名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索

::: 説  教 :::


774 4165 統計カウンターの表示   管理者で接続
Name   T・Y
Subject   12/25 洗礼式・転会式・クリスマス:みことばどおりにこの身になりますように ルカ1:26〜38
☆聖書箇所    ルカ1:26〜38

  26ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
27この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
28御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
29しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
30すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
31ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
32その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
33彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
34そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
35御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
36ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
37神にとって不可能なことは一つもありません。」
38マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

☆説教    みことばどおりこの身になりますように

マタイの福音書の1章を開いてくださいました。(***ここで、ルカということに気がついておられない藤本牧師)。
もうアドベントの期間中に戸塚兄が一度このマリヤのところから、戸塚兄のメッセージはむしろエリサベツに繋がってのメッセージでありましたが、私(藤本牧師)はこのマリヤの「みことばどおりにこの身になりますように」というこのことばに集中してお話をしたいと思います。

1章ですね、ごめんなさい。ごめんなさい、ルカ?(大笑)ルカだねぇ。一生懸命探して、なかった。

私(藤本牧師)聖書をだいぶ、これで3回ぐらい変えて来ましたけれども、変えて来ると大判になったりして、段が違うんですね。そうすると、どの辺かわからなくなるんですが、2018年の1月で、聖書が全部変わります。それで皆さんには来年一年間、礼拝に来るたんびに100円貯金してください。聖書が変わります。

来年10月31日が、宗教改革500年です。それを機に一番最初に中版聖書、それから小版、12月には大判聖書が出て来ます。で、2018年の1月をもって、教会の備え付けもまた皆さんの聖書も全部変わりますので、古い聖書に慣れているということは事実です。でも新しい聖書を開きますと新しい声が聞こえて来る。主の新しい恵みをいただけると信じて、聖書を変えていただきたいと思います。

ルカの福音書の2章です(1章でしょう、という声)。じゃない、こっちこそ1章だよねぇ?(大笑)1章の46節。

46マリヤは言った。
  「わがたましいは主をあがめ、
  わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

と言って「マリヤの賛歌」が始まるんですが、その前。
ごめんなさいね、どんどん聖句が変わって行くという所が申し訳ないんですが、これでもう確かですね。34節――

34そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
35御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
36ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
37神にとって不可能なことは一つもありません。」
38マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

新約聖書で一番有名な、またクリスマスで一番有名なこの言葉――「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」 “Let it be unto me”ですね。

短く3つお話します。先ず第一番目に――

1)よくわからない

初心者会の最後に、きょう洗礼を受けた井上君が最後に質問をしてくださいました。
「洗礼って、教会に一年位通ってから受けるものではないんでしょうか?」と。
彼はすぐにでも受けたいから、この質問をしたと後に仰っていました。
もっと学び、聖書のことを、教会のことを、神さまのことを理解して習得してから洗礼を受けるべきではないだろうかと。
「私も、昨日来て今日来た人に洗礼は授けません」というお話をいたしましたと同時に、自分は洗礼を受けるに当たって、どれくらいの準備が必要なんだろうか?というのは皆さんの疑問です。皆さん、それを迷います。

もちろん教会にあって、きちんとした学びの過程を設けて、そして十分な準備を重ねる所もあるでしょう。
そう考えますと、高津教会の場合は「わたしの使徒信条」を読んでください。それから星野富弘さんの本を読んでください。その上で私(藤本牧師)が、お祈りのこと、罪と十字架のこと、そして復活のことを一緒にお話するというのは、不十分なのかもしれません。

「信仰」というのは、よく考えないで信じるということではありません。
「信仰」というのはよく考えて信じることです。
信じてる内容、特に神さまのこと、十字架と復活のこと、そしてキリスト教の骨格は大体わかっていたほうがいいと思いますが、
しかし十分な準備を備えている教会であっても、わかっていることは、それは「どんなに準備をしても、知識は知識に過ぎない」ということです。

私(藤本牧師)は大学一年生の時に、人生初めてスキーに行きました。
きちんと板も、靴も、ストックも、ウエアーも揃えて行きました。
私は中学の頃からスケートはやっていましたので、スケートの刃の長さは(両手で)こんなもの、スキーは(両手を広げて)こんなもんで、でも刃には違わないので大して変わらないだろうと思って、頭の中でイメージをしていました。
スキーに行くとなってから、テレビでかっこよく滑っている人を見ながら、あ、ああいう風に曲がるんだなぁ、ああいう風に身体を傾けるんだなぁと、いつも自分がどこにあっても、こうスキーに滑っているような気持ちで行きました。

スキー場に着いて、かっこよく板を背中に担いで、カチンと留めて、さあリフトに乗って山の上に行こう。
ところが立つこともできなければ、一生懸命頑張るんですけれども、前に進めない。
で、リフトに並んでいる人がちょこっちょこっと前に行くんですけれども、私はもう何とかストックで身体を支えて、手の力で前に行く以外、足をどう動かしていいかよくわかりませんでした。
それが山の上に連れて行かれて、滑り始めましたら、もう本当に足が折れちゃったんじゃないだろうかという位、転びました。
転んだ時にスキーの板が靴から外れる、そのねじの留め方も解りませんでしたから、板がくっついたまま転びますので、もう本当によく生きていたなぁと思います。
次の日に、体中が筋肉痛でした。それは転んで起き上がって立とうとした時に使った筋肉が、悲鳴を上げていました。

信仰の世界も同じようなものです。
どんなにイメージしても、あの人のように本を読んで理解しても、でも滑ってみないとわからないですね。
私たちは滑り始めてもう一度聖書の言葉と格闘し、祈り、信仰を鍛え、そして周囲の人々の話を聞き、相談し、祈ってもらい、自分に当てはめ――ここから始まって行きます。
私の母(藤本幸子師)はよく言っていました。「苗は苗床に育っているだけだ」と。
――苗は苗床に育っている限り、その成長は限られている。でもそれを洗礼によって、田んぼに植えてもらって初めて苗は育っていくんだ。

クリスマスの出来事を読んでいきますと、理解しようと思っても理解できないこと、頭を抱えている人物ばかり。
▼ザカリヤは言いました。「どうして子どもができるんですか?私も妻も老齢ですし」
▼マリヤは天使のあいさつに驚きます。「どうしてそんなことがあり得るでしょう?私は男の人を知りませんのに」
▼ヨセフは当惑します。あれほど信頼していた許嫁のマリヤが身重になった。愛するマリヤが、どうして妊娠したんだろうか?
▼やがて二人は一緒になって、ベツレヘムに行って戸惑います。神さまによって示された妊娠、この旅路なのに、どうして宿がないんだろう?どうして馬小屋で出産しなければならないんだろう?それはそれは二人にとっては不可解な挫折でありました。
▼東方の博士たちはユダの王の誕生が、どうして王宮でなく粗末な家なのか解りませんでした。

とても劇的な回心の体験をした人は別として、私たちの多くは解らないことが十分ある中、時には牧師に勧められ、時には友人の勧めや教会の人々の勧めもあり、時には親や伴侶者がクリスチャンであるというタイミングで、洗礼を受けたはずです。
つまりいざ洗礼を受けるという段階になった時に、自分が理解した、よくわかったから洗礼を受けたのではなく、
自分の判断を越えて、どこかで決断がなされたように、私たちは洗礼を受けます。
いやもっと言えば、自分の考えではなく、神の選びによって、私は信仰が与えられたのではないかと思います。
「神さま、私はあなたの恵みを受けるために心を開きます。私にあなたの恵みを受け取る信仰を与えてください」
という祈るような思いをもって洗礼を受けます。
子どもが洗礼を受ける場合、それは親の祈りです。おじいちゃん、おばあちゃんの祈りです。
「どうかこの子が神さまの恵みを受けて育つことができるように、この子に信仰を増し加えてください」と。

最初に申し上げましたのは、クリスマスのこの場面と同じ。
私たちは解っているから神を信じているわけではない。私たちは理解したから洗礼を受けたわけではない。
いつもどこかで私たちの理解を超える神の力が、私たちの人生に及んでいるんだということです。

二番目に、そのように理解を超える出来事に向き合う時に――

2)マリヤは信仰を開き、そして委ねるように言いました。「みことばどおりこの身になりますように」

(ルカ1章の)30節で、御使いはマリヤに現れて言います。

30……「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
31ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。

その時のマリヤの反応はとっても現実的ですね。34節――
34……「どうしてそのようなことになり得ましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」

マリヤが直面したことは、古今東西どんな文化の中にあっても不可能です。
マリヤは自分自身のことですから、全く身に覚えがない。
だから彼女は言いました。「そんなことあり得ません。私は男の人を知りません」――リアルな答えです。
それに対して御使いが言うんですね。「あなたの言っていることは解る。しかし神にとっては不可能なことは一つもない」

マリヤは戸惑いつつ考えたに違いありません――御使いは「老齢のあなたの親戚のエリサベツもみごもっているんだから、あるんじゃないの?」(と言うけれど)――決断が迫られているのか、いや神さまから押されているのか、この宿命の道を自分は行かなきゃならないのか?断れないのか?
でも御使いの迫りは確かでありました――「神さまはなぜか、あなたを選ばれた。だからあなたがこの道を行く」

洗礼もそうです。「神さまはなぜか、あなたを選ばれた。あなたの中には小さな信仰の、からしだねの種がある。どうかそれを教会の中にあって、家庭の中にあって育ててもらいなさい」(と、御使いのことばのとおりです)。

その時マリヤはこう言いました。「私には解りません。しかし神さまはご存じです。ですから神さまにお任せします」
というのが、「みことばどおりこの身になりますように」という言葉の意味です。
英語の方がもう少し確かですね――“Let it be unto me”
「神さまが考えておられる出来事が、その道が、どうか私に、この身になりますように」
――私には解らないことが沢山ある。でもあなたのみこころの中を生きることができるように、「私は私の心をあなたにお委ねします。あなたにお任せします」
と言うのは、一つの決断でありました。

ある時、非常に不幸な形で自分のお子さんを亡くしてしまわれた方がおられました。
その方の信仰は立派な方でありますけれども、でも心の中に、「なぜこういうことになったんだろうか?」という、「なぜこういう病気になってしまったんだろうか?」――お母さんでありますから――そういう思いというのは心の中に沸々と生まれて来るんだろうと思うんですね。
「なぜそうなったんだろうか?」って言われれば、私(藤本牧師)もそれは全然わかりません。
本人もわからないと思いますし、周りの者もわからないと思います。
でも言えることは、「本人もベストを尽くし、周りの者もベストを尽くし――この世界には神さましかわからないことが沢山ある――だから私たちは神さまに委ねて生きて行きます」
その姉妹が仰いました。「そうですね。神さまに委ねて生きて行くしかないですよね」と。

マリヤは、この宿命を自分が背負える自信は何一つありませんでした。
しかし「神には不可能なことは何一つありません」(ルカ1:37)と天使が言うのであれば、「わかりました。あなたのみことばどおりこの身になりますように」(同38)と、告白しました。
それは、運を天に任せる、なるようになれ、という意味ではありません。
「神であるならばこの方は確かである。この方の力に、愛に、ご計画に私を委ねて行きたいと思う。何があろうとも、この方の手の中で私は生きて行きます」というその確信が「みことばどおりこの身になりますように」でありました。

で、今日は年末最後の礼拝ですから、ちょっと頭に思い出していただきたいと思いますが――
私(藤本牧師)はこの年、元旦の礼拝にいただいたみことばから始まりました。アブラハムの生涯から始まりました。
「信仰がなければ、神に喜ばれることはありません」(へブル11:6)
そして元旦礼拝で、アブラハムの信仰は、行き先知らずして、神さまが示された地に旅を続けるという信仰であったという話をしました。

神さまが示された地で飢饉に見舞われ、食料が尽きます。そしてエジプトに避難します。
「星の数ほどあなたの子孫は増える」(***創世記15:5)というんですが、子孫の第一番目、自分の子どもが一向に与えられません。
仕方がなくして、妻のしもべであるハガルとの間に子どもを作りますと、家庭は、とっても複雑になります。
やがてイサクというひとり子を与えられた時に、神さまはアブラハムに「その子をささげなさい」というとんでもない試練をお与えになります。
アブラハムも考えたかもしれません。「なぜなのだろう?神さまに祝福されるはずの道を歩んで来たのに、どうして飢饉が、どうして試練が、どうして困難が?」
しかしですね、私たちがアブラハムの生涯を学んでいって、一度も彼はなぜ?どうして?という悶々とした思いを吐いてはいないです――それがアブラハムの信仰でありました。
時に運命に翻弄されているような人生です。
しかし最終的にアブラハムは、行き先知らずして出発したアブラハムは、
「神さま、何が起ころうとも、私はあなたにお任せします。みこころが私の身になりますように。みことばがこの身になりますように」

「人生というのは、神さま、あなたにしかわからないことが多すぎます」と私たちは言いますね。
「人の悪に翻弄され、自分の不節制に流され、自分の愚かさで傷つき、自分の愚かさで傷つけ、何が悪かったのか?何が悪いのか?私はあなたの前で遜って、なぜ?という問いかけをいたしません。
どうか私を憐れんでください。私を愛してください。
私も、周囲の者たちも、この世界も、自然界も、私たちの思いをはるかに超えています。
ですから私はこの小さな人生をあなたにお委ねします。どうか恵みを注いでください(アーメン)。どうかみこころを為してください。
私に背負えない宿命も、自分を責めることなくあなたにお委ねします。
私の全力が全く何の役にも立たない人生の課題の中で、あなたのみこころが為されますように」

「信仰なくして、神に喜ばれることはできません」(へブル11:6)――その信仰を追求してきたこの年の最後のみことばは、まさにマリヤの信仰をいただく以外にない。
解らないことは沢山ある。来年も再来年も。でもみこころの中を生きて行きたい。「みこころどおりこの身になしてください」(ルカ1:38)

三番目に簡単に申しますと、イザヤ書の9章を見ていただきたいと思いますが――

3)信仰の旅路はクリスマスと同じように、神の熱心に支えられています

信仰の旅路は、神の熱心に支えられています。
イザヤ書の9章の2節を見てください。

2  やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。
  死の陰の地に住んでいた者たちの上に
  光が照った。
3  あなたはその国民をふやし、
  その喜びを増し加えられた。

4  あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち(を外してくださる、と説明)
5  (黒の、と説明)戦場ではいたすべてのくつ(も)、血にまみれた(を悲しみにまとった、に変えて)着物も(脱ぎ捨てることになる、と説明)
6 …… 「不思議な助言者、力ある神、
     永遠の父、平和の君」と呼ばれる(キリストの主権が、と説明)。
7 …… 増し加わる。(これらすべてが、7節の最後、と説明)
  万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。


万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる――
考えてもよくわからない。最善を尽くしてもうまくいかない。
この人生にも、この世界にも、予想だにしない労苦が溢れている中で、
主の熱心だけが、私たちの信仰の旅路を終わりまで導いてくださる。
この方の熱心に委ねて、私たちはマリヤと共に言います。「みこころどおりこの身になりますように」
あなたのみこころをなしてください。あなたの憐れみにあふれたみこころを、私の人生の中になしてください。
そして私の計画も、私の来年も、来年の出来事も、すべてあなたにお委ねします。
なぜならあなたは憐れみ深く、あなたの熱心が私の人生を導いて支えてくださることを心から信じているからです。

☆お祈り――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、自分の判断や自分の力で道を開いて行かなければならないと、錯覚している私たちに、はるかに超えた恵みを与えてくださることによって、「ほら見てごらん。あなたにはできなかったことを、わたしが為したよ」と、そう納得できる出来事が一年間何度もありました。まさにあなたの熱心が私を支えてくださいました一年でありました(アーメン)。試練の中にあっては、「みことばどおりこの身になりますように」と言って、自分の理解をはるかに超えた出来事を、ただひたすらあなたの御手の中に収めていただきました。

アブラハムの信仰から始まった私たちの信仰生涯でありますけれども、最後の最後まで、「あなたのみことばを、あなたのみこころを、あなたのご計画を、この身になしてください」と(アーメン)、はしためとして、しもべとして遜って祈ります。

きょう洗礼にあずかった兄弟姉妹も含めて、このクリスマス礼拝に座しておられる私たち一人ひとりを同じ恵みをもって包んで、2017年という年に踏み出すことができますように導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2016.12.27 - 11:49

175.133.12.55 - Mozilla/5.0 (Windows NT 6.3; Win64; x64; Trident/7.0; MALNJS; rv:11.0) like Gecko

Name   E-Mail   Password

 前文 1/1 元旦礼拝・聖餐式:栄光(1)主の栄光はあな...
 次文 2016キャンドルサービス:決して一番小さくは...
文章投稿 *^^*削除修正返答を書くリスト

チェックされた全文書を見る
294Simple view *^^*3/12 やさしい出会い(13)神の賜物 ヨハネ4:... T・Y 2017.03.13 8614
293CCF20170306_00000.pdf [1.1 MB] ダウンロードSimple view *^^*第72次年会・聖会のお知らせ T・Y 2017.03.06 8869
292Simple view *^^*3/5 献児式:やさしい出会い(12)イエスが静... T・Y 2017.03.06 8864
291Simple view *^^*2/26 やさしい出会い(11)直したのはあなたの... T・Y 2017.02.27 8921
290Simple view *^^*2/19 やさしい出会い(10)正気に返る マルコ5... T・Y 2017.02.20 9257
289Simple view *^^*2/5 戸塚神学生:向かい風の中のペテロ マタイ14... T・Y 2017.02.06 9029
288Simple view *^^*1/29 教会総会:神聖な日を共に ネヘミヤ8:1〜... T・Y 2017.01.30 9229
287Simple view *^^*1/22 栄光(3)イエスの御顔の輝き マタイ17:1... T・Y 2017.01.23 10370
286Simple view *^^*1/15 戸塚神学生:「一つだけ」に生きる ルカ10... T・Y 2017.01.16 9172
285Simple view *^^*1/8 栄光(2)わたしのあらゆる善を 出エジプ... T・Y 2017.01.09 9917
284Simple view *^^*1/1 元旦礼拝・聖餐式:栄光(1)主の栄光はあな... T・Y 2017.01.02 9421
283現在参照中の文章です...12/25 洗礼式・転会式・クリスマス:みことばどお... T・Y 2016.12.27 9446
チェック項目を全て削除。 チェック項目を全て削除。

前頁 次頁
本頁が先頭ページです前へ戻る 41  42  43  44  45  46  47  48  49  50 次へ進む本頁が最終ページです
文章投稿 *^^* 再読込
投稿者氏名を検索項目欄に追加/除去タイトルを検索項目欄に追加/除去内容を検索項目欄に追加/除去 メイン画面に戻る。... *^^*