☆聖書箇所 Tサムエル2:18〜21
18サムエルはまだ幼く、亜麻布のエポデを身にまとって、【主】の前に仕えていた。 19サムエルの母は、彼のために小さな上着を作り、毎年、夫とともに、その年のいけにえをささげに上って行くとき、その上着を持って行くのだった。 20エリは、エルカナとその妻を祝福して、「【主】がお求めになった者の代わりに、【主】がこの女により、あなたに子どもを賜りますように」と言い、彼らは、自分の家に帰るのであった。 21事実、【主】はハンナを顧み、彼女はみごもって、三人の息子と、ふたりの娘を産んだ。少年サムエルは、【主】のみもとで成長した。
☆召天者記念礼拝のための特別説教 年に一度の再会
サムエル記の2章を見ていただきました。2章の18節にこういう風にあります。
18サムエルはまだ幼く、亜麻布のエポデを身にまとい、【主】の前に仕えていた。 19サムエルの母は、彼のために小さな上着を作り、毎年、夫とともに、その年のいけにえをささげに上って行くとき、その上着を持って行くのだった。
という話から、少し考えていただきたいと思います。
年に一度、天に帰られた(方の)ご家族にとりまして、今日の礼拝は特別な礼拝ですが、ご家族だけでなく、教会にとっても特別な礼拝です。 教会は「栄光の教会」と呼ばれます。 なぜそういう呼び方をするのか?教会がそんなに栄光に溢れているのか?教会がそんなにすばらしい所なのか?――そういう意味ではありません。 教会は天国の門です。教会は死の向こう側の栄光の世界と繋がっているから、教会は「栄光の教会」と呼ばれます。 教会から一人、また一人、死を越えて栄光へと、私たちの愛する者たちを送り出す時に、その道筋を見ていますと、その道筋に沿って、栄光の世界から光りが差し込んで来る――それが私たちの礼拝であります。 神の栄光の光が、先に送り出した兄弟姉妹の足跡を通って、私たちのもとに差し込んで来る。
キリスト教の独特な表現に「委ねる」というのがあります。 恐らく皆さんが初めて教会にいらっしゃり、教会のお祈りを聞かれ、聖書の話を聞き、この「委ねる」っていう、皆さんよく委ねているなぁと、しょっちゅういろんなものを神さまに委ねているなぁと、どういう意味だろうか?(とお思いになったことでしょう。)
英語ではコメンド(commend)という言葉を使います。 これを聞くとほんとにコメンドなんだろうか?コミット(commit)なんだろうか? コミットという言葉も使うんですが、祈りの中でコメンドという言葉を使います。
主イエスが十字架の上で息を引き取るときに仰いました。 「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(***ルカ23:46) パウロがエペソの教会の人々をミレトの港に集めて、別れを告げる時に、パウロは彼らのために祈りました。 「主よ。この者たちをあなたとあなたの恵みのことばにゆだねます」(***使徒の働き20:32)と。
「委ねる」ってどういう意味なんだろう?と。 それは今まで自分がしっかりと関わりを持っていた、自分の力、自分のいのち、自分の人生、自分の仕事を、ともかく自分の手の中にあったものを、神の御手に託す、お任せするという意味ですね。 そこに前提とされていることは、もう自分ではどうすることもできない問題課題。であるがゆえに、神に委ねる。
しかし同時に委ねることは、自分にとって委ね切れない程大切なことです。 自分のいのちであったり、愛する者のいのちであったり。 ですから委ねる相手というのは、実は神さましかいない。 私たちの大切なものをゆだねる時に、真実なお方(***申命記32:4、詩篇31:5、イザヤ49:7、ローマ3:4、Tコリント1:9, 10:13、Tテサロニケ5:24、Uテサロニケ3:3、Uテモテ2:13、へブル10:23、11:11、Tペテロ4:19、Tヨハネ1:9、5:20)に委ねる。 このお方に委ねたならば、このお方は私たちを失望させることはない(***ローマ5:5)、という信仰のもとに、絶対的に大切なものを損なわない、信頼できる方に、私たちは委ねるんです。 ですから、教会では「神さまにゆだねる」という言葉はよく使います。
そしてきょう読んでいただいた聖書の箇所に、サムエルという少年が愛する母親によって、神さまに委ねられている出来事が記されています。 母ハンナには、なかなか子どもができませんでした。ある時、彼女は神殿で祈りました。 「もしあなたが私に子どもを授けてくださるなら、生まれてきたら必ず、その子をあなたに捧げます」と。 そう祈られて生まれてくるのが、旧約聖書で有名な預言者サムエルであります。 「サムエル」というのは、神は聞かれる、という意味です。まさに母親の祈りが聞かれて、彼は生まれました。 1章の24節を見ていただきたいと思いますが、ここから委ねる出来事が始まって行きます。
そのようにして生まれた子どもを、母親は子どもを神殿に持って行きます。 24節から28節までを、ちょっと交替に一節ずつ交替に読んでいきたいと思います。
<Tサムエル1章24節〜28節> 24その子が乳離れしたとき、彼女は雄牛三頭、小麦粉一エパ、ぶどう酒の皮袋一つを携え、その子を連れ上り、シロの【主】の宮に連れて行った。その子は幼かった。 25彼らは、雄牛一頭をほふり、その子をエリのところに連れて行った。 26ハンナは言った。「おお、祭司さま。あなたは生きておられます。祭司さま。私はかつて、ここのあなたのそばに立って、【主】に祈った女でございます。 27この子のために、私は祈ったのです。【主】は私がお願したとおり、私の願いをかなえてくださいました。 28それで私もまた、この子を【主】にお渡しいたします。この子は一生涯、【主】に渡されたものです。」こうして彼らはそこで【主】を礼拝した。
サムエルはまだ、24節「乳離れしたとき」、その最後に、まだ「その子は幼かった」と(あります)。 (彼は)神殿に連れて行かれ、そして(ハンナは)神殿の祭司に、「私はあの時祈りました。子どもができたら、神さまに捧げると祈った女であります」 そして27節、「【主】は私がお願したとおり、私の願いをかなえてくださいました」(と祭司エリに、主への感謝を申し上げるのです)。 28節、「それで私もまた、この子を【主】にお渡しします」と、これは、大切な子を主に委ねるんですね。
今朝は、この様子と、私たちと愛する者との別れを重ねることができるんじゃないかと、そういうお話をいたします。 ポイントは3つありますが、先ず1番目に――
1)ハンナとサムエルの親子は、別れたくて別れたのではないですね。
先ほどの1章の24節の最後に、「その子は幼かった」とあります。 この小さな子を神さまの所に捧げるんですから、そこにはハンナの毅然とした信仰があったことは間違いありませんが、 しかし同時に、これからもう一緒に生活することができない不憫さ、悲しさ(もあるでしょう)。 前の晩、息子の寝顔を見て、ハンナの胸がどれほど痛んだか! この子は一人でやっていけるんだろうか?母は子を抱きしめ、子は母を振り返り、そして互いに思い出しては、胸が痛くなり、そういう中をこれから先、ハンナは十数年過ごしていきます。
ちょうど私たちが愛する者たちと死別するというのも同じでしょう。 別れたくて別れたのではない。でもそのようにしてハンナとサムエルは別れ、いや、別れたというよりも、ハンナはサムエルを神にささげた。 しかし、それは永遠の別れではありませんでした。 神にささげたというのですから、世界は違います。日常的には一緒に暮らせません。場所は違うでしょう。 しかしサムエルは元気にしていました。元気に生きています。神のみもとで元気にしていました。
私(藤本牧師)は、何でも私たちが神に委ねる、というのはそういうことではないかと思います。 神さまに捧げたら、財でも賜物でも、時間でも労力でも、私たちはそれを失うのではない。失うのではないです。神さまの御手の中にお託しする。 すると神さまはそれを何倍にもして、用いてくださると私(藤本牧師)は信じています。
よく神学校に音楽を学んで来た方、また――今年私たちの教会に迎えましたように――画家の方が献身した時に、 「自分はもう絵を捨てて神に仕える」って、そう仰いますけれども、 「いやいや、そんなことはないですよ。それをすべて神さまに捧げたら、神さまは何倍にもそれを用いてくださいますよ。 だから捨てたなんて思わないで、もしそれが音楽であれば、その音楽を神さまは用いてくださる、という思いで献身してください」という風にいつも申し上げます。
それが自分の子どもであったり、あるいは自分の夫や妻であったり、自分の家族であったり、なかなかそう思うことはできないかもしれませんけれども、 しかし言えることは、主の御手にハンナがサムエルを渡したように、 私たちが愛する者を神の御手に委ねたときに ――その愛する者は神のみもとで、今日も元気にしているという事実。そして神さまはその愛する者を決して損ねることはない――そのことは心に留めておきたいと思うんですね。
2)年に一度ハンナはサムエルに会いに行きました。年に一度。
もう一回、2章の18節に戻っていただいて、サムエルはまだまだ小さいんですね。 亜麻布のエポデ――エポデというのは、当時神殿で働く祭司たちが縫い付けていた洋服です。 幼稚園のかっぽう着のもっと大きなもので、ざっくりと上から羽織る、麻でできています。 その小さな小さなエポデを身にまとう、サムエルの愛らしい姿が目に浮かびます。 お寺の小僧さんじゃありませんけれども、小さなくりくりした目の男の子がエポデを着て神殿に仕えているその姿は、他人が見ても可愛かったに違いない。 でも母親は遠くから彼を見て、近くから彼を見て、そして抱きしめて話をして、帰るときにはまた抱きしめて、また遠目からじ〜っと彼を目に焼き付けて、次の年が来るのを待つ。 年に一度ですけれども、子どもですから、どれほど成長したかと思いますね。 そして母親は同じ位の子どもを近所に見つけて来て、自分が作ったエポデが次の年のサムエルに着れるかどうか、確かめたに違いないですね。 その時、一年に一度のいけにえと一緒に、母親は大きくなった息子のために、毎年毎年、新しいエポデを、上着を持って行きました。 母親にとってはそれが楽しみでありました。 一年に一度、召天者記念礼拝があるように、一年に一度、ハンナは神にお渡ししたサムエルに会いに行きます。
さて、サムエルは主のもとで元気にしているだけではありませんでした。 彼は成長していました。 21節の最後に、「少年サムエルは、【主】のみもとで成長した」と。 26節で、「少年サムエルはますます成長し、【主】にも、人にも愛された。」 これはとっても大切な考え方です――私たちが主にお委ねした愛する者は、主のみもとで成長している。
ねぇ、97歳のY姉が成長してこれからどうなるんだろう(大笑)とか、そういう話ではないですね。 これが小さな子どもが天に召されたのなら、ま、今頃歳にして65歳だとか、三十何歳という話になりますが、これはあくまでも肉体の話ですね。
キリスト教の思想の中にはいつもあります。 人間のたましいというのは、この地上に生きている限り様々な障害、障壁がありますので、その成長はほとんど見られない。 しかし、天に上げられたならば、その肉体的な障壁から解放されて、まさに栄光から栄光の姿に変えられて行く、という成長を遂げるんだ、(という思想です。)
ちょっとUコリントの3章の18節と言いますと……、16節から18節までを一緒に読んでみたいと思います。
<Uコリント3:16〜18> 16しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。 17主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。 18私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。」――これは身体の話ではない――「そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔の覆いを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、(***ここに出て来ますね、と説明)栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます」と。
このみことばが本当の意味で適用されるのは、天国なんだろうと思います。 私たちが年に一度、こうして天に召された愛する者たちとともに、主を礼拝するときに、私たちは今更ながら、自分自身の成長の乏しさというものに心を痛めます。 悲しみに捉われることもあれば、信仰の成長は微々たるもので、私たちは依然として昨年のままかもしれない。
しかし大きな励みがあります。 それは母親ハンナが息子サムエルの成長を見ながら心躍らされたように、 私たちも天に召されて愛する者たちが、神のみもとで元気で、しかも成長していることを思い浮かべながら、私たちは励まされるんですね。 母親ハンナは、(サムエルの)成長した姿を思い浮かべながら、いつも新しくエポデを縫って持って行った。 そして元気な姿を見て励まされた。「あ、こんなに成長したんだ」
私たちは、私たちの愛する者たちが天国でどのような成長を遂げているのかはわからない。 しかし、いま読みましたコリント(Uコリント3:16〜18)の手紙にあるように、御霊の働きによって、栄光から栄光へと変えられているんだという、その事実を知った時に、私たちはやっぱり励まされる。
さて三番目、これは大きいですね。
3)(取られた主は、また与えてくださる、というポイントでしょうか?T・Y)
もう一度Tサムエルの2章に戻っていただいて、20節と21節を読みますね。 Tサムエルの2章の20節と21節を、私(藤本牧師)の方で読みます。
20エリは、エルカナとその妻を祝福して、「【主】がお求めになった者の代わりに、【主】がこの女により、あなたに子どもを賜りますように」と言い、彼らは、自分の家に帰るのであった。 (毎年そうしていたんでしょうね、と説明) 21事実、【主】はハンナを顧み、彼女はみごもって、三人の息子と、ふたりの娘を産んだ。少年サムエルは、【主】のみもとで成長した。
一番最初の少年サムエルは、主のみもとです。そちらで成長している。 けれども、ハンナには三人の息子とふたりの娘がまた与えられたということ。 21節は「事実、」と始まりますけれども、これは祭司エリが祈ったことがそのまま事実となったという意味だろうと思います。 祭司の祝福の祈りはもっともっと長かったでしょうね。 両親たちが一年守られたことを感謝し、神さまが神殿に仕える少年サムエルを守ってくださった、その健康を祝してくださったことに感謝し、しかし、その祈りの中心にあったことは、 「主のみもとに愛するサムエルを委ねた両親に、その何倍もの祝福をお与えください」というのが、祭司エリの祈りでした。
聖書の中にヨブという人物が出て来ます。 ヨブは犯罪に遭い、また天災に遭い、子どもたちを一遍に失っていきます、七人。その後で、ヨブはとっても有名な言葉を残しました。 「【主】は与え、【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな」と(***ヨブ記1:21)。 それほどの試練に遭いながらも、彼は神をのろうことはしなかったということでしょう。 「神は与えてくださり、神はまたそれを取られた。私たちにどうすることもできない。神の御名はほむべきかな」 失ったということで、決して彼は神をのろうことはいたしませんでした。 そして彼の晩年、彼は失ったのと同じ人数の子どもを新しく与えられます。7名の子どもを与えられます。
もちろん「だからよかった」ということではないです。 何倍もの子どもが与えられたとしても、失った子どもたちの顔を忘れることはできなかったでしょう。 ハンナに「あなたには子どもが6人できましたね。その一番最初が神殿で仕えているサムエルですね。そして残りの子どもたちはあなたと共にいますね。どの子の顔を一番思い浮かべますか?」と訊いたら、間違いなく、主のみもとに委ねたサムエルですよ。
ヨブの場合も、先に失った子どもたちのことに一番心が痛むに違いない。 しかしヨブの場合も、このサムエルの場合も、一つの事は明らかです――それは、「取られた主は、また与えてくださる」ということです。 この事は、私たちは人生の知恵として、あらゆる場合に覚えておかなければいけないです。
「主は与え、主は取られる」という潔さ。しかし、同時に「取られた主はまた与えてくださる」という希望です。 私たちは失った愛する者を思って、呆然と悲しみに暮れます。しかし、神さまはまた喜びをくださる。必ずくださる。 ですから私たちはエリのように、祈ります。 「神さまが、あなたが苦しみとわざわいに遭った年々に応じて、何倍もの喜びを報いてくださいますように。 そして神さまは、事実、その通りに私を祝福してくださっています」 と(礼拝に)やって来るのが、召天者記念礼拝です。
「あの日以来、私の祝福は全部奪われてしまいました」――ではない。 与えてくださる主は取られ、しかし取られた主は、さらに大いなるものを与えてくださる。 それは人のいのちの問題だけでなく、私たちの財も、私たちの健康も、私たちの人生の喜びも悲しみも、「もし主がそれを取られたとしたならば、主はまたそれを与えてくださる」と信じて、礼拝に来るのです。
☆お祈り――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、ハンナの信仰に私たちは倣うことはできませんが、しかしハンナのような決意をもって、愛する者を天国に送り出します。死が私たちを引き裂く時に、私たちは何の抵抗もできずに、ただひたすら愛する者をあなたの御手に委ねます。
しかしあなたは、私たちが委ねたものをしっかりとその手で守っていてくださり、そして永遠の都において、その魂が栄光から栄光へと変えられて行く、という聖書のみことば(Uコリント3:18)を心から感謝いたします(アーメン)。 それが地上に残された私たちにとって大きな慰めです(アーメン)。
そしてもっと大きな慰めは、取られたあなたは、何倍もの祝福と喜びを私たちにくださる。主よ、どうか愛する者を天に上げてしまったそのご家族を、あなたが幾倍にも祝福してくださり、苦しみと悲しみにあった日々に応じて(詩篇90:15)、喜びを与えてください(アーメン)。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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