、うなじのこわい民だ。一時でもあなたがたのうちにあって、上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、あなたがたの飾り物を身から取りはずしなさい。そうすれば、わたしはあなたがたをどうするかを考えよう。」 6それで、イスラエル人はホレブの山以来、その飾り物を取りはずしていた。 7モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れた所に張り、そしてこれを会見の天幕と呼んでいた。だれでも【主】に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのであった。 8モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、おのおの自分の天幕の入り口に立って、モーセが天幕に入るまで、彼を見守った。 9モーセが天幕に入ると、雲の柱が降りて来て、天幕の入り口に立った。主はモーセと語られた。 10民は、みな、天幕の入り口に雲の柱が立つのを見た。民はみな立って、おのおの自分の天幕の入り口で伏し拝んだ。 11【主は】、人が自分の友と語るように、顔を顔とを合わせてモーセに語られた。モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。
☆説教 神の人モーセ(35)主が共に住んでくださる幸い
出エジプト記の33章を開いていただきます。
ところでこの前TVで見ましたけれども、日本人がいま一番癒される場所はニュージーランドだと言いますね。TVで特集しておりましたが、私たちも都会の喧騒でもう忙しくさまざまなことを悩んでしまう時には、一度観光に行くという……まぁもちろん自然が豊かであるばかりか、人が温かい。人がとっても温かくて優しい。TVの特集ではそんな感じでありました。
土井さんもいつもそんなことを言っておられますが、「いつでも来てください。高津教会の人でしたら、必ずよいホームステイ先を探しますので、いつでも来てください」と、「特にいろいろ悩んでる方がいらっしゃいましたら、いつでも、先生もどうぞ」(大笑)と言われましたので、私の悩みも見抜いておられる(笑)と思いました。ぜひおっしゃっていただければ、すぐに手配できると思いますので、頭に覚えておいてください。若い方、いらっしゃるといいですね。
さて、33章でありますけれども、先週はモーセがシナイ山で十戒の板を受け取っている間、残された民が、モーセが不在であることになんとも言えない不安を抱いて、そしてアロンに迫り、偶像を、金の子牛を造ります。
モーセが山の上で受けている十戒の第1が「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(20:3)第2が「あなたがたは偶像を刻んではならない」(20:4)であったにもかかわらず、まさにその戒めを受け取っている最中に、ふもとの民はそのもっとも大切な戒めを破って、偶像の周りを踊って祭りを行っていました。
前回は、この罪深い破れの狭間に立って、モーセがどのようにとりなしをしたかを学びました。
そして今日はその続きです。 神さまは民を滅ぼすことを思い止まってくださいました。しかし、民は大きな代償を払うことになります。
1)悪い知らせです。
ちょっと1節から読んでいきますと、
1【主】はモーセに仰せられた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地にここから上って行け。 2わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし、わたしが、云々を(カナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を)追い払い、 3乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。……
行かせよう―― 一見するとこれは、よい知らせのように思えますが、これは実は悪い知らせ。3節の真ん中に「あなたがたのうちにあっては、わたしは上らない」。
神さまはこういうことを仰います。 神さまは依然として罪を犯した民を見捨てずに、神の使いを遣わし、2節の後半にあるように、神の使いが敵を追い払う。そして、3節にあるように約束の地に連れ上ってくださるというのは、よい知らせであるかのように思いますが、しかし実際はそうではなかった。
3「わたしは、あなたがたのうちにあっては上らない(からである)。」 5「あなたがたはうなじのこわい民だ。一時でもあなたがたうちにあって、上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう」
聖なる神さまは、罪深い私たちを前に一緒には行かないと仰った。 民にもすぐに、これが悪い知らせであるということは分かりました。ですから
4民はこの悪い知らせを聞いて悲しみ痛み、だれひとり、その飾り物を身に着ける者はいなかった。
神さまが一緒に行ってくださらないことが、どれほど悪い知らせか民は分かっていました。先に共に学びましたけれども、イスラエルの人々が神の民になった時に、その最大の祝福は「神は共に住んでくださる」という独特な表現で語られています。ちょっと25章の8節をご一緒に読んでみましょう。
25:8彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。
神さまがご自身の民を契約に導き入れられた時に、神さまは彼らに十戒という歩むべき道を教えてくださった。それだけではなかった。つまり十戒とそれに付帯する生き方を教えてくださっただけではない。
最大の祝福は天地の創造者である神は、イスラエルを選び、私たちを選び、そして私たちの中に住んでくださる。 25章8節をもう一回見ていただきますと、イスラエルの人々が聖所を造るなら、神さまはその聖所の中に住むとは書いてないのです。――「聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。」
高津教会という教会堂を造るなら、神さまはその教会堂に住むとは書いてない。 神さまはこの教会堂を建て、この教会堂で礼拝する私たちの中に住む――これが契約の独特な祝福です。
それは新約聖書でも同じように強調されていまして、イエス・キリストは私たちと共にいてくださる“インマヌエル”(***神は私たちと共におられる意・マタイ1:23)の神さまです。 キリストは私たちの中に住んでくださるお方で、私たちはキリストというぶどうの木につながっている枝。キリストのすべての恵みにあずかることができるのは、キリストが我がうちに住まわれ、私がキリストのうちに住んでいると言うこの事実(のゆえに)ですね。
しかし今回神さまはイスラエルの人々に言われました。「わたしは、あなたがたのうちにあっては上らない。あなたがたはうなじのこわい民であるから。」(3節)
もちろんこの“うなじのこわい民”というのが、今に始まったことでないことは神さまはよくご存知です。 荒野に入ってすぐに、食料がない、水がないと、こんな荒野で飢え死にさせるために私たちを救われたのかと、不満が絶えません。そこへ今、金の子牛の偶像を造って、拝むという罪を犯します。 人々はこれまでも、神さまのみこころをなかなか信じようとはせず、従おうとしない。自分の思いに強情に固執し、それに我を張るわけです。 神さまはこういう自己中心に生きている民と共にいると、今回のようなことがまた起こって今度こそ民を滅ぼしてしまうことになりかねないのです。ですから、もう同行するのはやめるとおっしゃってます。
先週、(礼拝後のフェローシップで)M兄たちのイギリスでの証しがありました。ご主人が大学での教鞭を、一旦一年休暇をいただいて研究をする(という、)その時に小さな子供たちがいるわけですから、私はもう強烈に「これはもう単身赴任だね。単身赴任したら?」と(勧めました)。でも、結果的に家族みんなで行きました。
兄弟が証しの中でおっしゃっておられましたが、兄弟は(昔、)ケンブリッジ大学で博士号を取るためにひとりで孤軍奮闘されていたのですね。独身時代。そりゃあすごいなぁと思います。イギリスで修士と博士号を取られて合計7年。悶々としておられた時期の7年と、いま愛する家族を一緒に連れて行くというのと、それは海外において心の余裕だけではない、さまざまに起こる苦労を全部共にし、やがてそれを一緒に、あぁこんなこともあったね、あんなこともあったね。Hちゃんはこうだったね、K(ちゃん)はこうだったねと、運動会から授業から、教会の様子から、ビデオを見ながらか何か分かりませんけれども、全部それを家族で共有することができる、それがともに行くということの意味です。
神さまは、「わたしはあなたがたを敵から守り、約束の地を獲得するために使いを送るが、わたしは行かない」(と仰る)のです。わたしは行かない――これは強烈ですよ。 私たちは時々ね、悪いことをする時には一人でやりたい、一緒に来てほしくない、という場合もあるのかもしれません。 私たちにとって、神さまが一緒にいてくださる方がいいのか、神さまなんか一緒にこういう場面ではいない方がいいのか。 いや、神さまの方で一緒にいてくださると言うのだけれども、いつの間にか自分が独走して、神さまを押しのけて、自分で我を通している場面もあるのですよね。
少なくともイスラエルの民は、神さまが同行されないということは最悪だ、ということがわかった。悪い知らせが悪い知らせだとわかったということです。 私たちに問題があるとしたならば、往々にしてこの悪い知らせが悪いと思っていない。 そんなことをすると神さまは同行されないよと言った時に、同行されない神さまのことを考えずに、一人でわが道を行くのです。これは私たちは考えさせられますね。
イエス・キリストがわれらとともにおられる神であり、イエス・キリストを信じておられるなら、イエス・キリストがともにいてくださるということが最高の恵みで、ジョン・ウェスレーは一番最後の言葉として、「神がともにいてくださる、これこそが私の最大の幸せだ」と言った人ですが……。 それが最大の幸せで、逆に神が同行されないことは私の人生で最悪なのだ、ということぐらい分かっているほど、神さまの恵みを実感していたいと思いますね。
2)さて、この民と対比、対照するかのように、モーセは描かれています。7節です。
7モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れた所に張り、そしてこれを会見の天幕と呼んでいた。
いつも天幕を取り、宿営から離れた所に張り、神さまとお会いしていた。 9節をご覧ください。
9モーセが天幕に入ると、雲の柱が降りて来て、天幕の入り口に立った。主はモーセと語られた。
11主は人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。
神さまは、かたくなな心で不従順な民とともに行くことは無理だと仰った。 でも祈りの天幕を離れた所に建てて、神さまの声に耳を傾けるモーセとは、顔と顔とを合わせて語られたということは、とっても多くのことを教えられます。
7節に非常に丁寧に解説があります。 @まず第一番目に「いつも」と言うことは、「日常的に」です。 どこに天幕を移動しても、どんな状況でも、どんな課題に直面したとしても、いつも日常的に祈りの天幕を張った。
Aもうひとつは「自分のために」。 必ずしも民のためではない。家族のためでもない。仕事のためでもない。自分のために、自分が正気でいられるために、自分に任された任務に耐える力と知恵を得ることができるように、彼は神さまとお会いする時間と空間を設けた。
B三番目に「宿営の外の、宿営から離れた所に」。 ということは、モーセはたとえそれが日常生活のど真ん中であるとしても、日常生活から距離をとって、神にお会いしたということです。
私たちは何のために祈りの時を持つのでしょう。 日常生活の雑事に埋もれず、日常生活の勢いに流されず、憤りや敵意やねたみに満ちたこの世界から距離をとり、問題課題で頭がいっぱいの自分がもう少し広い神さまの視点から人生を見つめるために。 失敗で打ちひしがれ、押し寄せる問題につぶされそうになる自分が、そうならないように、いつも天幕を取り、自分のために、日常生活の雑事から離れた所に、会見する天幕を設けた。――それが祈りです。
昔ロス先生が、宣教師のロス先生、高津教会に何回も来られましたけれども、こんな話をしておられます。 ある時、北アフリカで、ま、イスラム圏なのですけれども、船に乗っていた。その船がほとんどが現地の人たちで自分は白人だからすごく目立つ。 時間が来るとイスラムの人たちはお祈りをしますので、船の中でもお祈りするわけですけれども、デッキやいろんなところに出てお祈りをしておりました。
ロス先生は思わず自分もお祈りをしようと思って、持っていたブランケットを頭の上からかぶってお祈りをした。そうしたら、途端に周りの人たちが尊敬の目をもってこの白人を見た。 ロス先生が言うには、ただこうして(***お祈りの手の身振りで)いるだけではだめなのかも知れない(笑)。毛布をかぶったという動作が、ものすごく恵みとして周りの人に伝わったと。
私たちは必ずしもそんな動作をするわけではないです。 会見の天幕というその天幕を張るわけではない。 でも、自分の部屋に、自分の家の中に祈りの天幕を設けることは簡単にできる。 職場でクリスチャンが数名集まって、忠実にそうした天幕を張ることもできる。 スタバで天幕を張ることもできる。最近カフェの数が増えましたよね。そして静かなカフェで、ノート・パソコンを開いたり、スマートフォンを開いたり、私たちはその場で会見の天幕を開くことができるのです。
週に一度会見の天幕に来る人と、まったく神さまとの会見を望まない人、この違いは大きいと思います。 しかし敢えて言うなら、「モーセはいつも天幕を取り」(7節)とある。 いつも会見の天幕の中に入る人と、たま〜にしか会見の天幕に入らない人とでは違う。 毎日いつも自ら宿営の外に出て、自分のために主と会見するために、祈りの天幕を張る人との違いは決して小さなものではないです。
カトリックの司祭でハーバード大学の教授の籍を辞任して、知的障害者のラルシュという施設に行ったヘンリー・ナウエンの本を私はよく引用しますが、彼がまだイェール大学で教えていた頃に研究の休暇をもらって、彼はイタリヤで、カトリックですから彼はローマで過ごすのです。 その時のことを、彼は「ローマで戯れて」”Clowning In Rome”という本にしています。
彼はある日、ローマの街を歩きながらこんなことを考えます。 ローマの街というのは独特に不思議です。情熱の街と言われますけれども、夏になりますと、気温は30度を優に超えます。そして湿気が出て来て、でもイタリヤ人は元気だ(笑)というところがまず不思議だ。
ファッションはパリなどと比べ物にならないほど奇抜ですよ。原色、斬新なデザインで、ハッとするものばかりで、そして、中国の自転車のようにイタリヤはバイクが走ります。そしてみんなヘルメットを着けない。若い女性が長い髪の毛をたなびかせながらバイクに乗っていく姿。
そして街を歩きますと至る所から、イタリヤ料理のスパイスの香ばしい香りがしてくる。 イタリヤ人はどうしてあんなに感情を込めて話せるのだろうかと思うほど、大胆なジェスチャーで、怒鳴るように喧嘩をするように話をする。
ローマの街と言うのは、車の音、バイクの音、人の声、音楽、それからさまざまな香り、さまざまな色、独特な建築。何かが凝縮されているように人間社会がローマにはある。 でもヘンリー・ナウエンが言うには、この忙しい、色彩に飾られ、音と香りに包まれた街の至る所に、白いドームがそびえています。
この白いドームは聖なる方のために取っておいた場所です。これほど多くの教会を持っている街は他にはないでしょう。あの混み合った街に堂々と場所を占めて、すべての人間生活を示しているかのように、静かにドームはそびえています。
礼拝堂は街の構成から言えば、別に何かの役に立つわけではないでしょう。お金につながるわけではないでしょう。でもそれは、独特に静かな場所として開かれている。 でもほとんどの人はそこには入らない。 でも一旦入りますと、壁ひとつを隔てて、ローマの街とは全く違う空気が流れ、言葉が話され、違った渦が動いている。
その白いドームは私たちに語りかける。――あなたの荒い息を整えなさい。あなたの汗を拭きなさい。心を静めなさい。ひざまずきなさい。わたしに聞きなさい。わたしに求めなさい。わたしのそばで休みなさいと。(主が)私たちを招いておられる。会見の天幕ですね。
私たちの生活は、活気づいて騒がしくて、目が回るようなスピードで進んでいく、いわばローマの街です。 しかし、その至る所で私たちは白いドームに避難することができる、それが祈りの空間、祈りの時間、会見の天幕で、モーセが荒野で混沌とした宿営から逃れて、祈るために神さまとお会いする時間を取った(場所です)。 私たちも日々の(会見の)天幕を日常生活の中に張ります。
3)主を求める者のところに主は来て下さる。
9節をちょっと見てください。
9モーセが天幕に入ると、雲の柱が降りて来て、天幕の入り口に立った。主はモーセと語られた。
雲の柱が降りて来て――モーセが天幕に入ると自動的に雲の柱が降りて来てという風に書いてありますね。会見の天幕でモーセは神さまを求めていたのではない。神さまを探していたのではない。 会見の天幕に入ると、神さまもまたそこに降りて来られたと、そして友と語るように、顔と顔を合わせて、と記されているわけです。
あぁ、私が祈ったら、神はそのようには語ってくださらないだろうな――ま、そうかもしれません。モーセは偉大な信仰者で選びの器です。 しかし、私たちはそう心配する必要はない。そう悲観する必要はない。 出エジプト記の次にレビ記、その次に民数記がある。民数記の12章3節をご覧ください。3節をご一緒に読みたいと思います。
3さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。
ここには、モーセという人は地上のだれにもまさって、敬虔な信仰者であったとは書いてない。偉大な信仰者であったとも書いてない。 だれにもまさって謙遜であったということは、だれよりも神を必要としていたということです。
謙遜は傲慢の対義語です。私たちは傲慢であれば、人の前で高ぶり偉そうぶるでしょう。 だけど、それはイコール神の御前で高ぶる(こと)――どういうことか?――神なしでやっていけると思うことです。
その逆の、謙遜ってどういうことか? モーセは地上のだれよりも神さまを必要としていたという意味ではないでしょうか。 だれよりもモーセは強く自覚していた――主に祈らなければ自分は何にもできない――そしてそういうモーセのうちに、主は住んでおられた。 もし主が住まないなら、それは悪い知らせだという自覚を持ちたい。もし主が一緒に行ってくださらないなら、私は最悪だと私たちは思わなければいけない。
でも、おおよそ神とは関係のないこの世界にあって、私たちはさまざまに悩み、揺らされますが、しかしいつも自分の喧騒の多き日常生活の只中で、そこから離れて祈りの天幕を張り、主に祈る者でありたいと思います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、いま私たちは祈りの天幕の中に入りました。ということは、あなたが降りて来られたということです。私たちはモーセのように思います。あなたを必要としています。そしてあなたを必要としている思いにかけては、他のだれにも負けませんというぐらい、あなたの御前で謙遜な姿勢でへりくだることができますように。
あなたが私たちに与えてくださるいかなる賜物を駆使したとしても、あなたの助け、あなたの同行がないなら、それは無にも等しいものです。遜ってあなたの恵みを求める者とさせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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