☆聖書箇所 ルカの福音書1:5〜17
5ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。 6ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた。 7エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。 8さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、 9祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。 10彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた。 11ところが、主の使いが彼に現れて、香壇の右に立った。 12これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、 13御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。 14その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。 15彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、 16そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。 17彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」
☆説教 主は私を覚えていてくださる
ルカの福音書を開いていただきました。 聖書の中には福音書と呼ばれる書物が4つあります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。 そしてどの福音書も、福音書と呼ばれているものはキリストの生涯を描いていますので、一番最初にクリスマスの出来事が出てまいります。 つまり、キリストの誕生から聖書の福音書は始まって行きます。
今日見ていただきましたルカの福音書に特徴的なことがあるとすれば、それぞれの場面で「恐れることはありません」とこう始まります。 例えば1章の13節を見ていただきますか?天使が祭司ザカリヤに現れた時に、
<ルカ1章13節> 13御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。
バプテスマのヨハネの誕生を知らせるその親、お父さんに「こわがることはない」とこう始まります。
ページをめくっていただいて、1章の29節に天使ガブリエルがマリヤに現れます。そして受胎告知の場面でありますけれども、28からちょっと読んでいきますね。
<ルカ1章28〜29節> 28御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」 29しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。 30すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
ここでも「こわがることはない」と出てまいります。
ページをもう一つめくっていただいて、2章のキリストの誕生の場面ですね。 荒野の羊飼いに神の使いが現れます。8節――
<ルカ2章8〜10節> 8さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。 9すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。 10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
これが、ルカの描く神の救いの出来事の始まりと言いますか、クリスマスの出来事に特徴的であります。 一番最初に老齢のザカリヤという預言者、祭司に突然天使が現れて、「おそれることはない。ザカリヤ、あなたの願いは神に聞かれた」と言います。 次に天使がマリヤに現れて、「恐れることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです」 そして、ま、今で言うならば、クリスマスイブの夜ですね。神さまは野原で羊の番をしていた羊飼いのところに現れて、「恐れることはない。わたしは喜びの知らせを携えて来た」と。 全部「恐れることはない」の反対側にあるのは、「おめでとう」あるいは「喜びの知らせ」あるいは「あなたの願いは聞かれた」というすばらしいニュースを持って来ているわけですね。
「おそれることはない」というのは、とても象徴的な言葉です。 なぜなら、私たちの人生には不安・恐れ、あるいはこの世界には恐怖というものに包まれているからです。 しかしそれだけでなくして、この一つ一つの場面というのは神との出会いの場面で、神さまの驚くべき救いのみわざが始まる場面でありますけれども、 私たちのような一人の人間が神と出会うということは、恐れの瞬間であります。 仰天するような場面で、「恐れることはない」――神さまは私たちの日常の只中にいきなり入って来られて、ザカリヤに出会い、マリヤに出会い、羊飼いに出会い、私たちに出会ってくださる、ということを今日は一緒に見ていただきたいと思います。
ザカリヤは普通に神殿で仕事をしていました。 1章に戻っていただいて、彼が神殿で香をたく祭司の務めをしていたその瞬間ですね。9節を見ていただきますと――
9祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。 10彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた。 11ところが、主の使いが彼に現れて、香壇の右に立った。
とこういう風に始まって行きます。 普通に祭司の務めをしていた瞬間に、神はザカリヤに現れた。
ナザレの田舎で乙女マリヤが何をしていたかは書いてありません。 しかしそこにも主の使いが突然現れて、「おめでとう。マリヤ」と声をかけます。
夜中に野原で羊の番をしていた羊飼いたちは、まさか天の栄光が、神の使いが現れて自分を照らすとは思いもよりませんでした。 でも同じように「恐れることはない」(と御使いは彼らに言います)。
神さまは私たちに近づいてくださり、私たちの日常に突然声をかけてくださり、そして驚き戸惑う私たちの心を静めるかのように「恐れることはない」と仰っていてくださる。 この場面から今日は3つのポイントで考えてみたいと思います。
1)神が突然私たちの人生に介入してくださるのは、神が私たちを覚えていてくださるからです。
クリスマスの出来事に出て来る、「神が私たちの所を訪れてくださる」あるいは聖書では「神が私たちを顧みてくださる」両方訳すことができるんですが――この「訪れる」とか「顧みる」それに関係している動詞は、神は私たちを「覚えていて」くださるということです。
ザカリヤというこの祭司の名前、旧約聖書ではゼカリヤです。 これは実は聖書に出て来る一番多い名前です。旧約聖書に何人ものゼカリヤが出て来ます。祭司であったり、預言者であったり。 そしてその名前の意味というのは、「主は覚えている」という意味です。ザカリヤ、ゼカリヤ――主は覚えている。神さまは忘れない――とってもいい名前です。
皆さんは自分の名前の言われというのを、親に尋ねたことがあると思うんですね。どうしてこういう名前になったんだろう? 私(藤本牧師)は実は自分の名前っていうのが好きではないですね。 とっても響きも好きではないですし、漢字一字も割と難しいですし、人に言う時には、電話の向こう側で自分の名前を言う時には必ず「満月の満」です(大笑)と言うんですけれども。 私(藤本牧師)の名前は、使徒の働きで、教会で7人を選ぶ時に、信仰と聖霊に満ちた人を選ぶ、その信仰と聖霊に満ちた人で満(みつる)という一文字ですね。
親というのは、自分の名前にものすごく意味を込めますね。割と込めすぎる人もいて、どうしてこんな難しい字になるのかなぁと思ったりもしますけれども。 私(藤本牧師)は昔言ったことがありますけれども、私たちの娘の名前は〇香なんです。〇が香る、なんですね。 一番最初アメリカで生まれた時に、すでに病院を通して届け出をしますよね。 で、アメリカでの名前は〇子だったんです。 家内が病院にいる間、わずか3日の間に考え抜いて、〇子だと「〇ちゃん」になる。〇ちゃんでもいい名前なんです。ものすごくいい名前ですが、ちょうど当時教会の後ろに焼き鳥屋「〇ちゃん」(大笑)がありまして、教会の方々はそこと結びつけて考えるんじゃないかなという発想で、一旦つけた名前をわざわざ〇香に変えたんですね。〇が香る、に変えた。 また変更手続きを病院にいる間にしなければならなかったという位、簡単にできましたね。 ですから子どもには、あなたの名前はこうなんだよということを言うではないですか?
そうしますと、ザカリヤは小さな頃から親たちに言われたと思うんですね。 「あなたの名前は『主は覚えておられる』という意味ですよ」と。 両親は「『主はイスラエルの民を覚えておられる』――そのことをあなたの名前は代表しているだよ。そして、そういう名前は実は旧約聖書には沢山出て来るんだよ」という話をしていたはずですね。
で、私たちは今ここに聖書一冊分厚いものを持っていますが、旧約聖書が4分の3、新訳聖書が4分の1というページの比率ですが、 旧約というのは、神さまが民と結ばれた「古い契約」、新約というのは、「新しい契約」という意味です。 そして契約というのは、神さまがある人々に特別な恵みを与えてくださり、それによってその人々が神の民となり、神さまご自身がその人々の神となる、というそういう契約を神さまが結ばれたという意味で旧約聖書と新約聖書で、実はなんとその間に400年の開きがある。
400年です。せっかく神の民となるべく契約を結んだにもかかわらず、旧約聖書の歴史は、神の民となったイスラエルが神の道を歩まず、好き勝手に神々を慕い、自分の思いの赴くままに生きて行くことを繰り返していました。
そして神に捨てられても仕方がない民――それが旧約聖書の結末でありますけれども、旧約聖書最後の書物マラキ書、マラキ書の4章の5節〜6節をちょっと見ていただけません? 数十ページ前ですね。新約聖書のマルコをくぐって、マタイをくぐって、旧約聖書の最後ですね。 私(藤本牧師)が5節を読みますので、皆さんが6節を読んでいただけます?
<マラキ4:5〜6> 5 見よ。わたしは、 【主】の大いなる恐ろしい日が来る前に、 預言者エリヤをあなたがたに遣わす。 6 彼は、父の心を子に向けさせ、 子の心をその父に向けさせる。 それは、わたしが来て、 のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」
非常に興味深い場所なんですね。 ちょっとトーンは厳しいです。例えば、5節に「主の大いなる恐ろしい日が来る前に」というのは、この世の終わりが来る前に、でしょうね。 あるいは6節に最後に「のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ」というのは、非常に厳しいトーンですね
でも、語っている内容はとっても温か味があります。 5節の最後に、「預言者エリヤをあなたがたに遣わす」というのは、これは実はこれから生まれようとしていますバプテスマのヨハネのことです。 ですから、今日学んでいますザカリヤに、「あなたの願いが聞かれた。あなたがた夫婦に子どもが与えられる」――その子がヨハネなんですけれども、その子が預言者エリヤになるんです。 で、彼のすることっていうのは、6節に書いてありますね。 「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向かわせる」――これは神さまと人間との関係です。 神の心が民に向き、そして私たち、人の心が神に向くように、預言者エリヤ、ザカリヤの子ども、バプテスマのヨハネは、悔い改めのメッセージをするということですね。 そしてその後に、救い主イエス・キリストがやって来る。
しかしこのトーンですと、その後にやって来るのが救い主イエス・キリストというよりは、この世界を裁くイエス・キリストというトーンになりますでしょう? ですから救い主が優しいお方なのか、厳しいお方なのか、400年経過した人々は戦々恐々として待っているわけですね。
さて、それはともかくとして、この旧約聖書最後に納められているマラキの言葉から、今日読みましたザカリヤの「恐れることはない。あなたの願いは聞かれた。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。その子をヨハネと名づけなさい。その子は……」――ルカの福音書の1章の17節、ちょっと戻って見ていただけます? これがマラキの最後の言葉とつながるんですね。ルカの福音書の1章の17節――ちょっとここを一緒に読みたいと思います。
17彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」
ね、マラキの言葉と同じでしょ? 彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、そして父の心を子どもたち――ここは複数形ですので、もう少し意味が膨らんできますけれども――(に向けさせ、)逆らう者を義人の心に立ち戻らせるという、心がどちらに向くかっていうその働きをするんだと言う。
さて、話はそこまでにしまして、私(藤本牧師)が申し上げたかったのは、旧約聖書と新約聖書の間に400年の開きがあるんですね。 イスラエルの民は、ま、300年、それから300年、それから400年、ずっともう頭にあるんだろうと思いますけれども、 再び子の心が父に向き、父の心が子に向くに至るまで、つまりその神と人との契約が全うされるのはいったいいつのことなんだろう?と、神さまはもう私たちをお忘れになってしまったんだろうか?と考えさせられる400年。 全く、神さまの約束が実現しない400年。 そしてある日突然に、天使ガブリエルがザカリヤに現れて、「あなたのことを主は覚えている」「イスラエルの民のことを覚えている」と。 待ち焦がれた人々には、そう思えない数百年という年月でありました。
「神は私たちを覚えていてくださる」というのは、クリスマスの大切なテーマです。聖書の中には、 「私たちは真実でなくても、主は常に真実である」というみことばがあります。Uテモテの2章の13節ですね。 あるいは聖書の中には、旧約聖書、新約聖書両方共ありますね。 「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(アーメン)Tペテロ2章6節です。(***イザヤ28:16も) 「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
でも聖書の中には、神に忘れられたかのような失望の出来事っていうのは実は沢山あるんです。 子どもが与えられ、子どもが空の星のように増えて大きな民族となる、というアブラハムへの約束はなかなか果たされませんね。 果たされるのは、アブラハムが99歳になった時です。その時初めてその約束は果たされるんですね。
旧約聖書にはヨセフという人物が出て来ますけれども、彼はエジプトに売られてポテパルの妻にはめられて、牢獄で二年間、何の動きもない牢獄の生活。 そこに入って来た王の献酌官長を助けて、彼が出獄する時にヨセフは言います。 「どうか私のことを忘れないでください。あなたがこの牢屋から出て、王さまに再び近づくことができたならば、私のことを思い出して、私に恩赦が与えられるように、どうか私のことを覚えていてください」 でも実際、二年間ヨセフは忘れ去られるんですね。
ダニエルは、バビロンに捕囚に取られて、一生涯その地でバビロン、メディア、ペルシャの帝国に仕えます。 彼は故郷に帰れるということはありませんでした。 でも彼の部屋の窓はいつもエルサレムに向かって開いていて、彼は祈りを続けていた。 しかし、その境遇は世間から忘れ去られたようなものでありました。
これは新約聖書でも同じですね。 パウロの手紙が沢山納められていますけれども、エペソもピリピもコロサイもテモテも、彼が牢獄で書いた手紙ですよ。 かつては伝道旅行で、トルコ、ギリシャを何度も巡り、いくつもの教会を建て上げ、しかしエルサレムで捕えられて牢獄に二年以上。 それからローマに護送されて、その後どれぐらい牢獄にいたかわかりません。彼は牢獄から手紙を書きます。 いったいいつまで待つんだろうか? と。
私たちはいくら何でもこの短い人生ですから、400年間は待てないですよ。99年間も待てない。二年間でさえ難しい。 しかし、長い沈黙を味わうことがあり、一年が400年に感じるほど、主の約束が実現されないという出来事を私たちは感じます。 しかしクリスマスの時期に、何度も何度も私たちはこの記事を見る度に、「主は覚えておられる」ということを心に感じなければいけないですね。
二番目に、「覚えている」ということを一歩深めて見たいと思いますが、 確かに、神さまはイスラエルの民を覚えて、このマラキ書の最後に出て来るエリヤ、そしてエリヤの霊を持つヨハネの誕生へと事を運んで行かれるわけですけれども、 しかしルカの福音書のこの出来事を見ますと――
2)神さまが覚えていたのは、実はマラキのことではない。旧約聖書に記されている預言のことでもない。(――ザカリヤ個人のことであった)。
ちょっと1章の13節、もう一回見ていただけます?
13御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます……
ということは、神さまが覚えていたのは、ザカリヤの個人的な事情を覚えておられたのですね。 イスラエルの民のことでもない。あるいは旧約聖書の最後に出て来る大きな預言のことでもない。 ザカリヤの非常に個人的なことを覚えておられました。7節をちょっと見ていただきたいと思いますが――
7エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子どもがなく、ふたりとももう年をとっていた。
それが突然「怖がることはない。あなたの願いは聞かれた」と言われても、ザカリヤにはちょっとピンと来ないですね。 なぜならその願いというのは、もうしばらく前に忘れてしまった願いでしょう。 二人が結ばれて、そして子どもが与えられるようにという願いを、ま、5年、10年、15年と祈ったに違いないと思いますけれども、しかしある時を境にしてもうその願いは主に委ねた。 ところが何十年も経ってから、いきなり神は現れて、「わたしはあなたの願いを忘れてない」――そこからすべてが始まるんですよね。
ですから新約聖書で見るイエス・キリストの救いの出来事というのは、旧約聖書の膨大な預言を神が覚えておられた――それはそうなんです。 ですからマラキの一番最後の言葉とルカの福音書のこの最初の言葉がつながるんですけれども、 神が覚えておられたというのは、膨大な歴史の預言ではなく、実はザカリヤの個人的な祈りを覚えておられた。 そしてこのふたりはとうの昔に、その祈りのことなんか忘れてしまった――その個人的な祈りを、神さまは不思議に覚えておられました。 神さまは仰っているように思いますね。 「わたしは世界をあわれむ前に、まずあなたをあわれむ。 わたしは世界を変える前に、世界を救う前に、先ずあなたを覚える。 あなたの願いは忘れられていない」
神は私のことを覚えていてくださる。 私がどんなに不誠実な者であったとしても、私がどんなに神さまから背を向けた者であったとしても、神さまは私のことを覚えていてくださる。 小さい頃に洗礼を受けた、私の子どもたちのことを、 小さい頃にミッション・スクールに通い、「主の祈り」を覚えていたあの頃の私のことを、 神さまは私のことを覚えていてくださる。
旧約聖書は400年前に、いやそれを遡ること700年前に書かれたとして、神さまはそのすべてを覚えておられるんでしょうけれども、 しかしそれにも増して、ザカリヤの小さな祈りを覚えておられました。
3)恐れることはありません。なぜなら、神が突然私たちのもとを訪れ、この人生に日常に介入してくださるのは、私たちを裁くためでなく救うためですね。
先程申し上げましたように、マラキ書の一番最後を見ますと、 裁きの日が来るその前に、バプテスマのヨハネが現れる。そして救い主キリストが来られる時に、この世界は裁かれるような思いがいたしますね。
でも荒野で天使が現れたときに「恐れることはない。わたしは喜びの知らせを持って来た」 天使がマリヤに現れる時に、「こわがることはない。マリヤ、あなたは神から恵みを受けたのです」 イエス・キリストという存在がどういう存在であったのか?
今日はちょっとごめんなさい。もう一箇所だけ。 ルカの福音書の次がヨハネですが、ヨハネの福音書の3章を開いていただけますか? ここも「キリストがなぜ来られたのか?」ということが記されているのですが、3章の16節を私(藤本牧師)が読みますので、17節を皆さんが読んでみてください。
<ヨハネの福音書3章16〜17節> 16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
ここに明確に出て来ますね、17節―― 神が御子キリストを世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためであると。
神さまがこの世界に来てくださったのは、私たちを愛するがゆえに、私たちを不安や孤独や虚無や罪、怒り、悲しみ、そして死から救い出すためであった。 それは、単にイスラエルの救い主ではなく、人類の、いや私たちの救い主として、その救い主が赤ちゃんとなり、馬小屋に生まれ、飼い葉桶に寝かせられということこそ、キリスト教の中心的なメッセージの一つであるということを覚えておいていただきたいと思いますね。
キリスト教には一つの大きなテーマがありまして、それは過去2000年の間に繰り返し繰り返し色んな神学者、哲学者が考えるテーマですね。 それは「なぜ神が人としてお生まれになったのか?」 中世では有名なアンセルムス(***1033〜1109・北イタリア・アオスタ生れ)という哲学者がこの題で本を書いていますが、デンマークの哲学者、キルケゴール(***1813〜1855)はこう説明します。 こんな説明の仕方ですね。
ある国に王子さまがいた。父親の使いで、地方の村を訪ねることになるわけですね。 ま、馬車に乗っているとしましょう。その国の貧しい一角を通った時に、馬車の窓から目に留まりました。 それは道を行く農家の娘で、その娘のきれいな輝きが、自分の心から離れないんです。
会ってみたい。どうしても会いたい。でも問題があるんですね。 どうしたら話をして、どうしたら気持ちを伝えて、どうしたら友だちにでも、あるいは恋人にでもなることができるんだろうか?
王の権威で強引に自分の妻とすることができたとしても、その人物の心は自分の方に向かないでしょうね。 力づくで愛は育たないからですね。
王子は馬車で彼女の家の前に乗り付けて、王家の贈り物の財宝を差し出して、結婚を申し込んでも、心を向けてくれることはない。 彼が望んでいたのは、その女性が心から自分を愛してくれることでした。 ということは、自分の力や、社会的な立場や、財産や権威とは関係ない。
想像するに難しいことではありませんけれども、キルケゴールが言うには、 王子は、力と権威の象徴である王家のマントを脱いだ。 そして一人の農夫の姿で村に入る。人々と共に住み、彼らの関心や彼らの問題、苦しみを共有し、彼らの言葉を話す。 そして、時間をかけて彼女に近づき、友だちになり、やがて彼女は王子を愛するようになる。
これがキルケゴールが、「神が人となってこの世界にお生まれになった。なぜそうであったか?」ということの説明ですね。 神はご自身の栄光を捨てて、身を低くし、この世界に来られた。 それは私たちにご自身の愛を伝えるためであり、私たちが強引な権威ではなく、その神の犠牲に答える形で、私たちが神に心を向けるようになることを、神は心から望んでおられる。
父が子に心を向け、子が父に心を向けるために、ザカリヤはヨハネという子どもを与えられ、そしてその子がその働きをする。 そしてやがてバプテスマのヨハネ以上に、身を低くし――ヨハネは普通の家庭に生まれたはずです。祭司の家に育ったはずです――しかしイエス・キリストは旅の途中で馬小屋に生まれ、飼い葉桶に寝かされ、やがてその身に罪深い私たちの罪、それに対する裁きを負い、十字架にかけられました。 それによって、私たちの罪が解り、私たちの罪が赦され、心から神の愛に応えるためですね。
今日ひむなるの65番の「金や銀の冠」という讃美歌を歌いました。
金や銀の冠を 主イエスはとりたまわず 主のほまれは打たれしきず(十字架の傷ですね、と説明) み顔に流れる血ぞ
(おりかえし):荒けずりの木は 主イエスの王座なり 血にそむいばらは さかえの冠
紫の衣はがれて つばきされ あざけられ されど罪清むる泉 その血にてひらかれる (おりかえし)
主は私を覚えていてくださる。私の願いを決して忘れずに聞いてくださる。 そして、主が来られる時は、まさに私たちの日常生活の中で、 「恐れることはない。こわがることはない(アーメン)。 あなたの願いは聞かれたのです。 私は今日喜びの知らせをあなたに持って来ました」と(言われる)。 そのクリスマスを心から味わうことができますように、一言お祈りをいたします。
☆お祈り――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、ページにすると旧約聖書のマラキとルカの福音書はわずか数十ページの違いでありますが、そこには長〜い歴史の隔たりがありました。
その隔たりを越えて、まさにザカリヤに、「あなたの妻エリサベツはみごもる。そして生れた子どもは、エリヤの霊と力で主の前ぶれをする」――まさに、その預言が聞かれたのだという、その一番最初がザカリヤの個人的な事情、その個人的な思いを神さまは受け取っていてくださったということにありました。
私たちはどれほど沢山の祈りをして来たことでありましょう。その中でまだ答えていただけない祈りも沢山あります。もしかしたら私たちが気がつかない形で既に答えられているものもありますでしょう。
しかし私たちはいつもあなたに期待します。そしてあなたが私たちのところに来てくださるのは、私たちを裁くためではなく、ご自身の救いをもたらすためであり、主イエスにあって、この世界を救うためだ。いやこの世界ではなく、私を救うためである、というクリスマスの真の意味を心に受け取ることができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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