5/5神の人モーセ(36) 民のために 出エジプト33:12〜16 注意***週報ではタイトルが「神の臨在こそ」になっていますが、変更されました。
☆聖書箇所 出エジプト33:12〜16
12さて、モーセは【主】に申し上げた。「ご覧ください。あなたは私に、『この民を連れて上れ』と仰せになります。しかし、だれを私といっしょに遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身で、『わたしは、あなたを名ざして選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と仰せになりました。 13今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください。」 14すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」 15それでモーセは申し上げた。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。 16私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」 ☆説教 神の人モーセ(36) 民のために
――お知らせの追加―― 掲示板のところに貼ってありますけれども、今日、松井兄姉たちが主催しております「音の杜 あおば」 の市民オーケストラのコンサート(第8回杜のコンサート)が今日ございます。お時間がありましたならば、関内の方、県民ホールだと思いますけれども、ぜひいらっしゃっていただければ、喜ばれると思います。
ずっと、モーセの生涯から学んでいますけれども、今日はその36回目で、出エジプト記の33章をご覧いただきました。 一気に33章全部を学んでしまいますと、少し欲張ってしまいますので、回数を分けています。先週は33章の前半部分から学びました。
モーセとイスラエルの民は荒野を旅しています。そのモーセがシナイ山で十戒を神さまから受け取っている間に、40日民から不在でありました。モーセが不在であることに不安になった民はアロンに頼んで、偶像を造ってもらい、そしてふもとでお祭りをしていた。
十戒の第1は、わたしのほかに神々があってはならない。第2は偶像を刻んではならない。であるにもかかわらず、モーセが40日不在というだけで、民は偶像を造ってお祭りをしていた。神さまは人々の心変わりの早さ、その信仰の薄っぺらさに呆れて、一旦はこの民を見捨てようと思われましたが、モーセのいのちをかけたとりなしの故に赦してくださいました。
しかし、神さまは宣言されます。――わたしはあなたがたのうちにあっては、共に上らない、と神さまは同行することを拒まれました。 ここまでは荒野を旅する民の前に、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、神さまは同行してくださいました。しかし、これから先は、わたしは一人の使者を遣わす。でもわたしは共にあっては上らないと仰いました。
神さまが共にいてくださらないことを人々は悲しみました。――ということを先週学びました。 そしてモーセは、この荒野の旅路の期間中、いつも神さまと会見する恵みにあずかっていたということも先週学びました。
さて、今日のところです。12節の冒頭、ご覧ください。
12さて、モーセは【主】に申し上げた。
ということは、「さて」をもって話は元へ戻るということです。つまり使者を送るが、わたしは同行しないと仰った神さまにモーセが食らいついている場面が12節から始まります。
1) モーセが神さまに訴えていることに注目してください。
ちょっと丁寧に読んでいかなければ分かりません。12節(から)もう一回読みますね。
12さて、モーセは【主】に申し上げた。「ご覧ください。あなたは私に、『この民を連れて上れ』と仰せになります。しかし、だれを私といっしょに遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身で、『わたしは、あなたを名ざして選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と仰せになりました。 13今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。
まず言えることは12節で「だれを私といっしょに遣わすか、知らせてくださいません」――使者と言っても、いったい誰なのでしょう?その後で、「あなたご自身で、私を名ざして選んだ」と仰っている。しかも、神さまあなたは、私のことを、モーセのことを、「心にかなっている」とも仰っている。 そして13節の頭で、「もし、本当に私があなたの心にかなっているのでしたら」とこう始まるのです。
モーセは神さまの怒りと裁きのことばの背後に、わずかに隠されている恵みと憐れみを見つけて、ひたすらそれにすがっているのですよね。 モーセは神さまが自分に対して示してくださった行為――あなたは私を選んでくださいましたね。あなたは私を導いていてくださいましたよね。あなたは私を愛しておられますよね――(それらが本当)でしたら、あなたの厳しいおことばの背後にある、憐れみとその恵みをもう一回引き出してください。 神さま、あなたは私を愛しておられますよね。私の信仰を知っておられますよね。でしたら(その証しとして)、何とかこの民のために、私の家族のために、あなたの憐れみを現してください。 神さま、あなたは私を選んでくださったのですよね。その信仰を見ておられますよね。でしたら、どうか助けてください。あなたの道を私に教えてください。いや、私だけではありません。13節の最後、「この国民が、この民があなたの民であることをお心に留めてください」。
今日学ぶことのエッセンスがここにあるわけですが、モーセはこの複雑な事態の中で、民の薄っぺらな信仰、神さまに対する裏切り、それを前にして、それでも何とか神さまの憐れみを、モーセは見つめようとしているのです。
それで、もしかしたら、この民の信仰は薄っぺらいかもしれない。でも神さま、あなたは私の信仰は見ていてくださいますよね。神さま、私は御心にかなっているでしょうか?もしかなっているとしたならば、この民がどうかあなたの民であることを、またこの人も神の子であることをお心に留めてくださいと懇願しているのです。――これが私たちの姿です。
神さまの憐れみを見つめて、神さまの憐れみにすがっているのは実は民ではない。民は、神さまが同行しないと仰っただけで、ただひたすら悲しんでいる。これでもう同行してくださらないのか、と半ばあきらめている。
しかし神さまは憐れみ深いお方である、ということをモーセは知っているのです。ですから、モーセは「神さま、あなたは 私の信仰をご覧になっておられますね。私はあなたが憐れみ深いお方であるということを知っています。だとしたならば、私の愛する者を、私の民を、私の家族を、憐れんでください」とすがっているのです。
私たちはみな自分の家族が救われることを願っていますし、あるいは自分の友人や愛する者たちが神さまの恵みにあずかることを願っていますし、しかし必ずしも家族に伝道するということは簡単なことではありませんし、時に自分の子どもたちを見て、ああ、信仰薄き者たちよ(笑い)、とこういう風に思う場合もありますし、でもモーセのこの場面を注目すると、私たちはよくわかります。
神さまが同行しないというこの宣言に、実は民は悲しんでいるだけ。それだけです。 でもモーセは神さまが憐れみ深い方であることをよく知っているので、モーセは神さまの憐れみにすがるのです。 私たちが家族のために祈るとか、私たちが教会の愛する兄弟姉妹のために祈るとか、私たちがしばらく礼拝においでになっていない方のために祈るとは、いったいどういうことかと言いますと、私たちはモーセになっているのです。
2) このように懇願するモーセに神さまは仰いました。
14すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」
主は仰せられたということは、主が直接に語られた約束だということですね。 わたし自身があなたといっしょに行こう。――英語ではI myself 新共同訳聖書では、「わたしが自ら同行し」。 つまり、神さまはこの時点で、使者を遣わすということはもうやめたのです。わたし自身があなたと同行する。一歩一歩どこまでもいっしょに行って、あなたを導き、支え、力付ける。
「わたし自身が」ということばはヘブル語では「わたしの顔が」、あなたといっしょに行くです。 ちょっと民数記の6章24節を見てください。所謂旧約聖書の祝祷のことばですね。礼拝の最後に言うわけですけれども、24,25,26節をいっしょに読んでみたいと思います。
民数6:24『【主】があなたを祝福し、あなたを守られますように。 25【主】が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。 26【主】が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』
顔の輝き、神さまの顔の輝き、それがふさぎこんでいたモーセ、暗い気持ちであった民に力を与える。 モーセはあなたは使者を遣わすと言ったけれども、その使者がだれなのか私は知らない。あなたは道を示すと言うけれども、その道がどういう道なのか、私には分からない。あなたがごいっしょに行ってくださらなければ、私の人生、この民の行く道は絶望的です。 モーセが神さまの憐れみにすがった時に、神さまは「わたしがいっしょに行く」(と言ってくださった)。
顔って不思議ですよね。顔って不思議ですよ。この前も私、……の特伝に、新年聖会に行ったときに、新年聖会のポスターがあって、ポスターは普通に私の写真が載っていたのですが、教会員に配ったはがきというのを見せていただいて、そのはがきに私の顔が、その下に、「40代の頃の藤本満先生」といって、もうひとつ写真があった(大笑)。 これはいったい何を意味するのか(笑)。ねぇ、40代の頃のふさふさの髪の毛(大笑)、ふさふさでもないのですけれども、まぁ充分ある頃の写真と今の私が両方並んだはがきを見せられて、これはいったい何を意味しているのだろう(大笑)と、つくづく考えてしまいましたね。
顔って不思議なのです。私、先週の月曜日が山形県の鶴岡市に新しくできた教会の献堂式がありましたので、ま、ブロックアドバイザーの八木先生といっしょに鶴岡に行ったのです。しばらく、ビジネスホテルで話をしながら、TVをつけたら、糸井羊司君が出て来たのです(大笑)。 で、八木先生にですね、「先生、ちょっと話をやめて見よう」(大笑)と(いうことになりました)。我が家では糸井君が出て来たら、必ず見るのです。それは噛むか、噛まないか(大笑)。噛んだの見たことがない。NHKでべストのアナウンサー。それで二人でじ〜っと糸井君のニュースを見ていたわけですね。 その顔というのは、八木先生にしてみれば初めてです。でも私にとってみれば、ものすごく親しみのある、知っている顔なのです。自分の家族同然の顔なのですよ。 その顔が、山形の寂れたビジネスホテルにいますとね、本当に心が温まる。
皆さんの中には、お孫さんの写真を自分の財布の中に入れ、聖書に挟み、それを見て、ニタニタ、ニタニタ笑っている方(笑)もおられるでしょう。自分の愛する人の写真を仕事場に飾っておられる方もおられるでしょう。顔っていうのは、その人そのものですよ。
モーセはかつて、神と顔と顔を合わせて友のように語っていたと、先週学びましたよね。その顔が、神さまそのものが、モーセだけでなく、民に与えられ同行し、私たちはイエス・キリストのあのことば、マタイの福音書の最後、「見よ。わたしは、世の終りまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ28:20)(を持っています)。 というのは、私たちは主の顔がどういうのかは分からない。実際見たこともない。 イエスさまの像、あるいはイエスさまの御顔の聖画はいくつも見て来てますけれども、しかしイエスさまがいつもわたしと共におられるということを実感しながら、私たちは生きているではないですか。
モーセは主のことばを聞いた――「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう」(14節)というのは、あなたに平安を与えよう(という約束のことば)。 この約束を聞いて、ハドソン・テイラーは中国の奥地に伝道に行く。ウィリアム・カーレーはインドにまで伝道に行く。この約束を自分のものとして、C・T・スタッドはリビングストンはアフリカの奥地へ宣教に行くわけですね。
「あなたを休ませよう」といことばは難しいです。 私(藤本牧師)は、睡眠がもともと不得意です。睡眠が得意な人を見るとやっぱりうらやましいと思うし、叩き起こしてやろうかと(大笑)思うし、電車の中でいびきをかいて寝ている男性を見ますとね、こういう人は生き延びるんだろうな(笑)と思いますし、逆に自分自身を振り返って、あぁこういう人はすぐ死ぬんだろうなと思うぐらい、私は眠りが弱い。
一番この睡眠に影響を与えるのは心配事です。私が心がけていることは、夜中にメールは開かない。寝る前に電子メールを開いてしまって、見てしまいますと、そのことが延々と頭を巡ってしまうのです。ですから絶対に寝る前にメールを開かない。(自分から寝る前に)送るのは送る。でも届いたメールは読まない。厄介な相手だとすぐに捨てちゃう(大笑)、読まないのですけれども……。
あなたを休ませようってどういうことなのだろう?どんな危機にあっても、どんな孤独の中でも、どんなに追い詰められても、神さまがいっしょにいてくださる。その御顔の輝きが私のすぐそばにある。それが故に、私たちの心に平安が与えられるのです。
3番目、これが今日のメインですので、ちょっとじっくり見ていただきたい。
3) とりなすモーセの姿はさらに奥がある。
15節をちょっとごいっしょに読んでいただきたい。よろしいですか。
15それでモーセは申し上げた。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。
14節に「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう」と言う「あなた」はモーセです。モーセ自身を指しているのです。 ところが15節に「もしあなたご自身がおいでにならないのなら、私たちをここから上らせないでください」――つまりいっしょに行くと言ったらば、私モーセだけでは不服です、民全員と共に上ってください、と言った。だから「私たち」なのです。 16節に言い方が変わりますね。
16私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっているということは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」
モーセは言い方を「私」から「私たち」あるいは「私と民」という風に、徹底して言い換えていくわけですね。 神さま、私たちです。私モーセではなく、私たちなのですよ。 神さま、あなたご自身が共に行ってくださるのは、私モーセではなく、私たち、あなたの民全員と共に行ってくださるのですよね? 17節で【主】はモーセに仰せられた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう」ということは、「わかった。民といっしょに行こう」(と神さまはモーセの切なる訴えを聞いてくださったということです)。
これがモーセです。そしてこれが私たちです。 神さまが自分を祝福してくださる。自分といっしょに行ってくださる。 そして現状、自分の周りの者はみな不信仰で、神さまを簡単に裏切るような者たちばかりです。 でもモーセは、自分と周りの民をいつもいっしょに考えている。 周り、現状がどんなに難しくても、神さまの憐れみにすがって懇願する。
それは自分のためではなく、自分の愛する家族のために、モーセはしがみついて神さまに訴えている――もし私がみ心にかなっているなら、私と共に行くだけではなく、彼らと共に行ってくださいと。私だけではなく、私の家族すべてを祝福してくださいと。 私だけではなく、私と関わる者――もしかしたらそれは職場かもしれない、もしかしたらそれは家庭かもしれない、学校のサークルであるかもしれない――でもそれ全部と共に行ってください。
ひとつ話をして終りにいたします。 昨日、佐伯兄姉のお母さまからメールをいただきました。とってもあったかいくだりがありましたので、私はご紹介してもいいと思いますので、紹介して終りにいたします。メールの文章をそのまま読みますね。
「先日は園子のお祝いに病院までいらっしゃってくださり、ありがとうございます。とっても感激しておりました。無事に生まれてほっとしております。お祈りしていただいて心強かったです。週報にはいつも書いていただいた皆様のお祈りが届いて、S子は嬉しく実家の父親に、高津教会の心のこもったお付き合いを報告しておりました。お寺も見習ってこんな風に変わっていくといいわね(笑)と言っていたそうです。」
実はS子さんのお父さまは名古屋の大きなお寺の、しかも一番位の高いお坊さまなのですね。私はお会いしました。とっても紳士的な方で、国際的な方で、そして温かみのある紳士なのですよ。そして奥さまもそうで、あ、なるほどお寺の位の高〜いお坊さまも、これくらいの感覚だと、こんな国際的なお嬢さまがお育ちになるのかと思うぐらい、S子さんはとてもキリスト教的な雰囲気を持っている方なのですよね。
S子さんはなかなか、礼拝にいらっしゃることができないのですけれども、いつも自分の名前が週報に載っていると、このようにして、私のために祈っていてくださるということを、誇らしげに実家のお父さんに電話で話して、お寺もこうだったらいいねと(笑)言ったというのですね。私はとっても光栄に思いましたし、とっても嬉しく思いました。
時に、私たちはあまりにも同じことを祈っていますので、他にないのかと思うぐらい同じことを祈っています。実は教会の中というのは、一部の人しか知らない兄弟姉妹の課題とか、この方はこの方のために特別に祈っているとか、公に出てくる祈りもあれば、公に出てこない互いに祈っている課題もあるのです。
それらの祈りの中で、私たちはモーセと同じ思いを持っています。 それは、神さま、「あなたは私と私の家族だけを祝福してください。私と同行してください」――私はそれだけではだめなのです。 私の民といっしょに、この教会家族といっしょにあなたは同行してください。そしてどうか私と民全体を休ませてください(という祈りです)。
私たちはしょっちゅう、兄弟姉妹、あるいは周囲、家族の者たちのためにとりなしの祈りをします。それはまさに、モーセのごとくにとりなしているのだという自覚を持って、どこまでも主の同行を愛する者たちのために祈っていきたいと思います。
☆ お祈り
恵み深い天の父なる神さま、神さまはモーセを大事にされました。モーセとは顔と顔を合わせて、友と語るように話された(33:11)。でも、モーセは、それで満足しませんでした。私だけでなく、この民全員と、主よ、いっしょに行ってくださいと(懇願しました)。
しょっちゅう転んで、しょっちゅうつまずいて、しょっちゅう右往左往する民かもしれませんが、私と同じ恵みをあなたの民全員に与えてくださいと、せっついて祈ったモーセに「わかった。あなたが言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから」(33:17)と神さま、あなたはモーセに声をかけてくださいました。
どうか今朝、私たちにも同じことばを与えてください。あなたは私たちを名ざして選び、救いに導いてくださいました。それはとりもなおさず、私たちを用いてこの世界を祝福するためであったと(聖書は教えています。→創世12:2、同18:18〜19)
だとしたならば、私と共に同行を約束してくださったイエスさま、私の愛する家族、教会家族、私の仕事、私の抱えているさまざまな問題の中にもいつも入って来てくださり、その御顔の光をもって、私たちを輝かせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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