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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   4/9 パームサンデー・献児式:父よ、彼らをおゆるしください ルカ23:33〜38
☆聖書箇所    ルカ23:33〜38

 33「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
 34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
35民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」 
36兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
37「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。
38「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。

☆説教――藤本牧師   父よ、彼らをおゆるしください

今朝はルカの福音書の23章、まさに十字架の場面を見ていただきました。
33節からこう始まります。

33「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

そしてこの言葉で始まります。

34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」……

今日は棕櫚の聖日、英語でパームサンデーと呼びます。
それはイエスさまが旧約聖書の預言どおりに、ろばの子に乗ってエルサレムに入りました。
人々は棕櫚の枝を振って、「ホサナ、ホサナ」(主よ、救ってください、救ってください)と叫んで、イエスさまを迎えます。
イエスさまは明らかに、旧約聖書の預言通りに救い主として、都に入りました。
しかし実際に人々が期待していたのは、「イスラエルをローマ帝国から救う救い主」でありました。「ダビデの王国を再建する新しい王」でした。
でも、イエスは「人の罪を贖う救い主」としてエルサレムに入りました。

「贖う」って言うのは、売られたものを買い戻すっていう意味です。
罪と死に売られてしまって、この世界で奴隷として仕えている私たちを、再び神の子どもとして迎えるために、罪の価を払うために十字架にかかられる。
そのためにイエスさまはエルサレムに入られました。
人々がイエスに抱く期待と、イエスが感じておられた使命とが全くずれてしまいました。

弟子の内ユダが裏切ります。それが木曜日の最後の晩餐の出来事でありました。
宗教家はイエスへの反感を強め、ついに逮捕して、征服者ローマに引き渡します。それが金曜日です。
イエスは金曜日に十字架の上で息を引き取る――この巡りを、私たちは今週共に歩んでいきます。

今日心に留めていただきたい聖書の箇所は、十字架の上で仰ったイエスの言葉、
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)
短く2つのポイントでお話をします。先ず1番目に――

1)自分でわからない程、自分は罪深い。

あるいは、罪深い私は、時々自分がわからない、ということでもありましょう。

2004年にパッションという映画が世界を駆け巡りました。日本に来たのは2005年でありました。
イエスが十字架にかけられた24時間を克明に描いたハリウッド映画です。
十字架の意味がわからない日本の人々にとって、ただただそれは残酷な、目を覆いたくなるようなシーンばかりが目についたと思います。

確かに残酷でありました。私(藤本牧師)にとって、一番残酷だったのは、十字架の場面ではなかったです。
イエスを鞭打つローマの兵士の残酷さが一番衝撃的でした。
人はどこまで残酷になれるのか?その闇の深さに慄然としたのを覚えています。

ムチ打ちの執行員たちは、最初は柔らかなムチで、しかしだんだんムチの種類を変え、そして目の色が変わって行きます。
執行人は最初は何も分からずに鞭を打っているんですが、打っている内に、血に飢えた残酷な目の色に変わっていきます。
そして辺りはバケツをひっくり返したような血の海となり、鞭打つだけで殺しかねない所まで行った時に、上官が「止めろ!」と制止します。
暴走する執行人がふと我に返り、辺りが血の海になっているのに気がつきます。
彼らは何をしているのか、自分でわかりませんでした。

主は十字架の上で、「(父よ)。彼らをお赦しください」と言われました。
その「彼ら」というのは、自分を十字架につけた彼らです。
イエスに対して殺意を抱き続けて来た当時のユダヤ教指導者たち。
またその扇動に乗って、「イエスを十字架につけろ」と叫んだ群衆。
刑を執行するローマの兵士たちが、その「彼ら」。
「彼らをお赦しください」です。

しかし、実際、その「彼ら」だけではありませんでした。
イエスが「彼らをお赦しください」と言った「彼ら」の中には、イエスを裏切ったユダが含まれていました。
ユダを十二弟子の一人に選んだのは、ほかでもないイエスさまご自身です。
しかも十二弟子の一群の会計の責任を任されていたほど、彼には信頼がありました。

*イエスさまが五つのパンと二匹の魚で数千人の人々のお腹を満たした時、ユダはパン籠を持って、人々に食べ物を配っていました。(***ルカ9:10〜17)

*弟子たちの乗った舟が湖の突風で沈みそうになった時、ユダもまた船のへりに必死でしがみついて水を掻き出していました。
イエスさまが、その「嵐よ、静まれ」と一喝された、その力を目撃していたのもまたユダであります。(***マルコ4:35〜41)

しかし、ユダの理想がローマ帝国からイスラエルを解放する政治的な救い主であったの(に、その理想)と違う道を主イエスが歩み始めた時、ユダはだんだん心が変わって行きます。
「どうしてもっと大物を相手にしない?」「どうして罪人や女性や子どもたちに手を置き、彼らを招く?」
小さき者たちを愛するイエスさまに、ユダはだんだん失望していきます。
だとすれば、先生・イエスのもとを静かに去って行けばよかったのです。
しかし現実は、ユダはイエスを金で売り渡します(***マタイ26:14〜15)。
なぜなんでしょうか?――それはわかりません。しかしそれこそが、人間の罪深さであります。

もちろんイエスを殺す機会を狙っていた、ユダヤ教の指導者の罪は非常に重いです。
しかし人間の哀しさは、魔が差したように、突然の行動の中に現れます。
何をしているのかわからない。自分で自分の行動がどのような悲しみを産むのかよくわからない。
そのようにして――私たちは神を裏切り、また人を裏切り――私たちの心に潜んでいる深い闇です。

イエスさまの弟子の中で、裏切ったのはユダだけではありませんでした。
ペテロも事実上は主を裏切りました。
十字架にかかる前の晩、最後の晩餐の席で、主イエスに向かって、「たとえ私は死んでも、あなたについて行きます」と自信たっぷりに語った彼が(***マタイ26:33〜35、マルコ14:29〜31、ルカ22:33、ヨハネ13:37)、
主が捕えられるや否や、自分に害が及ぶのではないかと恐れるあまりに、「私はそんな奴は知らない」と三度も主であるイエスを否む(***マタイ26:69〜75、マルコ14:66〜72、ルカ22:54〜62、ヨハネ18:15〜27)。
これもまた、咄嗟の出来事でありました。
罪のどうしようもない「罪深さ」というのは、まさにそのような所にあります。

「父よ、彼らをお赦しください」――その「彼ら」の中に、ローマの兵士も、ユダも、ペテロも、そして私たちも含まれています。
何をしているのかわからないで、罪の闇に足を取られる。
何をしているのか自分ではわからずに、ただ羊のようにさまよい、自分勝手な道に向かって行った私たち、そんな私たちをイエスさまは背負い、その罪を担い、その赦しを神に請われた。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分ではわからないからです」と(ルカ23:34)。

この一週間、私たちはひたすら自分の罪深さと見つめ合わなければならない。
なかなかそういう機会がやって来るわけではないですが、受難週は主の十字架が自分の罪であった、ということを心に留めるために、
私たちは――主の赦し・主の愛そのものを味わう以前に――何をしているのかわからないような自分の人生、自分の愚かさ、また自分の罪深さのために、赦しを請わなければいけない。
でも自分自身が赦しを請う前に、既にイエスさまは私たちを赦していてくださる。
「彼らをお赦しください。藤本満を赦してやってください」
イエスさまはそのように祈ってくださることを覚えたいと思います。

二番目に、こちらもまたとっても大切ですが――

2)この主イエスの祈りは、ご自身のためにあったように思います。

34節をもう一度一緒に祈りたいと思います。読みたいと思います。(ルカ23章の)34節――

34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

このイエスさまの祈り以来、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」という祈りを、イエス・キリストのために殉教する人々は皆、この祈りをして来ました。
イエスさまのすぐ後でこの祈りを為したのは、石打ちの刑に遭ったステパノです(***使徒の働き7:60)。
でもステパノから始まって、初代教会から、そして日本のキリシタン迫害に至るまで――あるいは対戦の中でいのちを落とした人々、国粋主義の中で関係に捕われて獄死した日本の牧師たち、今もキリスト教迫害の国の中で、死を待つ人々――その一人ひとりが、このイエス・キリストの祈りを忘れずに、最期の瞬間、
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と、こう祈ります。

私たちは殉教する機会がないことを願います。
現代日本の私たちの世界の中で、殉教の機会というのは、ま、確かにあります。
私(藤本牧師)はそれは、例えば癌との闘病がそれに近いだろうなぁと思います。
自分が願った訳でもなく、山本(眞弓)姉の家庭集会で、洗礼の恵みにあずかった滝口姉という方、この方は30年間癌と闘い、よく闘ったと思います。
先々週天に召され、山本姉が納棺に立ち会ってくださいました。

この方は一番最初の癌の時に、洗礼をお受けになりました。
手術に行かれる前に、もしかしたら、このいのちが尽きるかもしれないという、大きな手術を前にして洗礼をお受けになりました。
誰も好き好んで、何かの原因があってこの病にかかっているわけではないです。
しかし激しい痛みや苦しみ、また無念さと闘いながら、最後はその自分の宿命を受け取るというのは、私(藤本牧師)は現代にあっての殉教者だと思っています。

へブル人への手紙の中にこうあります。
「主イエスは、弱さを持っておられたけれども、決して罪を犯すことはなかった」と。

【<へブル4:15>私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。】

もちろん主イエスは誘惑と闘って来られました。荒野において。あるいはゲッセマネの園において。
しかし最後、罪のない主イエスが、罪の陰りを持つ落とし穴があるとすれば、この十字架の上でありました。
ご自分に対してこのような仕打ちをする人々に、どういう感情を抱くのか?
自分を裏切ったユダに対して、イエスはどう思われるのか?
偽証の裁判で死刑に追い詰めて行くユダヤ人指導者に対して、イエスはどういう思いを抱かれたのか?
顔を平手打ちにし、顔を殴り、自分を十字架につけ、自分の着物をくじで取っているローマの兵士を、主はどういう思いで見つめておられたのか?
「十字架につけろ。十字架につけろ」と――最初は「ホサナ、ホサナ」と迎えていたにもかかわらず――週の半ばで「十字架につけろ」と叫ぶ群衆に対して、イエスさまご自身はどういう思いを抱かれるのか?
自分のことは何にも知らないのに、「おまえが救い主であるなら、自分を救え」とののしっている道行く人々にどういう思いを抱くのか?

イエスさまがどのような感情を抱いて息を引き取るのか?――怒りなのか、憤りなのか、恨みなのか、怨念なのか?
という場面で、イエスさまは仰ったんです。
「父よ。彼らをお赦しください」と。
恐らくイエスさまがそう祈ることによって、様々な憤りと恨みを自分の心から追い出していかれたんじゃないかなと思います。
これだけのことをされながら、彼らには一切恨みはない、と宣言するかのように「父よ。彼らをお赦しください。父よ。わたしは彼らを赦します」と。
赦さないとしたならば、一点の陰りをもって天国に行かれたことになります。
でも自分は一点の陰りもほしくはない、と言わんばかりに、自分を十字架にかけた彼らを赦して息を引き取ります。

殉教者の最後というのは、歴史のページを捲るたびに、全く同じことが繰り返されます。
殉教する前に「主の祈り」を唱え、それから「使徒信条」を唱え、自分の信仰を告白し、そして最後に自分を刑に処する者を赦して天に召される。
――それが断頭台の上であれ、それが焚刑(ふんけい・火に燃やされる刑)であれ、それが水死刑(湖に沈められる刑)であれ――
殉教者たちはいつも必ず、「主の祈り」を唱え、「使徒信条」を唱え、そして自分の信仰を告白し、最後に刑に処する者を赦して、天に召されていきます。

何をしているのか自分でわからない私たちを、十字架のイエスさまは赦してくださいました。
やがて私たちもまた、イエスさまの十字架に倣って、自分にふりかかる宿命、あるいは自分を追い詰めた人々、自分が心に抱いている苦々しい思いを全部捨てて、天国に上げられて行きます。
私たちは必ずそういう最後を遂げるはずです。
それは天国という光り輝く世界に、この地上の苦々しい思い出を持ち込みたくない(から)。
「父よ。彼らをお赦しください」と言って、私たちは天国に帰って行くんだろうと思います。

イエスさまはやがて復活をもって、私たちの所に来てくださいました。
その時イエスさまは、一度たりともペテロを問い詰めることはありませんでした。
「なんで、わたしを三度も否んだのか?」と、イエスさまはそんなこと、一回も仰いませんでした。
その代わり、ペテロに「あなたはわたしを愛するか?」と三度問うておられます。(***ヨハネ21:15〜17)
イエスさまが逮捕された途端に、散り散りばらばらに散って行った弟子たち一人だに、イエスさまは責めることはありませんでした。
宗教家からも、またローマの兵士からも、あれ程ののしられたにもかかわらず、イエスさまは彼らに救いの手を伸ばされました。

そして私たちもまた。私たちも所詮、自分で何をしているのか分からないような者たちです。
周りの者を傷つけ、周りに傷つけられ、しかしきっと私たちも最後は、そうした苦々しい思いを天国に持ち込みたくない、と思って最後を遂げるんだろうと思います。

今週金曜日、主イエスの十字架を覚える時に、私たちは少しでも心の中をきれいにしていただきたいと願います。
そのために、私たち自身が先ず、何をしているのかわからない程愚かである、ということを心に留め、主イエスの十字架を信じる者でありたいと思います。

☆お祈り――藤本牧師

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
(ルカ23:34)

恵み深い天の父なる神さま、自分の目の中の梁には気がつかず、人の目の中のおがくずに気がつくような私たち(***ルカ6:41、マタイ7:3)。
右のほほを打たれたら(***ルカ6:29、マタイ5:39)、相手の右のほほを百倍に打ち返すような私たち。
また良かれと思ってしたことが、相手を大変傷つけ、あるいは自分の善が相手を悲しませ、時に自分の愛が相手にとってはおせっかいであり、
そのようにして、日々赦されなければならない私たちを、あなたは赦し続けてくださることを感謝をいたします。

あなたは周囲の者たちを赦すことによって、自分の心の中から悲しみや無念さを追い出されました。なかなか私たちにはそれができませんが、しかしあなたは私たちを恵みの世界に招いていてくださいます。
どうか私たちも復活の栄光に輝くために、この心の中から不安や、問題や、悲しみを追い出すことができますように、力を与えてください(アーメン)。そして何よりも、愚かな私たちをお赦しください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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