※今週はまだ動画が掲載されておりませんので、録音だけに頼りましたが、どうしても聞き取れなかった箇所など、読みづらい箇所がありますことをご了承ください。 ――12/1夜に動画に気づき、沢山の箇所を訂正・加筆させていただき、改めて動画に感謝です。T・Y
☆聖書箇所 ヨハネ1:9〜14 9すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた。 10この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 11この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。 12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 13この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。 14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
☆説教 出会ってよかった
今朝はヨハネの福音書の1章を見ていただきました。当然1章を開いていただきましたのは、きょうはアドベントの第一の聖日だからであります。 そして、この1章の9節〜14節までの箇所と、それから聖歌隊が最後に歌ってくださいましたモーツァルトのAve verum corpus、日本語で歌っていただきましたけれども、そのお話を兼ねてしばらく語らせていただきたいと思います。
(Ave verum corpusは訳して)「貴き救い主」とありました。 ちょっと週報の裏(この記事では冒頭☆讃美歌の所の4つの讃美歌)を見ていただきますと、きょう歌っていただいた曲が出てまいります。 2番目のDona nobis parcem、(ドナ ノビス パッチェム)――パッケムと言う人もいますが――これはミサ曲で、「平和をわれらに」で、これは作られた方が、不詳ですね、バッハも同じ曲で作曲しています。 これは輪唱形式になっていまして、同じフレーズがずっと続きます。 donaというのは与えてください。nobisというのは私たちに。それからparcemは平和を。ですから「平和をわれらに与えてください」です。
「ミサ曲」とこう書いてありますが、ミサ曲というジャンルを、皆さんお聞きになったことがあると思います。 言うまでもなく、カトリックのミサ、つまり礼拝の順序に合わせてできた讃美歌です。 20世紀の第二バチカン公会議(***1962〜1965)というカトリックの大きな会議がありましたけれども、そこに至りますまで、ミサ曲はすべてラテン語でありました。 ラテン語で歌われ、そして教会で読まれる聖書もラテン語訳の聖書でした。 バッハ(*** 1685 〜1750)には大曲が沢山ありますが、ドイツ人でルター派に属していましたので、ルター派にはミサ曲がいくつも存在していますが、 バッハが教会で有名なのはコラールだと思います。 コラールというのは、私たちが今日礼拝で歌いましたように、みんなで一緒に歌う会衆讃美です。 でも同じドイツの地方でも、南のドイツ、今で言いますとオーストリア、オーストリアは宗教改革(***1517)の後も、強くカトリック教会が残った、存続した地域でありました。 で、理由は割と単純で、N兄がその専門でありますけれども、それはオーストリアのハプスブルグ家というあの偉大な貴族がいるからです。 このパプスブルグ家というのは、オーストリア、スペイン、そしてフランスに勢力を保ちましたので、どの国も宗教改革の後もカトリックが強く残りました。
きょう一番最後に歌っていただいたこのAve verum corpus(アベ ベルム コルプス)というこの曲は、モーツァルト(***1756〜1791、35歳)の作曲です。 とってもきれいなハーモニーで、曲の抑揚が、あ、なるほどモーツァルトだなぁと思います。 ですから、今のオーストリア、ザウツブルクで生れ、そしてウィーンを拠点に活躍したモーツァルトの宗教曲はコラールではない。 彼はカトリックですから、ミサ曲であります。
で、Ave verum corpus(アベ ベルム コルプス)の詞の一部を週報に掲載しました。 ちょっと複雑なのですが、見ていただきますと、そこにラテン語なんですが、アルファベットが出ています。 【Ave verum corpus natum de Maria Virgine. Vere passum immolatum in cruce pro homine: Cujus latus perforatum unda fluxit et sanguine.】 一番最初が、Ave verum corpus 日本語では、「めでたし、乙女マリアより生まれ給いしまことのお身体よ」とこう始まるミサ曲なんです。
で、皆さん、ミサ曲ですから、それぞれ礼拝の順序で行くと、どこで歌われる讃美歌なのか想像がつくと思うんですね。 クイズで言いましたならば、このモーツァルトのAve verum corpusは、いったい礼拝順序の中で言いますと、ミサの中でどこで歌われるのか? 当然、三つ目のこの言葉、corpus(コルプス)という言葉を見たら大体想像がつくと思いますが、corpus(コルプス)というのは、身体です。verum(ベルム)というのは真実なる。「乙女マリアより生まれし真実なる身体。その身体は人々のために、十字架の上でまことの苦しみを受けられた」 この讃美歌は(カトリックでは)ミサにあずかるとき、すなわち(私たちプロテスタントは)聖餐にあずかるときに歌われる讃美歌です。
ですから身体というのは、聖餐のパンのことです。 で、今日はこれにかけて、3つのポイントでお話したいと思います。
1)主イエス・キリストが「身体」と言われていることには大変な意味があります。
それは私たちはこれから共にクリスマスを祝おうとしていますが、キリストは人となって、私たちの間に住まわれたという。 「住まわれた」というのは、ヨハネの福音書の1章の14節に出て来ます。 ヨハネの福音書の1章の14節だけ最初にもう一度読んでおきたいと思います。よろしいですか?ご一緒にお読みいたします。
14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
これが今朝の礼拝の聖句です――「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」
ヨハネの福音書の始まりは「初めに、ことばがあった。」(ヨハネ1:1)とこう始まります。これは有名です。 ヨハネが生きていた時代のギリシャ哲学には――ロゴスというのは「ことば」ですけれども――ロゴスという言葉を中心にした哲学がありました。 ロゴスとは天地万物を貫き、宇宙を支配するある種の力、ある種の原理、ある種の道理、ある種の理念であります。 ギリシャの人々は――そのロゴスがいったい何であるのか?何を教えてくれるのか?――永遠と論じました。 しかしヨハネは、なんと「そのロゴスは人となって私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)と言います。
クリスマスの出来事です。 これをルカの福音書(***2章)で見ますと、人となって生まれたという時、なんと人となって生まれたロゴスは、馬小屋で生れ、「飼い葉桶に、布にくるまって寝かせられた」と記しています。
ヨハネの福音書では、いきなりその部分を飛ばして、その方が「人となって、私たちの間に住む」(1:14)と言う。 「私たちの間に住む」というのは、私たちの近くに引っ越して来た、私たちの隣に住まわれた、というような感覚ですね。
この感覚というのは独特で、ヨハネの福音書を読み進めて行きますと、キリストはヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けます(***3章)。 この方は宿に泊まり、そして夜遅くにニコデモが会いに行きます(***3章)。 この方はサマリアの井戸のそばで、のどが渇いて座っておられます(***4章)。
つまりギリシャ哲学で、概念として、理性として、理念として宇宙を導き保っているのではなく、ロゴスはイエス・キリストであって、人となって私たちの間に住まわれた。 私たちの所に来てくださり、私たちはこのロゴスと出会うことができる、というのがキリスト教の福音であります。
14節をもう少し詳しく見てみましょう。 「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」キリストのみわざは、神の栄光に満ちていました。 福音書を見ますと、悪霊を追い出し(***ヨハネではありませんが、マルコ16:9、9:14以降やルカ11:14など)、湖の嵐を静め(***6章)、何千人もの空腹を5つのパンと二匹の魚で満たし(***6章)、病める者を癒し(***5章)、死んでいる者を蘇らせる(***11章)という恐ろしいばかりの神の栄光の記事で溢れています。
そのキリストの働き、神の栄光を、私たちはどのように要約すればいいんでしょうか? そのような栄光があるとしたら、罪深いこの世界を消し去るほどの光であったのか? あるいは末端にいる者、罪深い、弱い私たちが近づくことができない程きよい栄光であったのか? いえいえ、14節の最後を見てください。キリストが見せてくださった栄光とは―― 「この方は恵みとまことに満ちておられた」と(記されています)。 「まこと」というのは、真実という意味です。約束したことを真実に成し遂げてくださる方。 「恵み」というのは、私たちを大切に大切に思ってくださる思いです。 それに溢れていた。一言で言えば、この方は愛に溢れていた。 この方は人となって生まれ、私たちのすぐそばに来られ、私たちと出会い、そして栄光を見せてくださり、その栄光は罪深い私たちを一瞬にして消し去るような栄光ではなく、私たちを抱え、私たちを抱きかかえて慰め、助け、救いに導く栄光であった。
ヨハネはやがて3章の16節で、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」(と説明しています)。 「世を愛された」――それは罪深い世を裁くためではなく、罪深い世を、罪深い私たちを救うために、イエス・キリストはこの世界に来られた、と記してあります(***3:17)
やがて主の身体は十字架にかかり、血を流し、私たちの罪の裁きを代わりに受けてくださいました。 それがこのcorpus(コルプス)まことの身体。人となり、人の苦しみ、人の悲しみ、人の罪深さを全部その身に受け、十字架にかかってくださった、その身体という讃美歌を、皆さん、先ほどお聞きになったわけです。
2)corpus(コルプス)となられたキリストを、私たちは受け取ることができる
ですから先ほどの一番最初に紹介しました讃美歌のタイトルは、Ave verum corpus(アベ ベルム コルプス)ですね。 Ave(アベ)というのは、アベ・マリアのアベです。 一体どういう意味なのか? 実はAve(アベ)というのは、挨拶の言葉ですね。 ですから新約聖書の中でこのラテン語は何回も出て来ますけれども、これはその場その場で訳が変わっています。 天使がマリヤに現れ、そして「おめでとう、マリヤ」(と声をかける)――これが「アベ・マリア」です。(***ルカ1:28) 挨拶ですから、受胎告知の場面で天使がマリヤに現れたら、これは日本語で「おめでとう」と訳しても何ら問題はない。 ですからAve(アベ)は「おめでとう」。でも、「こんにちは」でもいいですね。「やぁ」でもいいのかもしれませんね。「やぁ、マリヤ」 復活の主が弟子たちに出会った時に、イエスさまは弟子たちに「おはよう」と言います――これもAve(アベ)です。(***マタイ28:9) なぜ「おはよう」なのか?それは復活の主が弟子たちに出会われたのは、朝でしたから、挨拶のことばは「おはよう」と訳されています。 でもこれも「やあ」でもいいのかもしれません。
つまり、Ave corpus(アベ コルプス)と言った時に、この身体は私たちと出会う、この身体を私たちは受け取ることができるんです。 神は私たちと出会うお方であり、その出会いは普通の挨拶の言葉をもって始まる。 私たちの一日が「おはよう」という挨拶で始まるように。 あるいは、私たちがしょげている時に、「大丈夫。わたしが共にいてあげるから」という、この「大丈夫」という言葉も込められているかもしれません。 私たちが悲観に暮れている時に、「さぁ、顔を上げなさい」と仰る神さまの語りかけ。 「さぁ」で始まるように、「受け取りなさい。わたしの身体だ。あなたのためだ」と言って、イエス・キリストはご自身を私たちに差し出してくださる。
私たちはこの所、キリストと出会う(「やさしい出会い」)というシリーズで学んでいますけれども、キリストと出会う時に、まさにそのキリストは何かの理念や、何かの原理ではなく、何かの精神ではなく、イエス・キリストというその人物と私たちは出会う。 しかも、実に気軽な挨拶で始まるかのように、私たちはこの方を受け取ることができる。 私たちにこの方は尊いご自身の御身体を差し出してくださる、ということを覚えておきたいと思います。
3)この出会いに対して、私たちはどのように応答すべきなのか?
ヨハネ(の福音書1章で)はこういう風に記されています。 11節と12節を見ていただきたいと思いますが、私が11節を読みますので、皆さんが12節を読んでみてください。
11この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。 12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
私(藤本牧師)はこの12節が大好きです。 それは――この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神のこどもとされる特権をお与えになった――この「すなわち」という言葉が非常に興味があります。 「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々」 私たちクリスチャンは、キリストを信じる者という風に考えています。もちろんキリストに従う者という見方もあります。 神を信じる、キリストを信じる、その「信じる」という、その心の動きというのは、どういう風にして生じるのか? もちろんこの「信じる」というのは、信頼するという意味です。 全身全霊をもって、自分の期待を、自分の悩みを、キリストの上に乗りかかるように、キリストに信頼するという言葉です。 私たちは信頼することができないものに、自分の全体重を乗せることができません。
よく言いますよね。ライフセーバーの人たちは、溺れている人を助けようとする時、溺れている人はもがいてもがいて、そこに助けの手を差し伸べてももがくんですね。 あんまりもがく人を、ライフセーバーの人は一発殴って(笑)、息の根を止めるんですね。 そうしますと力が抜けて、水に浮きますよね。そうすると自然にその人を浜まで連れて来ることができる。 もがく人というのは、助けに来た人に信頼をもって自分の身を預けることができない。
私たち信仰者にとって最大の苦悩というのは、最大の難しさというのは、イエス・キリストに信頼をもって自分の人生を預けることができない(こと)。 ですから順調な時は、私たちはキリストを信じると言って、キリストに預けているかのように振る舞いますけれども、いざ試練がやって来ると私たちはもがきます。 そしてそこら中にある人間的な助けに手を伸ばして、何とかこの問題を自分で解決しようと動いてしまうのが、これが人間ですね。
イエスさまは仰いました。「神の国は、子どもたちのようなものだ。あなたがたは子どもたちのように、わたしを受け入れなければ、神の国に入ることはできない」(***マルコ10:13〜16)。 子どもは本当に純粋ですね。 (子どもが)お母さんに何の心配もなくその胸に抱かれているように、 私たちは神に、自分の様々な問題課題、自分の身体も、自分の心も、自分の罪深さも、イエス・キリストに預けてしまうなら、あなたがたは神の国に入ることができる――それを信仰というのですね。
でもヨハネは少しものの言い方を変えて、「信じる」ってどういうことか?(を語ります)。 「信じる」とは「受け入れる」ことだと。「受け入れる」ことだというのは、「受け取る」ことだと(11節12節で言っています)。 キリストの賜物が贈り物であるとしたなら、キリストの救いがギフトであるとしたならば、 「いえいえ、私には受け取ることができません。受け取る資格がございません」 と、謙遜であるかのように見えて、実は自分の主体性をどこまでも貫きたい私たちに向かって、イエスさまは仰います。 「救いはあなたへのギフトだ。ギフトである限り、あなたは手を差し出して、それを受け取ればいいんだ」と。
マルチン・ルター(***1483〜1546、62歳)という人は、そのような受け取る手のことを『乞食の手』と言いました。 もし私たちが乞食になれば、何か私たちを憐れんで与えようとしている人に、与えてくださった代わりに何かを差し出すことはいたしません。 私たちは素直に頭を下げて、手を差し出して、しかもただ空っぽの手を差し出して、そのいただけるものを受け取るだけです。 マルチン・ルターという人は、信仰というものは、そういうものだと(言いました)。 イエス・キリストの恵み、イエス・キリストの救いというのは、単純に私たちに差し伸ばされた賜物であって、ギフトであって、 私たちはひたすら頭を下げて、空っぽの手を前に差しだして、それを受け取る以外にないと。 ヨハネの福音書で言えば、それが「受け入れる」ということだと。
神であり、神とともにあり、永遠であり、創造主であり、光であり、いのちであるキリストが、人となって私のもとに来られる。 この方の大きさのゆえに、私たちは思わず思います――果たして私の小さな頭がこの方を理解することができるんだろうか? 思索も探求もしないで、光のこともいのちのことも、とっても疎い。 むしろどちらかと言えば、日常生活の現実に引き回されているような私の心が、どのようにして、栄光に満ちたこの方を、偉大な方を信じることができるんだろうか?
ヨハネによれば、それは出会ってくださる方を「受け入れる」ことなのだと。 独特な言い回しですが、それは私たちが積極的に出会ってキリストに関わる以上に、この方はあなたのもとに来られる。 そしてあなたのもとに来られるこの方を、心の扉を開け(迎え入れ)なさい、というだけですね。
これを記したヨハネは、聖書の一番最後の書物、(ヨハネの)黙示録も記しています。 そして黙示録の3章20節にこういう言葉が出てまいります。
<ヨハネの黙示録3:20> 20見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
イエス・キリストは戸の外に立って叩く。誰でもわたしの声を聞いて戸を開けるなら―― ロンドンの聖パウロ大聖堂に掲げられている、ホルマン・ハント(***1827〜1910、83歳)というイギリスの画家の描いた「世の光」と題された絵があります。 かなり大きな絵ですね。ホルマン・ハントの「世の光」とグーグルで検索されますと、すぐ出て来ますが、イエス・キリストが扉の外に立って叩いている姿が。 そのイエス・キリストの姿をよ〜く見ますと、祭司の服を着ておられる。そして王のガウンをまとっておられますね。 つまり、祭司の装束の上に王のガウンをまとっておられ、頭には冠をかぶっておられます。 そして「世の光」というタイトルにふさわしく、キリストはランプを手に掲げておられます。 しかしキリストが叩いている扉には、取っ手がついてない。ただの扉です。 しかも蔦全体がその家と扉を覆っていて、明らかに長い間、その扉はかつて一度も開かれてない。 だれも開くことができない扉を、イエスさまは叩いておられるという絵です。
王であり、祭司として、神のもとに私たちを連れて行ってくださるキリストは、一度もキリストに対して開いたことのない心の扉を、今日もまた叩いておられる。 ですからヨハネは、「だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼の内に入る。彼とともに食事をし、彼もまたわたしとともに食事をする」(というイエスさまの声を黙示録3:20に記しています)。 神を信じるということは、戸の外に立って叩く主の招きに応えて、自分の心の扉を少し開くことです。
アドベントの第一の聖日、ご自身の御身体である「キリストの十字架の救い」を私たちに与えてくださるために、挨拶をもって来てくださるこのお方に、私たちは手を差し伸ばし、心の扉をほんの少し開きますと、この方が光であるとしたならば、その隙間から光りが必ず差し込んで来ます。 そして私たちがもう少し戸を開けるなら、やがてこの方は私たちの心の内側を照らし、私たちがどんなに罪深い者であるのかと同時に、どれほどキリストの恵みを必要としているかを私たちは知るようになります。 やがて私たちはこの光に包まれ、この光の中を歩む者となりたいと思います。 私たちは自分の光を世の中に求めるのではなく、神の光の中に求めるという先ほどの詩篇(36:9)を心に刻んで、いのちの泉から主の恵みを飲む者となりたいと思います。
☆お祈り――藤本牧師
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。……この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)
恵み深い天の父なる神さま、あなたは人となられただけでなく、あなたご自身のいのちを、あなたご自身の身体を私たちに与えようと、手を差し伸ばしてくださるお方であります。一度も開いたことのない扉を、あなたは今日も叩き続けてくださいます。かつて開けたことがあるかもしれません。しかしまた扉をどこかで閉めてしまいます。
もしかしたら、私たちの大きな家の中には、沢山の扉があって、まだ開けたことない扉がいくつも中に潜んでいるのかもしれません。しかしあなたは忍耐深く、身を屈め、ランプを手に提げ、私たちの心の扉を叩き続けてくださるお方であります。もし私たちがほんの1センチでも開けるなら、光は瞬く間に内側を照らし、光の中に招かれ、光は私たちを包むことでありましょう。
どうか暗闇を沢山抱えている私たちでありますから、暗闇のような問題を沢山背負っている私たちでありますから、これから始まりますクリスマスのこのシーズン、私たちを光に包み、光の内に生かしてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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