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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   9/11 やさしい出会い(2)憐れみへの信頼  (ベテスダ)ヨハネ5:1〜9
☆聖書箇所     ヨハネ5:1〜9

1その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
2さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
3その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。

<※欄外の注――異本に3節後半、4節として、次の一部または全部を含むものがある。「彼らは水の動くのを待っていた。4 主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのであるが、水が動かされたあとで最初に入った者は、どのような病気にかかっている者でもいやされたからである」>

5そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
6イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
7病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
8イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
9すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。
 ところが、その日は安息日であった。

☆説教――藤本牧師   やさしい出会い(2)憐れみへの信頼(ベテスダ)    

先週はマタイの福音書からイエスさまが取税人マタイに声をかけている場面を一緒に見ていただきました。
今日も実は同じように、イエスさまがいきなり声をかけておられる場面を見ていただきます。

先週は取税人マタイに、いきなり、それでいて非常に個人的に、親しみ深い招き「わたしについて来なさい」ということを、イエスさまはいきなり仰います。
取税人というのは、神さまとかけ離れて生きて来た当時の職業でありましたが、彼は一瞬にしてその躊躇を乗り越えて、イエスさまについて行きます。
一瞬にしてマタイが感じ取ることができた、いや神さまに与えられた信仰・信頼・勇気。
そして引き込まれるようにマタイはイエスさまについて行きます。
私たちの始まりもそうでしたし、私たちも今日も同じように、イエスさまがふっと声をかけてくださるその招きに引きこまれるように、イエスさまについて行きます。

ベテスダの池――(ヨハネ5章)2節に出てまいります。

2さて、エルサレムには、羊の門の近くに、へブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。

と話が始まります。
その池というのは、後にわかりますけれども、ま、間欠泉で、時折水とともにガスが噴き出してくるという特殊な池です。

以前、テレビでスペインの田舎町にマリヤの池があるという特集を見たことがあります。
ある日、夢の中にマリヤさまが出て来て、そして「裏の岩の間から、泉が吹き出るようになる。そしてその水を飲む者は病が癒される」と言われ、実際その女性は水を飲んで癒されたという特集でありました。
このようにして、いわゆる病が癒されるマリヤの泉というのは、ヨーロッパの中には昔から沢山あるということでありました。

確かにキリスト教の中でも、マリヤと泉を重ねる習慣というのはあります。
それはず〜っとカトリック教会で長い間、長い間、今でも最大の公用聖書ですけれども、使われて来たラテン語の「ウルガタ訳」という分厚い公用聖書があります。
聖書の中に、私たちもよく知っている受胎告知という場面がありますよね。
天使がマリヤに現れて、あなたは身ごもるということを告げている――それが受胎告知ですが――そこで、天使はマリヤに向かって、「あなたは神に祝福された方だ」とこう言いますね。

ウルガタ訳ではそこを「グラティア・プレーマ」gratia plema、ま、讃美歌で「マリヤの賛歌」を歌います時に「グラティア・プレーマ」gratia plemaというフレーズが聞こえていますが、これが「恵みに満ち溢れているお方」「恵みが満ち溢れたお方」という意味ですね。
プレーマplemaというのは「満ち溢れる」という意味です。聖書の中に何度も出て来ます。
「恵みが満ち満ちて来る」(***ヨハネ1:16)とか私たちが「キリストの御丈に満ち満ちて成長していく」(***エペソ4:13)というのは、全部このプレーマという言葉、ま、ラテン語ですけれどもギリシャ語から来ている言葉ですね。

「満ち溢れる」という姿が「汲めど汲めど尽きせぬ泉」という――そこに一番直結していきます。
いのちの泉をマリヤさまがどんどん噴き出してくださる「マリヤの泉」という――ある意味、この「ベテスダの池」というのはそういう感覚と似ていますね。

私たち人間は誰でも渇きます。そしていのちの源が水にあるということもわかっています。
この地球という世界が水に溢れた世界で、私たちは渇いてしまったら、食べ物がなくなってしまう以上に、飲むことができなくなったら、私たちのいのちはそれで終わりです。
そこにこの間欠泉という、確かに不思議な状況が生まれて来ます。
そこでこの池の名前は、ベテスダ(恵みの家、憐れみの家)と呼ばれるようになりました。

今日の私たちのこの感覚を捕えていただければ――ここは恵みの家だ。憐れみの家だ。高津教会はベテスダだ――ということを心に留めて、しばらくこの話を見ていただきたいと思います。

4節というのは本文の中にはありません。ちょっと見ていただきますと、小さい字でありますけれども、1.2.3.5.6(節)になっていますでしょう。4節はないですよね。
で、4節は他の写本にはあるので、4節を挙げている写本は少なくともあるわけですから、ですから脚注に出ていますよね。
脚注に小さく4という数字が書いてあって、ちょっと読んでいきますと、「主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのであるが、水が動かされたあとで最初に入った者は、どのような病気にかかっている者でもいやされたからである」という文を入れている写本があります。

少し言い回しが、迷信的ですよね――「主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのであるが」というのは本当にそうなのかなぁ(笑)という風に、旧約聖書の観点から言うと、イスラエルの人々の信仰はこういう感覚ではないですね。

そして「飛び込んだ最初の者はどのような病気にかかっている者でもいやされた」――本当に癒されたのか(笑)、ま、自分は今日は二番目だったなぁとか三番目だったなぁ。でも必ず一番目というのはあるはずで、もう本当に一番目を狙っている人は、どんなに病んでいても池の縁に寝ていれば、音がした途端にごろっと寝返りを打てば(笑)池に落ちるわけですから、これはもう確実に直るんだろうと思いますね。

ですからやっぱりこれは明らかに、迷信の説明だろうと思います。
そういう意味で、本文から外してあっていいんだろうと思いますが、
でもイスラエルの人々がそんな迷信を信じていたのか?と言われると、やはり私(藤本牧師)は、多くの人々は信じていたと思いますね。
どんなに堅い信仰を持った民族でも、苦しい時にはすがれるものには、何でもすがりたいという気持ちがあって自然だろうと思います。

ましてや、病んだ人は神殿に入ることができませんので、そうなりますと、神さまの恵みの場所を他に求めて、その水に飛び込んだんだろうと思います。
そんなものは迷信だと無視している時もあったでしょうが、でも言い方を変えれば「たとえ迷信でも、他にしがみつくものがあれば」と思って期待していた人も多いと思います。

1)イエスさまは見て、知ったら、必ず話しかけて来られる

話は6節のイエスさまから始まります。

6イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。

この一文ですね――伏せっているのを「見」、長いことなのを「知り」、そして彼に「言う」――三つの動詞です。
見たというのは、誰でも見るでしょう。ベテスダを通りかかった人であるならば、こういう病人が沢山いるとして、誰でも見ると思います。
しかし見ることを越えて、「知る」というのは、イエスさま自身、人から何も聞かずして、その人物のことを知ることができたとヨハネの福音書に書いてありますから(***4章のサマリヤの女?)、何も聞かなくてもこの人物の事情が分かったに違いない。
あるいは周囲の人々がこの人物のことをイエスさまに告げた、という可能性もあり得ないわけではないでしょう。
次に話しかけられます。
見て、知って、話しかける、ということを私たちはあまりしません。

岩波新書に「やさしさの精神病理」という精神科医の記した本があります。私(藤本牧師)は何かで触れたことがありますが。
「やさしさの精神病理」という言葉を見たらわかりますように、現代社会のやさしさ――それは架空のやさしさだと言います。
本当は「やさしさ」というのは、相手の気持ちを察して共感していかないと、やさしさということにはならない。

でも現代の日本の「やさしさ」というのは、相手の気持ちに立ち入らない。
共感するまでいかない、絶対立ち入らないことの方がむしろやさしいと私たちは考える。
だから、悩んでいる人、悲しんでいる人、辛そうな人がいれば、
「じっと見守る」という言葉を使いながら、なるべく触れない。なるべく立ち入らない。直接には触れない。

この「やさしい」関係を身近な者同士にも適用してしまいますと、非常に困った事態が生じると言うのですね。
それは何かを指摘すること自体が、相手に対してやさしくない。
「疲れているんじゃないの?」と言うこと自体が(笑)、もうすでにやさしくない。
よく考えるじゃないですか――そっと横に座る方が「疲れているんじゃないの?」と言うよりはいい。
あるいはさっとコーヒーの一つでも出す方が「お疲れですね」とこう言ってしまうよりはやさしい(笑)。
私(藤本牧師)は確かにそうだろうと思います。
でも難しい問題で悩んでいた時に、「どうしたの?」と言わずに、お茶ばっかり出していても(笑)お腹が水膨れするだけでございますよね。
でも私たちは「どうしたの?」と聞くと、その難しい問題がばぁ〜っとこっちに返ってくる。
だったら、お茶を出しといた方が楽だなぁ、という気持ちもないわけではないですね。
そちらの方がスマートだなぁと思えないわけでもないですね。

このお医者さんはこう仰います――プロの精神科医を尋ねる患者さんは、誰からも指摘してもらえない問題、あるいは誰にも相談できない悩みを何とか解決しようとしている。
誰からも指摘してもらえない問題――これは複雑ですね。
あなたにはこういう問題がある、とず〜っと聞かされて来る。
でもプロの目から見ると、あなたの問題は実際それではなく、全然違うことだということもあり得ますよね。
例えば「あなたの問題は親子の問題です。育て方の問題です」と周囲から皆言われて、でも実際に精神科医に行くと「いや、それが問題なんじゃないです。あなた自身が自分の人生をどう捉えようとしているか、実はそちらの方が問題なんです」と言われる場合もある。

でもどちらにしろ、プロの心理療法士、精神科医に人が足を運ぶとすると、そうした隠れた問題を言ってほしい、あるいは尋ねてほしい、聞いてほしいという思いで行く、そこに何らかの解決が生まれる、方向性ができると言うんですね。
でもそのお医者さんは、そうした解決を求めている人が、またおんなじ「やさしい」触れない、立ち入らない環境に戻って行きますと、その人はまた同じ状況に返ってしまうと。
これは私たち、ものすごく微妙で考えさせられます。
だからと言って、私たちはむやみやたらに、家族にいつも問題に触れるように手を伸ばしますと、そんなにうっとうしいことはないです。

で、その話は置いておいて、しかし、覚えておいてほしいことがあるんですが、それはイエスさまは、見て、知ったら必ず何か仰る。
見て知ったら、必ずある問題に触れて来られる。
私たちにしてみれば、放っておいてほしい、触れないでほしい、自分だけのことにしてほしい――こう思いますけれども、
しかしイエスさまは、明らかに話しかけて来られるお方なんだということを、先ず心に留めてください。

2番目に、ちょっと一旦6節の後半部分に目を留めてください。

2)彼に言われた。「よくなりたいか。」

(イエスさまは)不思議にこの一言、一言だけを発せられます。

5節に戻りますと、「三十八年もの間、病気にかかっている人がいた」ですから、
この三十八年という数字、実は聖書に三十八という数字が出て来るんですが、ちょっと旧約聖書の最初の方の申命記の2章を見ていただけません?
旧約聖書の申命記の2章14節です。
私(藤本牧師)が13を読みますので、皆さんで14を合わせて読んでください。

13今、立ってゼレデ川を渡れ。」そこで私たちはゼレデ川を渡った。
14カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は三十八年であった。それまでに、その世代の戦士たちはみな、宿営のうちから絶えてしまった。【主】が彼らについて誓われたとおりであった。

ここに出て来る三十八という数字は、三十八という数字の長さがよくわかりますね。
カデシュ・バルネアというのは、エジプトを出て紅海を渡ったイスラエルの人々が滞在したと言われるシナイ半島の南側(***カナンの地の南、シナイ半島の北東部では?)だと言われています。
その辺りを彼らは本来でしたら、40日でカナンに入れるところを、カデシュ・バルネアからエリコを越えて送られた斥候隊が、この約束の地の手強さを見て、尻込みをし、そして「神は私たちを荒野で滅ぼすために、エジプトから連れ出した」と不平をいうようになり、エジプトに帰りたいというようなことを誰もが口にするようになり、
神さまは人々の不信仰を見て、「あなたがたは入れない。荒野をさまようことになる」と仰いました。
そこから数えて、ゼレデ川、モアブの平原に流れる一本の川を渡るまで、三十八年かかった。
同じところをぐるぐるぐるぐる、三十八年廻っていた。

エジプトを出て、本来であれば、2か月で約束の地に入れるところに、神を信じることなく、不平ばかり言っていたイスラエルの人々は、約束の地を前にして、三十八年間荒野をさまよった。
その間、エジプトを出た世代の人々はみんな死んだ、というぐらい長いです。それはそれは長いんです。

もちろんそれはそれは良くなりたいのです。しかしこの長い間、この病を背負って、付き合ってきた彼の心は、もう「良くなりたい」とか、そういうレベルではないですよね。

私たち自身もそういう部分がありますよね。
それは変わりはしないという思い、そのままで来てしまっている問題というのは、私(藤本牧師)も沢山抱えています。
もしかしたら周囲は、やさしさのゆえに、そういう問題には触れないようにしてくれているのかもしれません。

彼は答えます。7節をちょっと見てください。ヨハネの福音書の5章7節に戻っていただいて――

7病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

彼は足が不自由でしたから、そして目が見えなかったかも知れませんね。
どういう病気か明確には解りませんが、心の中にあるのは、悔しさです。寂しさです。助けてくれる人がいないという孤独。そして三十八年間患って来たという不遇さ。
イエスさまは「よくなりたいのか」と(尋ね)、彼は「いや、助けてくれる人がいない」

また心理療法の世界の話で申し訳ないんですが、solution focused therapy というのがあります。
solutionというのは、解決。focusというのは焦点を合わせる。therapy というのは療法。
解決に焦点を合わせる療法ですね。
どうしたら治るかという問題を徹底して自分に尋ねて、自分で答えを探していくやり方です。

その一番最初に問うものが、「自分は何をしたいのだろう?」
つまり「自分は何をしてもらいたいのか」ではなく、「自分は本当に何をしたいのだろうか?」です。
「自分は何をしてもらいたいのか」という問いかけを考え始めると、私たちはどこまでも不満足な結果しか出て来ない。
つまりこういうことをしてもらえなかった。こういうことをしてくれる人がいない。自分はこういうことができない。
大切なのは、何をしてもらいたいかではなく、あなたは何をしたいのか?

イエスさまの質問を、イエスさまの問いかけを心理学的に考えるというのは、ちょっと難しいというか、してはならないと思いますし、話はこんがらがりますが、
この病人はしてもらえない。自分でも無理。
イエスさまは真実に彼の目を見て、「わたしを見なさい。あなたはよくなりたいのか?」と。

三十八年間良くなりたいと思っているんですけれども、よくなれるわけでもなく、希望もなく、そこに寝ているだけの、私たちですね。
イエスさまは私たちが自分を見るのでもなく、周囲を見るのでもなく、ご自身に目を向けさせるために仰った言葉は「良くなりたいか?」です。

私たちはそのsolution focused therapyとは違いますよね。
自分で何をしたいのか、何ができるのか――その問いかけをしてもきっと私たちにはできない。
じゃ何をしてもらいたいのかという問いかけを周囲に目を振って考えても、きっと失望がやって来るだけ。
でも主の目を見て、主が「何をしてほしいのか?」と言った時に、「いや、イエスさま、実は私はこれが願いなんです」と、その祈りをもって礼拝しに来る、この場所をベテスダと言うんです。

ベテスダ――この場所に来ると、イエスさまは必ず私たちをご覧になる。
そして私たちのその苦しい、辛い思いを知ってくださる。
そして必ずイエスさまは、何らかの声かけをしてくださる。
私たちのその問題に触れるような、一週間の問題に触れるような、いや、ずっと抱えている問題に触れるような言葉をイエスさまは与えてくださる。
それは、私たちがイエスさまに目を向けるためなんだ――自分でもない、周囲でもない、神にあなたは何を期待するのかと。

3)イエスさまはいきなり彼に仰います――「起きて床を取り上げて歩きなさい」

8節――「起きて床を取り上げて歩け」――こんなことを言えるのはイエスさましかいないですよね。
突然、そしてすごく唐突ですね。彼に命ずる。

「床」って何か?
「床」っていうのは、ベテスダの池に彼が住むようになって、彼が自分の身を寄せて来た小さな小さな床です。
助ける人がいなくても、その床が自分の空間、自分が生きるために彼がしがみついて来た場所、それが彼の支えだったに違いない。
私たちが人間的に、支えとしてしがみついているものをたたんで、取り上げるようにたたんで、そして歩きなさい。

本当に良くなりたいという望みも薄れてしまって、濁ってしまって、もう三十八年ですよ。
言い訳の中に埋もれて、しかしひたすら自分の小さな床の中にしがみついて生きている彼に、イエスさまは「床を取り上げて歩け」と(命じられた)。
強い言葉だったのか?やさしい言葉だったのか?
明らかに、仰ったトーンにはない。
この場面自体が、非常なやさしさに溢れていますよね?

あの収税所に一人座っていたマタイに、いきなり「わたしについて来なさい」とイエスさまは仰る。
そして先週はレンブラントの絵を見ていただきましたけれども、躊躇するマタイの耳元で天使がささやく。
「この方について行って間違いない」とささやくその聖霊の促しをもって、イエスさまの後について行く。
それから先、何度も何度も、「わたしについて来なさい」という言葉をマタイは聞くんです。

何度も聞いている姿というのは、ペテロに見ることができます。
ペテロは「わたしに従ってきなさい」という言葉を、イエスさまの地上生涯に何度も何度も聞く。
同じようにイエスさまが天に上げられてからも、彼は殉教の死を遂げるまでに、何度も何度も聞くんですね。

それと同じように、私たちも「ついて来なさい」という主の言葉、「良くなりたいか」という主の言葉、「床を取り上げて、歩きなさい」という主の言葉を、何度も何度も礼拝の度毎に聞く。
イエスさまはそういう出会いをしようと、この礼拝の場に来てくださるということをやはり心に留めるべきだろうと思います。

☆お祈り――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、やはり心に留めたいと思います。毎週そのような思いで、礼拝に来てないのかもしれません。しかしあなたは、私たちの愛する兄弟姉妹の讃美や、また祈りや司会者の姿勢や、みことばを通して私たちに教えてくださいます。
それは、あなたは私たちを見て、知って、語りかけてくださるお方で、私たちが諦めかけているような問題、私たちが行き悩む様々な課題、自分を見るのでもなく、周囲を見るのでもなく、わたしを見なさい、とやさしく招いてくださる主よ。それに応じるところの素直さ、あなたに対する信頼・信仰を私にもお与えください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2016.09.12 - 19:03
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