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Name   T・Y
Subject   8/28 戸塚神学生:神のわざがこの人に ヨハネ9:1〜12、24〜38
8/28 戸塚神学生:神のわざがこの人に ヨハネ9:1〜12、24〜38
※藤本牧師は山形教会――この礼拝で釣牧師召天の訃報に接し、高津教会も心より哀悼の意を捧げました。

☆聖書箇所     ヨハネ9:1〜12、24〜38
    
1またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
2弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
3イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
4わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
5わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
6イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
7「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
8近所の人たちや、前に彼が物ごいをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
9ほかの人は、「これはその人だ」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。
10そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
11彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
12また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません」と言った。
****** ***** ***** *****
24そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
25彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
26そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」
27彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」
28彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。
29私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」
30彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。
31神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
32盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。33もしあの方が神からでておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
34彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。
 35イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
36その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
37イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
38彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。

☆戸塚神学生の説教   神のわざがこの人に

今朝はヨハネの福音書の9章からお話をするように導かれております。
ある時、イエスさまと弟子たちが道を歩いていますと、ひとりの生まれつきの目の不自由な男の人に出会いました。
これがヨハネの福音書9章の物語の始まりです。
今朝はここから「神のわざがこの人に」と題して、共にみことばに耳を傾けたいと思います。初めに――

1)イエスさまと弟子たちとのQ&A――これが描かれています。

このヨハネの福音書の9章には、そのQ&Aがず〜っと繋がっている箇所ではないかと思います。まず2節――

2弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

「彼」と言うのは、道の途中で生まれつきの盲人に会ったのですけれども、その盲人についての質問でした。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」――こういう質問を弟子たちはイエスさまにしたんです。
盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか?――この弟子たちは盲目に生まれついた原因は罪にある、という風に考えていたのです。

罪が原因であると思っていた弟子たち――なぜだろうか?
調べてみましたら、当時ユダヤ人は病気や不幸な目に遭うと、本人が犯した罪との間に何らかの因果関係があると信じていたようです。
そこで弟子たちはこのような質問を投げかけたんです。
「誰が罪を犯したんですか?しかも生まれつきの場合はどうなのでしょうか?」
弟子たちはイエスさまに期待してこのような質問を投げかけました。
本人の罪が原因なのか、それとも両親の罪が原因なのか、イエスさまなら答えてくださるだろうと思って質問したのだろうと思います。

私はこのみことばを読んでいますと、弟子たちの何かこう「上から目線」のような態度が気になりました。
自分は見えている。でもこの人は見えていない。この人の障がいの原因を自分は高い所において、まるで検証するかのような態度でこんな質問をイエスさまにしているのです。
しかし弟子たちこそ、自分が見えていないのではないだろうか?
まるで自分の存在には問題がないかのように、障がいのある人についてだけ「誰が罪を犯したからですか?」と問うています。

でも私たちは、自分も「上から目線」ではないのだろうか、ということを気がつかされる時がある。
私(戸塚神学生)もこの箇所を読んでみて、見の見えない人に対して、自分だったらどういうような思いを持つだろうか?弟子たちのことを責められないんじゃないだろうか?と気がつかされることがあります。

私たちはもしかしたら、大なり小なり何らかの生まれつきのものを持って、日々の生活を歩んでいるのではないだろうか?――それは目に見える障がいではないかもしれない。
でも心の傷や、性格の問題や、また人には言えない様々な罪の問題や、色々な境遇の中で、自分でも気がつかない様々な問題を、生まれつき抱えているのではないだろうかと、そのように指差されることがあります。

それとともに、弟子たちに対しても私たちは責められない。
障がいのある方を目の前にした時に、私たちは何を感じるだろうかということを考えた時に、自らが問われているだなぁという風に思います。

そのような状況の中で、イエスさまが何とお答えになったか、それが3節に書いてあります。

3イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。

イエスさまのanswer・答えは「神のわざがこの人に現れるためです」――これが弟子たちの質問に対する答えでした。
そして4節のことばが繋がります。

4わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
5わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」

「わたしは世の光です」と、イエスさまは自らが光であることを宣言なさいました。
この目の不自由な人は、これらのQ&Aをその敏感な耳でじっと聞いていたことでしょう。

二つ目に――イエスさまは弟子たちに答えた後、すぐに――

2)イエスさまの方から、この目の不自由な人に働きかけました。

そしてこの人を癒されるのです。その方法が奇抜でした。6節――

6イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
7「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

イエスさまの方法、先ず地面につばきを吐く。そしてそのつばきで泥を作る。
イエスさまってかなりつばきを出したんだろうと思います(大笑)。泥が作れるくらいつばきを出した。
しかも地面ですから、泥が作れるような地面だったんでしょうね。堅い地面と言うよりも、何かこうさらさらしたような地面だったんでしょうか。
そして唾でこねたそのべちゃべちゃの泥を(大笑)、この目の見えない人の目のところにべっとりと塗る訳ですね。
そして塗った後、イエスさまは指示されました――「シロアムの池に行って洗いなさい」と。

なんでわざわざイエスさまはこのようなことをされるのだろうか?
しかし塗られた泥をシロアムの池の水で洗ううちに、この目の不自由な人は、癒されるわけです。見えるようになったのです。
生まれつき目の見えない方が、見えるようになるって、いったいどういう感じなんでしょうか?想像だにつきません。 
あ、これが光というものなのか!これが色というものなのか!これが水なのか!あれが人間という人の形なのか!
でもその人は一度も見たことのない世界を、目で見ることができるようになったんです。
本当にもうことばでは言い表すことのできないぐらいの感動だったでしょうねぇ。

しかしここから大変なことが起こりました。
この目の開いた人と周りの人との間に、またQ&Aが始まるのです。
近所の人たちや、前に彼が物ごいをしていたのを見ていた人たちが(***8節)、騒ぎ出しました。 
このQ&Aをず〜っと追っていきますと、物語の展開は大きく分けて6つの段階になる、そのようにまとめてみました。
▼1つ目の段階は、9節〜12節です。先ず8節からお読みしましょう。

8近所の人たちや、前に彼が物ごいをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
9ほかの人は、「これはその人だ」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。

ここで目が開いた人は「わたしがその人だ」と証しをし始めるわけです。
10節、ここからQ&Aの第一段階が始まります。

10そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
11彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」

11節に「イエスという方が」と書いてありますので、イエスと言う名前は知っていた。名前は知っていた。
安息日にイエスという方が泥を作って癒しを行った――この事がパリサイ人の心に火をつけてしまったわけです。

▼第2段階目が15節です。 

15こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったのかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」

このように、また同じことを、この目の見えない人は話すわけですね。
そうすると、さらにこの後パリサイ人は4回もず〜っとこの質問を続けて行くわけです。16節――

16すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。
17そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」

この目の見えない人は、イエスという方を預言者だと信じていました。
だけれどもこのユダヤ人たち、パリサイ人も含めてでしょうけれども、このユダヤ人たちはほんとにこの人は生まれつき目が見えていなかったのかどうかを確かめたかった。

▼(第三段階は?)そこで両親を呼び出すことになりました。
本当に目が見えなかったのだろうか?
そこで、この目の見えなかった人の両親を呼び出しました。18節――

18しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、
19尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」

両親はこのように聞かれました。
恐らくこの後、ずっと読んでみますと、両親は――自分の息子の目を癒したイエスという人はただ者ではない。単なる預言者ではない。もしかしたらキリストかもしれない――そう思っていた節が感じられるのです。
でも22節を見ますと、

22彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。

と書いてありますよ。だから、両親は口を噤(つぐ)んだのです。
そこで何と言ったか?23節――

23そのために彼の両親は、「あれはもう大人です。あれに聞いてください」と言ったのである。

このように書かれています。
(今までのところをまとめて、)
第一段階、イエスという方が私の目を開けた。
第二段階、パリサイ人も騒ぎ出した。
第三段階、両親を呼び出した。

▼第四段階、ユダヤ人たちはまたしつこく、目が見えるようになったこの人に質問攻めをしています。24節――

24そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
25彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」

今は見える――もうこれは、体験です。神さまが為してくださったみわざの体験、ゆるぎない事実をそのまま告白している場所です。
でもしつこくしつこく、この盲人に対して、目の開いた人に対して、ユダヤ人たちは質問を繰り返すわけです。26節――

26そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」
27彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」

このQ&Aがだんだんだんだんとエスカレートして行って、ユダヤ人たちへの批判に変わって行くわけですね。もうQ&Aではなくなって来ています。
それで、「あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか?」と、この目のあいた人はユダヤ人たちに問うています。すると、28節――

28彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。
29私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」

どこから来たのか知らない。あんな人知らない――そう言ったら、この目のあいた人はすかさず、30節――

30彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。

このように、自分の体験をしっかりと握りしめながら、この目の開いた人はず〜っと証しし続ける訳ですね。 
で、目が見えるようになったこの人は、ユダヤ人とやり取りをしているうちに、
自分に与えられた恵みの大きさがただものではない。そのようなわざを為されたイエスという方への思い――これはもしかしたら単なる預言者ではないのではないだろうか?――
なんかこうユダヤ人とやり取りをしているうちに、自分が癒されたことを告白しているうちに、だんだんだんだんと確信が強くなっていくわけですよ。

私たちもそういう意味で、証しをするって、すごく大事だなぁと思います。
なんだか、こんなことを証ししても、こんな小さなつまらないことを証ししても何の足しにもならないんじゃないだろうか、と思いがちですけれども、でもそのことを一言口で誰かさんにお話しする、あるいは「天の窓」に書く――そのことによって、あ、神さまがこんなすばらしい恵みを与えてくださったという確信が強まって行く。
お証しするって大事だなぁと思います。

この目の開いた人はもうどんどん確信が強まって行く。そして最後に、31節、説教までしてしまうんですね(大笑)。

31神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
32盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
33もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」

「あの方が神から出ておられるのでなかったら」――もうここまで言ってしまうわけですね。

▼第4段階でしつこくユダヤ人とのやり取りがずっと続いた後に、そして最後はものすごい証しをした後に、
▼第5段階は、もうはっきりとした説教です。メッセージです。確信です。
「もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできない」ということは、「あの方は神から出ておられる方なんですよ」と、はっきりとユダヤ人に宣言している。
つまり、「イエスという方はキリストだ」と、そのように告白したことになるわけです。

そうすると、彼の両親が恐れていた事、22節に――

22彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。

この彼の両親が恐れていたことを彼は言ってしまった訳です。

▼そしてついに第6段階、34節――

34彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。

この人はユダヤ人社会から追い出されてしまいました。
「会堂から追い出される」と言うと、「なんだ、教会から追い出されるだけ?じゃ他へ行けばいいか」という感じになりますけれども、
この場合、「会堂から追い出される」「追放される」ということは、ユダヤ人社会から追い出されるということを意味しています。
ある意味では――もう社会から抹殺される。戸籍も剥奪される――そういうような厳しい状況なわけです。大変なことになってしまった訳です。

それでもこの人は目が見えたという確信がものすごく強くて、そして私の目を開けたのは、キリストであるに違いないという、もうどうすることもできない思いに満たされて、「あの方は神から出ておられる方だ」とついに言ってしまった訳なんです。

三つ目に、ところで、ここまでみことばを読んで気がついたことがあります。

3)この騒ぎの間、目が見えるようになったこの人は、イエスさまのことを一度も目で見てないんです。

この人が目があいて始めて見た物というのは、シロアムの池の水、泥水になっている自分の手のひら、そして周りにいる人たち、もしかしたら空や雲かもしれない。まぶしい光。
でもイエスさまのことを一度も目で見たことがなかった。

その彼が、実際にイエスさまを見たのはいつか?――それはユダヤ人社会から追い出される、追放されるという思いもよらない結果になったその時でした。
その時に初めて、イエスさまと出会ったんです。35節をご覧いただきますと――

35イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」

彼を見つけ出して言われた。見つけ出して言われた。彼を心配して見つけ出して、イエスさまは彼の前に現れたんです。
イエスさまは彼を決して忘れてはいなかった。
彼にとっては、この時初めてイエスさまを見た。
しかしイエスさまの方では、ず〜っと彼のことを見守り続けていた。

このやり取りの中で、色々なことを言われながらも、ユダヤ人から様々なことをしつこく質問される中で、イエスさまはず〜っと見守り続けておられた。
それはいつからか?――それは9章の1節から。

1またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。

「イエスは、見られた」――こう書いてあります。
もうこの時点で、イエスさまの目はこの人にず〜っと注がれていたわけです。
それでも、目の前に現れたこの男の人を、目のあいた人は、この人が、目の前にいるこの人がイエスさまだ、ということがわかっていなかったのです。

そこでイエスさまは決定的な質問を出されています。35節の後半に――「あなたは人の子を信じますか。」
あなたは人の子を信じますか?これは人の子、イエス・キリストのことです。イエス・キリストを信じますか?イエスをキリストであるということを信じますか?――そういう質問だったわけです。
すると、この人は答えました。36節――

36その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」

質問されても、「主よ」とは答えていながらも、「その方はどなたでしょうか」――目の前にあるこの人だとは思っていない。
その方はどの方でしょうか?私がその方を信じることができたらいいのに。信じることができますように――ということは、「信じたい」という思いですね。
すると、37節で――

37イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
38彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。

ここで初めて、目の前のこの人がイエスさまだ、キリストだ、私の救い主だ、と気づいたのです。
そしてイエスさまを礼拝しました。

私は(戸塚神学生)は考えるんですね――なぜイエスさまは、彼に初めて出会った時に、すぐその場で目に手を置いて癒されなかったんだろうか?
すぐ癒してくださればよかったのに。わざわざ唾を吐いて、地面に泥をこねて、目に塗って、そしてシロアムの池にまでわざわざなんで行かせたんだろうか?
なんでそんな手間をかけたんだろうか?
また、なぜユダヤ人とのやり取りの最中に、イエスさまがその場に来て彼を弁護し助けてくださらなかったんだろうか?――なんかこの理由が解ったような気がいたします。

もしその場ですぐにイエスさまが目に手を置いて癒されたならば、そしてすぐその場で目があいたらば、目の前にいるお方が、あ、私の目をあけてくれたイエスさまだ、癒し主だ、とすぐわかったと思うんですね。
でも、恐らく単なる「私の目をあけてくれた癒し主」で終わっちゃったかもしれない。

でも、見えるようになった彼の目がいま見ているのは、自分の目が見えるようになる奇跡を行ったイエスさまではありませんでした。
自分の事をず〜っと見守り続けてくださったイエスさまでした。
そのおかげで社会から追放されても、イエスはキリストであるという信仰が芽生えた。芽生え続けた。
その信仰は人から教えられたものではなかった。自分で体験し、自分の言葉で証しし、納得させられたものだったんです。

ああ、私はこのイエスさまに、この目の前にいらっしゃるあなたに、見守られ続けていたんですね。そういう存在だったんですね――そのことにこの人は気づいたんです。
それはいつからだったんでしょうか?9章の1節からだったんでしょうか?
実は違います。生まれた時からでした。
自分が生まれた時からず〜っと、私はこのイエスさまに見守られ続けていたんだ――彼はまさにこの時、この事に気づかされた。
それは本当の意味で、彼の目が開かれた瞬間でした。

目が見えなかった人が見えるようになったという奇跡、外側に現れた現象もすごいことです。
しかしもっとすごいこと、もっと大切なことは、自分はイエスさまに見守られ続け、今そのイエスさまに出会った、心の目が開かれたことだと思うのです(アーメン)。
これこそが、3節でイエスさまが仰った「神のわざがこの人に現れる」この「神のわざ」そのものだったと思います。

私たち一人ひとりが、イエスさまに見守られ続けている存在です――なんと感謝なことでしょうか!
私たちがイエスさまに出会う前から、私たちが生まれた時から――聖書には、「私たちが母の胎にいる時から(私たちの名を呼ばれた)」(***イザヤ49:1)って書いてあります――その時から見守られ続けている存在。

きょう初めて教会にお出でになった方で、まだこのお方がどういう方かよくわからない方がいらっしゃるかもしれない。
でもあなたも、イエスさまに見守られ続けていらっしゃる方です。
今はイエスさまはこの目には見えませんけれども、でも毎日、毎日私たちはイエスさまに見守られ続けている存在です――なんと感謝なことでしょうか!
でもイエスさまが目に見えないっていうことはいいですね。ず〜っと見守られ続けていたらちょっと気になっちゃいますけれども。
でも私たちは見守られ続けている存在。

そしてイエスさまは時々、私たちが大変な状況の中にある時、社会から追放されるということはないかもしれませんけれども、人生の危機といった状況にもし置かれた時には、特別に私を捜し出して、私と寄り添い共にいてくださるお方なんです。
このイエスさまを思い起こしながら、8月から9月へ移るこの一週間を歩んでいきたいと思います。
私たち一人ひとりにも現れる神さまのみわざ、これに期待したいと思います。

最後に星野富弘さんの詩をご紹介して終わります。
星野さんは倉賀野中学校(***群馬県高崎市立)の体育の先生をしていました。
1970年の4月に赴任して、そしてその年の6月に生徒の前で模範演技をしている時に、首から落ちて、そして首の神経を完全に痛めてしまい、下半身がマヒしてしまった。
そういう方ですけれども、でもイエスさまに出会い、救われて、そして今は神さまの恵みを、愛を証しされている方です。

この星野さんに現された神さまのみわざ――それは聖書のことばを通して導かれたイエスさまとの出会い――それが神さまのわざでした。
その喜びと感謝を、口にくわえた筆で描いた(花の)絵と詩で表現いたしました。
こんな詩があります。(***これは、かりんの実を描いた絵が印象的でした。T・Y)

            <毎日見ていた空が変わった
            涙を流し友が祈ってくれた
            あの頃恐る恐る開いたマタイの福音書
            あの時から空が変わった
            空が私を見つめるようになった>

もう一つ、これは最近書かれたものですけれども、お読みいたします。

            <苦しくてどうしようもない時 
             いつもうかんでくることばがあった
             神様がいるんだもの なんとかなるさ 
             そしていつもなんとかなった>

☆お祈り――戸塚神学生

イエスさま、感謝いたします。あなたはいつも私たち一人ひとりを見つめてくださり、見守り続けてくださっていることをありがとうございます(アーメン)。その恵みの事実に気づき目が開かれることこそが、私たちに現れる神さまのわざであることが解りました。
自分ではどうすることもできない問題や、試練や、病や、障がいの中で、一人もがく時、見守り続けてくださったあなたが私の所に来て、共に寄り添い助けてくださいますように(アーメン)。
そして、あなたが与えてくださった大切な人生の日々を、平安と希望をもって生きて行くことができますようにお導きください(アーメン)。イエスさま、あなたのお名前によって、父なる神さまにお祈りいたします。アーメン。


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DATE: 2016.08.29 - 21:08

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