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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   10/23 やさしい出会い(6)見上げなさい ヨハネ3:1〜16
☆聖書箇所   ヨハネ3:1〜16

1さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
2この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
4ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
5イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
6肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
7あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
8風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
9ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。
11まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
12あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
13だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。
14モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
15それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
  16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

☆説教  やさしい出会い(6)見上げなさい

今朝は、ヨハネの福音書の『ニコデモの記事』から、一緒に見ていただきたいと思うんです。
しばらく、イエスさまが人と出会う時に、どれだけやさしい触れ方を私たちとしてくださるのか(を連続で、これまで5回見て来ました)。

私(藤本牧師)は以前10年位前に「イエスと出会う人々」というのを、一緒に礼拝で学んだことがありますけれども、少し年齢を重ねたせいか、やっぱり見方が随分変わって来ました。

イエスさまは私たちの前にいきなり現れて、私たちが全て納得する形で、ド〜ンと私たちの人生を変えるかのように出会ってくださることもあれば、
もっと優しく、もっと静かに、私たちの痛める部分に手を伸ばすかのように出会ってくださることもあります。
その出会いがその瞬間で実を結ぶ時もあれば、後になって実を結ぶ時もあります。
そんな例として、しばらくこの聖書の箇所から一緒に見ていただきたいと思います。

ヨハネの福音書の3章の1節をご覧いただきますと、こう始まります。

1さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
2この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

と、こう会話が始まって行きます。
1節に、彼はパリサイ人だったと書いてあります。
イエス・キリストに好意を持った宗教家、パリサイ人は聖書の中にほとんど出て来ません。
ルカの福音書の7章のシモンという人物、そしてここヨハネの福音書(3章)に出て来るニコデモだけです。
当時のユダヤ教の宗教家は押しなべて、イエスさまに懐疑的でありました。
イエスさまもまた、彼らの偽善を容赦なく批判しました。

しかし、ニコデモは違います。
後に彼が全議会のメンバーであったということがわかりますけれども、彼は大変な地位にありましたけれども、しかし、イエスさまに話しにやって来ます。
質問がありました。質問は直接聖書の中に記されていませんが、答えの方が出てまいります。
3章の3節をちょっとご一緒に読んでみたいと思います。答えだけが出て来ます。3章の3節――

3イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

明らかに彼は尋ねたのですね。
どうしたら神の国に入ることができるか?どうしたら私のような者が救われるのか?どうしたら私のような者が霊的な世界、永遠の世界に繋がることができるのか?と。

ま、様々な質問があったに違いありませんが、質問をイエスさまのところに持って来たということです。
簡単に3つのポイントから、いま司会者の兄弟に読んでいただいたこの16節までを一緒に見ていただきたいと思いますが、先ず一番目に――

1)漠然とした不安

ニコデモは宗教家でありましたし、先ほど申し上げましたように、当時の最高議会のメンバーでありました。
それは社会的に高い地位にいたというばかりでなく、
10節を見てください。イエスさまはニコデモにこう言いますね。

10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師」でありながら……

(教師)――英語ではthe teacherですね。
イスラエルの中で、神さまのこと、聖書のこと、信仰のこと、人の人生の様々なことについて、人に教えるような立場であったと、非常に尊敬を受けていた教師であったのでしょう。

社会的にも地位があり、精神的にも多くの人の尊敬を集めていた、年配の人物が、高々30そこそこのイエスさまに出会って、驚くべきことを発見した。
その発見が2節ですね――

2……「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、……」

二行ありますね。
神のもとから来られた方だ。そして「神がともにおられる」のでなければ、――ということは、裏を返せば、「私は神とともにいない」と。裏を返せば。

ニコデモは自他ともに認める大した人間だったと思います。
彼はこれまで自分がやってきたことについて、確かな自信を持って、積み上げてきたことでありましょう。
それでもこの確かさが、一気に崩れてしまいます。
「神がともにおられる」イエスさまを見た途端、彼は自分の欠けを悟るようになり、
自分がどんなに不安な人物で、どんなに不安定な人物なのか?果たして自分の人生のこの道がこれでいいのかどうか?ということを彼は真剣に考えるようになります。

私たちは、人の人生というのは確かなものでない、ということぐらい解っています。
でも貧しいながらも、あるいは乏しいながらも、確かに何かを握っている、平安を握っている人物に出会った途端に、もしかしたら自分の人生は、これでいいんだろうか?と思うような瞬間って、きっとやってくると思います。

彼には、自分には人が持っていないようなものを持っている、という自負がありました。
それが地位であり、学歴であり、財産であり、あるいは人間関係であり、
人がうらやむばかりのものが溢れている自分が、イエスさまを見た時に、自分は致命的に欠けているということに気がついたんです。

人の幸せは、社会的に成功するということではなく、何かができる、何かを成し遂げたということではない。
しかも彼はユダヤ教ですから、ユダヤ教の教えるところの救い――つまり自分はユダヤ人として生まれ、生まれた時に割礼を受け、民の中に加えられ、イスラエルの祭りに参加し、そして律法に従って生きている。神の契約の中にとどまっている――だから私は神の子どもなんだという、
そういう単純な発想が、いや、もしかしたら、神さまは私とともにおられないんじゃないか?(と思うに至らせた)。

ニコデモがイエスさまを訪ねて来たのは、夜でありました。
朝でもなく、昼でもなく、夜という、この「夜」について真剣に考えてしまったら、私たち人間は、「眠れない」と言われてしまいます。
心の闇――それが不安なのか、心煩わせる夜の孤独なのか、人の人生の不安を象徴している夜なのか――その夜はどんなにごまかしてもごまかすことができない。
どんなに明るい楽しい光を当てても、明るくはならない。
どんなに白いペンキを塗りたくっても、色を変えることができないほど暗い。

夜というのは、ニコデモにとっても、私たちにとっても、「死」ということに最終的には集約されて行くんだろうと思います。
どんなに蓄えても、これが来たらすべて自分の人生は終わるんですね。
私たちはその兆しというものを時々感じます――健康を傷めたり、大自然の脆い秩序の中で苦しんだり、人生の危惧を、危機を感じたときに、私たちは「夜」の冷たさというものを、「夜」の怖さというものを感じます。

それが漠然とした不安で、ニコデモを襲う。
これは信仰を持っている私たちにとっても、時々こういう不安が来なければだめですよね?
何度もニコデモにも私たちにも不安が襲って来る。だから、ニコデモはイエスさまの所に来たんです。
そのようにして、私たちも漠然とした不安を持つと、イエスさまの所に来る。

私(藤本牧師)は、ある時、名古屋から新横浜の新幹線の中で、非常に面白い体験をしたことがあります。
名古屋の駅で乗って、自分の切符を確認して、指定の座席に着いてしばらくしましたら、おばさんがやって来られて、
「あ、すみません。そこ、私の席なんですけれども」と、こう仰って、
私(藤本牧師)も即立ち上がって、謝って、
「あ、すいません。席を間違えました」と言って立ち上がって、自分の切符を見たんですね。
そしたら、私は間違ってない(大笑)。何回見ても間違ってないんですよね。
それで困ってしまって、その方の切符を見せていただいたんです。
「すいません、切符を見せていただけます?」と言って。
すると、なんとその方の切符も間違いなくその席なんですよ。
その方の切符と私の切符を並べて見た時に同じなんですね。13号車3番のAと全く、全くおんなじなんですよ。
それで二人とも困ってしまって、ちょうどそこに車掌さんがいらっしゃって、私(藤本牧師)は車掌さんに言いました。
「ねぇ、JRのコンピュ―ターでも、こういうことってあるんですね?」って(大笑)。
車掌さんは、じ〜っとその切符を眺めていて、
「おかしいですね、おかしいですね。おんなじですよね〜」って、
それからふっと気がついて、おばさんの方を見てニッコリ笑って仰ったんですね。
「この切符、間違いなく、同じ列車の、同じ席なんです。でも、これ昨日の切符です」(大笑)。
えっ、昨日の切符なんだと。

私(藤本牧師)もそれからですね。自分の切符を何回も見るようになっちゃいましたね(大笑)。
これ間違ってないのかな?と。これでほんとにいいのかな?と。
この不安っていうのはものすごく大切で、私たちは何かに向かって突っ走っている時に、もう違う列車であろうが、違う曜日であろうが、もう乗ったら座る。
そしてきっとこれが間違いなく目的地に連れて行ってくれるだろう、という前提で私たちは動いていますよ。

でもニコデモはイエスさまを見た途端、自分はこれでいいんだろうか?と思ったんですね。
自分の乗っている列車が、間違いなく自分を神さまの所に連れて行くんだろうか?
その違いといえば、この方には神が共におられる。この方は神の所から来た。そして私が考えているのと全然違うことを語られる。
イエスさまは、神の所から来た、神とともにおられるお方でありました。
そしてイエスさまは、ニコデモのこの問いかけを喜ばれた、ということを今日は先ず覚えてほしいと思います。

ニコデモのこの問いかけ――つまり今の私の人生でよろしいんですか?という問い――を持ってイエスさまの所へ来た。
それをイエスさまは非常に喜ばれる。
なぜなら、この質問を持って来ない限り、私たちにイエスさまのことはわからないです。
イエスさまがこの世界に来られた目的、聖書が私たちに語りかけている言葉――それはこの質問を(イエスさまの所へ)持って来ない限り、明らかではないですね。

二番目に、これは私たちにもよくあることですが――

2)イエスさまは唐突な答えを、いきなりなさいます。

つまり、どうしたら神の国に入ることができるんでしょうか?私のこの列車でいいんでしょうか?と言った時に、イエスさまは3節で唐突にこう仰いますね。

3イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

ニコデモは困ってしまいます。4節――

4……「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」

イエスさまは5節に――

5……「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
6肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
7あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。

いやいや、不思議どころじゃないですね。わからない。わからないです。
私(藤本牧師)がどんなに空を飛びたくても、ジャンプの練習をしても、それは飛べないです。
そんなに空を飛びたければ、鳥にならなければだめだ。イコール、鳥として生まれなければだめだ、と言われてくるくらい、
「あなたは新しく生まれなければならない」と言われても、わからないですよね。

イエスさまは仰いました。
「人のいのちと、神が与えるいのちは違うんだ。私たちの肉体のいのちと、たましいのいのちとは違うんだ」――ま、それくらいのことは解るかもしれませんね。
でも「人は新しく生まれなければ、神の国に入ることはできない」――私はず〜っと神の国に入ろうと思って、入るための修行をして来ましたけど、それは全く意味がないということなんですか?
私が新しく生まれるって、どういうことなんでしょうか?
私の存在って、そんなにあなたの目から見ると、全否定なのですか?というくらい、わからないですね。

イエスさまはニコデモに話した時に、その口調は少々挑戦的ですね。10節をちょっと見ていただけます?

10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。

ニコデモはわからないですよ。そしてニコデモがわからないなら、私(藤本牧師や私たち)にわかるはずがないと思います。

それからイエスさまはこう答えられました。
(ヨハネの福音書3章の)14節と15節――これが今日の鍵なんですけれどもね、
ちょっと13,14,15と交替に読んでみましょう。そうですね、いっそ、12〜15までを交読いたしましょう。

12あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
13だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。
14モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
15それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。

この話は私たちにはあんまりよくわかりませんけど、ニコデモにはよくわかったんです。
「モーセが蛇を上げられる」という話は旧約聖書に出て来ます(***民数21:4〜9)ニコデモがよく知っている話です。
奴隷であったエジプトから、せっかくモーセを先頭に脱出して来れたのに、イスラエルの人々は荒野で、
「こんな所に来るんじゃなかった。エジプトに帰りたい。神は私たちをエジプトから連れ出して殺す気か?」と神さまに不平を言います。
彼らの罪の裁きとして、神さまは(燃える)蛇を送ります。荒野で、それに噛まれて、多くの者が死んで行きます。多くの者が苦しみます。
そして人々は、自分たちが罪を犯したことを告白して、モーセに助けを求めます。
モーセは神さまに助けを求めました。その時神さまはモーセに言います。
「青銅で蛇を作りなさい。それを棒の先に付けなさい。
蛇に噛まれた人々が、信仰によってその蛇(***青銅の蛇)を見上げるなら、その傷は癒される」と。

(この神の導きは)別に「蛇が神さまで、その蛇を拝んだら癒される」と言っているのではないですね。
「あなたがたの罪深さは、この蛇に象徴される。あなたがたの罪深さを罰するこの(燃える)蛇を、青銅で(作って)掴んで高く上げなさい。
その時、あなたがたは自分の犯した罪がわかる。自分の犯した罪に対する神の裁きがわかる。
そしてそれがわかったならば、わたしはあなたがたを赦す」と神さまは仰ったんです。

イエス・キリストは「その蛇が上げられるように、わたしも上げられる」と(***14節で二コデモに知らせておられるのです)。
蛇が棒の先に付けられたように、キリストは十字架という太い棒に磔になって上げられると。

エデンの園で、悪魔は蛇に姿を変え、人を罪にそそのかしました(***創世記3章)。
蛇に姿を変えた悪魔は、私たちにとって呪いでありますけれども、キリストも私たちの罪の呪いとなって、罪に対する裁きとなって、十字架にかかってくださったんです。
「イスラエルの人々が(青銅の)蛇を仰いで救われたように、私たちもまた十字架のキリストを仰いでその罪が癒される――わたしはそのために来たんだ!」
(***イエスさまは実は、壮絶な十字架にかかるご自身の姿を、そしてその御子を信じる者だけが救われるということを、預言しておられる)。

と、私たちに言われても、よく解らないかもしれない。
でもニコデモは、<荒野の蛇の話、人々の罪の話、それに対する神の裁きの話、しかし(青銅の)蛇を見上げたときに、罪赦された>ということを、よ〜く解っていました。

しかしニコデモには、まだまだ全然解らないことがある。
それは、人の子であるイエス・キリストが木の上に上げられるということは、彼には全然解らないですね。

イエスさまは仰っているわけです。
「わたしはすぐれた教師ではない。わたしは罪人を癒す者でもない。わたしは悪霊を追い出す霊媒師でもない。わたしは救い主だ。
あなたの罪を悟らせ、あなたの罪のための裁きをこの身に受け、あなたが生きるように、わたしのいのちをあなたに与える救い主だ。
ニコデモ、よく聞きなさい。あなたはわたしにあって、初めて永遠のいのちを持つ」と。いいですか。

3)ず〜っと後にわかったことです。

※ここまでの話をまとめられる藤本牧師
1番目は、ニコデモは漠然とした不安を持ってイエスさまの所へ来た。
この漠然とした不安というのは、人間にとってとっても大切だという話をしました。この列車でいいんだろうか?と。

2番目に、イエスさまは非常に唐突に、でも一部ニコデモによくわかるように話をされました。
でもニコデモは全部は解らなかったはずです。
まして救い主として来られたイエス・キリストが、どうやって木の上に上げられるのかということはわかりませんでした。
でもそれは後にわかったんです。

後にわかったんです。(※ここから改めて3番目のポイント)

福音書を見ますと、イエス・キリストが十字架に付けられたあのゴルゴタの丘で、弟子たちはみな散り散りばらばらになってしまいました。
ゴルゴタの丘で十字架を正面から見ていたのは、ヨハネだけでしょう。
そしてイエスさまにつき従っていた女たちは、背後にあって遠くからその姿を見ていました。
そして安息日の夕方がやって来て、人々はみんな帰ってしまいます。

その時、ニコデモとアリマタヤのヨセフ、このふたりの人物がローマの総督に申し出て、「あの遺体を、私たちが引き取りたい」と(***ヨハネ19:38,39)。
ローマの総督はびっくりしました。「もう死んでしまったのか?」((***マルコ15:44)と。
磔の刑は生きたままされますので、人によっては24時間ぐらい生きていますので、「もう死んでしまったのか?」と。
ローマの兵士を呼んで、「おまえたちはちゃんと死を確認したのか?」
「はい、確認しました。私たちは最後、わき腹を槍で突きました(***ヨハネ19:34)。
しばらく遺体をそのまんまさらしておくつもりだったんですが、ユダヤ人たちが安息日に遺体が上げられているのは、木に吊るされているのは良くない(***ヨハネ19:31)と」
「そうか、じゃ、このふたりを送って遣わそう」と。

ニコデモはゴルゴタの丘に出かけて行きます。
そして初めて彼は、上を見上げるんですよ。ゴルゴタの上。丘の上で十字架にかかっているイエス・キリストを彼は見上げるんですね。
私(藤本牧師)はその時初めてニコデモは、3年前のイエスさまとの会話の意味がわかったのだと思う。
自分の罪を自分自身で拭い去ることは不可能なんだと。
私の罪を背負って、この方は十字架にかかられ、そうか、「あの呪いの蛇が木の上に上げられ、それを見上げた時に自分たちの罪深さがよくわかり、そして、そんな私を神が赦してくださる」と、
イエスがあの夜話した、あの話はこのことだったのかと、ようやくニコデモは解るんですね。

(続くヨハネの)3章の16節を見ていただきたいと思いますが、ここにこうあります。

16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

「ああ、いま私は荒野で上げられた(青銅の蛇であるところの)イエスを見ているんだ」と解ったニコデモの心を打ったのが、この3章の16節です。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」――ああ、神は私を愛しておられるんだと。
呪いの十字架なんですけれども、それは私を愛するがために、御子イエス・キリストは私の罪を負い、ここで磔になったんだ。
神さまは世を愛しておられる。「世」というのは大きな言葉です。
その中には、病める者も、罪人も、小さき者も、貧しい者も、愚かな者も、最低の者も、最悪の者も入っています。
しかし、その中に、私も入っているんだということがニコデモには解った。

そしてこの「与える」ということですね。
「ひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」――御子イエス・キリストは私のために、与えられたんだと。
この方はご自身のいのちを私たちに与えてくださったんだ。
私たちの罪深い人生の身代わりとして、自ら進んで十字架にかかってくださり、罪に対する裁きを受けられたんだ。
そしてニコデモに次の言葉が響いて来るんですね。
「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16後半)
そうか、この方を信じる――それが私を救うのだ。割礼ではない。律法の行いではない。この方を信じるということが私を救うのだ。
こうして神は私に救いを与えてくださるんだということが、その日、十字架を見上げて、初めてニコデモには解ったんです。

2004年の2月、有名な「パッション(受難)」という映画が封切りになりまして、世界中を巡りましたね。
ハリウッド映画で、先ず宗教映画はヒットしないという中、あれはものすごいヒットでした。
2005年に日本に入って来まして、私たちも映画館に観に行きましたし、また教会でもDVDで観ました。
キリストが十字架にかかる24時間と言いますか、一日だけを、徹底して細かく描いた映画で、監督は敬虔なカトリックのメル・ギブソンでありました。

メル・ギブソンは映画には出演していないんですけれども、彼のこだわりで一箇所だけ出て来る。
それはゴルゴタの丘に十字架が横たえられ、その上にイエスが寝かせられ、縛られ、その手首を抑えて、太い釘をその手首に置き、上から振り下ろすハンマーを握った手――あれがメル・ギブソンの手です。
彼はそこだけあの映画に出演しています。

映画は十字架の場面を克明に描きますが、イエスを十字架に磔にした、その人物の顔は出て来ない。
それは、私かもしれない。それは皆さんかもしれない。
その手――それはメル・ギブソンの手であり、でもそれは私の手である。
それはニコデモの手でもあった。

ニコデモは十字架を見上げて、初めて自分の罪深さ、それと同時に、私の罪を背負って十字架にかかってくださったイエスさまの愛というものが解った。
イエスを信じる者、その者のみが神の国に入る。

☆お祈り――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、ニコデモに解らなければ、私たちに到底解るわけがありません。しかしニコデモも、解らなかったに違いありません。しかし十字架を見上げた時に、ふと、すべての言葉が彼の心の中でフィットした。そんな瞬間が私たちにもあるに違いありません。

自分の罪深ささえも解りませんし、いつも不安な思いのままわけのわからぬ電車に乗って、これでいいんだろうかと思いながら、しかしあなたは時々私たちを十字架のもとに連れて来てくださいます。そして、そこにおいて私たちの罪深さばかりでなく、あなたの愛、私たちの罪を背負ってくださったキリストの愛を見せてくださる、その恵みに心から感謝いたします。

どうか十字架を見上げる者となることができますように。イエス・キリストを信じる者となることができますように。愛するイエスさまの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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