☆聖書箇所 マタイ15:21〜28
21それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。 22すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」 23しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った。 24しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。 25しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。 26すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。 27しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」 28そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。
☆説教 聖餐式:やさしい出会い(4)主よ、そのとおりです
マタイの福音書15章を読んでいただきました。この聖書の箇所からお話ししますので、マタイの福音書15章の21節から目を留めていただきたいと思います。
アブラハムの生涯からの学びを終えまして、イサクに行く前に少しイエスさまと出会っている人々の姿を見ようと思っています。 私たちに多分に重なる部分がありますが、振り返ってみますと、神さまとの出会いというのは通りがかりのように偶然ですね。 そして優しい神の招きに溢れています。
私たちも神さまとの出会いを求めますが、しかし神さまは優しく私たちを招いてくださるお方であり、不思議と私たちの信仰を引き出すように、神さまは私たちに声をかけ、私たちの応答を待っておられる。 今日は四回目で――イエス・キリストとの優しい出会い――今朝は聖餐式がありますので、少しそのことを含めて考えていただきたいと思います。
物語の背景を先にご覧いただきますと、21節――
21それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。
「ツロとシドンの地方に」行かれたという言葉が、やっぱり一番鍵になります。 ツロとシドンというのは、イスラエルの北に位置するフェニキアのギリシャの土地です。一言で言えば、ユダヤ教の圏外ですね。
そこは、旧約聖書においては偶像崇拝で有名な異教の町であった、と理解してください。 かつて北のイスラエルの王さまアハブが、イゼベルというお嫁さんをこのフェニキアから迎えます(***T列王16:31)。 アハブはこのイゼベルに手玉に取られてしまうわけですけれども、 イゼベルはイスラエルにやって来る時に、ま、嫁入り道具として千人にも及ぶバアルとアシェラの預言者を連れて来た(***同18:19)。 これで一気に北のイスラエルは異教社会になって行きます。
そういう意味では、私たちにはちょっと感覚は解りませんけれども、ユダヤの人々にとっては、このフェニキアは汚れた地域でありました。 この地方にイエスさまが行きますと、22節を見てください。
22すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
汚れた地に行き、そして娘さんが悪霊・汚れた霊に取りつかれている女性に出会う――ユダヤ教の視点から言えば、道理でと言いますか――汚れた地に住む子どもが汚れた霊に取りつかれている、そしてお母さんはイエスさまのところにやって来ました。
私たち日本人にとりまして、こういうユダヤの感覚はありません。 つまりユダヤ人、異邦人という区別は私たち日本人にとっては、ないものです。 私たちは、言うなれば、すべて異邦人でありますから。
しかし、ある意味、私たちは皆ここに出て来る女性のように、イエスさまとはそもそも関係がなく、別に宗教的でもなく、どちらかと言えば聖人君子でもなく、そして汚れた存在であり、神に背を向けて歩いていると考えれば、まさにここに出て来る女性は私たちそのものですね。 そして22節で、「私をあわれんでください。娘が、死にそうなのです」という、何とも言えない問題課題を私たちは抱えて、神さまのところに来る、という意味でも同じですね。
さて、今日はこの箇所から3つのポイントで見ていただきたいと思いますが、先ず第一番目に――
1)全く答えないイエスさまです
これは非常に珍しいですね、福音書の中で。 この女性とイエスさまの出会いの中で、一番特徴的なものは何か?と言われれば、23節見てください。
23しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。……
これは珍しいです。 恐らくイエスさまの態度に困惑したのは、この記事を読んでいる私たちだけではなく、弟子たちもそうだったと思いますね。 23節で、弟子たちはイエスさまのところに来てこう言います。
23……「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った。
読みようによっては、「イエスさま、早くこの女の願いを聞いてやってください。そうすれば、すぐにこの女は帰って行きますから」という風にも読めますね。
それだけでは終わりませんでした。イエスさまは弟子たちの願いに対して、24節――
24しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。
冷たく言い放ちます――「外国人であるこの人のところに、わたしは来たわけではない」 こういう発言というのは、今も昔も明確な差別に相当すると言ってもいいと思いますね。
ところが、この母親である女性はひるまないんですね。25節――
25しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。
この「ひれ伏す」という言葉は、マタイの福音書ではこれまでで一度出て来ます。 それはクリスマスの記事に出て来ます――東方の博士が幼子イエスを訪ねて、彼らはひれ伏して宝の箱をイエスさまに捧げる、という場面の「ひれ伏す」という言葉です。 つまり、このギリシャの女は心を込めて礼拝を捧げているかのように、地面にひれ伏してイエスさまに願いますね。
ところが、しかし、最後のとどめを刺すかのように、さらにショッキングな言葉をイエスさまは仰います。26節――
26すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。
弟子たちにしてみてもその耳を疑うような言葉が、イエスさまから発せられたと思いますね。 日本でも誰かのことを、「あいつは犬のような奴だ」と、犬はもう可愛い可愛いペットです。 でも私たちが子どもの頃っていうのは、犬はそんなに可愛い存在ではなかったかも知れない。特に野良犬が沢山いましたからねぇ。 「あいつは犬のような奴だ」――でもそれは、中東にとりまして、パレスチナにとりましては、はるかに軽蔑したものの言い方ですね。
@イエスさまは一言もお答えにならなかった――まず一つですね。 A更に「わたしはユダヤの人々に遣わされたのであって、異邦人には関わりたくない」というのが二番目ですよね。 Bそして三番目に「神の恵みは子どもたちのためにあるのであって、それをあえて子犬に投げてやるのはよくない」という、この突き放すような言葉。
母親の純粋な願いに対して、ひれ伏して願う思いに対して、これほど冷たい態度を取られるイエス・キリストは、福音書の中でここだけですね。 とっても意味があると思います。
2)この女は私たちだということを、もう1回受け留めていただきたいと思うんです。
この主イエスのお姿は、私たちには不可解に思えますが、 ――つまり、イエスさまは苦しみを抱いて、救いを求めて来た人に対して、その願いを拒んだり、無視したり、そんなことはなさらないという前提を私たちは持っていますね―― それなのにどうしてここでは、こんなに冷たい態度を取られるんだろうかと思いますが、でもそう考えた瞬間に、この女性と私たちはぴったりと重なります。
それは、私たちも様々な悩みや苦しみを抱えて、主イエスのもとに来て救いを求めます。 「主よ。あわれんでください」と私たち一人ひとりの言葉を発します。 けれども、そういう私たちの求めや願いに対して、すぐに答えが返って来るわけではない、という現実を私たちはよく知っています。 願っても祈っても、神さまからは、イエスさまからは何の答えもないということを、私たちはしばしば体験するからです。 これだけ願っているのに、子どもに与えるはずのパンをあなたにやるわけにはいかない、と言わんばかりに、私には主の恵みが与えられないということもないわけではないです。 この女性と私たちは、様々な意味で重なります。 この出会いに、私たちなりに意味を感じます。
そして3番目、ここが重要ですから、ここをじっくり見ていただきたいと思いますが、27節、ご一緒に読んでみようではありませんか。
3)この時、この女性が何と言ったか、です。
27そのとき、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
「主よ。そのとおりです。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」――イエスさまは、そう言った女性に対して28節、こう言いますね。
28その時、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。……
で、もともとのギリシャ語ですと、文字通り、「あなたの信仰は大きい」です。 大きな信仰――では、どんな信仰が大きいのか? どんな信仰をイエスさまは大きな信仰だと感激されたのか?ということを今日は考えて、そして聖餐式にあずかりたいと思います。
それは先ず「遜った」信仰です。 その「遜った」という思いが27節の「主よ。そのとおりです」という言葉に入っています。 これを今日の説教題にしました――主よ、そのとおりです。
私たちは自分のことを改めて考えてみますと、何となくこういう感じですね。 先ほどの詩篇(***交読145:8〜21)に見ましたように、 「主は御手を広げて、私たちを迎えてくださる。すべてのものにあわれみ深くあってくださる」となれば、 神さまは困っている人を助けて当然だ、という思いがどこかにあります。 ――人が一生懸命頼んだならば、イエスさまはそういうことを聞いてくださって当然だ、私がこんなに懸命にお願いして祈っているんだから、私がひれ伏して祈っているんだから、神さまは聞いてくれて当然だ―― どこかで、「救いを与えるということが神さまの義務」であるかのように、私たちは思っています。
ですからちょっと求めて得られないと、すぐに私たちは失望します。あるいは苛立つ人もいますね。 ――こんな苦しみを解ってもらえない神さまってどういう神さまだ?聖書の中に、「神は倒れている者をすべて起こす」(***詩篇145:14)と書いてあるのに、私は一向に起こしてもらえない―― 諦めるというよりも、神が救ってくれないことに失望してしまいます。 ――私がこんなにお祈りしているんだから、願いを聞いてくれるのは当然だ。こんなに困っているんだから、助けてもらって当然だ。こんなに頭を下げているんだから、願いが叶えられて当然だ―― という思いで、私たちは神さまのところに来ます。
それが私たちだとしたら、なんとこの女性は素直に遜って言えたことでしょう――「主よ。そのとおりです」(マタイ15:27)と。
聖書の中に、使徒の働き(***3:1〜6)に、弟子たち二人(ペテロとヨハネ)が神殿に上って行った時に、そこにいる物乞いの人が物欲しそうな眼で彼ら二人を見るんですね。 そうすると、彼ら二人は「金銀は我に無し、(***然れど我に有るものを汝に與ふ、を口語にして)しかし、我が持てるものをあなたに与えよう」と言って、神の救いを彼に届けるんですね。 「金銀は我に無し。しかし私の持っているものを、あなたにあげよう」 「金銀は我に無し」って言えます?なかなか言えないですね(笑)。
私(藤本牧師)はある時、スポーツクラブに入ろうと思って行きまして、アンケート用紙がありまして、そこに職業は?と書く欄があるんですね。 こんなもの書かなきゃいけないの?しかも年収は?とか書いてあって(大笑)。 スポーツクラブに入るのに職業と年収を書かなきゃいけないのか?って、 係りの人を呼んで、「すみません、これクレジットカード会社の何かのあれで、どうしても必要なんです」って、(言われた)。 私はそこに「資産家」と書きました(大笑)。年収2千万とか書いて(大笑)、 どうせ調べる訳じゃないし、いっくらでも書けますものね。 「大金持ち」って書いたっていいわけですけれども(大笑)。それに職業・大金持ち。 「金銀は我に無し」って、そう簡単に言えないですよ。
それだけじゃないですよね? 人の質問で「これって知ってますよね?」って言われる。英語ですと“Don’t you know~?”ですよね? そういうものの言い方って言うのは、知らない方がおかしいでしょう、という前提で「これ、知ってますよね?」って言われた時に、堂々と「知りません、そんなことは」(笑)なんて言えないですよね? 大体話を合わせちゃうんですよ(***と右手で押さえる仕草)。話を合わせている内に段々話が合わなくなって(***左手がどんどん高く離れて行く仕草に、ご自身も一同も大笑)知っていないということがばれちゃうわけですけれども。
私たちは、「あなたは子犬のような者だ」と言った時に、「はい、そのとおりです」なんてのは、多分言えないです。 どこか心の中にプライドが残っていて、ま、色々困っていることがあるにしろ、自分が握っているプライドがあって、自分の本当の姿を認めることはできないですね。 「金銀は我に無し」とも言えないですし、「自分には教育がない」とも言えませんし、「自分には常識がない」とも言えませんし、「自分の性格は問題あり」とも言えませんし、どこかで自分のまともな部分に私たちはしっかりとしがみついて、そして神さまの御前で正当化しようとするんです。 「いえ、神さま、私は子犬ではないです」と。
私たちも認めます、祈りの中で―― 「私たちはあなたの御前に立つにはふさわしくない者です。私たちは罪深くあり、決してあなたの恵みに沿う者ではありません」 と、祈りの中では平気で言いますが、 でも本当にそう思っているんだろうか?と問われますと、いや実は、本当は自分は神の救いにふさわしくないなどとは、少しも思っていないのではないか?と考えさせられることが多々あります。
イエスさまは、この女の遜った姿勢を、自分の本当の姿を受け留める姿を、「大きな信仰」と呼びました。 「大きな信仰」――救いは、私たちの資格でもなければ権利でもない。 「私たちは子犬のような存在で、恵みを受けるのにふさわしくない者です」(と認める姿は)――これは大きな信仰ですよ。 そしてその大きな信仰はその遜った姿勢に止まらない。 そこから不思議な明るさと力強さというものが、落ち着きをもって生まれて来る。 それがこの女性の言った――「いえいえ、確かに子犬ですが、子犬でも、主人の食卓から落ちるパンくずをいただくではありませんか?神さま、どうか、パンくずでいいですから、私に恵みのおこぼれをください。おこぼれにあずかりたい」(マタイ15:27)―― まさにこれが神の救いに対する、大きな信仰でした。 神の救いは、神の助けは、権利としてではなく、恵みとして与えられるということを、彼女は知っていました。 主イエスの、神さまの、深〜い憐れみ、恵みをこの女性は知っていました。 「私はふさわしくない者です。しかし、子犬のような私、ふさわしくない私かもしれません。その通りの私です。でも子犬が主人の食卓から落ちるパンくずぐらいにはあずかることができるように、どうか私にパンくずをください」
(今日の聖餐の食卓を右手で指して)パン、ですが、そんなにくずではないです(笑)。 昨日ちゃんと買って来たパンですが(大笑)、(一口大よりも)小さなパンです。小さなパンです。 でもその小さなパンに、イエス・キリストの十字架の恵みのすべてが込められている。 そして「私は到底それにあずかるにふさわしくない者ですけれども、それにあずからせてください。そしてそれによって私を養い、私を助け、私を導き私を守ってください」――それが大きな信仰ですね。
「しかし」という言葉がいっぱい出て来ます。 23節の「しかし」。24節も「しかし」です。25節も「しかし」です。27節も「しかし」ですね。4回出て来ますでしょう。 これは全部、沈黙の神さまに対して「しかし」「しかし」「しかし」と食らいつく「しかし」ですね(アーメン)。 私たちは、まさにその通り、「しかし」の連続です――願って叶えられないこともあれば、期待に反する答えをいただく場合もあるし、 しかし何度でもこの「しかし」を神さまに発して、私たちはこの信仰を育てていただきます(アーメン)。 「そのとおりです。主よ、そのとおりです」と真実な姿を受け留めながら、主のあわれみにしがみついていく。
先日ギデオンの聖日の時に、I兄が証しをしてくださいました。 私(藤本牧師)は彼の祈り、彼が書いた祈りがあるんですが、まさにそういう信仰の人物だなぁと、以前から礼拝にお迎えしたいと思っておりました。 彼の祈りを以前礼拝で、私(藤本牧師)は紹介したことがあるんですが、もう一回それをご紹介して、その祈りを私たちに重ねてみたいと思います。
Iさんは、今は再婚をしておられますけれども、15年ぐらい前に奥さまを悪性リンパ腫で失いました。 その時の状況を少し書いているんですが、放射線治療のかいなく、腫瘍が頭全体にものすごい勢いで広がって行って、そして奥さまが突然昏睡状態になってしまうんですね。 その時のIさんの祈りはこうなんですね(と言って、読み始める藤本牧師)。
「主よ、あなたは何もかもご存じのはずです。M子がこれまであなたを信じて、大きな罪を犯さず、だれが見ても誠実に生きて来たことを。才能に溢れ、まだ40になったばかりの女盛りで、この地上でやり残していることが沢山あることを。私がM子や子どもたちを愛していること、少し偉そうに振る舞って裁判の仕事をすること以外、さしてとりえのない平凡な男であることを。私が一緒でなければ生きて行けない弱い弱い者であること。私たち家族があなたに依り頼んで生きようとして来たこと。12歳、9歳、5歳の三人の男の子たちがまだまだ母親を必要としていること。あなたはすべてご存じです。」
私は心の奥底から祈りました。一緒に涙が込み上げて止まりませんでした。祈りと涙が一緒になって、祈りの涙となりました。彼女の身体を抱き、頬を摺り寄せ、祈り、そして「良くなって必ず一緒に家に帰ろう」と、昏睡状態の妻に涙しました。(――ここまで)
奥さまは、さらに容態が悪くなるんですね。さらに悪くなるんですよ。その時にご主人の祈りは変わります。 で、ここからが、今日の「主よ、そのとおりです」という信仰の祈りですね。
「私たちは罪を犯しました。あなたに従うかのように振る舞いながらも、実のところはあなたに背いて生きて来ました。どうか罪深い私たちを憐れんでください。 そしてどうか私たちからM子を取り去らないでください。あなたが必要とされるなら、M子の肉体とたましいをあなたにお委ねいたします。その後で、どうか憐れみによって私たちに戻してください。」
なんと次の朝、奥さまは目を覚ますんですね。 そして涙の祈りによって息を吹き返し、ご主人は目を覚ました奥さまの姿を見て復活だと喜び、そしてさらに8カ月奇跡的に生かされ、多くの人に証しをし、多くの人の祈りに支えられ、家族一つとなって8カ月を過ごし、天に召されて行くのですね。
「私たちは真実に生きて来ました。ですからどうか助けてください」という祈りから、誰からも教えられることなく、彼の心はある時ふっと変わる。 「私たちは罪を犯しました。あなたに従うかのように振る舞いながらも、実のところはあなたに背いて生きて来ました。どうか罪深い私たちを憐れんでください。 そしてどうか、M子の肉体とたましいをあなたにお委ねいたしますから、もう一度、もう一度憐れみによって、私たちに戻してください。」
私たちは今日聖餐の恵みにあずかります。同じ祈りによって、聖餐の恵みにあずかります。 「主よ。その通りです。私たちは決してこの聖餐にふさわしい者ではありません。でもあなたの限りない憐れみにすがります。子犬でさえ主人の食卓から落ちるパンをいただくではありませんか。どうか、私のような者にもその恵みにあずからせてください」と。
☆お祈り――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、「イエスは彼女に一言もお答えにならなかった」(マタイ15:23)――主との出会いの中で、そういう時もあるに違いありません。ひれ伏して願いながらも、その願いが無視されるかのように、私は何の助けも得られなかった、と感じることもあるに違いありません。しかしそんな時に、「私はあなたの恵みを受けるのに、本当にふさわしくない者だ。主よ、その通りです」と、自らの足りなさ、自らの貧しさ、その信仰の乏しさをきちんと受け留める、素直に受け留める、遜った思いを与えてください。
しかし、「そんな私たちでさえ、主人の食卓から落ちるパンくずを食べることができるんだ。恵みのかけらでいいから、神さま、どうか私に与えてください」という信仰を、決して忘れることがないように私たちを助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
☆聖餐式 ――以降は聖日説教にアップされています。大変味わい深いものですので、どうぞ 教会家族の方は、続けて説教の前後もご覧いただけると感謝です。T・Y
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