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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   11/20 やさしい出会い(8)恐れないで、信じ続けなさい マルコ5:21〜24、35〜43
☆聖書箇所    マルコ5:21〜24, 35〜43

  21イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。
22すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、
23いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
24そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。

  35イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」
36イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
37そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟のヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。
38彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、
39中に入って、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の共の者だけを伴って、子どものいる所へ入って行かれた。
41そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である。)
42すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。
43イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。

☆説教      やさしい出会い(8)恐れないで、信じ続けなさい

ここしばらく――(***右側から延びている棒の先のカメラに手を伸ばしながら語る藤本牧師)ここに音声を中心としたカメラがついています――それで30回ぐらい録らせていただいて、色々牧師がおられない教会、あるいは牧師が病気の教会で、説教の部分だけDVDでお配りできるようにしたいと思います。

それで説教の中に、教会員のことですとか、教会の状況ですとか、いろいろ入れたいなぁと思うんですけれども、他所で聞かれることを思いますと、どうしてもブレーキがかかってしまって、単調になりがちかもしれませんが、ちょっと我慢していただいて、とにかく日本の教会で、牧師のいない教会ものすごく多いです。10や20の話じゃなくて、100単位でございますので、ま、少し協力していただけると感謝かなと思います。

       *********************************************

今日は、マルコの福音書の5章、21節〜43節の間を25節から飛ばしていただきましたが、会堂管理者ヤイロがイエスさまと出会っている記事を見ていただきました。5章の21節――

 21イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。
22すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、

当時の世界で会堂管理という仕事は裕福な仕事です。社会的な地位も、経済力も将来の保証もあった人です。
そしてユダヤ教でありますので、どちらかと言うと、イエス・キリストを敬遠するような立場にあった。
ま、会堂の長老、祭司、律法学者は皆、イエス・キリストを敬遠いたしますので。
その彼が全部かなぐり捨てて、イエスさまの足もとにひざまずきます。
ひざまずいて、一生懸命願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています」
ひと言でいえば、全部捨ててもいい。その私の娘が病気から立ち直るなら、そんなもの、全部捨ててもいい。
熱で息が荒いのか、苦しそうな娘です。

私(藤本牧師)の娘が小学校一年生の時に風邪を引きまして、1週間引いていました。
一週間、37度、38度ぐらい(熱が)上がったり下がったり、学校を休んでいましたけれども、ま、軽い咳から始まりまして、なかなか咳が抜けないですね。
一度町医者に連れて行ったんですけれども、抗生剤と普通の薬をもらっただけで、ま、「それほど高い熱でないからいいでしょう」と。
最後三日ぐらい、ぐた〜っとしていて何にも食べられない。ぷっちんプリン(大笑)も食べられない。「何が好きなの?」「メロン」
メロンが何より好きでしたから、私(藤本牧師)は季節でもないのに、溝の口を回ってメロンを捜して来ました。
メロンを切って差し出したんですけれども、それでもメロンが一口も食べられませんでした。
その夕方から、熱がひどくなり、咳がひどくなり、かかりつけのお医者さんに電話しましたら、もう診療時間が終わっていまして、「明日の朝一番で診てあげる」
そして次の日に、もうちょっとかかりつけの医者では間に合わなくて、T病院に連れて行きました。
レントゲンを撮ったら肺が真っ白で、「菌を調べたらマイコプラズマ肺炎ですね。よく親御さんは、ここまで我慢をさせましたね」(大笑)と、怒られてしまいました。

あの時の、娘の荒い、苦しそうな息というのは、絶対忘れない。
ですから教会の小さな子どもがいますと、ついつい小さな咳をしているだけで、「もしかしたら、マイコプラズマ肺炎かもしれない」(大笑)と脅すように親に言ってしまう。「早い方がいい。悠長なことをしていたら我が家みたいになっちゃうよ」

(***その娘が)中学二年生の時に、心臓の手術を終えて手術室から出て来た時に、体中に何本もの管が入っていました。
手術室が二階で、その小児循環器系の病棟が四階で、エレベ―ターで上がって来るんですけれども、ま、親は関係ないわけですよね。
医者や看護婦さんに取り囲まれて、ストレチャーに載せられた娘が、4階のICUにばぁっとこう駆け込んで行きました。
医者も、もちろん本人も私たちを見る隙もなく、私たちは医者や看護婦さんの間から娘の状態を確認したんですけれども、それが娘であるかどうかもわかりませんでした。
しばらくたって、「ICUに入ってください。手術は成功しましたけれども、いま不整脈がひどくて薬を入れています。この不整脈が収まらなければ……」みたいなことを言われ――

私の母親(***藤本幸子師)は、(ずっと以前の)12月31日にくも膜下出血で、1月1日に13時間半の大手術でございました。
これも厳しい手術でありました。

姉(***戸塚姉・高津教会のオルガン奏者)が山から滑落した病院での日々――それはそれはこれからの将来を案ずるような日々でありましたし、
市民病院は立派なのに、富山の駅はどうしてこんなにさびれているんだ(大笑)と思うくらい、何かこれからの将来を案ずるかのような道を歩いているだけで、戸塚兄はしんどかっただろうなぁと思います。

ヤイロの娘は瀕死の状態で、彼は顔を地面にこすりつけて懇願しますね。
顔を地面にこすりつけて懇願するという気持ちが、実は私たちはよくわかります。
もしイエスさまが、問題課題を背負っている私たちの前に現れてくださったら、私たちは顔を床に擦りつけて懇願します。
「何とかなりませんでしょうか?」「どうにかなりませんでしょうか?」「あなたの助けをいただけませんでしょうか?」

ヤイロはイエスさまと交渉なんかいたしません――自分が今までどれほど神さまに仕えて来たのか――そんなことを盾にとって交渉しません。
強がることもありません。彼はひたすら、ひざまずいて願います。
一寸先が闇。全くの目隠し状態で生きていて、突然この問題に突き当たったのがヤイロでありました。
自分の家族の危機。あるいは、私たちで言えば、自分の仕事の危機、自分の家庭の危機です。

さて今日の私たちの課題は、
このように懇願しているヤイロに、イエスさまはどのようにして出会われたのか?
イエスさまは彼に何を語っておられるのか?を、3か所、聖書に目を留めていただきたいと思います。

1)イエスさまご自身がヤイロといっしょに出かけられた。(24節)――ヤイロの一生懸命の祈りに答えられて

先ず一番目が24節です。お読みいたします。

24そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。

懇願して何のやり取りもない間、24節「そこで、イエスは彼といっしょに出かけられた」とありますね。
誰かを遣わすことなく、イエスさまご自身がいらっしゃったということです。

モーセの場合も同じでありました。(***出エジプト記33章)
モーセは荷い切れない重荷を持って苦しんでいます。
率いている民があまりにも自分勝手なので。
自分の都合しか、神のことが考えられない、その身勝手な民を、どのように引き連れて約束の地に上ることができるのか?という課題にモーセが直面した時に、それは絶望的な仕事でありました。
神さまはモーセの重荷を理解して、モーセに提案されました。
「わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わそう」(2節)と。

でも、それでもモーセは安心できませんでした。
すると、神は仰います。
「わたし自身が(いっしょに)行って、あなたを休ませよう」(14節)と。
民の中にモーセの理解者はひとりもいません。不安だらけのモーセに神は、
「わたし自身がいっしょに行ってあげよう」と(仰いました)。

この場合もそうです。
地面にひれ伏して、神に願いを請う会堂管理者ヤイロに、イエスさまは彼と一緒に出かけられた。

私たちが無理難題を背負いながら、誰かに会わなきゃいけない。あるいは病院の検査を受けなければならない。
イエスさまが彼と一緒に出かけられると言う――それは彼がイエスさまの所に来て、「どうか娘の上に手を置いてやってください」と言う。
「どうかお出でください。娘の上に手を置いてやってください」――
この願いにイエスさまは応じて、イエスさまはいっしょに行ってくださるのですね。
この願いがなければ、イエスさまはいっしょに行ってないです。

私たちはありとあらゆる課題に、
「どうかお出でください。来てください。そして私たちの問題課題の上に、あなたの御手を置いてください。私の力ではどうしようもありません」(と言う)
――この祈りが主を動かす。キリストを動かす――ということを覚えておかなければいけないと思いますね。

36節を見ていただいて、第二番目のポイントなんですけれども――

2)イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」(36節)

(先の場面から)間は飛びますけれども、こういう風になります。
35節から36節を、私(藤本牧師)が35を読みますので、皆さんは36を読んでください。

  35イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」
36イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」

「恐れないで、ただ信じていなさい」と。
ヤイロは、足早にイエスさまを連れて、一路自分の家に向かいました。
信仰と呼べる信仰ではないですね。信仰と呼べる信仰ではないと思います。
とにかくイエスさまを連れて行くことに必死であったと。
しかし、その小さな信仰の炎が消えそうになるのが、ま、現実なんですけれども。

第一に、途中でイエスさまは病気の女性に会ってしまいます。
一刻を争う中、十二年間出血が止まらない女性に出会い、その女性を癒し、その女性と会話をしている間に、だんだんだんだん時が経ってしまう。
ヤイロは、それが気にして気にして仕方がないんですけれども、
このタイムロスの間に、娘は実は死んでいた。ヤイロは知りません。

ようやく切り抜けたなぁと思って、自分の家に向かって行ったら、家の方から伝言が届きます。
そちらの現実は非常に厳しい。今こそ致命的ですね。35節の「お嬢さんはなくなりました」と。
「なくなった」と言うのだったら、「直してください」と言うのはもう意味がないですね――ですから、来ていただくだけ無駄です。
「先生を煩わす必要はありません」というのは――もう来ていただいても、為す術がありません。ご主人さま、あなたの家では、お嬢さんのために、もう葬儀が始まっている頃です。

36節に「イエスは、その話のことばをそばで聞いて」「そばで聞いて」――口語訳聖書では、「イエスは、この話のことばを聞き流して」です。「聞き流して」。
訳の違いは、世界の様々な言語の翻訳に存在します。
実に単純で、もともとのギリシャ語はパラ(傍らに)、クーオ(聞く)、「傍らに聞く」という意味です。

「傍らで聞く」というのは、どんな言語にも二つの意味があります。
@文字通り、「傍らで聞いた」「立ち聞きした」と。イエスは、「立ち聞き」して、会堂管理者に言われた。それがこの場合ですね――そばで聞いて、立ち聞きして、言われた。
Aもう一つの意味は、傍らで聞いたんだから、「そんなのは気にしない」「無視する」という意味があります。

私(藤本牧師)は後者の解釈の方が適切かなぁと思います。
私たちがイメージしなければいけないのは、私たちの所に届くbad newsをイエスさまはいつも傍らで聞いておられる。
いつもそばにおられるイエスは、私たちの所に来る悪〜い二ユース、心を騒がすニュースを、傍らで聞いていてくださる。
そして私たちに声をかけてくださる――「わたしを信じなさい」
そのニュースに惑わされずに、そのニュースに振り回されずに、そのニュースを無視するかのように仰る。
「恐れないで、ただ信じていなさい」と。(36節)
回りの声に耳を塞ぐ。気にかけない。無視するかのように、「恐れないで、ただ信じていなさい」。

私(藤本牧師)、以前にもこの話を出したことがあるんですけれども、昔、正月明けに教会の親睦会がありました。
それはまだ畳敷きのこの教会堂の以前で、そしていすを全部脇に退けて、座布団を敷いて、一月の第二の日曜日だったか、水曜日だったか、
みんなで食事を持ち寄って、そして食事を食べた後位にゲームをする。
ゲームはY兄が担当でありました。(現在)兄弟は少し腰を痛めて、もうすぐ帰っていらっしゃいますが――

この古い畳敷きの教会堂で、私(藤本牧師)はまだ中学生でありました。
このゲームだけは忘れないというゲームだったんですが、いろんなゲームをした最後に、Yさんが、Nさんだったか、ふたり位会堂に残しまして、
「これから目隠し障害物競争をやります」と。
で、みんなが応接間に引っ込んで、
「これから障害物を置きます。置かれる障害物は熱いお湯の入ったやかん、冷たい水の入ったたらい、それから画鋲(大笑)。ね、その他様々です」と。

そして5人ずつグループになって、出て来るわけです。私は三番目のグループ位だったわけですけれども。
一旦その障害物を取った人は目隠しを外して、そして皆さんを誘導してくださる。「そこが危ない」とか言うわけですよね。
私は自分の番がやって来て行くわけですけれども、完全に見えない状態、何も見えない中、声だけは聞こえるんですよ。
「あぶない!」「そこ、やかんだから!」とか「危なかった!もうそこは画鋲だらけ!」(大笑)とか、いろんな声を右から左から聞くわけですよね。
そして何とかもう恐る恐る歩いて専念、杞憂を乗り越え、ゴールして見隠しを外すと会堂には何一つない(大笑)。何一つないわけですよ(大笑)。

それを全部のグループがやるんですよ。
最初のグループはYさんとNさん位にわぁわぁわぁわぁ言われて、だけどその人数が増えれば増えるほど、それはスリルが増すというか、恐怖感が増すんです(大笑)。
ものすごくリアルに「あと5センチで画鋲」とかいう風に言われると、もう右にも左にも行けない程、ビビってしまうわけですよね。
ここで転んでしまったら、たらいの上に、やかんの上に、自分の身がかかるのかと思ったら、転ぶことができないので、何人かはそこで立ち止まってしまう位、恐ろしい思いをいたしました(大笑)。

私たちというのはみんな周りの声に踊らされるものですね。
私(藤本牧師)は特に踊らされますね(大笑)。
「危ない」と言われればビビるし、「なんかきょう顔色悪いんじゃない?」と言われただけで、ほんとに体調が悪くなっちゃいますもの(大笑)。
それくらいこの影響力が激しいと言いますか、ね。
私たちは明日に対して目隠しで生きています。誰もが目隠しで生きていますね。

よく最近もあるじゃないですか。お医者さんがストレート過ぎると。
M兄が以前言っていました。
「お医者さんは、後々あれも起こったら、これも起こったら困るから、先に起こりそうな可能性を全部話す」と。
私の父(藤本栄造牧師)も肺炎で入院して、これで最後かと思って(大笑)、わずか六日ぐらいで退院してしまいましたが(大笑)、本人はもうこれで最後かという、それ位お医者さんは、こうなった場合、ああなった場合という風にいろいろ仰ってくださいますね。

そばにいるイエスさまは、「そんな声に気にもかけずに、ひたすらわたしを信じていなさい」と仰ったんです。
これは(***語気を強めて)難しい。いいですか。これは難しいです。
というのは、周りからの声は、あらゆる方向から来ますから。
そして私たちは「私たちなりのベストを尽くさなければいけない」という意識がいつもありますし、
そしてそういう声に耳を傾ければ傾けるほど、イエスさまは何メートルも先の存在になってしまいますね。
でも本当はすぐそばにおられて、私たちのことを聞いていてくださる(アーメン)。聞いていてくださる。
私に届く、私が聞いたものすごく嫌なニュースを、イエスさまもまた聞いていてくださる。

三番目、40節をご覧ください。もう終わりですね。

3)イエスはみんなを外に出した(40節)――神の恵みは厳しい現実を越えて行くということを教えるために、現実を遮断して神の前にひとり祈るために

娘は死んで葬儀の準備は始まっています。
38節から私(藤本牧師)が読んでいきますので、目で追ってください。

38彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、
39中に入って、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれた。

イエスさまが家に着いてみると、もうすぐに笛吹く者たちや騒いでいる群衆が家を囲んでいました。
葬儀の準備が始まっているということですよね――ヤイロはそれを見て、泣き崩れたはずです。そうですよね。
さっきはイエスさまに、「娘の所に来て、手を置いて癒してやってください」と言う時は、イエスさまに頼むために、彼は地面にひれ伏した。
だけど、自分の娘が実際に死んでいる姿を見て、彼は泣き崩れたと思います。

道の途中で、悲しみの伝令に会った時には、まだほんの少しの可能性があったかもしれない。
しかし、実際に葬儀の状況を見ますと、もう「なんであそこ」「もっと早く行けなかったんだろうか?」「もっと早くお連れすることができなかったんだろうか?」「連れて来ても、所詮無理だったんだろうか?」ということが全部爆発して、涙があふれて、その場に崩れてしまったに違いないですね。
そして先ほどイエスさまが仰った、「恐れないで、ただ信じなさい」という言葉が、風に吹かれたもみ殻のように意味もなく消えて行くんですね。

そして暗いムード、現実の光に満ちた世界の中に入って行こうとした時に、イエスさまはほとんど意味のないことを仰る。
「娘は死んだのではない。眠っているのだ」(39節)。
もちろん、そうは仰いますけれども、それを聞いていた人々はあざ笑いますね。
普通の人でしたら、だれでも「そんな冗談はやめてくれ」と言います。これは一般常識だと思いますね。

つまりヤイロは「恐れないで、信じ続けなさい。信じていなさい」という言葉を聞いた時に、何とか頑張ろうと思ったに違いない。
もうだめかもしれない、という思いをぐっと内側にしまい込んで、何とか頑張ったんです。
でもいま直面しているのは、まさに鳴き声、ざわめき、絶望の涙、常識の声。
「恐れないで、ただ信じ続けなさい」と言われましたけれども、でも現実ではそううまくいかなかった、やっぱりうまくいかなかったという方に、グル〜っとこう流されて行きます。私たちもそうですね。

そもそも風前の灯のようなヤイロの信仰は、完全に吹き消されてしまった。
その時にイエスさまはみんなを外に出されました。追い払うように出してしまわれた。
外に出したということは、この奇跡が見世物にならないために、外に出したんだろうと思います。
しかしヤイロにとっては、さらに意味がありました。
私たちの信仰が風前の灯になる時に、それは、現実の世界に目を覆われ、耳を傾け、そうこうしている内に益々現実的になります。
益々現実的になる。

しかしながら、イエスさまの恵みはそれを越えて行くんです。
つまり、こういうことです。
仮に、私たちがその愛する者のために祈り、愛する者のために祈り、教会の皆さんに祈ってもらい、しかし状況がすでにもっと悪くて、天に召されるということがあるでしょう。
そしてその時必ずしも、娘がよみがえるようなことはないかもしれないです。
その現実に包まれた時に、私たちは益々現実的になり、益々その現実の世界に深〜く自分を閉じ込めます。
そして自分の愛する娘がもう自分と共にいない、それをもってして、自分の人生は終わるんですね。
きっと私たちにも、それほど自分の人生が終わるのではないか、終わってくれた方がましだと思えるような瞬間があるのかもしれないです。
その現実さえも、イエスさまはシャットアウトして、神の恵みはあなたに降りかかった厳しい現実を越えて行く。

ヨブの場合、7人の子どもを失ったという、7人の子どもは生き返ることはしませんでした。
でも神さまは、ヨブに同じ人数だけの子どもを後にお与えになります。
それは紛れもなく、「ヨブの人生はあの人災、天災に遭ったあの日に、すべてが終わったわけではなかった」ということです。

私たちはこれほどの悲しみを味わったのならば、自分の人生はあの日に終わらせてしまいたいと思う。
でもイエスさまは、そういう風に考えている人すべてをその部屋から追い出し、そして神の恵み、神の力は、それらの現実を越えて行くんだということを、この男性に、弟子たちに、私たちに教えようとされたんですね。

別に霊的な世界に閉じこもってしまうということはない。
でも現実の世界に閉じこもってしまうということはある。
「その現実の世界から引き出して、どこまでも神さまが与えてくださる新しい力、新しい可能性、新たなる希望にあなたの信仰をかけなさい」と言わんばかりに、(イエスさまは)現実的なものを全部遮断して、
ヤイロがただ一つ、自分の人生とイエスさまを見つめることができるように、周りの者を追い出されたんです。

イエスさまはかつて仰いました――「祈る時に、戸を閉じて祈りなさい」と(***マタイ6:6)。
もちろんそれは、人目を買うような祈りをするなという意味です。
あぁ、あの人は祈っているんだ、と思えるようなそんな偽善的な祈りはするなという意味ですけれども、もう一つ「戸を閉じて祈る」とすると、
「あなたの現実を遮断して、わたしの前に静かに座りなさい」という意味も含まれているのではないかと思います。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、現実とのせめぎ合い――私の所にやって来る様々な問題課題といつも戦いつつ、あなたの御前にひれ伏し、あなたご自身を連れていながら、それをつぶしてしまう程の嫌な思い。
「でも、それだけであなたの人生は終わらない。死んだ者が生き返る、死が生へとひっくり返るほどの奇跡があなたには可能である」ということを、教えていてくださることを心から感謝いたします(アーメン)。

ヤイロはこの出来事によって、人生そのものが変わったはずです。実は私たちの人生にも、そのような自分の人生が変わってしまう程の出来事がありました。でもいつの間にかまた、現実に捕われてしまいます。

時には現実を遮断して、ひとりあなたの御前にすわる、戸を閉じてあなたに祈るような私たちでありますように。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

※説教は藤本牧師が語られたままですが、ポイントの文章1)2)3)は、こちらで考えたものを書きました。T・Y

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2016.11.21 - 17:26

175.133.12.55 - Mozilla/5.0 (Windows NT 6.3; Win64; x64; Trident/7.0; MALNJS; rv:11.0) like Gecko

ダメな、私 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 61.198.87.213
苦しい所を通っている、私に、希望と、信頼を新たに与えていただきました。感謝です。
2016.11.25 - 16:07 
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