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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   10/16 やさしい出会い(5)不信仰な私を助けてください マルコ9:14〜29
☆聖書箇所      マルコ9:14〜29

  14さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。
15そしてすぐ、群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをした。
16イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか」と聞かれた。
17すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生、口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。
18その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それでお弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした。」
19イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
20そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。
21イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。
22この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
23するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
24するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
25イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」
26するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった」と言った。
27しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。
28イエスが家に入られると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」
29すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」

☆説教    やさしい出会い(5)不信仰な私を助けてください

今朝はマルコの福音書の9章を開いてくださいました。
9章に関しては私(藤本牧師)は何度か説教をしておりますので、ちょっと復習的に、あ、なるほどな、と思っていただきたいと思うのですが。

9章の2節を見ていただきますと、こういう風に始まります。

<マルコ9:2〜3>
 2それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして(***ここで、と強調して)彼らの目の前で御姿が変わった。
3その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。

ま、一般に【変貌山の出来事】という風に呼びますが、
9節をご覧いただきますと――

<マルコ9:9、12>
9さて、山を降りながら、……

山を降りて行きます。ここで出て来るのは、十字架の話です。
12節で、イエスは弟子たちにこう言いますね。

12……「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。では人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。

これが【山を降りる途中】の会話でありました。
そして14節に――

<マルコ9:14>
14さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、……

これが【山の下】の世界です。
つまり、マルコの福音書9章というのは、一章全体の構成が【山の上】と【山の下】という構成ですね。

昔、高津教会でよくハイキングに行った時期がありました。
一回、青年会でハイキングに行った時に、当時よく山に登っておられたW兄に、「初心者でも登れるような、ハイキングコースを教えてください」とW兄に教えてもらったら、これがもう鎖はあるわ、崖はあるわ(大笑)で、これが初心者かと、あ、やっぱり専門家にこういう質問してはいけない(大笑)と。

一度休日の日に高尾山だか、あの辺の厚木の大山の辺りを登ったんですね。
で、ものすごい行列で、でもすごい気持ちいい自然の中を登りまして、そしてもう降りたら大変ですね。
帰りの電車がもうラッシュどころではない(大笑)。ぎゅうぎゅう詰めの電車で、そのすがすがしい山から帰って来るんですよ。
ああ、山登りって大変だなぁって思いました。
知ってる方は、もう少し早めに登って、早めに帰って来るんですよね?
何にもわからない私たちは、遅い目に登って、ものすごいラッシュの中に帰って来るんです。

私たちは割と都会に住んでおりますので、ま、海に行ったり、山に行ったり、田舎に行ったり楽しんだり、そしてその世界のすばらしさを味わって、そして着くのが羽田空港に着きますと、どよ〜んとこの忙しい世界に戻って来るという体験をいたしますでしょう?
この世界というのは、すべてが【山の上】と【山の下】、私たちの人生も【山の上】と【山の下】があるということの象徴であるかのように、マルコの福音書の9章は記されています。

山の上でイエスさまは、三人が見ている前で姿が変わり、その御衣が非常に白く光り輝きました。
この山の上で、モーセとエリヤが現れて(***4節)、雲が沸き起こって、神の声を聞きました(***7節)。
それはとっても霊的に祝福された世界でありました。
山の上というのは、イエスさまにとっても弟子たちにとっても、すばらしい霊的な世界で、
しかし山から下る途中、イエスさまは自分の十字架を意識せざるを得ないですね。
姿を変えていただいたイエスさまは――山の下で十字架が待っている――これが現実、紛れもない現実の世界が目の前に広がっていました。

で、聖書の中には、父親が息子の病と闘っていたという話が出てまいります。
14節から見てまいります。

  14さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。
15そしてすぐ、群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをした。
16イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか」と聞かれた。
17すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。
18その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それでお弟子たちに、霊を追い出すように願ったのですが、できませんでした。」

息子は悪霊にとりつかれているんですね。
でもこの症状は別に悪霊にとりつかれていなくてもこういう症状になるんですが、いのちに関わる――18節「所かまわず彼を押し倒す」と。
「所かまわず」というのは、電車の中で、歩いていても、交差点の途中でも、押し倒されて痙攣(けいれん)が始まる。
それを見ている親は大変。回りの者は驚く。22節にお父さんはこう言いますでしょう。

22この霊は、彼を滅ぼそうとして(***滅ぼすばかりの勢いですね、と説明)、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」

という、こういう問題というのは、別に息子だけの問題ではない。親の問題であり、家族の問題であり、私たちの問題なんですね。

私たちの愛するS姉は、今は千葉の教会に転会されています。
もう5年ぐらい前に転会され、千葉に引っ越されたのは、20年位前ですね。
ご主人・S兄が天に召されたことをきっかけに、葬儀をしてくださいました同盟キリスト教団の印西市の教会に転会されました。
S兄のご葬儀には、私たち夫婦のほかにYM姉が遠くからいらっしゃいました。
Y姉の家庭集会に、よくS姉がいらっしゃっていたからですね。
お嬢さんのMさんがその後リハビリを重ねて、今は幸せな結婚をしていらっしゃる。
そのMさんにお会いして、私たちはほんとにほっといたしました。

Mさんが原因不明の全身痙攣と硬直に襲われた、その20数年前の出来事の時を私たちは忘れたことはないですね。
お知らせをいただいて、千葉の病院にすぐに行きました。すぐに行きました。
個室でございまして、入ったとたんに、あまりにも沢山の管に包まれて、いろんな機械が動いていましたので、私たち夫婦は入ることを止めました。
そして外に出て、圭子(夫人)ともう一回お祈りしようと、もう一回お祈りしようと思って、心を落ち着けて、病室に入ったのを覚えています。

症状は3分に一度ぐらい痙攣がやって来るんですね。3分に一度位、15秒ぐらい痙攣が始まるんですけれども、それはものすごい痙攣です。
私たちは抑えるように祈りました。お母さんも抑えるように祈ってくださいました。

で、私たちは終わってから一旦病室を出て、お母さんに尋ねました。
「あんなに24時間痙攣していたら、脳のダメージはすごいと思いますから、お医者さんにお願いして全身麻酔を打って、痙攣を止めてもらった方がいいんじゃないんですか」と。
そしたら、お母さんは仰いました。「いえいえ。あれで全身麻酔なんです」
「全身麻酔を打っても、けいれんは止まらないんですね」と。
姉妹はゴーグルをしておられました。痙攣で目が開いたままですと、目が閉じれない、そして目が乾いてしまうんですね。
ですからゴーグルをしていて、その24時間痙攣状態を数か月ですね。
脳はその不可逆的なダメージを受けてしまいました。

そこから姉妹は、約20年かけてリハビリをし、そしてちょっとしたコンピューターの仕事もし、結婚して幸せな顔をして、ニコニコ話しておられるのを見て、「ああ、神さまは守ってくださったなぁ」と思いますよ。

あの時、教会の皆さんで毎週毎週お祈りしました。
Mさんの回復のためだけではなく、ご両親のために祈り、そしてご家族のために祈り、ああ、なるほど子どもの問題っていうのは、親にとってはなおさら心を痛める問題なんだなぁと思いますよね。
そして教会家族にとっても、その心を痛めるという点では同じなんですね。

教会の皆さんがいろんな方が順番に、これだけいるわけですから、いろんな病気に遭います。いろんな出来事の中で苦しみます。
そんな中で、そこかしこで漏れ聞いたことがある程度広まって、いつの間にか祈っている。
依頼があれば礼拝の講壇からも祈りますし、そうでなくても私たちは知っている限り、祈祷会で祈ってくださる皆さんも祈っておられます。

ところがこういう世界で、14節見ていただきますと、一番最後の行に「律法学者たちが弟子たちと論じあっていた」(と記されています)。
「論じ合っていた」というのは、第三者ですね。
子どもが苦しみ、親もこんなに苦しむのに、第三者は、論じ合っている。
どうして治んないの?何か別の方法を試した方がいいんじゃないの?こういう病院はどうなんだろう?こういう治療法もあるんじゃないんだろうか?と、もういろいろ論じ合う第三者ですね。

それから、この問題を取り扱うのに、四苦八苦している弟子たちです。
18節にありますように、弟子たちには、「霊を追い出すように願ったのですけれども、できませんでした。」
できないですよ。Mさんのケースもそうでしたけれども、手を尽くし、もうありとあらゆることをやっていても、「こんな例がない」と言われればできないですね。
先も見えませんでした。私たち人間には限界があります。無能と言われれば無能です。
しかしどんなに能があったとしても、不可能な問題、そしてそこにいる悩める親子、それから野次馬ですよ。

私たちの世界は、ある意味、いつでもこういうものなんだと(嘆きます)。
ですから、私たちはイエスさまにお願いするんです。何度もイエスさまにお願いします。
「イエスさま、どうか何度でも私の所に来て、いま助けの手を差し伸べてください」

さて、「イエス・キリストとのやさしい出会い」というテーマで学んでいますから、少し内容を見ていただきたいと思います。
21節から始まりますね。

21イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。
22この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
23するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
24するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

3つ、3つの点でこの問題を整理します。先ず第一番目に――

1)この出会いの中心にあるのは、人生の発想の転換です。
    
父親はイエスさまにこう言いました。「もしおできになるのなら、私たちをあわれんでください。助けてください」
父親はイエスさまをじっと見て、「果たしてこの方にできるんだろうか?」と、そう考えた。遠慮しがちに言ったんでありましょう。
それは当然です。なぜなら、弟子たちは散々試してできなかったわけですから、先生ができるとは限らないですね。
ですから父親の観点から言えば、「イエスさま、あなたにできるんですか?できるんでしたならば、お願いします」と遠慮がちに言いましたら、
イエスさまは父親に、23節「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」と(言われた)。

「問題はわたしができるかどうかではない。問題はあなたが信じられるかどうかだ」
「わたしにはできる。問題はわたしの能力にあるのではない。問題はあなたの信仰にある」
という、これが(イエスさまが教えられている)発想の転換ですね。

私たちは別にこういう状況に直面していなくても、「できるんだろうか」とか、あるいは「耐えられるんだろうか」とか、ま、いわば「痛いんじゃないか」(笑)とか、こういうの沢山ありますよ。
沢山ある。「嫌だなぁ」と、「こんな検査(笑)、考えただけでも無理かもしれない」とね(大笑)、できるんだろうかと。

問題はそういうことではないだろうと。
問題は――検査なら検査それを越えて、その様々な課題を越えて、もう一つ奥へ行って、あなたの五年後十年後まで考えて――「わたしがあなたの人生の面倒を看る」というわたしを、あなたは信じているのか?

イエスさまは仰いますよね。「信じる者には、どんなことでもできる」――これは信じた者の能力を言っているんじゃないんですよ。
信じさえすれば、あなたはどんなことでもできるような人間になる――そんなことを言っているんじゃない。
信じる者には、神の力が及ぶんです。どんなことでもできるのは、あなたではない。どんなことでもできるのは、神です。
あなたが信じるなら、神の力があなたに及ぶのだ(アーメン)と。

そう考えますと、その神さまだけが私たちの希望ですね(アーメン)。
主よ。あなただけが人を救うことができます(アーメン)。
あなただけが人を癒すことができます(アーメン)。
あなただけが、人の心を変えることができます(アーメン)。
罪を赦すことも、人のうちに住むこの疑いを追い払い、信仰を与えることも、私のうちに揺るがない霊を創る事も、「すべてあなたにはできる」という信仰を、私たちは持っているのだろうか?――ということは考えてもいいのではないでしょうか。

2)父親の叫びです。「不信仰な私をお助けください」(26節)

ものすごくよく解る叫びです。
「信じます。不信仰な私をお助けください」――信じるけど不信仰。不信仰だけれど信じる――私たちの信仰はこうした微妙な揺れ動きを持っています。
信仰の中に飛び込もうと思いながら飛び込めない。
よく解らないのに、イエスさまに手を引かれるかのように、私たちはついて行くんですね。
でも自分の不信仰さというのは、私たちはよくよく解っている。自分にはそんな立派な信仰はないということも解っている。
でもイエスさまは、この父親の手を引っ張って、信仰の世界に連れて行くかのように、
「信じる者にはどんなことでもできるのだよ。わたしを信じなさい。わたしを信じなさい」と一歩前に連れ出したんですね。

先程報告しましたように、昨日――昨年の7月に73歳の生涯を終えて天に召された――YSさんの記念会をいたしました。
YJ姉にとっては、一年間よく、よく、よく守られ、ご主人を亡くした後、様々な整理をされ、頑張って来られたなぁと思います。
教会の皆さんは、Sさんにお会いしたことはないです。私たちも数回しかないです。
末期のがんの病室に何度かお訪ねして、最後に洗礼を授けました。

私たち夫婦が最初にSさんのお部屋に入ろうとした時に、奥さまが出て来られて、
「あぁ先生、今日はせっかく来ていただいたんですけど、ベストじゃないかもしれません」
「え、ベストじゃない、ってどういうことなんですか?」って(お聞きすると)、
ものすごく痛くて大変で、看護婦さんとちょっとこうガシャカシャあって、奥様ともあって、ご主人は機嫌が悪いと。
機嫌が悪いから、こんな時に牧師が来ても、話を聞かないかもしれないと。
で、奥さまにお願いをいたしまして、「私たちだけにしてください」と。
で、私たち夫婦とSさんでいろいろと話をしました。
(その結果、Sさんは)とても優しく、とっても素直に話を聞いてくださいまして、そして最後に「お祈りをしてもいいですか?」って聞いたら、「お願いします」って仰いました。

三回目に行きました時に、一緒にお祈りをしました。
祈っている間に、何度もSさんが「よろしくお願いします」「お願いします」と。
あの声楽をしていらっしゃった方ですので、ものすごく声は大きいんです。もう痩せておられるんですけれども、声が大きいんですね。
で、祈りのセンテンスのたんびに、「よろしくお願いします」が入りますので(笑)、次のお祈りが行かないんですよね(大笑)。
Sさんの「お願いします」が終わらない限り、次のお祈りができないくらい、大きな声で、いやあ、末期の方にこんなにエネルギーがあるんだぁと、びっくりしていましたけれども、段々それでも弱くなっていきました。

その晩、ご主人は携帯電話で奥さまに「お祈りの最後に、思わずアーメンと言っちゃったよ」――照れるようにお話をなさったそうですね。
昨日奥様からお話を伺いましたら、実はそういう風にして、携帯電話で「アーメンと言ってクリスチャンになった」というのは、別に奥さまだけでなくお友だちにも「自分は洗礼を受けてクリスチャンになったよ」と照れ臭そうに仰ったっていうんですね。

私の食事の席の隣にお兄さんが座っておられたんですけれども、お兄さんは言っておられました。
Sさんは関西学院のグリークラブに入っておられて、退職してからもう一回声楽をやり直す、ボイストレーニングから始まって、もうほんとに独唱を歌われる声楽家のような見事なDVDが残っていました。
で、お兄さんは仰いました。
「弟は、先生、解っていたんですよ。学生の頃からミサ曲をよく歌ってました。ミサ曲にはイエスさま、神さま、栄光、信仰、神の愛、十字架、そういう言葉が沢山出て来るじゃないですか。弟には少しは解っていたんですよ」と。

その少し解っていたという人が、生死の境目で「アーメン」と信じて洗礼を受けるんですね。
それでイエスさまは、その方の信仰を受け取ってくださるんだろうか?――これが受け取ってくださるんです。それがイエスさまのやさしさです。

不信仰な私を助けてください。あわれんでください――少ししか解らない。しかも解っていても、なかなかその道に進むこともしなかった。
でも生死を境にして、「どうか、不信仰な私を助けてください」と言った時に、イエスさまはその信仰を受け取ってくださるのですね。

3)そう思いますと、「アーメン」という言葉の偉大さを、やっぱり考えてほしいなぁと思います。

私(藤本牧師)はよく皆さんに言います。「アーメンって言ってみましょう」と。
アーメンって言ってみましょうと。
人の祈りに合わせて、教会の祈りに合わせて、時には躊躇しながら、時に心の底から「アーメン」って言ってみましょうと。
教会の姉妹が信仰を持っていない恋人と結婚される時に、必ずお話しします。
「食事の時に、こちらの方がお祈りします。こちらの方は祈らなくてもいいです。でも一番最後には『アーメン』って言ってくださいね」って。
「言ってくださるこの『アーメン』というのは、大きな意味を持っているんですよ」と。

「アーメン」――「信じる」っていう意味ですよね。
聖書の中で「アーメン」が一番最初に出て来るのは、アブラハムです。
神さまが不安なアブラハムを、夜、外に連れ出し、「夜空の星を見てごらん。わたしはあなたの子孫をあの星のようにする」(***創世記15:5)と、祝福を約束してくださった時に、
聖書には――アブラハムは神を信じた。その「信じた」という言葉が「アーメン」です。
アブラハムは神さまに「アーメン」と言った。そして神さまはアブラハムを義とされた――(という内容の記述があります***同15:6)。

私たちは教会の讃美歌をいま普通に歌いますでしょう。できたら、歌ってみましょうと(藤本牧師はよく薦めています)。
できたら歌ってみましょう――初めての曲でも何となく合わせたら、そのうち歌えるようになりますから、できたら歌ってみましょうと。
私たちみんなで歌いますよね?
この「みんなで歌う」というのは、ちょうど今から500年前に始まりました――それがマルチン・ルターの宗教改革。

1517年宗教改革が始まり、ルターは一番最初の讃美歌を、1521年に詩篇138篇から創っていますね。
それまでみんなで歌わない。なぜなら歌詞がラテン語で、会衆の人たちは解りませんし、メロディーはグレゴリオ聖歌ですから、節があるようでない、ないようである、ま、難しいわけですね。
そこで聖歌隊、つまり修道士たちだけが歌った最後に、みんなが(節をつけて)「♪ア〜メン」って言うわけですよ。
あ、それだけだったら歌えるよと。だから讃美歌の習慣として――私たちの教会では付けませんけれども――ある方々は讃美歌の最後に全部“勝手に”「♪アーメン」って付けちゃいますでしょう?
私(藤本牧師)はあれ“勝手に”と思っているんです。
というのは、そもそもの讃美歌で「アーメン」はついていないのに、ま、「♪アーメン」と皆さんが言う。
私(藤本牧師)はあれはしなくてもいいと思っています。というのは、今は全員が歌えますから。
昔は全員が歌わなかった。修道士たちだけが歌って、最後にみんなで「アーメン」と言ったんですね。

でもきっと私たちね、カトリック教会へ行って全然知らない讃美歌を歌っても、最後だけ私たちは「♪アーメン」って言うと思いますよ。そうでしょう?
私たちにとっての「アーメン」と言うのは、唯一共通言語。
なぜなら「アーメン」は、ヘブル語なんですよ。でもギリシャ語でもある。でも日本語でもあり、英語でもあり、ドイツ語でもあり、
「アーメン」だけは世界共通語で、私たちが唯一、礼拝の中で一致して言えるのは「アーメン」だとすると、
まだ洗礼を受けてなくても、「アーメン」は言った方がいいです。

そして「アーメン」と仰ると、自分の祈りでない誰かの祈りが自分の祈りとなり、
一緒に讃美歌を歌いますと――自分の信仰は「不信仰な私を助けてください」(マルコ9:24)というこの嘆きしかないのかもしれませんけれども――信仰をもって堂々と、朗々と歌っている方の信仰に(***両手をぱんと打ってこすり合わせて強調する藤本牧師)抱き合わせる。
ありとあらゆるものを抱き合わせて行く。

それほど、主よ、私は小さく乏しい者です。でも主よ、私のその「アーメン」でさえあなたは聞いてくださるお方ですから、どうか不信仰な私を助けてください。私の「アーメン」を受け取ってください(――と祈るなら、)
イエスさまは見事に受け取ってくださる(アーメン)。心を込めれば込めるほど受け取ってくださる。
このことを覚えて、今日の最後のお祈りに「アーメン」と言ってみようではありませんか。お祈りをいたします。

☆お祈り――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、この父親の直面していた課題――至る所で息子を押し倒し(マルコ9:18)、何度も火の中や水の中に投げ込みました(22節)というこの状況は、私たちの人生そのものです。山の下にはこんな出来事ばかりです、と言わんばかりに、私たちは今日この父親、そして子どもたちと自分自身を重ねます。そしてあなたが仰ったように、「その子をわたしのところに連れて来なさい」(19節)と、その招きの通りに、私たち自身の問題課題をあなたの前にお持ちいたします。

どうか――「信じます。不信仰な私を助けてください。」(24節)――私のうちにある、信じてみたい、信じようとする思いを、私たちの内側から引き出してください(アーメン)。そしてその不信仰なものを、あなたの右の手で抑えてくださり(***イザヤ41:10、詩篇108:6、118:15,16、138:7、139:10)、信仰の世界へと、希望の世界へと、あなたの可能性、あなたの全能さの中に、私たちを引き込んでくださいますようによろしくお願いいたします。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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