☆聖書箇所 マタイ9:1〜8
1イエスは船に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。 2すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。 3すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている」と言った。 4イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。 5『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。 6人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。 7すると、彼は起きて家に帰った。 8群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。
☆説教 やさしい出会い(3)子よ、安かれ
(会衆を見て)少し寒いと思いますが、一番前の二つを消していただければ、両脇を消していただければ(とエアコンの調整を勧める藤本牧師)
マルコの福音書の2章(***今日の箇所の並行箇所を挙げて言われる)を見ていただきました。 「子よ、安かれ。汝の罪、赦されたり」というのが、2節のイエスさまが中風の人にかけられた言葉です。 3回連続して、もう少し行きたいと思いますが、イエスさまとの優しい出会い、イエスさまとの非常に繊細で優しい出会い、それを福音書から見ていただきたいと思いますが、1節でイエスさまは――
1イエスは船に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。 2すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た……
カぺナウムという町ですね。 町にいらっしゃった、どこのお宅かは明確ではないですが、他の福音書を見ますと、イエスさまの家ではなかったですね。 多くの人々が集まって黒山の人だかりで、中に人は入ることができなかった。 その時に一人の中風の人が、四人の人に担がれてやって来るんですね。 マタイにもマルコにもルカの福音書にも出て来ますので、3つ読みますと大体全体像が見えてまいります。
中風というのは、ギリシャ語では「麻酔」という意味です。 ですから、身体が不随であった。もう少し言えば、寝たきりであったという状況で、その原因が何であったのかはわかりません。 身体がしびれたように、動かないという。
中風の人がイエスさまに出会った物語に特徴があるとすれば、先ずは、彼を連れて来た四人の友人の存在ですね。 友人がいなければ、この人はイエスさまのところに来ていません。救われてもいません。 私のようなクリスチャンホームの子どもであれば、親の信仰がなければ私の信仰はありませんし、 何かの案内を見て教会にいらっしゃったのであれば、その案内を届けた人の祈りがなければ教会にはいらっしゃってませんし、 友人や家族に誘われたのでなければ、その人なしにはイエスさまのもとに私たちは誰も来ていない。
さて、この物語から3つ、3点見ていただきたいと思いますが――
1)この出会いの物語で注目するのは、この四人の信仰ですね。
四人いた。黒山の人だかりを見て、四人の中の一人が言ったはずですね。 「これは無理だ。全然無理だ。この中に彼を連れて入るのは無理だ。またにしよう」と。 すると、もう一人が「おまえ、ここまでやって来てあきらめるのか。冗談じゃない。この機会を逃したらもうだめかもしれない」 「でもどうするんだ?」 すると、三番目が言いますね。「よし、屋根に上って、そこに穴を開けて、担架ごと彼を吊り降ろそう」と。 すると、四番目が言いますよね。「いくらなんでもそれはまずい(笑)。人の家だろう。その屋根をはがしてどうするんだ?」 という会話が自然と聞こえて来るというのは、四人だからですよね。 四人いれば当然そういう会話がありますし、人の家の屋根をはがして吊り降ろすというのは、四人の強さです。
つまり一人の信仰ではどうにもならなくても、四人だからできたということが沢山あります。 例えば家庭集会がそうです。 あるいはある人物が導かれる時に、洗礼を決断する時に、友人が皆それを勧めたということもそうでしょう。 そもそもこの人物が救われるかどうか、あるいはこの人物の所に福音を語りに行くかどうか、一人の信仰ではどうしようもなくても、四人だからできたということが私たちの回りには沢山あります。
つまり一人の信仰は小さくても四人であったから、信仰も大胆に動いた。 だから私たちは教会で互いに互いのために祈り合い、家庭では一人で祈るのでなくして、夫婦で祈り、家族で祈ることの大切さというのは、 一人の信仰は小さくても、皆で祈れば私たちは大胆に祈ることができるし、また行動することができるのですね。
2節を見てください。
2すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て……
とあります。 彼らの信仰を見て、この中風の人が恵みを受けることができた。 この四人の信仰のおかげで、この人もまたこの四人の信仰に押し出されるように、主にすがった、という感覚がわかりますね。
私たちは誰でも教会に来るということは、担架に担がれてやって来るようなものです。 私たちを連れて来た人も、その人一人の信仰でしたら、決して強くはなかったかもしれない。 しかし、その人を励ます友人、家族、あるいは教会の人々の陰の祈りに支えられて、その人は友だちをイエスさまの所に連れて来るんですね。
さて、ここからです。
2)2節の後半に、イエスさまが彼にかけた言葉――「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦されました」
一つ一つ、とても味わい深いです。 「子よ」と始まる呼びかけは聖書の中ではまれです。 何とも慈しみに富んだ、愛情溢れた呼びかけですね。 年齢は、もしかしたらこの人物の方が上だったのかもしれない。 しかし「子よ」とイエスさまが仰っている時に、それは明らかに「神の子どもよ」という意味です。 「神の子どもよ」というのは、あなたは神によって造られ、神によって愛されている子どもよ、と。
この記事はマルコ(***2:3〜12)にもルカ(***5:18〜26)にも出て来ますけれども、「しっかりしなさい」という言葉が入っているのはここ(マタイ)だけです。 文語訳では、「しっかりしなさい」ではなく「子よ、(心)安かれ」です。 他には新共同訳の「元気を出しなさい」という訳もあれば、英語の聖書には「勇敢でありなさい」という言葉もあります。 私(藤本牧師)は「子よ、安かれ」という言葉が好きです。 マタイはこの言葉が好きで何回か使っているんですね。
ちょっとせっかくですから見ていただきたいと思いますが、(マタイ)9章の22節を見てください。22節、一緒に読んでみたいと思います。
<マタイ9:22> 22イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。
というこの女性は12年間、出血の病に悩まされ、いろんな医者にかかりましたけれども、ますます悪くなっていった女性に対して、イエスさまは「しっかりしなさい。娘よ」――これも「子よ」と同じような表現ですね。
もう一回出て来ます。14章の27節、これも非常に興味深いので見ておきたいと思いますが、マタイの福音書の14章の27節です。 これも一緒に読んでみたいと思います。
<マタイ14:27> 27しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
状況は真夜中、湖の上で強風にあおられ、漕ぎあぐねている弟子たちの船に向かって、イエスさまは波の上を歩いて来られた。 弟子たちは幽霊だと思って怯えてしまいます。 その時にかけられた言葉が「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」マタイは、微妙にこの言葉を使っていますね。
私たちは「しっかりしなさい」と言うと、背中をバンと叩かれて「大丈夫、頑張れ、元気を出せ、しっかりしろ」という表現を思い浮かべるかもしれません。 でもイエスさまが仰っているのは、激励や励ましの言葉ではないですね。 「あなたは大丈夫です」と。「安心しなさい」ですね。
私(藤本牧師)は二週間前に胃カメラの話をしましたっけ(笑)?あれは三週間前だったかな? それで昨日、大腸に出て来た3つのポリープの検査結果を聞きに行きました。
最初の時点で一つの色が悪かったので、私は思わず先生に、 「これってどうなんでしょう。こういうのって、ステージのTぐらいにはなるんじゃないですか?」って、訊きましたら、先生が 「藤本さん、そんなことはね、二週間の検査結果を待たなければ何も言えないでしょう。そんなこと何にも考えないで普通に生活したらいいですよ」
それで、昨日ちょっとだけ胸がドキドキして行きましたら、 「大丈夫でした」と(笑)。三つとも良性ですと(言われました)。
「大丈夫でした」ってどういう意味だと思います? 「しっかりしなさい」とか、「元気を出しなさい」とか、「しゃんとしなさい」という意味じゃないですよね。 「安心しなさい」という意味ですよ。
イエスさまはいきなり病の真ん中で、屋根から吊り降ろされたこの男に、 そして12年間出血の病を負って、イエスさまに触り、そしてイエスさまは自分が誰かによって触られた、力が出て行ったことを感じながら周囲を見渡して、「誰がわたしを触ったのか?」と、イエスさまは仰ったんですね。 「娘よ。しっかりしなさい」とは、「娘よ、安心しなさい。あなたの信仰があなたを直したのです」
もちろん弟子たちは湖の上で怯えていて、幽霊だと思って、イエスさまは「わたしだ。しっかりしなさい」と仰いました。 しかしそれもまた、「頑張れ」とか「大丈夫だ」とか、そんな意味ではないですね。 「わたしは今あなたと共にいる」と(言っておられるのです)。
一番最初のケースで言えば、中風の人に―― 「わたしはあなたを招く。あなたは神の愛に包まれる。あなたは神の子どもだ。 あなたは病のゆえに、今までは神の礼拝から離れ、今までは教会堂に足を踏み入れることもなく、自分の病の絶望の中に沈むだけだ。 そんなあなたが、今、神の愛に包まれている。わたしが共にいます。大丈夫です。安心しなさい」 そういう招きの言葉が「子よ、しっかりしなさい」ですね。
そして仰ったのが罪の赦しでありました――「あなたの罪は赦された」 周りの人の度肝を抜く発言で、もちろん病を直してもらおうと思っていた男性に向かって、これを仰るのですから、周囲もこの男性も驚いたに違いない。 男性は一瞬考えたかもしれないですね――「自分は罪らしき罪を犯していない。自分はずっと不随で寝たきりだった。自分はむしろ被害者であって加害者になったことはない」 私たちは皆、この男性に自分自身を重ねますね。
「子よ、安かれ。汝の罪赦されたり」というのは、恐らくイエスさまの発せられた言葉の中で最も有名な言葉の一つです。 「神の子よ、安心しなさい」――罪赦されなければ、安心はできないです。 罪赦されなければ、神の御前に立てない――それが私たちです。 私たちはそういう自分を自覚していますから、神さまの御前には来ないです。 私たちはそういう自分を自覚していますから、自分と神さまとは関係ないと納得させます。
今から130年前、1886年にロバート・スティーヴンソンという人物が、「ジキル博士とハイド氏」という本を出版しました。 「ジキルとハイド」――私たちはよく知っています。 多重人格症の話ではありません。人間一人の中に住む二面性を言い当てた話ですね。 人は誰でも陰湿な悪魔的な局面を持っている、ということを小説の中で描いてみせました。 言うなれば、ジキル博士が教会堂を建て、ハイド氏が爆弾を落とします――同じ人間の手ですね。 ジキル博士が慈善のために奉げ物をし、ハイド氏が家庭を踏みにじります――同じ人間の話です。 ジキル博士が人権運動に燃え、デモ行進をし、ハイド氏が歓楽街へと繰り出して行きます――同じ人間の話です。
このハイド氏が、私の心に住んでいる。その私の心のある一角は限りなく暗く、その暗さから自分自身を救い出すことはできない、ということを私たちはどこかで知るものです。 世界が黒雲に覆われるように、私の心も覆われて行く。 世界にジキル的な人とハイド的な人がいる、という話ではなく、私の心の中にこの両人がいるんですね。
ソビエトのノーベル賞作家、アレキサンドル・ソルジェニーツィン(***1918〜2008)に『収容所群島』(1958〜1968に書き上げた)という分厚い小説がありますが、その中に次のような一節があります。
「善と悪を隔てる線を引くとすれば、それはある国家とある国家の間にあるのではない。それは資本家と労働者の間に引けるものでもない。それはある政党とある政党の間に引けるものでもない。 善と悪を隔てる線は私たち個人の内側に引けるものである。 その線をまたいで、絶えず、あらゆる善と悪の抗争が私たち一人ひとりの心の中にある。」
彼は――共産主義革命がものの見事に裏切られ――スターリンの思想統制のもとで収容所に入れられ、そこで小説を書き、収容所からノーベル賞を受けたキリスト教文学者です。 彼が見つめていたのは、スターリン・独裁者という政治のシステムでもなければ、何とか主義の闘争でもなく、 彼が見つめていたのは人の心、自分の心――神には到底近づくことができない程、冷たくゆがんだ自分の心でありました。
イエス・キリストは「子よ、神の子よ。安心しなさい。あなたの罪は赦された」と突然仰ったんですね。 「わたしがいる。あなたを憐れんで、恵みをもって包む」――その何とも優しい響きに彼がどう応えたのか、想像もつかない程、彼は一気にイエスさまの恵みに惹き込まれて行きました。
三番目、これで最後です。
3)この話の中で、どちらが易しいか?という論争が出て来ます。
座っていた律法学者たちはこんなことを言いました。3節、見てください。
3すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている」と言った。
「神を汚している」――それは当然ですね。 それは旧約聖書に出て来るいかなる預言者であっても、人の罪を赦している人物は一人もいません。 預言者はその人の罪が赦されるように、神に代わって祈ることはしています。 でもどんな預言者であっても、人の罪を赦すことはできない。 神だけが罪を赦すことができる。 ですから神に代わってそのような赦しを宣言するなら、神を汚している、冒涜していることになります。
マルコの福音書のこの記事を見ますと(***マルコ2:7)、宗教家の心の思いが一歩進んで描かれています。 「この人は罪を犯している。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」と書いてあります。 まさにその通りですね。 で、イエスさまは(マタイ9章)5節でこんな質問をされました。
5『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
どちらが簡単か?さて、どちらが簡単でどちらが難しいんでしょうか? 状況から言えば、「起きて、寝床をたたんで歩け」という方がはるかに難しい。 「罪が赦されました」と言うことよりもはるかに難しいです。
「罪が赦されました」と言っても、言うだけなら誰でも言える。 言ったところで、それを証明する何らかの変化は確認できないわけですから、「あなたの罪は赦されました」と言いっ放しで終わると考えれば、そう言うことの方がはるかに簡単です。
ところが「起きて、寝床をたたんで歩け」というのは、大変な勇気が要ります。 私(藤本牧師)には絶対そんなことは言えないですね。 なぜならそう言った瞬間に、何らかの肉体的な変化が目の前で現れて、実際にその人物が歩かない限り、イエスさまの面目は丸つぶれです。
ですからイエスさまは、自分の罪を赦す権威を知らせるために、あえて6節に 中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と仰った。
7すると、彼は起きて家に帰った。 8群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。
「起きて、寝床をたたんで歩け」と言う方が難しい。
しかしもっと深く考えてみると、発想は逆転しますね。 御子イエス・キリストにとって――神の側から見ましたならば――どちらが本当のところ難しいのか、易しいのか? やがて福音書にはこんな奇跡どころではない、奇跡の連続です。
▼主イエスはガリラヤの湖の嵐を静めます。荒れ狂う波を静めて、波を叱り飛ばします。(***マタイ8:18,23〜27、マルコ4:35〜41、ルカ8:22〜25)
▼死んでいたヤイロの娘を生き返らせておられます。(***マタイ9:18〜19,23〜26、マルコ5:22〜24,35〜43、ルカ8:41〜42,49〜56)
▼「神にはできないことは何一つない」というみことば通り(***ルカ1:37、18:27、マタイ19:26、マルコ10:27、エレミヤ32:17、創世記18:14、ヨブ42:2)、
この中風の人を癒す、癒さないというのは、実に易しいとか、難しいとかそういうレベルではなかったことが、福音書を読んでいくとわかります。 イエスさまにとって、中風の人を癒すのが易しいのか、ガリラヤの湖を静めるのが易しいのか、死んだ人を生き返らせるのが易しいのか、それは易しい・難しいという問題ではなく、一様にイエスさまはお出来になったんですね。
しかし聖なる神が罪人である私たちを赦すということは、少なくとも簡単ではなかった、ということを聖書は伝えています。 聖なる神が、罪に染まった私を抱きかかえて愛をもって包む、ということには、神の側で一つの苦闘を伴っていた、ということがわかります。 聖なる神さまが、罪に染み込んでしまった私たちを諦めることができなかった、という苦悩がホセア書(***11:8)に書いてあります。 「ああ、あなたがたをあきらめることができたならば、どんなに簡単だったことか」と。
イエスさまは私たちをあきらめることができずに、捜して捜して、追いかけて追いかけて、罪に染まった私たちを抱きかかえて、天の御国へ連れて行ってくださいます。 それは神さまの側にとって、簡単なことではありませんでした。 イエスさまは「あなたの罪は赦されました」ということを、口だけで言うことをせず、 この世界にお生まれになり、馬小屋の飼い葉おけに寝かせられ、人としての弱さも苦労も悲しみも味わい、罪の洗いきよめの洗礼を私たちと同じように受けられ、荒野で誘惑を体験され、 やがて辱めと苦痛の十字架を、私たちに代わって、私たちの罪の処罰に代わってお受けになりました。
ですから、この方だけが、「あなたの罪は赦されました」と言うことができる。 イエスさまだけが、私たちの罪を背負って、それを十字架にかけてくださったからです。 「子よ、安かれ。汝の罪赦されたり」と仰るこの一言のために、主イエスはあれほどの恥と苦痛の十字架を背負われた、と考えますと、この言葉が何とも言えない優しさに溢れていた、ということがよくわかります。
私たちが教会に来る時に、その心の状況はその日その日に様々です。 しんどいと思うこともあります。 色々なことがわからずに不安だなと思うこともあれば、つまらないと思うこともあるに違いない。 でもイエスさまは私たち一人ひとりに声をかけてくださいます――「あなたは神の子なんだよ」と。 ザーカイは言われました――「あなたもアブラハムの子なのだから」と。「あなたも神の子なのだから」 そしてどんなに神のもとから離れている私たちに対しても、イエスさまは繰り返し繰り返し私たちを追いかけて来てくださる。 「安心しなさい、様々なこと。わたしがあなたと共にいるから安心しなさい。 そして、神の愛に生かされている自分というものに、も〜う少し気がつきなさい。 そしても〜う少しわたしに寄り添いなさい。も〜う少しわたしを信頼しなさい。わたしに祈りなさい」と主は私たちを包んでくださいます。
☆お祈り
「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。 (マタイ9:2)
恵み深い天の父なる神さま、今朝初めて来た私たち、あるいは久しぶりに来た私たち、問題課題を背負っている私たち、多くの喜びを抱いている私たちに、どうか声をかけてください。あなたが中風の男に直接声をかけられたように、「子よ、安かれ。汝の罪赦されたり」と。
私たちは神の子どもであり、なかなか神の子どもらしく生きることができなくても、依然として神の子どもであり、いつでも私たちがあなたの御前に立つならば、あなたは両手を広げて私たちを歓迎してくださり、迎えてくださる。
そして「さぁ共にその問題に立ち向かっていこう」と、私たちの手を取って、私たちに勇気を与えてくださるあなたを意識することができるように、主よ、どうか御霊の力によって、私たちの心に触れてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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