☆聖書箇所 ヨハネ2:23〜25
23イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。 24しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、 25また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。
☆説教 やさしい出会い(12)イエスが静かに背を向ける
よくお出でくださいました。先週礼拝の後で、和室で子どもたちがパンケーキを作っていました。 とってもにぎやかで、沢山の子どもたちがいました。 教会の子どもたちは皆さん繋がっています。 一番上にNちゃんがいれば、その下にHちゃん、Aちゃん、Kちゃんがいたり、K朗くんの下に、S太くんやS介くんがいて、みんなお兄ちゃん、またお姉ちゃんを慕っています。
もっともっと沢山いるんですけれども、見ていてつくづく思います。 子どもは子どもが好きですね。子どもが子どもの顔を見ていると、笑顔でいます。 一緒に走り回っているエネルギーを見てますと、あぁ、ついていけないなと思いますけれども(笑)、その姿を見ているだけでも幸せになります。 人間っていうのは人間が好きなんでしょうか?と思いますと、自分を考えると、いや、それほどでもないなぁと思いますね(大笑)。それほど好きじゃないです。
しかし私たちが子どもを見て勇気づけられるのは、やっぱり子どもが基本的に人間を信頼し、人間が好きで、人間に愛されたい、人を愛したいと心底思っているからではないかなと思います。 子どもたちも現実の厳しさを学んでいくんだろうと思いますが、しかしどこまでも人が好きでいたい、人を信頼してほしい――そういう風に思います。 イエスさまがそうでありました。
恐れおののいて、人混みに紛れて勝手にイエスさまの衣に触って癒された女性を先日一緒に学びました。 その女性に対して、イエスさまは「娘よ。あなたの信仰があなたを癒したのです」(***マルコ5: 34)と仰います。 この女性のとっさの行動、そしてあってはならない病気にして、後ろから人混みに紛れ込んでイエスさまの衣を触る、というその行動を認めるのみならず、ほめるかのように、「娘よ。あなたの信仰があなたを癒したのだ」と仰いました。 「よくぞ、勇気をもって触ってくれた。あなたの信仰はすばらしい」と。
初対面で、当時の社会でははみ出し者であった取税人のザアカイに対して、イエスさまは仰いました。 「きょう、わたしはあなたの所に泊まることにしてある」(***ルカ19:6) 誰も好き好んでザアカイの家に泊まる者はいません。食事も一緒にしたくない、そう思っていた。 その中で、主は喜んで「わたしは喜んであなたの家に泊まりたい」
もっと典型的なのは、パリサイ人シモンの家で食事をしていた時のことでありました。 一人の罪深い女性がイエスさまの所に泣きながら入って来て、ひざまずいて、泣きながらイエスさまの足を涙で濡らし、そして髪の毛で拭っていました(***ルカ7:38)。 その時、周りの者たちは言っていました。 「あのイエスは何も知らない。知っていたら、あの女にあんなことをさせるはずがない」 いやいや、イエスさまはご存じでいらっしゃいました。世間知らずではありません。
しかし小さな子どもが人間が好きなように、胸襟(きょうきん)を開いて、心を開いて、笑顔をもって温かく、イエスさまは小さな者たちを受け入れておられます。 イエスさまはこの人たちを裁かないです。 温かい心のゆえに――日頃人目を避けて生きていた人々がイエスさまの所にやって来た時に――その人が貧しかろうが、病気であろうが、イエスさまは受け入れてくださいます。
さてそう考えますと、今日の聖書の箇所は、ちょっと興味深いですね。 いつもと違うイエスさまの姿が出てまいります。 (ヨハネ2章の)23節からこう始まります。
23イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。 24しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、
「すべての人を」(24節)という時には、25節に「イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられた」――だから、その人たちに「ご自身をお任せにはならなかった」(24節)。 「ご自身をお任せにならなかった」という言葉は、別の訳では、「イエスは彼らを信用しなかった」と書いてあります。
もともと「信用する」「お任せになる」というこの動詞は、実は23節の動詞と呼応しています。同じ動詞(が使われています)。 23節の「多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。」しかし、24節「イエスは、彼らを信じなかった」という風に、動詞は逆を行くようになっています。 人々はイエスさまを信じました。人々はイエスさまに身をゆだねた。信用した。 しかし、イエスさまは彼らを信じなかった。信用しなかった、という。
イエスさまは彼らに心を開かなかったというこの記事から、2つのことを簡単に考えてみたいと思います。
1)先ず第一番目に、23節の、イエスさまを信じた、と言われている人々の信仰のあり方であると思います。
彼らがイエスさまを信じたのは、そこに書いてあるように、「しるしを見て」信じた。 「しるしを見て」信じた、というのは、奇跡を見て信じた――これはもちろん悪いことではないですね。奇跡というのは信仰への入口になることは間違いないです。 私たちも癒されたから信じる。私たちも願いが聞かれたから信じる――奇跡は信仰の入口であり、励ましであります。 でもその思いが「しるし」そのものに留まっているなら、それはまだ信仰とは呼べないですね。
ちょっとヨハネの福音書の6章を見ていただきたいと思うんですが、6章の24節から交読をしてみたいと思います。 6章の24節〜26節までを交替に読みます。
<ヨハネ6:24〜26> 24群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカぺナウムに来た。 25そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」 26イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
この「しるし」は、またちょっと違う意味ですが、人々がイエスさまを捜して、多くの群衆がイエスさまの所に集まって来たのは、あなたがたは、26節の最後、「パンを食べて満腹したからです」 この記事の前には、イエスさまが男だけでも5千人という人々を、わずかな5つのパンと二匹の魚で満腹にさせたという記事が出てまいります。 それ以来、多くの人々はイエスさまの周りに集まって来て、イエスさまを捜しにやってまいります。 もちろん何か食べたいからというのでなく、イエスさまがなさる奇跡を見たいという気持ち、イエスさまに対する好奇心というのがあって、イエスさまの所に集まって来ます。 しかしイエスさまはよくわかっていました。あ、好奇心ゆえに人々は集まって来るんだと。
忘れもしないですね。 私(藤本牧師)、小学校4年生ぐらいの頃だったと思いますけれども、溝口歩いていましたら、二ヶ領用水の広場の所に――まだ当時広場があったんですけれども――人々が黒山の人だかりで集まって来て、そしてその中心におじさんがいるんですね。 で、おじさんの下にコブラとマングースの入った籠がありまして、おじさんが大きな声で言うんです。 「この小ブラとマングースの戦いをこれから見せる」と。 この戦いを見せると、ね。そしてもうすごい人だかりで、こんなマングースがこのコブラに勝てるのか? コブラが首を上げて、マングースに向かってやっている。どうやったら勝てるんだろう?
時間は一時間ぐらい経つんですけれども、人ばっかり集まるだけでとうとう戦いはありませんでした(大笑)。 そしておじさんは、自分の手がぷっくり膨れているんですよね。 「これは、実はコブラに噛まれたんだ」と。 そしてある粉を出して来て、それをこう(左腕を出して)塗るわけですよ。そうすると、腫れていたのが治まったんですよね。 見ていた者は、私たちも含めて、「うわぉ、すごい!!」と。
そして伯父さんは、そのコブラとマングースの戦いから一転して、その粉を売り始めた(大笑)んです。 その粉は、3千円か5千円のものすごい高い値段で、私(藤本少年)はもう一直線に家に帰りまして両親に言いました。 「3千円か5千円、今すぐくれ」と(大笑)。 「すっごい粉が溝口の二ヶ領用水で売っている」(大笑)と。 「僕はこの目で見た。あの粉さえあれば、もう病気にかかることもない」と。
あぁ、懐かしいなぁと思いますね(笑)。あの時のことを、ね。 あの少年の興奮と言いますか、私は一直線で帰って来て、親にペシャンコにへこまされて(大笑)、「そんなこと、そんなばかなことはない」と。
イエスさまがわずかなパンと魚で多くの人々を養った、という出来事を見て、家で報告して、もうすっごいことになっている。 それは5千人が1万人に、1万人が1万5千人に膨れ上がる。 そして多くの人々がイエスさまの姿を見にやって来た時に、イエスは彼らを信用しない。
皆に嫌われているあのザアカイが、木の上に登って一目イエスさまを見ようとしているのに対して、イエスさまは 「わたしはきょう、あなたの家に泊まることにしてある」と、 ザアカイの家にご自身をお託しになる。 「娘よ。あなたの信仰があなたを癒したのです」 (と仰ったように、社会から見捨てられている人たちに対しては温かい手を差し伸べられたイエスさまですが)――
でもこうした(単に好奇心に満ちただけの、あるいは自分の願望を満たしたいだけの)群衆に対して、心を開くことをなさいませんね。 「彼らはパンを食べて満腹したのです。要は自分の願望が満たされたから、わたしについて来ているだけなんだ」と。 信仰と言っても、もし私たちの信仰が「自分の願望が満たされる」ということにだけ依存しているなら、そして「願望が満たされ続けている限り、イエスさまについて行く」というだけのものであるならば、 どこか試練に遭ったり、悩みに遭った段階で、イエスさまのもとをみな去って行きますね。
聖書の中で、イエスを裏切ったユダという人物がいますね。 最初は、(彼は)一生懸命イエスの後をついて行ったんです。 しかし最後の最後で、ユダは自分のうっ憤を全部晴らすかのように、イエスさまをユダヤ人の指導者に売り渡します。 それはユダは、イエス・キリストこそがローマ帝国の支配からダビデの王国を再び復活させ、政治的なクーデターを起こしてくれるもんだと思って、ず〜っとついて来た。 でもこのお方はどう見ても、貧しい者、小さい者、病める者、悪霊につかれた者を救おうとされる。 このお方の「愛」にユダは我慢ならなかった。
ユダはむしろこの方の「力」の方に関心があったのですね。 全く自分の存在意義を感じないような貧しい乞食、あるいは小さな子ども、そういう者たちを祝福されておられるイエスに我慢ならないというのは、 ユダにしてみれば、違う願望が自分の中にあり――それはイエスさまにもっと「力」を発揮していただいて、この世界を治めてほしいという――その思いが優先したがために、ユダはイエスさまに失望していきます。 どうしてもっと大物を相手にしてくれないんだろうか?どうしてもっと大きなことをして、ローマ帝国を驚かしてくれないんだろうか?――イエスさまを裏切る決定をします。
そういう願望がみ〜んな私たちの心の中にないわけではないです。 イエスさまは私たちの心の中にあるものを知っておられる――(私たちの内側には)非常に高慢な思いがある。 そしてその高慢な思いを遂げるために神に祈る思いが、私たちの内側にないわけではないんです。 そしてそれをご覧になった時に、イエスさまは私たちを信用しない。
ず〜っと連続で、イエスさまが人と出会う、そのやさしさを学んでいますが、 (今日の箇所、)このヨハネの福音書の2章に戻っていただきますと、ここに出て来るイエスさまは必ずしも優しくないですね。優しくない。 人々は表面上に、御名を信じた。しかしイエスさまは彼らにご自身をお任せにはならなかった(23、24節)。
2)二番目に、もう少し掘り下げて、この群衆の姿を私たちの姿と重ねて見ていただきたいと思いますが――
申し上げましたように、私たちも神を礼拝する以上に、神からいただいた祝福に心が行く、ということはこれはもう事実ですね。事実です。 たましいの救いを求める以上に、目の前の必要を満たしてほしい、とイエスさまに願いますね。 たましいの救いだけなら死ぬ前でもいい、と思っている人たちもいないわけではないですね。 でもそう思っている限り、神さまは私たちをお救いにはならないと言いますか、神さまはご自身の思いを私たちに託されない。
以前、岩波新書に「日本語をさかのぼる」という本があるのを紹介したことがあります。 大野晋(すすむ)さんという国語学者の方(1919〜2008)が、日本語に特有な表現を大昔にさかのぼって解説しているんですけれども、その中に「神」という(言葉がある)。 日本人はこの「神」という言葉をどういう語源でどういう風に考えて来たのか、説明しておられます。 大野さんが言うには、古来日本人は漠然と「神」という存在を、恐ろしい大きな力と考えて来た。 その大きな力は、普通の感覚で言えば、例えば狼、例えば狐、妖怪と考えられて来た。 それらの神々は普通の人間にその姿を見せずに行動し、それでいて人間界を支配する恐るべき存在、それが「神」だと。 ですから日本人は「神」を祀る――「神」を祀るってどういうことか? それは「神」に物を差し出して、物を捧げて、その恐ろしい存在の機嫌を鎮めてもらう儀式、それが祀りなんだ、という風に大野さんは説明します。
やがてこうした日本古来の「神」信仰というのは、平安時代に「仏」が広まることによって、少しは人を愛する、人をゆるす、救うという意味を、「神」という漢字は持つようになった。 しかし大野さんが言うには、外来のこの思想は(というのは仏教のことですが、と説明)、本当に根深く人々の心に浸透しなかった。 日本の文化の諸所の根底に届くようには浸透しなかった。 古来日本人は、収穫が豊かでありさえすれば、それをもって幸福と考え、それ以上の心の苦しみの救いなどは考えていなかった。
これは私たちクリスチャンにも考えさせられますね。 収穫が豊かでありさえすれば、それをもって神の祝福と考え、自分自身の人格の変貌、神の国に入るのにふさわしい者となるための人生、 「だれでもわたしについて来たいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を負ってついて来なさい」(***マタイ16:24) という言葉などは、ほとんど考えもしない。 そしてあるかないかよくわからないような自分の存在に、いかにして存在意義を神が与えてくださるのか、そんなことは考えない。 でも、病気が治るように、あらゆることがうまく行きますように、ということは考えられると。
イエスさまは同じ「信仰」、同じ「信心」という言葉を使ったとしても、 長血を患いながら、必死の思いでイエスさまの衣に触る、その女。 「いったい誰がわたしの衣に触って、誰がわたしの力を用いたのか?」と(イエスさまが)言った時に、女はイエスの前に出て、つぶさにすべてのことをイエスさまに告白します。 そういうことが全くなく、ハブとマングースの戦いに憧れ(笑)、一瞬にして手の赤い腫れが治ってしまう、その粉を求めに走る少年(大笑)みたいな…… そんな少年に、イエスさまご自身を託されることはない。
しかし、人が好きで、イエスさまが好きで――私は最近Aちゃんの祈る姿を見ると、ま、ほんとに心が洗われる思いがするんですけれども――あの小さいAちゃんが、がしっと(手を組んでお祈りの姿を見せて)お祈りの間、あの姿を見てるだけで、あ、イエスさまはこの子になら、イエスさまはご自身をお託しになるだろうなぁと。
私たちは「主イエスが私たちの心のすべてを知っておられる」と言うのであるならば、自分の信心が、自分の信仰が、自分の思いが、本当の意味で 「イエスさま、あなたが好きです。あなたを慕っています。 あなたに対してなら、私はあるがままの自分をすべてさらけ出したいと思っています。 私は、あなた以外に私を救える方、私の人生に意義をお与えになる方は、この世界に存在しないと思っています」 と、素直に告白できるような人物になりたい(アーメン)。 イエスさまに向かって、たましいの底を開くような人物になりたいと思いますね(アーメン)。
もう15年位前のことだったと思いますけれども、毎年夏に、私たち神奈川の教会と東京の教会が夏に聖会をいたします。 しばらく箱根。で、ここ最近は少しでも多くの方が来れるように、林間聖会という名のもとに、都会のど真ん中で(大笑)お茶の水で聖会をしているという、どこが林間聖会なんだ(大笑)と思いますけれども。 箱根でやる前、私たちは4年間ぐらい本栖湖(山梨県)で行いましたね。 あれは神奈川の人間にとってはちょっと遠かった。 本栖湖までたどり着くのが遠いんですが。
ある日圭子(夫人)が教会学校の先生をしておりまして、こんな話をしてくれました。 一日だけ教会学校があって、いろんな教会の子どもたちですから名前を覚えるのが必死で、よくわかんないんですけれども、ま、一緒に教会学校をして、 二日目の朝に、湖のほとりで早天祈祷会があったんですね。 朝6時半だったか、6時に祈祷会がありまして、その帰りに、もう一回ホテルにぞろぞろ戻って行くわけですけれども、どこの子どもだかわからない。
でもその教会学校の子どもが、湖のほとりにあった花を摘んで圭子の所に持って来て、「先生、これ上げる。これ上げる」と、明る〜い顔をして笑顔でその花をくれたんですね。 圭子(夫人)は驚いてしまって、どこの人かもわからない人に花を上げる子ども。 こちらも、どこの子どもかよくわからない。 でも子どもっていうのは、ほんの一時過ごしただけで、こんなに無防備に、こんなに無邪気に近づいて来る。 もしそれが悪い大人だったら大変なことになるぐらい、子どもは無防備に無邪気に、信頼を傾けて来る。 そういう姿勢で私たちがイエス・キリストに接することができれば、そういう姿勢で私たちが必死でイエスさまを慕い、イエスさまにすがることができたら、私たちはどれほど多くの恵みを受けることができるんだろうか?
長血を患った女性が、イエスさまの衣に触った時に、もしこれで癒されて、その後私の人生が変わってしまったらどうなるんだろうか?なんて考えもしないですね。 私たちは往々にして考えるんですね。洗礼を受けてしまったらどうなるんだろうか?(大笑)、なんて思っちゃうんです。 私(藤本牧師)もよくそういう質問を受けますけれども、別に変りません。 別に変わりません。出家しろと、言っているわけじゃない(大笑)ですから、別に変わりません。 ただイエスを信じ、イエスについて行くという人生を歩むようになる(アーメン)。 そしてその人生の過程で、信仰について、聖書のみことばについて、神さまについて、様々学ぶようになる。 時にその試練を乗り越える、その涙と共に試練を乗り越えながら、神の力にすがるようになるんですね(アーメン)。
イエスさまはザアカイに「降りて来なさい。今日わたしは、あなたの家に泊まることにしてある」(と仰った)。 その時、ザアカイは降りて行って、イエスさまが泊まったらどうなるんだろうか?と、そんなこと考えてないんですよ。 あぁ、この方が私の家に来てくださるんだ、と(ザアカイは)大喜びでイエスさまを迎えています。
それは子どものような素直さ。子どものような無防備さ。無邪気さ。心をそのまんまイエスさまに預ける――そういう人の心に、イエスさまもまたご自身をお託しになる。お任せになる。 その特権は今朝の私たちの中にもある、ということを覚えていただきたいと思います。
☆お祈り――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、小さな子どもが手を組んで、目を瞑って、まっすぐな姿勢であなたに祈っているように、私たちも祈りたいと思います(アーメン)。小さな子どもが喜んで道ばたの花を摘んで来て、「イエスさま、これ上げる」と言うかのように、私たちもあなたをお慕いしたいと願っています。
あなたが私たちの心をご覧になる方でありますから、どうか私たちの心から、祝福だけを求め、「願いを聞いてほしい、どうしても聞いてほしい、その先の人生は自分のままでありたい」という、そんな身勝手な思いを捨てることができますように(アーメン)。もしあなたが神の子であり、もしあなたが私に声をかけてくださり、「わたしについて来なさい」と仰っているのであれば、先のことは考えずにあなたについて行くことができるように。
それほど無邪気な心をもって、あなたに惹きつけられることができますように、私たちを導いてください(アーメン)。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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