☆聖書箇所 ヨハネ11:1〜29
1さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。 2このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。 3そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」 4イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」 5イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。 6そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。 7その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。 8弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」 9イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。誰でも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。 10しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」 11イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」 12そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」 13しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。 14そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。 15わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、私がその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」 16そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」 17それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。 18ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。 19大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。 20マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。 21マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。 22今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」 23イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」 24マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」 25イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 26また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」 27彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」 28こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます」とそっと言った。 29マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。
☆説教 やさしい出会い(14)このことを信じるか?
今年は宗教改革500年でドイツは沸き立っていますけれども、教会福音讃美歌にしてから、Y兄が沢山ドイツの讃美歌を紹介してくださるようになりまして、私たちも少しずつ歌えるようになったことを心から感謝しています。以前、きょう歌っていただきました福200「深き悩みより」――これは讃美歌21にもあるわけですけれども――祈祷会でトライしたんですね。それで、うまく歌えなかった。今日歌っていただいたもう一つのルターの賛美歌も以前Y兄が紹介してくださり、私たちも少しずつまねるようになりました。
今日はヨハネの福音書11章から、「わたしを信じますか?」というタイトルでお話をします。 「わたしを信じますか?」というのは、ちょっと25節を見てください。
25イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 26また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」 【このことを信じますか?(と繰り返す藤本牧師)】 27彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
この世界には大きく分けて、死に対する二つの考え方があります。 一つはヒンズー教の考え方です――この世界はガンジス川の流れのようだと――その流れは私たちを生かし、また人を飲み込みます。 ガンジス川がコルコタにかかる辺りに人々は集まります。 多くの人はそこに集まり、病気の人はそこで死ぬことを願います。 もしそこで死んで火葬され、そのまま灰を川に流してもらうならば――つまり神の川に流してもらうならば――その人は往生すると言いますか、川岸の至る所で火葬の煙が上がっています。
皆さんもインターネットでご覧になりますと、ガンジス川の至る所で火葬の煙が上がります。 至る所で火葬のために木材が売られています。 木材を買えない人は遺体をそのまま流してもらいます。 その下流で人々は沐浴をしています。 他の場所で死んでも、火葬した灰の一部をガンジス川に流そうとします。 その川の流れに運ばれて、やがて海にたどり着き、そこが蒸発して雲となって、聖なる山ヒマラヤに雨を降らせ、また新しい人生が始まって行くという輪廻転生の考え方ですね。
人の人生が川に例えらえるとしたならば、死は自然の営みそのものです。自然の流れです。 ですからそこに違和感を感じてはいけない。大河に飲まれるように、平安にこの人生を終わりなさい。悲しみがあっても受け入れなさい。
ヒンズー教から来た仏教には、こういう話があります。 ある村に自分の子どもを失って半狂乱になっているお母さんがいました。 お釈迦様の所に来て助けを求めました。 するとお釈迦さまはこう言います。 「よろしい。私がその子のいのちを戻してあげよう。この村で、いまだかつて死者を出したことがない家を見つけて来て、その家からお米を貰って来なさい。そしてご飯を炊き、その子の口に入れなさい」と。 母親は悲しみを力に変えて、村中を訪ね歩き、そういう家を探して、そして気がつくんです。 「死人を出したことのない家なんて、一軒もない」 そのようにして、自分の子どもの死を受け入れます。
私(藤本牧師)はその心境はよくわかります。きっと自分にそういう問題が降りかかったならば、そう考えるに違いないと思います。 確かに死は普遍的で皆に訪れます。これは特別なことではないのです。自分だけが悲しくて、自分だけが不幸なのではない。
では、死は普遍的で特別なことではないから、それで良しとするんだろうか? いいえ、ここに二番目の死に対する考え方が出て来ます。イエスさまはそうは仰いませんでした。 それが先ほど読んでいただいた25節、「わたしは、よみがえりです。いのちです。」 「わたしは、いのちです」と仰るこの方は、死というものを人類最大の敵と考えておられます。 なぜなら、死は罪を犯した人間へのさばきとして、この世界に入り込んだからです。 イエスさまは私たちを死へと送り出すためではなく、私たちにいのちを、しかもそれを豊かに得させるために来られたと書いてあります(***ヨハネ10:10)。
さて、今日の聖書の箇所を追いかけながら、そのことを一緒に確認したいと思いますが、短く3つのポイントでお話しします。 先ず第一番目に――
1)死の足音は、確実に忍び寄ります。
(ヨハネ11章)2節を見てください。
2このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
ラザロという病気の人物が出て来ます。3節を見てください。
3そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
この言葉はよ〜く見ておいた方がいいです。つまり、イエスさまに愛されているという事実と、ラザロが病気であるという事実は並行して記されています。 このことはとっても大切です。病に霊的な解釈は必ずしも不要だということです。 私たちの身体も心も弱いものです。 私たちは厳しい環境で、ストレスの中で生きています。元気であるということがむしろ不思議なくらい、厳しいことも多々あります。 でもイエスさまは、ラザロを心から愛しておられた。そしてイエスさまが心からラザロを愛しておられるのに、彼は病気になる。 神の愛と、病気になってしまったという自分は、これ、並行に存在しているんだと。
さて、もう一方、続けて見ていただきたいと思いますが、死の足音が近づいてまいります。6節――
6そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
そのおられたところに、なおも二日とどまられた――もう二日経過してしまっている間に――この緊急事態にもう二日経過している間に、助け手は遅れます。 遅れる分だけ病は進みます。そして息を引き取ります。
ま、私たちの心の中にはいつもこういう思いがありますね。 「最初行った病院があそこでなければよかったのに」 「あそこのお医者さんがもっと早く精密検査をしてくれればよかったのに」と。 「入院と手術が様々な事情で遅れてしまったことが原因であるのに」という風に、 死の足音がひしひしと近づいて来るということは、現にあるんだと。 イエスさまが愛しておられるということと、私たちが病気になるということは、これは同時並行であるということ、 そして時に私たちの病が進んでしまうことも充分に可能性としてあるということ――この現実をイエスさまは否定されませんでした。
イエスさまがお出でになったときには、もう葬儀は終わっていました。17節を見てください。
17それで、イエスがお出でになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。
19節を見てください。
19大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。
皆が慰めるためにやって来ます。 マルタとマリヤの姉妹は家で座っていました。 久しぶりに会う友だちは、駆け寄って彼女の肩を抱いて、そして共に泣きます。 親戚の者たちの中には、「どうしてこんなことになったのだ。手を尽くして助けることはできなかったのか?」そんなことにやきもきします。 それを聞いている姉のマルタは、まるで看病が足りなかった自分が責められているかのように苦しい思いをします。 避けて通れない現実、人の死、人生が突然転落したような戸惑いです。
2)墓石よりも重い病、あるいは死という現実をイエスさまは貫いて、いのちへと導かれます。
ちょっと4節を見ていただきませんか?4節は一緒に読んでいただきたいと思います。
4イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
キルケゴール(***1813〜1855デンマークの実存主義哲学者)の有名な書物に「死に至る病」(***1849年初版発行)というのがありますね。 不安、恐れというのは、死に至る病。 キルケゴ−ルはこの言葉から、書物の名前を取ったわけですけれども。 「この病気は死で終わるだけのものではない。」――病、死、しかし、それで終わりではない。人の人生、それで終わりではない。
もう20年位前だったと思いますが、私(藤本牧師)がある所でキリスト教を教えていた時に、生徒さんでいらっしゃったご婦人から一冊の書物をいただきました。 その書物の表紙に「白いつばさ」と書いてありました。 それは亡くなったお嬢さんの追悼集でした。中学一年生。女子聖学院一年に入学してまもなく、急性白血病になります。 追悼集は、そのまゆみちゃんというおじょうさんが、「つばさをください」という歌が大好きだった。 それで「白いつばさ」というタイトルがついているわけですけれども、厳しい治療のために脳に決定的なダメージを受け、そして横たわって苦しんでいるんですね。
もうまゆちゃんは話すことができない。その現実にお母さんは自分が崩れそうになったと。何もかもが悲しくて崩れそうになったと。 「例えば二階にはピアノがある。このピアノで発表会のための曲を一生懸命練習していたあの娘の姿は、もはやない。 そしてこのピアノを娘が再び弾く日が来ることはないと思う時に、自分の人生が終わったような思いになる。 地下鉄で巣鴨の駅を通る度に、この駅でJRに乗り換え、駒込で降りて女子聖学院へ出かけることはもうないんだと、もうそれはないんだと思う時に、子どもから少女へ脱皮しなかった、私の目に輝いて見えたまゆみは今は存在しない。 こうして私は将来のまゆみを考えて絶望的になり、過去のまゆみを振り返って悲嘆に暮れる。」
しかしお母さんは、話すことができなくなってしまったまゆみさんの側にいながら、幸福感を味わうんですね。 「私は幸せだ。まゆみの側にいるだけで本当に幸せなのだ。まゆみの顔を見つめ、このところ治療をストップしているため、うっすらと生えかかって来ているふさふさとした髪を撫で、求めに応じて足を擦ってやる時に、私の心は幸福感で一杯になる。」
その結果、お母さんはある真理がわかるようになったと記されていました。 「人間っていったい何なんだろう? 私には、魂という宝物がある。この宝物は実は薄い肉体という包装紙でくるまれた存在に思えて仕方がない。 魂が永遠の世界に結ばれているならば、魂の存在というものはもしかしたら肉体を越えているのかもしれない。まゆみを見ていると、そんな風に思えて来る。」
人間って、私には魂という宝物を薄い肉体という包装紙でくるんだ存在に思える。 だから肉体が大きなダメージを受けていても、魂の尊さ、人間の尊さは全く変わりがないんだと。 しばらくして娘さんは容態の大きな変化とともに、天に召されてしまいます。 その時にお母さんは痛感するんですね――薄い包装紙はもうそこにはない。 そしてもっと深い真理をお母さんは味わいます。 それは「死は終わりではない。病も死も、触れることができない永遠のいのちというものがある」と。
私は(藤本牧師)は、イエスさまの宣言にはとても意味があると思います。 イエスさまは仰いました。「わたしは、いのちです」と(ヨハネ11:25)。 そう仰っただけではない。「わたしは、よみがえりです」と(同)。 「よみがえる」というのは「ひっくり返す」という意味です。 「わたしは、死の力を、死という現実を、覆す力です」とイエスさまは仰った。 「あなたにとっての、人間にとっての究極の課題は、誰も戦うことができない、すべての人を最後は飲み込んで行く死。死です。 しかし、わたしは、その死の力をひっくり返します。わたしは、いのちです」と言った後に、マルタに 「あなたはこのことを信じますか?」と(イエスさまは)仰った。「あなたはわたしを信じるか?」と。
信仰とは、このキリストの力を信じることです。 もしこの力を信じないのなら、それはキリスト教の信仰ではないのです。 死、人生の絶望、乗り越えることができない切り立った絶壁、そこで身体のいのちは終わるのかもしれない。 でも小さな死は私たちの人生の至る所にあるんです。 諦め、絶望、悲嘆に暮れる、自分ではどうしようもできないことは、私たちの人生の至る所にあります。
でもイエスさまは仰いました(25,26節)。 「わたしは、よみがえりです。あなたにはひっくり返すことができなくても、わたしにはそれをひっくり返すことができる。あなたはそれを信じるか?」と。 マルタも私たちも答えます(27節)。 「はい。主よ。信じます。」 あなたは私たちを癒してくださる。ラザロのようによみがえらせてくださる。 しかしたとえそれが実現しなかったとしても、あなたを信じる時に、25節にありますように「死んでも生きる」のですと、死を越えて生きることもできるのですと(いうことを信じますと私たちは告白します)。
先週の日曜日、中国のKさんのお証しがありました。 ほとんどの方は聞いていらっしゃるので、フェローシップに出ることができなかった方のために私(藤本牧師)が代わりに話しても問題がないと思います。
Kさんは東京大学の大学院を卒業されて、そして国際的な機関で就職され、ご主人と結婚され、そして息子さんがいらっしゃいます。 ある時、卵巣がんだということで、そこの病院に入院されまして、それからそれを取り除いた後に、しばらくして卵巣がん再発ですね。 中国にご両親がいらっしゃるんですが、お母さんを乳がんで失われた後だったと。 お母さんをがんで失ったというその悲しみも癒えぬ間に、自分ががんになり、そしていまだにお父さんは奥さんが亡くなったという事実をなかなかきちっと受け取ることができない。 本当にまだまだ悲しみの中に浸っておられるから、Kさんはご自分のこのがんという事実をお父さんに話していない。 ニュージーランドの華僑などの教会にいる友人から、聖書の話を聞き、イエス・キリストのことを聞き、(インターネットで調べて)そして教会に来てみようと思ってこの教会にいらっしゃったと。 どうか私のために祈ってください、という話を、明確な、ま、流ちょうな日本語で、しかも力強く話してくださり、そして話の最後に、 「この病が癒されようが、癒されまいが、私は神さまを信じます」という風に仰いました。
いったいマルタはどこまで信じていたのかわかりませんね。 私たちも自分の人生で、いったい自分の信仰って、どこまで信じているんだ?と。 自分では覆せない問題ってのは至る所にある。 しかし、主にはそれを覆すことができる。 私たちはやがて、皆一様にこの死という現実と向き合い、今は元気でも、やがて私たちも皆病み、それが突然やって来るかもしれない。それが何回もやって来るかもしれない。 やがてこの肉体という薄い包み紙が取り去られる時が、私たち誰もにやって来る。 でも主よ。どうか許されるならば、今この肉体という薄い包み紙をもう一度きちっとたたみ直して、私の前にきちっとくるんでくださり、この地上で癒してください。私の愛する家族のために。 私たちの教会は、Kさんのために集中的に祈らなければいけないです。 神さまには、その力がある。 イエスさまは「わたしは、いのちです。よみがえりです。あなたはこのことを信じるか?」(と言われています。ヨハネ11:25、26)
Kさんの証しがあまりにも力強かったので、私(藤本牧師)はもうほんとに胸の中にKさんのことをぐっと捉えるようになりました。 自分が祈る時に、必ずKさんのための癒しを祈ります(アーメン)。 そしてそのようにして、私たちが祈らなけれがばいけないのは、高津教会の家族の中で、Kさんだけではない、この中にも何人かいらっしゃる。 主がもう一度その包み紙をまっすぐに整えて、きちっとその魂をくるんでくださいますように、あなたはラザロをよみがえらせる力があったのですから、私たちの愛する家族もよろしくお願いします、と私たちは祈らなければいけないですね(アーメン)。
でも3番目に――私たちは先のことを考えます。
3)「わたしは、よみがえりです。いのちです」(25節)と仰った主は、やがてご自身が十字架の上で死を味わいます。
ご自身が十字架の上で、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」(***ルカ23:46)と仰って、息を引き取ります。 なぜなんだろうか?いのちである主が、なぜ死を味わわれたんだろうか? それは死の力というものを、ご自分の内側に取り込まれて、死の力を打ち破るためでありました。
Tコリントの15章をちょっと見ていただきませんでしょうか?Tコリントの15章の54節と55節。 54節を私(藤本牧師)が読みますので、55節を皆さんが読んでください。
<Tコリント15:54〜55> 54しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死 を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。 55「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
******追記:「死は勝利にのまれた」としるされている、みことば――欄外の注によると、イザヤ25:8ということです。 <イザヤ25:8> 永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。【主】が語られたのだ。 (8節の主語は6節から続く文脈で、万軍の【主】は、と思われます)******以上
有名な言葉ですね。最後の55節―― 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
イエス・キリストはご自身を十字架によって、死に飲み込まれることを許され、でもそれを突き破って復活されました。 それは私たちのために死を味わい、しかしそれを突き破るいのちの力を私たちに与えるために、一旦死をご自身の中に取り込まれ、それを突き破ることによって、私たちにも同じ復活を与えてくださる。 たとえ死という時が来たとしても、その死に私たちの永遠のいのちを傷つけるとげはない。とげはない。 それはイエス・キリストがもう死のとげを取り去ってくださったからだ。
以前、使徒信条の講解をした時に、こんな話を入れましたので、その話をもって終わりにします。 ある日、お父さんと女の子が田舎道を車を走らせていました。 暑い夏の日で、窓を開けて、気持ちいい風を車の中に入れて走っていました。 突然、車の窓から大きなスズメバチが飛び込んで来て、パニックになります。 女の子は蜂の毒に極度のアレルギーを持っていまして、刺されますと呼吸困難、やがて意識がなくなってしまいます。 蜂を追い払おうと、もう叫ぶわ暴れるわ、車の中はパニックになります。
お父さんはブレーキを踏んで、車を止めて、女の子を抱きしめて、そして震える手を押さえて、それからゆっくりと蜂に手を伸ばして、蜂を捕まえます。 蜂は鋭い針でお父さんの手を刺しました。 そしてそのまんま、蜂を窓の外に放り出してしまいます。 女の子は泣きじゃくって、なかなか静かになりません。 お父さんは優しく女の子を腕に抱き留めながら言いました。 「大丈夫だよ。蜂のとげはお父さんが奪ったから」と。
「蜂のとげはお父さんが奪ったから」 死という現実は、その蜂のように私たちに襲いかかります。 でもそのとげは、すでにイエス・キリストの十字架と復活によって奪われているというのが、パウロの言いたいことです。 「死のとげはいったいどこにあるのか?」(Tコリント15:55)――死の現実というのは消えてなくならない。そこにあります。私たちにも襲いかかることがあるでしょう。 しかしご自身の死をもって死のとげを奪い、その力をもって、死の現実をくつがえしてくださった。 それが私たちが信じているイエス・キリストです。 この方が「わたしは、よみがえりです。いのちです」こう仰った時に、 私たちはマルタが応答したように、 「はい。主よ。私はそのことを信じます」と言うことができますように。
「死という重い墓石でさえ、ひっくり返すことができるイエス・キリストであるならば、私たちが抱えるおおよその様々な出来事、困難を、主は必ずひっくり返してくださる。 そして私たちにいのちを吹き込み、私たちに力を与えてくださる。あなたはそのことを信じるか?」と言われれば、 「はい。信じます」と答える私でありますように。
☆お祈り――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、マルタはいったい、どれほどのことを理解して、あなたが救い主であるという告白をしたのでありましょうか?しかしやがて、あなたは実際にラザロに向かって「墓から出て来なさい」(***ヨハネ11:43)とラザロをよみがえらせられました。 それと同じように、Kさんを癒してください(アーメン)。それと同じように、同じような境遇で闘っておられる兄弟姉妹を、最近手術をなさいましたK兄を癒してください(アーメン)。
また私たちは同じように祈ります。この人生には、小さな死が至る所にあります。失望、失敗、元に戻すことのできない様々な事実、現実。しかしあなたが「それをひっくり返す」と仰るのであれば、また「そのことを信じるか?」と仰るのであれば、「はい、主よ。私はあなたを信じます」と答えることができるように、私たちに信仰を授けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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