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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   11/13 やさしい出会い(7)わたしの心だ マタイ8:1〜4
☆聖書箇所     マタイ8:1〜4

1イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。
2すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」
3イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。
4イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」

☆説教     やさしい出会い(7)わたしの心だ

福音書の記述の中には、今日読んでいただきましたマタイの福音書の8章という、「ハンセン病に冒された人がイエスに出会っている」というこの出来事は、マタイでもマルコでもルカでも、(福音書では)イエスさまの宣教の働きの一番最初に出て来ます。一番最初に。

もちろんその前に出て来るのは、「イエスさまが弟子たちを召しておられる」という場面でありますけれども、一番最初の「出会い」として出て来るのが、実はこの記事でございます。

弟子(達の召し)以外では、イエスさまとこの男性の出会いが、どの福音書でも一番最初に詳しく記されているということは、それほど重要であり、それほどインパクトがあったということです。

で、今日はここに出て来る男性と、私たち自分自身を重ねてみたいと考えています。

2節にこの男性が「ツァラアトに冒されていた」というのは、(***高津教会で現在使用の)新改訳聖書の第3版です。
古い聖書(第2版)ですと、「らい病、つまりハンセン氏病にかかっていた」(となります)。
この事に触れずに、この出会いを語ることはできません。

昔1959年にアカデミー賞を取った有名な映画、大作に、「ベン・ハー」というのがあります。
一躍あの映画で有名になりましたチャールトン・ヘストンという人物がいますが、キリストの生誕から復活までを描いた壮大な映画でございます。
まだTSUTAYAで借りられますので(笑)、ぜひ一度ご覧になったらと思いますが――

主人公ベン・ハーのお母さんと妹がこの病気にかかって、らい病人の谷に過ごしている。洞窟の中で暮らしている、という場面が出て来ます。
旧約聖書の昔から、「人との接触を徹底して避けなければならない」という教えから、この病気を持った人は隔離され、家族とも引き離されて、社会から排除されて生活を送ります。
それは、一時のことではないです。それは、一生そうなんですね。

現代の医学において、この病はハンセン氏病と呼ばれています。
それはノルウェーのハンセンという人が、らい菌という病原菌を発見しました。
そして、それによって起こる病気であるということを解明したから、ハンセン病と呼ばれるようになるわけですけれども、つまりこれは細菌感染の病気ですね。

そう考えますと、この病気は、しっかりとした治療を受ければ癒されますし、別に遺伝的な病気ではありませんし、特別に感染力が強いわけでもない。
ですから、現代の医学においてはそれほど問題にされてはいませんが、私たちのこの新改訳聖書(第3版)が、「ツァラアトに冒された人」――この「ツァラアト」というのはヘブル語です。
ギリシャ語はレプロシー(***英語)から来る(***のもととなった?)レプロス(***もとは様々な皮膚疾患を意味した言葉)ですね。
でもギリシャ語を書きますと、もうすぐにレプロシ―、つまりらい病となり、それがこの病に苦しんで来た人々への偏見に結び付くということで、わざわざ解らないヘブル語の「ツァラアト」という言葉を新改訳聖書は取るようになりました。

それは、十数年前に「らい予防法」というのが、正式に廃止されます。
その予防法が出て来るまでは、日本の法律はなんとまぁ、二千年前の医学的知識とほぼ同じ、古びた習慣でこういう方々を隔離して来た、というその負い目がありますので、私たちはあえてこの「らい」という言葉を使わなくなりました。

新共同訳聖書では「重い皮膚病」となっていますけれども、それもまたちょっと語弊がありまして、皮膚病で苦しんでおられる方々は沢山ありますので、なかなか「重い皮膚病」というわけにもいかずに。

日本ではこの病気にかかりますと、こっそり戸籍を抜き、そしてある日忽然とその家から姿を消し、そして瀬戸内海の島ですとか、ある島にある療養施設で一生を過ごさなければいけない。
で、今、らい予防法が廃止されて、故郷に帰ることもできるわけですけれども、今更帰る家もない、故郷もないということで、彼らの多くは今だにその療養所で過ごしています。

有名な長島愛生園というの(療養所)がありますけれども、そこの牧師先生の息子さんを私(藤本牧師)はある時、神学校で教えていたことがあります。
非常に優秀な人物で――神学校、ま、大阪でありましたけれども――、
「神学校を終えた後、どこかへ留学するの?」という話をしましたら、
「いえいえ、施設に帰ります。自分の使命はその施設に入っている人を、最後の一人まで天国に送ること、それが自分の使命だと思っています」と言っておられました。

それほどの偏見、差別、そして隔離された生活というのは、日本の世界、現代でも思い浮かべることができると思いますけれども、
それは「ベン・ハー」の映画にあるように、この男性がどれほどの境遇にいたのか?
もちろん礼拝をしたことは一度もありません。人ごみに紛れることもできません。お風呂に入ることもできません。
それでいながら、どんどん病気は進んでいきますので、身体はやっぱりいろんな部分、抜けて行きます――指がなくなったり、鼻がなくなってしまったり。
昔のことですから、治療もなく、それをボロ布で覆っているような姿を想像してくだされば、解り易いと思います。

1)その人物とイエス・キリストの出会いが、どの福音書でも一番最初に出て来るということをまず心に留めていただきたいと思うんです。

おおよそ人前に出ることができない、人と接触してはならない、人が触れるものに自分は触れてはいけないという人物が、イエスさまに近づきます。

(イエスさまの)周囲には立派な宗教家もいました。
その宗教家たちは、熱心にイエスさまの教えに耳を傾けていました。
しかしイエスさまが最初の奇跡を行った人物というのは、そうした世の中で評判の良い立派な宗教家ではなく、なんと「ベン・ハー」で言えば、らい病の谷にどん底で暮らしていた一人の男であった。

そして聖書はいつも教えます。聖書の中では、ハンセン氏病にかかっている人は沢山いますけれども、それらは皆、私たち一人ひとりの象徴です。
私たちは神の御前に汚れた存在であり、神の御前に立つことができず、心のどこかで私たちは病みを持ち、また谷に暮らし、孤独の中にある、ということの象徴として、こうした人物が出て来る、ということを覚えていただきたいと思います。

2)この人物の信仰

2節をもう一度見ていただきたいと思います。

2すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。……

「ひれ伏す」というのは、前回も申し上げました。
マタイの福音書では、大事な場面でしばしば出て来ます
あのクリスマスの出来事で、東の国から来た博士たちは、幼子イエスの前でひれ伏した(***マタイ2:10)とありますし、
あるいは28章で復活したイエスに出会った弟子たちは、やっぱりひれ伏しますね(***マタイ28:17)。
「ひれ伏す」というのは、イエスを拝むという意味です。イエスを礼拝するという意味です。

らい病を患っているこの人が、イエスの前に進み出て、主イエスを礼拝した。
しかも彼は「主よ」と呼びかけています。
イエスさまを「主」と呼び、礼拝している。つまり、イエスさまの教えに耳を傾けて来た群衆ではなく、
御前に出ることさえできないこの人物が、このハンセン病の人こそが、先ず主イエス・キリストを礼拝した。
そして彼の大胆な、単純な信仰が出てまいります。2節の後半に――

2……「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」

「お心一つで」――不思議な表現です――「あなたのお心一つで、私をきよくしていただけます」と。
「イエスさま、直してください。癒してください。清くしてください」という願いではありませんでした。
原文を普通に直訳しますと、「お心一つ」というのは――もしあなたが意志するなら、もしあなたが望むなら、もしあなたが願われるなら――あなたの願い一つで、お心一つで、私をきよくすることができます。
あなたが心の中でふっと、「きよくなりなさい」と願ってくださるだけで、それだけで、私を癒してしまう程の力があなたにはある、という絶大な信仰を彼は表明いたしました。

いったい日頃隔離された、町から離れた病人だけが住んでいるような洞窟にいた彼に、イエスの何が解ったのか?
その詳しい事は一切わかりません。もしかしたら、直感的なことなのかもしれません。
しかし彼の願いは私たちの願いを代表している、ということは事実です。
「イエスさま、お言葉一つで、お心一つで、あなたの意志一つで、私の人生も、この世界も変わって行きます」

「主よ。私の病が癒されるように願ってください。私のたましいが赦されるように、救われるように願ってください。私の家族が守られるように願ってください。私の罪が癒されるように願ってください」
「私のために、あなたが願ってください」と、私たちはもちろん願いますが、私たちがその願いをイエス・キリストの心に託すように、
「イエスさま、どうかあなたが願ってください」と彼は、イエス・キリストを信頼しているのですね。
それは生半可な思いではありませんでした。

私たちは自由に礼拝に来ますが、それでも初めて教会の門をくぐるということには勇気が要ります。
しかし彼にしてみれば、そのらいの谷から、洞窟の中から、おおよそ人前に出ることのできない自分を意識しながら、勇気をもってイエスさまの前に出てまいりました。

3)さて、今日は一番大切な、この三番目の3節、ご一緒に読んでみたいと思います。

3イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。

このツァラアトというのが、皆さんの聖書によっては違う(言葉)かもしれませんね。
イエスは手を伸ばして、彼に触ったんですね。

聖書の中で、イエス・キリストが病人を癒しておられる場面は沢山出て来ますよ。沢山。
でも、いつも手を伸ばして触れているわけではないんですね。
この一番最初の出来事の中で、イエスさまは手を伸ばして、この人に触れておられます。
つまり、誰も触れない、誰も触れてはならない病気にかかった人を、主はわざわざ手を伸ばして、触れて仰いました。
「わたしの心だ。きよくなれ」と。

「わたしの心」というのは、いったいどういう心なのか?
それはこの人を憐れみ、それだけではなく、この人の切なる信仰に向き合う愛の心ですね。
孤独に寂しく、自分の問題を自分で抱えるだけしか、方法がない――一生その状態である人物に、イエスさまは手を伸ばして、愛の心を示してくださいました。
主の手が私たちに伸ばされ、私たちに触れられる。

息子が大学二年生の時か、三年生の時に、カルカッタのマザーテレサの「死にゆく人々の家」で夏休みにボランティアをした、という話はず〜っと昔にしたことがあります。
多くの学生が世界中からボランティアのために集まって来まして――あの皆さんもいらっしゃることができるそうです。
私(藤本牧師)は行ったことがないですけれども。

カルカッタの裏通りにありまして、朝8時に集まって、あなたはいったい何ができるか?そして自分の力量に応じていろんな所に配置される。
ま、ほとんどの人は、死にゆく人を背負ってシャワーに連れて行ったり、あるいは彼らが身にまとっているその布を洗ったり、あるいはその床を水で流して掃除をしたり、運ばれて来た人々の食事のお世話をしたり、トイレのお世話をしたり、ま、そんなことばかりするわけですけれども、
週に何人かが運ばれて来て、そして朝行ってみると、何人かの人が布に包まれてご遺体となって、外に運び出される――そういう世界だそうです。
息子は、病める方の身体を一生懸命マッサージして、おんぶして、水で汚れたところを洗い流して、というそんなボランティアをしていました。

なかなか難しかったと。何が一番難しいのか?
それは、スラム街で愛情というものに触れたことがなく、人のぬくもりを感じたことがない人々は、最後の最後でそのような場所に連れて来られても、そう簡単に心は開かない。
どちらかというと、有難迷惑のような方々も多い。そしてボランティアする若い人たちに厳しい疑いの目つきで、固く心を閉ざしている。
ま、死にかけている程病んでおられるわけですから、げっそり痩せて、でも眼の玉だけがぎょろぎょろして厳しい目で、こう触れようとすると、警戒して硬く縮こまってじっとこちらを見る――それが一番難しかったと言うんですね。
少々動くこともできるはずなのに、床で身体を丸〜くしたまま固まってしまう人を、何とか抱っこしてベッドに運んでいくというのも難しい。
身体も心も開かない人々の姿、そうした警戒した目つきが一番印象的だったと言っていました。

彼は、痛みに唸っている人にマッサージをする時に、勿論ゴム手袋をしてやっているわけなんですけれども、なかなかそのゴム手袋を取りたいんだけれども、取れない。
別に取る必要もないといえば、取る必要もないんですけれども、自分は取りたい。でも、それが取れない自分が情けなくて仕方なかった。
せめてその病んでいる患部ではなく、背中の一つを撫でてあげるという時に、どうしたら手袋を取ることができるんだろうか?

ある日お祈りをして、そして思い切って手袋を取ったと言うんですね。
そして、直に触れて、丁寧に身体を擦ってあげたそうです。言葉はもちろん通じません。
しかし手袋を取って擦ってあげたその時、その方の表情が突然やさし〜い顔つきに変わり、そして擦り終わった時に目に涙を浮かべておられた。
その様子を見て、息子は思わず大泣きをしたと言ってました。
そして自分の人生でこれほど泣いたことはないと。これほど泣いたことはないという程、泣いた。

「触れる」という動詞は独特なんですね。
新約聖書で37回出て来ますけれども、その内の32回が福音書に出て来ます。
そして「触れる」というその動詞のほとんどが、イエス・キリストに関わります。
イエスは「触れ」、また「触れられる」ことを良しとされるお方でありました。

誰もがここに出て来る病人に触れることを嫌がっていましたでしょう。
そして一番嫌がっていたのは、当時の宗教家です。その中でも、エリートと言われるパリサイ人です。
パリサイ人というのは、もともとヘブル語のパールーシュという言葉から来ていますが、パールーシュというのは分離するという意味です。
宗教的にきよくあるために、一切の汚れには触れない。(***レビ記11章〜)
それは道徳的な汚れも、食物の汚れも、病の汚れも、特に皮膚の病気、血液の病気にはことさら警戒して――触ってしまったら、自分も汚れてしまう。そして汚れてしまったら、自分は七日間きよめの時に入らなければいけない――彼らは触れることをいたしませんでした。

イエスはなぜ癒す時に、彼に触れたのだろうか?
それは明らかに、(彼が)誰にも触れてもらえない人だったからです。
そして「わたしの心だ。きよくなれ」(と仰ってくださった)。
「わたしの心だ。きよくなれ」の言葉の中には、込められているのは神の愛だけではないです。
神の強い願い、強い意志が込められています。
「わたしは、あなたがきよくなることを願っている。望んでいる。意志している」
「わたしは、あなたの罪が赦されることを願う。あなたが神の道を歩むことを、神の子どもとなることを、わたしは強く願う。わたしは、あなたを愛することを強く願う」
それは、イエス・キリストの絶対的な願いでありました。
イエス・キリストが何のためにこの世界に来られたのかの明確な宣言でした。
それは、この私をきよめるために、この私を救うために、この私を癒すために、ご自身のいのちを十字架の上で注ぎ出すために、主は来られました。
イエスは仰います――「さあ、あなたの手を差し伸べてみなさい。あなたの心を、わたしに向かって開いてみなさい。わたしは、あなたをきよめる。わたしは、あなたのために願う」と、仰います。

やがてイエスさまは、ルカの福音書15章で、たとえ話をされます。
そのたとえ話は、例えば「迷える子羊のたとえ」――こういう言葉です。

「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの1匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないだろうか」(***4節)とイエスさまは周囲の人々に仰ったのですね。

「九十九匹を野原に残して、失われた一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか」と、こう群衆に向かって話された時に、多くの人は思ったのかもしれませんね。
「いや、そんなことをする人はいないんじゃないでしょうか?迷い出ていない羊が九十九匹残っているのですから」
「捜したとしても、その一匹を見つけるまで捜し歩く、という所まではしないかもしれませんね」

どこまでも捜し歩く、見つけるまで捜し歩かないでしょうか?という気持ちは、恐らく私たちには解らないかもしれない。
でもイエスさまは、あたかもそれが当然であるかのように、「捜し歩かないでしょうか?見つけるまでは」と(語られる)。
それは明らかに、このらい病人を癒す場面で出て来る、イエスさまの熱き心でありました。

同じルカの福音書の15章に、今度は、「失われた銀貨の譬え話」が出て来ます。
「女の人が銀貨を十枚持っていました。その一枚をなくしたら(***8節)、
あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか」と、ここもまた主は仰いました。
「見つけるまで。念入りに。家を掃いて。灯りをつけて」

いや、銀貨九枚はまだ手元にきちんとあるんですね。そこら辺をざっと捜して見つからなければ、そのうちまた出て来る、と思うのが普通のものの考え方かもしれません。
でも、「見つけるまで念入りに捜さないでしょうか」というこの言葉の中に、
私たちの悩みのために、私たちの暗き病んでいる部分のために、神から背を向けて自分の身勝手な道を――やがてそれが死につながる道であったとしても――突き進んでいく私たちを救い出すために、
「わたしの心だ。きよくなれ」と仰るイエスさまの熱き愛が、私たちの心に注がれていることを覚えます。

☆お祈り

イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。
(マタイ8:3前半)

恵み深い天の父なる神さま、もしこの人物が隔離された集落に身を潜め、出て来ることがなければ、このような出会いはなかったのかもしれません。しかしあなたは、ほとんど何も知らないこの人物に、信仰のともし火を与えてくださり、「何とかして、何とかして救われたい。癒されたい」という思いを与えられました。そして彼が大胆に実行した時に、イエスさまは誰も触れないその問題に手を伸ばし、触れてくださり、「わたしの心だ。きよくなれ」と仰ってくださいました。

私たちの人生には、人に言うことのできない多くの問題があります。多くの悩みもあります。時に身体が病み、心が病み、また人生そのものが行き詰ります。どうか私たちに触れてください。私たちに手を伸ばして、そしてあなたの熱き愛によって、私たちを癒してくださいますように、よろしくお願いいたします。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2016.11.14 - 14:16

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