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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   5/12 母の日 子どもに祈られる 創世記21:1〜21
☆聖書箇所         創世記21:1〜21

1【主】は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに【主】はサラになさった。
2サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
3アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。
4そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。
5アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。
6サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」
7また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」
 8その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。
9そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。
10それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」
11このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。
12すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。
13しかしはしための子も、わたしはひとつの国民としよう。彼もあなたの子だから。」
14翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。
15皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の潅木の下に投げ出し、
16自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは彼女が「私は子どもの死ぬのを見たくない」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。
17神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。
18行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」
19神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。
20神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。
21こうして彼はパランの荒野に住みついた。彼の母はエジプトの国から彼のために妻を迎えた。

☆説教        子どもに祈られる

――先ほどのお知らせに追加――
●今日は柏から糸井義也兄、圭子姉が来ておられます。(弟さんの)羊司君も来たことを知らなかったそうですけれども、私も知りませんでしたけれども、本当に久しぶりにかかわりできて感謝です。

●ちょっと紹介したい方がいらっしゃいますが、本下姉のご友人で、谷本君、2回目なのですが、初めて紹介します。よく来てくださいました(拍手)。もう婚約されました?「はい、6月に」。6月に婚約式を迎えて、もしうまくいけば年内に結婚式を……(大笑)。

実は、ご存知のように、本下姉は川崎市内の小学校の先生をしておられて、谷本君は大阪で就職しておられて、本下さんは小学校の教師を辞めて、あちらに戻って結婚されるはずだったのです。ところが神さまは谷本君の会社を転勤させた(へぇ〜すごいとの声)。それで東京勤務になりまして、二人して高津教会にいらっしゃることができるようになりました。
本当はこちらで結婚式を挙げてほしいのですが、あなたの母教会もありますので、それが叶わないかもしれませんが、私たち歓迎します。

::::::::::::::

母の日の聖日で導かれている聖書の箇所は、創世記の21章です。この聖書の場面に出てくる母親がハガルです。場面の中心にいるのは、母親ハガルと息子のイシュマエルです。そして母親は泣いている。16節――

16自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは彼女が「私は子どもの死ぬのを見たくない」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。

子どもが泣いているのではなく、母親が泣いているという場面です。

ハガルは、アブラハムの妻サラに仕える女奴隷でありました。それが“はしため”ということばで表現されていますが、アブラハムとサラの間に全然子どもができない。とうとうサラは自分の女奴隷ハガルを取って、ハガルとアブラハムの間で子どもを残そうと考えました。それはサラのアイディアでした。そうして生まれてきたのが、イシュマエルという男の子だったのですね。イシュマエルの誕生を前にして、この複雑な関係は家庭の中に問題を起こします。(***16章1〜6節)

一旦はハガルが荒野に逃亡するという場面が出てきますが、ここ(21章)はその後で、イシュマエルが誕生し、そして神さまの恵みによって、アブラハムと妻サラの間にイサクが生まれる。そして8節をご覧いただきたいと思いますが――

8その子は育って乳離れした。(というのは、まぁ、1歳超えた頃でしょうか。イサクが1歳を超えた時に、)アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。
9そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。

サラは夫に言いますね。

10それでアブラハムに言った。「このはしためを(女奴隷を)その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」

11節に、アブラハムは血がつながったイシュマエルですから、非常に悩むのです。しかし神さまも「この子を出しなさい」と言って、14節――

14翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。

とっても不憫です。
もともとハガルを使って子孫を残そう、そしてイシュマエルが生まれたというのは、サラのアイディアです。でも一旦自分にも子どもが与えられたら、もうハガルもイシュマエルも用なしです。ま、いてほしくない。
そしてサラによるいじめも始まり、耐え切れなくなったハガルは、追い出されて、あてどもなく荒野を逃亡する。

持って行かせてもらったのは、パンと水の皮袋だけ。ロバ一頭も許されていないです。何にも無い。せめてロバ一頭に、どこかで落ち着き所を見つけるまで、その食料があったらいいと思いますが、パンと水だけというのは、私はどういう心境だろうと思います。

荒野で餓死しろと言わんばかりに、パンと水の皮袋だけを持たされて荒野をさまよい、イシュマエルはこのとき14歳の少年でありました。
母は息子を不憫に思い、息子も母を不憫に思い、あてどもなく荒野をさまよい、とうとうパンも水も尽きてしまったとき、倒れて枯れた木のところに、潅木のところにイシュマエルをすわらせます。

母親はそこから16節「矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった」というのは、約20メートルぐらいでしょうね。
それは、「私は子どもの死ぬのを見たくない」。自分の子どもの最期を見たくないと言った。そして座ったとたんに声を上げて泣くわけです。

息子の小さな頃の無邪気な笑顔、そして苦労させてしまった申し訳なさ、情けなさに胸がいっぱいで、ハガルはうずくまって声を上げて泣くわけです。
その涙は何を語っていたのか?人生の理不尽さ、それ以上に無力さ、情けなさ。
どこにも持って行きようがない、だれにも届けることができない、理解してもらえない、悲しい涙。
その涙は自分の人生だけでなく、息子イシュマエルのためでもありました。

この物語から簡単に3つ学んで、母の日のメッセージとしたいと思います。

1)涙する母親

聖書の中に子どものために必死になる母親は何人も出て来ます。子どものために親は必死です。
●マタイ15:21〜28、マルコ7:24〜30

イエスさまの生涯の中で、イエスさまがツロとシドンを通った時に、「娘が悪霊に取りつかれています。どうか助けてください」と懇願する母親が出て来ます。
イエスさまは、なぜかとっても冷たくあしらわれる。
「わたしは(失われた)イスラエルのために来たのであって、ツロ・シドンの(異教の)あなたのために来たのではない。あなたを助けるつもりはない」
不思議なほど冷酷にこの女に対応されます。でも、イエスさまはこの女の信仰を試しておられた。
そして、この女性はどんなに冷たくあしらわれても、すがりつくようにイエス・キリストに言う。
「小犬でも、主人の食卓から落ちるパンくずをいただくでありませんか」――私は子犬のような存在です。でもどうかその恵みのおこぼれを私たちに与えてください。私のような者も憐れんでください――母親は必死なのです。 子どものためなら母親は必死ですよ。

イエスさまはその信仰を見て、「あなたの信仰は立派だ」と言われた。
母親は子どものためなら必死ですね。

子どもが学校で友達からいじめられているかもしれない。行って、いじめている相手をしばいてやりたい(笑)と思うかもしれないぐらい、必死じゃないですか?母親は。何とかPTAの中に入っていって、子どものためにいろんな情報を得たいと思うぐらい、母親は必死です。
母親は子どものためだったら、寝ずに看病するし、いや、寝られなくなりますでしょう?

●マタイ20:20〜21、マルコ10:35〜37(***マタイでは母親が、マルコでは本人たちが言っていることばの違いがありますが)。

十二弟子のうちの二人、ヤコブとヨハネの兄弟(もう立派な大人なのですけれども)の母親は二人を連れてイエスさまのところに来ます。
そして、二人に言わせます。「主よ、あなたが王座に就かれるとき、二人をあなたの右と左に座らせてください」
そう言わせているのは、ヨハネとヤコブの母親ですよ。それは、息子の成功を必死で願っている母親の姿です。まぁ、ちょっと傲慢な母親の願いですけれども、イエスさまは必ずしもその母親を叱ってはいない。

でも、ここで(創世記21:16)涙しているハガルは、必死なのですけれども、どうすることもできない。全くの無力、荒野をさまよい、パンも水も尽きた。

15皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の灌木の下に投げ出し、
          
「皮袋の水が尽きた」とは、可能性が尽きた、どうしようもない(状況です)。
座ったとたんに、涙があふれてきます。不憫な息子、そして不憫な自分。できることは、ただ泣くことしかない。

皆さんも必死な母親の姿を思い起こすことができれば、自分も子どものためにどれほど必死だったか、時に泣いたかということも、思い出されるではありませんか?

しかし、この涙を神さまはご覧になっていました。多くの涙を流したダビデは詩篇にこう記しています。詩篇56篇の8節をちょっと開いてください。ご一緒に読んでみたいと思います。

詩篇56:8「あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書にはないのでしょうか。」

さすらい、私のさすらい――私たちの人生のさすらう姿です。
「どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください」というのは、覚えていてください、(という意味です)――私の涙をその辛さを覚えて、蓄えて、そしてどこかで報いてください――泣いている母親です。

2)私たちは、イエス・キリストの憐れみをよく知っています。

声をあげて泣くハガルの傍らに、主イエスが立っておられることを私たちは想像します。
なぜなら、私たちは泣いているイエスを知っているからです。

イエスさまは友人のラザロが死んだというニュースを聞いたときに、そして彼の墓を見たときに、「イエスは泣いた」(ヨハネ11:35)と聖書は記しています。
イエスさまも泣くのだ(と私たちは感動します)。

聖書にはたくさんの人物が登場します。
そして、登場する人物の数だけ涙があると言っても過言ではないほど、人生は時に悲しい、悔しい、痛く、傷つく。
イエスさまは、その同じ涙をご自身も流され、そして人として、この世に来られたことの象徴として、悲しみ、痛み、苦しみ、泣くのです。

主は涙するハガルの傍らに立ち、そして私たちの傍らに立っておられる。
このお方は、言葉で表現できない祈り、涙の祈りを受け止めてくださる。
イエスさまは、おっしゃいました。

ルカ6:21いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。

私たちは泣きます。
でも今泣いている者は幸いです。あなたがたは今に笑うようになる(と仰る)、イエスさまは不思議なお方です。
私たちの涙を真珠のように貴び、悲しみを、苦悩をこの上なく祝福してくださる。どんな言葉よりも、どんな行動よりも、私たちの涙を尊んでくださるイエスさまは、きっとハガルの傍らに立っておられた。

3)神さまを、この荒野で途方に暮れる母ハガルの前に呼び込んだのは、実は息子イシュマエルの祈りでした。

少年イシュマエルは、泣いている母を見ました。20メートル向こう側から。
彼は、一生懸命、母の代わりに祈った。17節ご覧ください。

17神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。」

“声”という言葉は2回出て来るのですが、
@16節の最後に「そうして彼女は“声”をあげて泣いた」その声を聞いて、神さまはこの場面に現れたのではない。
A17節で「神は少年の“声”を聞かれ」て、神の使いが天からハガルを呼んだ。そして、「神があそこにいる少年の“声”を聞かれた」。

独特だと思います。神さまが母親の泣いている声を聞いて、そして語りかけたのではない。神さまはなんと少年の祈りの声を聞いてハガルに語りかけられた。

私たちは考えさせられますね。つまり、私は果たして自分の子どもに、お父さんのために祈ってくれ、と言ったことがあるのか?ないですね。私は、もしかしたら一度も無いかもしれない。
    
お母さんは、自分の小さな小さな子どもに、お母さんのために祈ってねと、言ったことがあるのか。子どもに祈りを頼んだことがあるのか?
もちろん子どもに祈らせたいとか、子どもの祈りが可愛いから、子どもの祈りを聞いてみたいとか、そういう思いで、「じゃ、今夜はあなたがお祈りして」と晩御飯の前に言うのかもしれない。
でもお母さんが悩んでいるときに、お母さんが体調が悪いときに、お母さんのために祈ってねと、お母さんは子どもにお願いしたことがあるのか?

私たちは、母親が子どものために祈るという場面を通常に考えます。そりゃそうだろうなぁと(思います)。聖書の中にも沢山そういう場面が出てくる。
でも、子どもが母親のために祈っているのは、ここだけです。
そして、神さまは、子どもの祈りを聞いてくださる。
   
神さまが母ハガルの涙を見て、憐れに思ってハガルを助けに来られたのではない。 
神さまは、その子イシュマエルの祈りの声を聞いて、使いを送ってくださった。

私たちはよく知っています、子どもの祈りの尊さを。

この前、孫の翔太が祈っている動画を、直樹(息子さん)が送って来たのですが、晩御飯のお祈りを撮ったのです。翔太はお祈りになっていないのですが、一応「天の父なる神さま」で始まる。「これから、ご飯を食べます。さっきも食べましたけれどもまた食べます」(大笑)。
さっき食べたのはお昼ご飯だろうと思いますが(笑)、でも、お昼ご飯ということばは分からないから、「さっきも食べましたけれどもまた食べます」(笑)。
祝福してくださいとか、そんな難しい言葉は出て来ないのです。
そして、お祈りの最後の方に「ママは大好きです」(あぁと感動)。そしてアーメンです(笑)。
こういうお祈りって、神さまは聞いてくださると思いますよ。

私たちはもう少し子どもに、お祈りしてねとか、教会の子どもたちにお祈りをお願いした方がいいんじゃないかと(思いますね)。
いかにも忘れそうな牧師に(笑)お願いしないで、のぞみちゃんにお願いした方がいいんじゃないですか、皆さん(笑)。
私(藤本牧師)、小奈のぞみちゃんが、しばらくすると、礼拝の独唱をしてくださることを楽しみにしています。

牧師にお祈りを依頼するのだったら、ことはちゃんに頼んだ方がいいんじゃないかと思いますよ。それほど神さまは子どもの祈りを聞いていてくださる。
母親は子どものために祈ることは当然でしょう。母親は子どものために必死ですよ。それは当然ですよ。
だけど、私たちはどこかで、子どもがおばあちゃんのために祈るとか、子どもが教会の人たちのために祈るとか、子どもがいとこのために祈るとか、子どもの祈りを引き出すようなことを、私たちはもしかしたらすべきなのかなぁと、(思いますね)。
今日はあえて、その驚くべき子どもの祈りの恵みを、覚えておこうと思います。

1960年代にケンブリッジ大学の医学部を卒業して、そのまんま医療宣教師としてコンゴに行った有名なヘレン・ローズベレーという(女性)宣教師がいます。もう亡くなったかなと思いますが、つい数年前まで世界中を旅して証しをしていました。
このヘレン・ローズベレーの証しを読んで、ちょっと長いですが、終わりにしたいと思います。

ある晩、私は難しい出産と必死に格闘し、残念ながら母親の生命は救うことはできなかった。
真夜中、母親は、生まれたばかりの小さな赤ちゃんと二歳の女の子を残してこの世を去ってしまった。

(ここで、藤本先生ご自身の説明を少し加えられる)――コンゴと言うのは、ベルギーの植民地で、アフリカの植民地の中で一番問題を起こした場所ですよね。今はザイールですね。ヘレン・ローズベレーは自分がどこに行くかといった時に、彼女はアフリカを調べた。一番劣悪な環境で、あえて医者のいない村を選んだ。――

赤道付近とは言え、標高の高いこの村は、夜になると冷える。
保育器はひとつあった。でも電気はなかった。
果たして、明日まで、この赤ちゃんは大丈夫だろうか?

私は、助産婦の勉強をしている二人の看護学生に指示して、一人には赤ちゃんを入れる箱を探して来なさい、そこに暖かい布を敷いて赤ちゃんを守ろう、と指示した。もう一人には、火をおこして温かい水を用意するようにと。

ところが、哺乳瓶は煮沸している間に割れてしまった。そして、それが残っている最後の一本だった。ああ、なんということだ。
助産婦の卵が泣きながら戻って来た。報告を聞いて、
「わかった。じゃあ、あなたたち二人が、火のそばで寝なさい。そしてあなたたちの間に赤ちゃんを置いて、身体を絶対に冷やさないように、気をつけなさい」 

次の日、私はいつものように孤児院の子どもたちと祈りの時を持った。
子どもたちを回りに集めて、いっしょにお昼に祈るのが習慣だった。
子どもたちに、昨日の出来事を話した。生まれたばかりでお母さんが死んでしまって、身体を温めることができない。哺乳瓶もない。寒さで赤ちゃんが死んでしまうかもしれないと。そして二歳のお姉ちゃんも残されて、泣いてばかりいるんだと、子どもたちに話をした。

すると、10歳になるルツが、お祈りを始めた。
「神さまは、どうか哺乳瓶を送ってください。明日には届かなければ、赤ちゃんが死んでしまいます。ですから、今日の午後にどうしてもお願いします」
それは、まったくため息の出るような、子どもの祈りだった。

ルツは最後にもう一つ祈りを加えた。
「神さま、それから小さな女の子のために、かわいいお人形を送ってください。そうすれば、あなたの愛がわかると思います」 

往々にして、子どもの祈りはこんな感じだ(笑)。
私はアーメンとは言ったものの、それはそれとして忘れることにした。もちろん、神さまにおできにならないことは何一つない。でも、神さまは、普通こんな風にはお答えにならないものだ(笑)。

送ってくださいと言っても、この数年間、母国から小包一つ届かない。哺乳瓶や人形なんて、あり得ない。私は赤道直下に住んでいるのだ。

夕方に近づいた頃だった。看護師の卵たちに教えていた時、私の家の前に車がやって来たという知らせが入った。
家に行ってみると、車はもうなく、大きな荷物が一つベランダに置いてあった。
一人で開けられないほど大きく、厳重に縛ってある紐を、孤児院の子どもたちが集まって来て、みんなでほどいていた。いろんな物が紙に包まれて、入っていた。十数人の子どもたちの目が釘付けになった。

一番上にあったのは、きれいな色の子供用のセーターだった。私が取り上げると、我先にと手が伸びてきた。それから、出てきたのは、包帯の数々。子どもたちはちょっとがっかりした。それから干しぶどうとナッツの瓶詰め。

驚いたことに、真新しい哺乳瓶が一本入っていた。
私が祈ったのではない。まさか、神さまがこれを送ってくださるとは信じていなかった。

そのとき、10歳のルツが私のところに来て言った。
「先生、神さまが哺乳瓶を送ってくださったのなら(笑)、きっとかわいいお人形も入っているよ」(笑)
 そしてルツは、飛び込むようにして、大きな包みの下の方へと手を伸ばし、叫んだ。
「ほうら、お人形!」

ルツは言った。
「先生、いっしょに女の子のところに行こうよ。このお人形をプレゼントしようよ。お母さんがいなくても、神さまがいて、愛してくださることが、女の子にわかるよ。」
彼女の目はきらきらと輝いていた。(***私たちも感動してウルウル!)

私は驚いた。この大きな荷物は、5ヶ月も前に、私が以前教会学校で教えていた子どもたちが詰めて、送られたものだった。
イギリスからはるばる、この赤道直下の村に、この荷物が届いた。5ヶ月前に送られた荷物が届いた。
5ヶ月前に教会学校の生徒が入れてくれたお人形が、今朝の10歳の女の子の祈りの答えとして、今ここに届いた。

こうして孤児院の子どもたちに支えられている私たちの働きがよく分かった。
子どもの祈りに答えてくださる神さまの恵みに、あらためて私たちは生かされていることがわかった。――これはねぇ、有名なヘレン・ローズベレーの証しなのです。

母親は子どもを愛しているから、子どものために祈る。
でも子どもは、お母さんを、自分を世話してくれる人を愛しているから、お母さんのために祈る。
そこに神さまが来られる。
母親が子どものために祈り、子どもは母親のために、父親のために祈り、その愛ある空間の中に、神さまが入ってくださる。愛の源である神さまが入って来られる。

そのことをしかと覚えて、たまには子どもに、お母さんのために、お父さんのために、おじいさんのために、おばあさんのために、あなたも祈ってねと言うべきだということを心に留めておきたいと思います。

☆お祈り

そうして彼女は声をあげて泣いた。神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。」(創世記21章16節後半〜17節)

恵み深い天の父なる神さま、もちろんあなたはハガルが声をあげて泣いたのをご覧になり、そして主イエスさま、あなたはこのハガルの涙をご自分のものとして捉えられたはずであります。でもあなたのみことばによると、あなたがこの状況に介入してくださったのは、少年の祈りを聞かれたからだと(わかりましたから感謝します)。

子どもの祈りは単純であり、私たちのように、さまざまな状況の複雑さを思い悩んで祈るよりも、子どもはもっと純真にあなたにすがる、その祈りを(あなたは)聞いてくださいます。

ですから私たちは、どうか子どもに祈ってもらえるような親でありますように。孫に祈ってもらえるようなおじいちゃん、おばあちゃんでありますように。そして教会の子どもたちに祈ってもらえるような教会でありますように。私たちもまた、子どもたちの祈りを尊ぶ者とさせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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