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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   2/19 やさしい出会い(10)正気に返る マルコ5:1〜20
☆聖書箇所  マルコ5:1〜20

1こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
2イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。
3この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。
4彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。
5それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。
6彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、
7大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」
8それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け」と言われたからである。
9それで、「おまえの名は何か」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。
10そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。
11ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。
12彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」
13イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。
14豚を飼っていた者たちは逃げ出して、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々は何事が起ったのかと見にやって来た。
15そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気にすわっているのを見て、恐ろしくなった。
16見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。
17すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。
18それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。
19しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」
20そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。

☆説教    やさしい出会い(10)正気に返る

今朝は(と言いかけて)、私(藤本牧師・インフルエンザのため)あのう2週間休んだので3週間ぶりに礼拝の講壇をしますので、ちょっと緊張しているというか(大笑)、久しぶりにちょっと昨日説教を作りながら、「作れないんじゃないかな」(大笑)と思うほど、休ませていただいて本当に申し訳なく思います。

マルコの福音書の5章で、そして昨年来ず〜っと続けて学んで来ました、イエスさまと出会っている人々を見て、私たちもイエスと出会っていることを確認したいと思います。
今日読んでいただいたのは、5章の1節に――

1こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
2イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。

という風に始まります。

3この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。
4彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。
5それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。

この人物と、イエスさまが出会う――悪霊につかれた人です。

1)私たち、ここに座っている私たちは、悪霊につかれているわけではないですが、とっても私たちと似た所があります。

3節をご覧いただきますと、彼は「墓場」を住みかとしていました。
不気味です。
「夜昼となく、叫び続け、石で自分のからだを傷つけている」(5節)わけですが、「墓に住みついている」というのは、ま、裏を返すと「不毛の地に、死に囲まれながら住んでいる」ということです。
それはこの世界に通じることで、私たちもまた墓に向かって進んでいます。
イエスさまが葬られた時に、人々は墓を見つめて座っていたとか、
イエス・キリストもまた墓に葬られたとか、
私たちがお墓に行きますと、たとえば教会墓地が津田山にありますが、津田山という山全部がお墓です。そして教会墓地を探すのは、よ〜く見てないとわからないぐらい墓石がずら〜っと並んでいます。そして一つの墓の中に何人もの人が入っていると思いますと、
私たちはやがて、みな墓に行くのだということがよくわかります。

のみならず、私たちはしょっちゅう口にします。「今日は不毛な一日であった」と。
私(藤本牧師)はしょっちゅう口にします(笑)。「今日はまことに不毛な一日でございました」と。
何をしたのか、よくわからない。そして、私たちは鎖に縛られ、つまり罪や重荷に縛られ、不安や思い煩いに縛られ、時に責任に縛られ、この世の人間関係に縛られて生きています。
特に5節を見ていただきたいと思いますが――

5それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。

自虐的に生きていた。
私たちもなかなか自分を生かすことができないです。
悪霊につかれたこの男が自分がだれかわからないかのように、私たちもまた本来の自分を完全に見失って、自分を傷つけて生きています。

だいぶ前2004年に、21歳(?)の女性作家が二人そろって芥川賞を取ったって、皆さん覚えていらっしゃいますでしょう。
二つの作品というのは、「蛇にピアス」(***金原ひとみ著・当時20歳)という作品とそれから「蹴りたい背中」(***綿矢りさ著・当時19歳)という作品でありました。
で、2004年に芥川賞を取った時に、私(藤本牧師)は妻に話をして、「ね、どっちか読んでみよう」と。
「たまには推理小説とかそういうんじゃなくて、文学作品に取り組んで、自分がどういう風に実感できるか、どういう風に読みこなすことができるか挑戦してみよう」
で、私たち夫婦が読みましたのは「蛇にピアス」でありました。

話はこういう風に始まります。
蛇の舌というのは、二つに割れていますよね。
人間の舌にもピアスで穴を開ける、そしてそのピアスを段々段々大きくしていきますと、やがて舌が二つに割れてしまうという、渋谷に住む自虐的な男女を描いた話でありました。
表現がリアルで、現代の人間の心を上手に描写していたと思いますが、
私(藤本牧師)には、当時ほとんど話の意味がわかりませんでした。
で、私は妻に、「ねぇ、感想教えてよ。どうだった?」
「う〜ん、今風なんでしょうね。妙に性描写と食事描写がリアルで力強かった」
「あ、なるほどそうか」と。

「性描写と食事描写がリアルで力強い」というのは、確実に「生きている」んですよ。生きているんです。
その生きているエネルギーは内側に溢れているんですけれども、しかし、「生きている」という現実がとことん「自虐的」。
そしてそれが私たちの心を捉えるほど、私たちもまた自虐的ですね。

で、私もまたこの「蛇にピアス」という書物を書いた芥川賞作家の所をちょっと調べましたら、彼女は若い頃、リストカットをず〜っとしていたという話が出てまいりました。
リストカットというのは、とても「自虐」行為の一つでありますけれども、
私たちも様々な意味で、自分を生かすことができない。自分の身体を傷つけてしまう。いや、人を傷つけてしまう。そうして生きている。
その「青春」という喜びに溢れた、活力に満ちた時期がすごく不毛で、ものすごく縛られていて、生きていることの意味が解らずに、自虐的な出来事に妙にエネルギーを発揮してしまう――その姿というのは、私たちに通じていると思いますね。

2)もう一つ、この悪霊というものに目を向けていただきたいと思うんですが――

悪霊はこうです。6節に――

6彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、
7大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」
8それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け」と言われたからである。

「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。」(7節)
ひと言で言いますと、神の存在を嫌うんです。神の存在を負担に思うんですね――これが悪霊の最たる証しです。
ですからキリスト教会で、座って共に賛美をし、共に祈る人は悪霊とは無関係です。
私たちが共に賛美をし祈りを為している限りにおいて、悪霊が私たちに近づくことはないですね。

私たちの教会には「インマヌエル」という名前がついています。
ま、昔、今もそうですけれども、タウンページで見ますと、インマヌエル高津キリスト教会は一番最初に出て来るんですね。
だから教会にかかって来る一番厄介な電話は、うちが最初なんですね(大笑)。
もう今から電車に飛び込みたいとか、お金がなくて困っているとか、妙に嘘くさい。それでいて、妙にかかって来る電話はうちが一番最初にかかって来る、厄介な名前だねぇと言ったことがありますが、

「インマヌエル」というのは、すばらしい、すっばらしい名前です。
「キリスト」というのは、油そそがれた者という意味です。
ですから当時の感覚で言いますと、キリストというのは、油そそがれた、神の使命のために特別に聖別された救い主という意味です。
でもマタイの福音書を見ますと、「この方はインマヌエルと呼ばれる」ようになる。つまり「神ともにいます」ですね(***マタイ1:23)。
ですからイエスさまは仰いました。
「ふたりでも三人でも、わたしの名によって祈る所に、わたしもまたともにいます」(***同18:20)と。「わたし」もいます。私たちとともに。
「見よ。世の終わりまで、わたしはともにいます」(***同28:20)と。
これが信仰者にとって、最大の平安ですね。

私たちが大好きな詩篇の第23篇は――
1主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
2主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

主は私を「伴われる」――共に歩んでいてくださる。緑の牧場も、いこいの水のほとりも。
たとい、死の陰の谷を歩むことがあっても、私は恐れません。あなたが共にいてくださるから。(***4節)
詩篇23篇の味わいというのは――神が私たちと共にいてくださり、私たちの人生の様々な局面で神が私を伴っていてくださる。伴侶者のように、私の隣りにいてくださる――これが私たちの最大の平安ですが、

悪霊はこれを嫌うんですね。そして神さまの御前に来ると、落ち着かないです。
なんと悪霊の方からイエスさまの所にやって来ます。
「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか」(7節)ということは、神さまに、イエスさまに何かされることを(悪霊は)嫌う。
「導かれるなんていうのは、守られるなんていうのは、救われるなんていうのは、私には関係がない。そしてその道に私が導かれるんなら、私は背を向けてイエス・キリストのもとを去って行く」
悪霊はイエスさまの権威の前で、不安で仕方がないんですね。
私たち(クリスチャン)は違います。私たちは好んで、
「イエスさま、守ってください。導いてください。助けてください。救ってください」(と請い願います。)

ドフトエフスキー(ロシア文学巨匠1821~1881)の作品に「悪霊」(あくりょう)というのがありますね。
そこで彼はあの有名な「悪霊は集団を襲う」と言う――悪霊というのは、一人の人間を捕えるだけではない。集団を襲うと言う。
これはよくありますね。
社会全体が転覆していくという出来事もありますし、それが暴力的であれば革命になるんでしょうけれども、
しかしもっともっと暗い部分で、社会全体が悪霊に捕われているというのもあるでしょう。
キリスト教会の存在を嫌う社会、あるいは神という――私たちの存在そのものを包み、私たちを創造し、私たちを贖い、私たちを完成に向けて私たちの人生を包み込んでくださる――そんな存在を嫌う世界というのは、日本の社会そのものだろうと思いますね。
聖なる事柄、愛すべき事柄、誉れある事柄(***ピリピ4:8)を嫌って、自分の欲を中心に自分の欲の中に溺れていく。
いつの間にかその世界の中に飲まれていく一人の人です。
悪霊が集団を襲い、集団の、社会のものの考え方を決定する。

3)イエスさまに目を向けてみたいと思うんですが――

イエスさまは、この暴徒の中に埋もれている、歯止めが利かなくなった社会に埋もれている、この人に声をかけるわけです。
8節の――「汚れた霊よ。この人から出ていけ」。
そして9節に――「お前の名は何か」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。
イエスさまはこの人物に対面し、この人物と正面に向き合うんですね。

私たちはこのゲネサレ(ガリラヤ)の地に住んでいるということを申し上げました。
日本の社会は貧しくなくても、とても歪んでいます。
私たちの心もそれに合わせて、競争社会の中で傷ついて歪んでいきます。
この社会が人間性を失うということは、家庭が人間性を失うことであり、自分を見失い、
人によっては唯一自分を見つける場所があるとしたら、それは悪を絆として成立する仲間の中であったりするわけですが、
イエスさまはそういう地に縛られている一人の人に向き合って、この一人の人に目を注ぐ。
イエスさまは彼と出会うわけですよね。

マタイの福音書を見ますと、この村に続く道は「誰もが避けて通った」と書いてある。
(※マタイ8:28……悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。)
「誰もが避けて通った」というのは、すなわち、彼と出会いたくない。
こんな人物がいましたら、私たちも出会いたくないです。私たちも子どもに教えます。
「この道を行っちゃいけないよ。この道の先にはとっても危険な人物がいるから、その道は避けなさい」と。

ところがイエスさまは、みんなが避けて通る道、みんなが避けて通るこの人物を捕えるために、正面から進んで行きます。
そして非常に力強い権威のことばで、「汚れた霊よ。この人から出ていけ」と仰います。
悪霊を追い出すのは、彼を救い出すのは、彼を愛しておられたからですね。
墓場に追いやられ、だれもかまってくれない、ただ周りのお荷物に過ぎないこの人物を、愛をもって捕え、普通の人なら避けて通りたいような彼を、愛と力をもって捕えられた。

この彼は15節を見ていただきますと――

15そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。

この人物はやがて、着物を着て、正気に返ってすわっているんです。

私たちの一週間の営みで、一番自分の正気を取り戻すのが礼拝だと思っていただきたいと思います(アーメン)。
神さまの存在を負担に思い、様々なものに縛られ、自分を生かし切れず、レギオンを内に宿しているような私たちが、
日曜日、主の御前に来て、正気に返って座る。そして人生――何のために、どこに向かって、何を基準に生きているのか――それをもう一度流れに負かされずに、欲に負かされずに、主の御前で正気で座り、取り戻す。
人生で一番正気になれる時間はいつなのか?「礼拝です」――そう答えるのがクリスチャンだろうと思います。

さて、4番目見ていただきたいと思いますが――

4)この神さまの前で正気で座ることができた男は遣わされますね。

18節、私が読みますので、皆さんが19節を読んでみてください。

18それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。
19しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」

彼はイエスについて行きたい、お供したいということを願いました。
ま、今で言えば、献身して牧師になりたい、そんなことを言ったんでしょうね。
しかしイエスさまは、それをお許しにならずに、
「代わりにあなたの家に帰り、あなたの家族のところに帰れ」と。そして
「主がどんなに大きなことをしてくださったか、どんなに憐れんでくださったかを知らせなさい」と(言われました)。
これは、この人物にとって一番大変なことです。
イエスについて全然知らない道に行った方が、彼はよっぽど楽です。
しかし、家族からも嫌われ、親戚からも嫌われ、友人からも嫌われ、その村で追放されたかのように墓場に住んでいた彼が、
正気に返って、「家族の中で証しをしなさい」というのは、彼にとっては喜びであり、負担でもあっただろうと思います。
でも彼は、主の大きなみわざを証しするために、家族のもとに帰ります。

A・J・ゴードン(***1836〜1895アメリカ、ゴードン神学校、および宣教大学の設立者)というボストンの教会で牧会した有名な牧師がいますが、100年以上も前の話ですね。
A・J・ゴードンという有名な先生ですが、D・L・ムーディー(***1837〜1899アメリカの大衆伝道者)の管下の下に活躍した人で、こんな話が残っています。

ある土曜日、教会の庭先で、少年が小鳥の入ったかごを持っていたんですね。
少年に先生は訊きます。「どうしたの、その子鳥?」
「野原で捕まえたんです。仕掛けを作って捕まえたんです」
小鳥はおびえて、そしてバタバタかごの中を飛び回っているんですね。
先生は少年に、「なぁ、君、それを先生に200円で売ってくれないか?」
「いいですよ。でもきれいな声で鳴く鳥じゃないですよ(笑)。ぼくは、猫の餌にでもしようと思ってこの鳥を捕って来たんですから」
「いいよ。それでも」
少年は大儲けで、大喜びで帰って行きます。
先生はかごを受け取りますと、教会の庭で小鳥を逃がしました。
空高く飛んでいきました。

そして先生は次の日、その空っぽの鳥かごを講壇に置いて、そして、その土曜日のいきさつを話をしました。
確かに小鳥はきれいな声で鳴いていたわけではない。
でもかごから解放されて、大空にはばたいて行った時に、その声は「救われた、救われた」と鳴いているかのように(笑)聞こえたという話ですね。

私たちはきれいな声で鳴ける鳥ではない。
でも「救われた、救われた」という喜びは、どういう形で表現しようと、やっぱり表現できることですね。
そして、表現することを私たちは忘れないです。

レギオンという大勢の悪霊を宿していた男が、イエスと出会って、正気に戻って、着物を着て、神の御前に座るわけです。
悪名高き人物を人々は恐れたと思います。
身体に傷があり、舌は蛇のように割れ(笑)、手首に足首に枷(かせ)の痕がついていたに違いないです。
でも彼は正気でした。そして、ただひたすらイエスが彼を自由にしてくださったことを伝えたに違いないですね。

最後に目を留めていただきたいことがあるとしたら――

5)この人物の中に住んでいた悪霊は、 9節を見ていただきます?

9それで、「おまえの名は何か」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。

レギオンというのは、ローマの兵隊の一個師団の通称です。
ローマの兵隊の一個師団はレギオンというんですね。
で、歴史的に文書を探りますと、レギオンというのは、600名から2500名ぐらいの間で、一つの兵を結成するわけですね。
その中に100人グループがいまして、で、百人隊長がいるわけですけれども。
その百人隊長のもとの100人グループが6つあり、あるいは8つありという世界ですね。
いったい何人いたのかわかりませんが、13節見ていただきますと、この12節から――

12彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」
13イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。

って考えますと、悪霊の数は二千か?と思いますね。

これはものすごく興味があります。
多重人格症という、厄介な精神疾患でも、一番多くて20ですかね。
でも私たちの心っていうのは、闇の部分もあり、裏側もあり、そしてすごい複雑で、自分自身も把握していない潜在下、潜在意識の下にある部屋も含めれば二千ぐらいあるのかもしれない。
そしてこの男性は、二千の部屋すべてに悪霊を招いていたと言うか、悪霊に支配されていたんですね。

私たちはよく知っています――それはイエス・キリストの霊、聖霊は悪霊よりもはるかに強い(アーメン)。
ということは、私たちの心の中の隅々に至るまで、聖霊はその部屋を閉めることができる。
で、いつでも言われることは、「もし私たちがその部屋の扉を開けるなら」です。

私たちの心の内側には、イエス・キリストに開けていない扉というのが実は沢山ある。沢山あるはずですね。
そしてその部屋の前で、私たちは言うんですね。
「イエスさま、いったい私に何をしようとなさるんですか」(大笑)って。
「何をするのですか」と言われたら、イエスさまの答えは一つで、
「あなたの人生のすべての部屋にわたしは入る用意がある。
あなたが部屋の扉を開けるなら、わたしはそこにも入って、あなたの人生を正気に返すことができる」と言われたら、
「主よ、どうか、どうか私を避けて遠のいてください」ではなく(大笑)、
「主よ、どうか私の内に入り、私の内側を探り、ダビデのように傷ついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」(詩編139:23、24)と言わざるを得ないですね。

☆お祈り――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、この非常に奇妙な人物の中に、私たち自分自身を重ねることができるほど、私たちもまた不毛な世界に住み、様々な出来事・責任に縛られ、そして何ともまぁ、心の中の様々な扉の前で、「イエスさま、いったい私に何をしようというのですか?」(というほど悪霊に支配された者たちです)。
「あなたを解放してあげる。あなたを愛している(アーメン)。あなたと向き合う。あなたを離さない」と仰るイエスさま、どうか、心の底からあなたを慕い、そして心の底からあなたについて行くことができるように、どうかこの心を緩やかなものにして、あなたが優しく語りかけてくださるみことばに耳を傾け、従うことができますように私たちを強めてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2017.02.20 - 17:32

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