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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   4/16 イースター・聖餐式:喜びの出会い マタイ28:1〜10
☆聖書箇所     マタイ28:1〜10

1さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
2すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
3その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
4番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
5すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
6ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
7ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」
8そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
9すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。
10すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」

☆説教    喜びの出会い

英語の雑誌にこういう話があります。なかなか面白い話なんですが――

シカゴの春、まだまだ寒い中、ある男性が休暇を南のフロリダで過ごすために出発をいたしました。
奥さんは、まだ仕事をしていなければならなくて、次の日にフロリダで合流するという予定でありました。

男性はホテルに着いて、奥さんに電子メールを送ろうとします。
でもホテルのパソコンですから、奥さんのメールアドレスは入っていなかった。
なんとか記憶を辿って、奥さんにメールを送るんですけれども、奥さんのアドレスを一文字間違えて、違う人に送ってしまったんですね。

彼が送った電子メールは、全く見ず知らずの人の婦人のところに到着します。
その婦人は前の日に、ご主人の葬儀を終えたばかりの牧師夫人でいらっしゃいました。
悲嘆にくれたご夫人がコンピューターを立ち上げて、そして突然舞い込んできたメールを見て、仰天して叫び声を上げて卒倒してしまいます。

急いで隣の部屋にいた息子さんが母親の部屋に駆けつけて、画面を見てみました。画面に――
              「愛する妻へ。
               いま着いたところだ。
               君が明日到着できるように(大笑)、準備万端整えた。
                                                        愛する夫より」
そりゃ、卒倒すると思いますが、電子メールには追伸がありました。
              「来たらびっくりするぞ。ここはひどい暑さだ」と(大笑)。

死の向こう側から、どういうメッセージが届くんだろうかと思います。
それは、私たちも大変気になるところですが、
私たちに届いているのは、復活をされたイエス・キリストのメッセージが届いている。
イースターのメッセージを今朝はご一緒にご覧いただきたいと思います。

マタイの福音書の28章の1節をご覧ください。

1さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。

「明け方」という風に始まります。このふたりの女たちは、マルコの福音書を見ますと、「ちょうど、日が昇りかけたときに」墓に着いた、と書いてあります。

【マルコ16:2そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。】 

そういう風に考えますと、第一番目に――

1)この女性たちは、暗い闇の中をここまで歩いて来た、ということです。

そして、「暗い闇の中をここまで歩いて来た」ということは、実は金曜日からずっと暗い闇の中を歩んでまいりました。

イエスさまが捕えられた夜、つまり木曜日の夜、彼らは兵士たちに取り囲まれます。
その時、夜を歩いて来たその兵士たちの持つたいまつの音、異様な光、ユダの裏切り、そして一斉に逃げ惑う弟子たち。

イエスさまを裁判にかけるために、大祭司の家に騒がしく出入りする人々。

そして夜が明けますと金曜日に、「ホサナ・ホサナ」と主を賛美していた群衆が、「十字架につけろ」と怒涛の叫びがエルサレムの広場にこだまします。

やがて、いばらの冠を頭の上からねじ込まれ、額に血を流しておられるイエス・キリストが、兵士に鞭を打たれ、身体中血に染まりながら十字架を負い、引き回されて、エルサレムの外に連れて行かれ、その間中、人々の罵声が町中に響きます。
途中でイエスは倒れます。クレネ人シモンが代わりに十字架を背負わされます。

そしてゴルゴタの丘から響いて来る、その不気味なイエスを十字架に打ちつける釘音、磔になった者たちの悲鳴、叫び。
やがて、天が暗くなり、イエスさまが息絶えます。
これが金曜日でありました。

そして土曜日、弟子たちは、一歩も外に出ずに部屋の中に閉じこもっています。そして金曜日の出来事がいったい何であったのか、意味をなすまでもなく、しかし出来事は頭から離れません。
それがまさに彼らの夜でありました。
それがまさに、私たちの暗やみであります。

苦しい情景は、「朝早く、まだ暗いうちに」やって来たとあるだけではないです。
(マタイ28章)1節の最後を見てください。

1……マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。

この「見る」という言葉は「じっと見つめる」という非常に強い言葉ですけれども、「墓を見つめるためにやって来た」と(いう意味です)。

イエスさまの遺体の埋葬の場面は、実は彼らは――27章の61節ですね――

<マタイ27:61>
そこにはマグダラのマリヤとほかのマリヤとが墓のほうを向いてすわっていた。

このふたりは、イエスの埋葬の現場に立ち会っていました。
それから二日経ちまして、日曜日の朝、イエスの墓を見に行きました。

この日のマリヤの行動が、無意味だというわけではないです。
マリヤたちは愛するイエスさまのための精一杯の愛情表現として、香料を買って、あえて番兵で警護されている墓に向かいました。
それはほめられこそすれ、批判されるような行為ではないです。

しかしそれがどんなに愛情から出た行為であったとしても、
墓に赴き、遺体に香料を塗り、丁寧に扱うということは、それ以上の何ものでもないです。
イエスさまへの過去の追憶を深めるだけのことでありまして、イエスさまのいのち、人の人生というのは墓で終わります。
そして周りの愛する者たちは、亡くなった人を慕って、墓に向かいます。
でも墓は墓です。
私たち人間というのは、この墓に向かって歩んでいる人生で、それ以上のことではないんですね。

2)そこに、ただならぬ朝がやってきました。夜明けです。

2節を見ていただきたいと思いますが、私(藤本牧師)が2節を読みますので、皆さんが3節を読んでみてください。

2すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
3その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。

4節に――(4〜6節まで続けて読み進まれる)

4番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
5すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
6ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。……

これがイースターです。
この復活にあずかるために、私たちは今朝教会に来て、礼拝を守っています。
大きな地震に現れた天使は、いなずまの輝きを身にまとい、番兵は恐れをなして逃げて行きました。
そして天使は言います。
「恐れてはいけない。あなたがたが十字架につけたところのイエスを捜している――それを私はよく知っている。でも、ここにはおられない。前から言っておられたように、よみがえられた。来て、納めてあった場所を見てご覧なさい」
と言って、彼らが確かめるのは、「空っぽの墓」です。

キリスト教というのは、この「空っぽの墓」から始まります。
もちろん「十字架」から始まると言ってもいいでしょう。もちろん「クリスマス」から始まったと言ってもいいでしょう。
しかし厳密に言えば、キリスト教、キリスト教会というのは、この「空っぽの墓」から始まる。
つまり、「主はよみがえられた、という事実」を信じている私たち、それがキリスト教です。
十字架という無残な死を遂げ、墓に葬られた主は、死を打ち破り、墓を破り、よみがえられたというこの信じられない出来事が、実は私たちの信仰の中心にあります。

イエスさまは様々な教えを説かれました。
「右のほほを打たれれば、左のほほを出しなさい」(***マタイ5:39)
「あなたがたを愛する者ではなく、あなたがたの敵を愛しなさい」(***同5:44)
イエスさまは様々な奇跡を為されました。
しかしそれらに勝って、それらの何百倍にも勝って、キリスト教の原点がいったいどこにあるのかと言えば、
「主は私たちのためによみがえられた。主が納められた墓は空っぽであった。来て見てごらんなさい。主はよみがえられたのです」(という所にあるのです)。

そして私たちもよみがえる。
墓のように、大きな絶望的な状況の中から私たちは復活する。
墓石のように、どうやって動かしたらいいんだろうかとマリヤたちは考えながら、暗い道をとぼとぼと歩いて来るわけですけれども、なんと来てみると、その墓石は横に転がっていました。
でもそれと同じように、神さまは私たちの前方に立ちふさがる大きな墓石を転がしてくださる。

アメリカの黒人牧師であると、生涯何度かかけて必ずしなければいけないタイトルの説教があります。
それは多分白人の牧師はしないと思いますね。それはできない。黒人の牧師にしかできない。
その説教のタイトルが――ま、そのタイトルの説教がまともにできたら、黒人の牧師は「自分はようやく一人前になった」と実感する――その説教題というのは、
“Sunday is Coming”「日曜日がやって来る」です。
これはもう、黒人の教会の伝統的な説教のタイトルです。
そしてこれを何度もし、これができるようになったら牧師として、一人前――「日曜日がやってくる」

つまり私たちの人生には、必ず金曜日の十字架の試練があり――木曜日の夜の裏切りの出来事があり、裏切られ、捨てられ、見放され、孤独の中に土曜日を過ごし、磔になったイエス・キリストのことを思い起こしと――
アフリカから連れて来られた黒人の人々は家族を失い、将来を失い、奴隷とされ、来る日も来る日も大規模プランテーション(農場)で綿花を摘み取り、たばこの葉っぱを摘み取り、
何百年も戦っても差別は消えず、どんなに戦っても報われない生涯を送って行くんです。
しかし、それでも彼らは、それでも彼らは日曜日を待つんですね。
彼らにしても、私たちにしても、苦しみの木曜日も金曜日も、そして長〜い長〜い敗北の土曜日があるんです。

でもその説教は迫力を増して、
必ず“Sunday is Coming”「日曜日はやって来る」
その日がいつなのか?
しかし、その喜びを表現するために、日曜日に黒人の方々はひときわきれいな色鮮やかなドレスを着て、礼拝に行きますよね。
その喜びを表現しますよね。
それは、「日曜日は必ずやって来る」という信仰のもとに、晴れやかな服を着て教会に行く。
大きな墓石はわきに退けられ、覗いてみると墓は空っぽです。

3)そこにイエスさまが現れて、仰った言葉を一緒に読んでみたいと思います。

私(藤本牧師)が、8節を読みますので、皆さんが9節を読んでみてください。

8そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
9すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。

天使が言ったように、彼女たちは墓を調べに行きました。
そしてなるほど空っぽでありました。
大喜びで――恐ろしくはあったけれども大喜びで――墓を離れて、弟子たちに知らせに走って行く途中に、イエスさまが彼女たちに出会って仰った。出会って仰った。
私たちに出会って仰る――「おはよう」ですね。
何とも日常的な言葉で、イエスさまは彼らに出会われました。

「おはよう」と訳されている言葉は言葉の本来の意味は「喜べ」という意味です。「喜びなさい」という意味です。
その言葉が当時の世界では、通常の挨拶の言葉として用いられていますから、この場面は朝早くの場面ですから、「おはよう」という風に訳されています。

実はこの言葉は、主を裏切ったユダも使っています。ちょっと見ていただけます?
(マタイ)26章の49節です。ここにも同じ言葉が出て来ますね。
26章の49節をちょっと一緒に読んでみたいと思います。

<マタイ26:49>
49それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で」と言って、口づけした。

「先生、お元気で」。
新共同訳聖書は、「先生、こんばんは」と書いてあります。「こんばんは」
そしてイエスを裏切るのですね。
挨拶の言葉ですから、それが朝であれば「おはよう」、夜であればそれは「こんばんは」かもしれないですね。

あるいは27章の29節をご覧いただきますと、こんな言葉も出て来ます。

<マタイ27:29>
29それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」

この「ばんざい」が同じように、「喜べ」という言葉です。
すると同じ「喜べ」という言葉が、「おはよう」とも訳され、あるいは「こんばんは」とも訳され、「お元気で」とも訳され、あるいは「ばんざい」という言葉でも訳されている。

私(藤本牧師)が申し上げたいことはこういうことで、
私たち人間というのは、「喜べ」と言いながら、相手を裏切る。「ばんざい」と言って相手を侮辱するんです。

しかし、イエスさまはそうではないんです。
イエスさまが「喜べ」と仰ったならば、その喜びの源であるご自身を私たちに与えようとして、「喜びなさい」と語りかけてくださっています。

マタイの福音書の28章に戻っていただいて、一番最後の10節に何と書いてあるか?

10すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」

何がそんなに感動的か?それは10節の真ん中の――
「わたしの兄弟たちに、」と言っているのは、弟子たちのことです。
弟子たちのことを、マリヤたちに「わたしの兄弟たちに」と告げているんですね。
つまり十字架を前にして、イエスを捨てて逃げてしまった弟子たち。
イエスとの関わりを問われて、「あんな奴は知らない」と三度否んだペテロ。
イエスを裏切り、信仰において挫折し、到底弟子とは呼べない彼らを、イエスさまは「わたしの兄弟たち」という風に呼んでいます。

私たちの罪を十字架に背負い、そして私たちの病をご自身の傷によって癒される方は、私たちのことを「兄弟たち」と呼んでくださり、
そして真実に今朝「喜びなさい」と声をかけてくださっているということを忘れないでいただきたいと思います。

今朝、Tさんは長野マラソンで今頃ゴールをしていると思います。
Tさんはもう50代の半ばだろうと思いますね。
実は三年連続、50代の頭に入院をいたしました。
一番最初は甲状腺の手術で、甲状腺を取ってしまったがゆえに、そのせいかどうかめまいに苦しみ、会社に行けない日々が続き、何をするにも不安。
そしてどうやったら、このめまいと付き合って生きて行くことができるのだろうか、と考えながら、
少しでも自分の身体を鍛えるために、彼は朝、歩いた。朝5時に歩いて、真面目な人ですから、なんと2時間歩く。
奥さまは、「あんなに真面目に歩かなければめまいもしないのに」と(大笑)。
私(藤本牧師)も彼に、「Tさん、そんなに歩くからめまいがするんじゃないんですか?」と(笑)。

その歩いていた彼は、いつの間にか走り始め、気がついてみたらフルマラソンですよ。
年に何回か出ますと、日本の順位がインターネット上に出るんですよ。
彼は50代の人間としては、ものすごく速い位置につけているんですね。

金曜日にY兄が、今日これから始まります聖餐式に、役員の方々に号令をかけましたら、T兄は、実は長野マラソンを走るからイースター礼拝に出られないんだと。
でもその代わりに、エントリーする時に、自分のチームの名前を決めました。
エントリーする時に、チームの名前と自分の名前を入れる訳ですけれども、「チーム:インマヌエル高津」というのが、彼の所属チームです(大笑)。

私(藤本牧師)は彼に電話しまして、「ごめんね。あの、いわゆるスポンサーになれなくてごめんね」(大笑)。
マラソンを走るって、結構それなりにお金がかかると思うんですけれども、スポンサーにはなれない。
でも彼の意識の中では、「自分が高津教会の方々に祈られて、三年連続入院を抜け出し、そして今は元気に走ることができるようになった」
というのは、私たちの喜びを代表しているんですね。
そして、私たちは背後で祈って応援します。彼の走りを楽しみにし、私たちはひときわ楽しみにします。
なぜなら、彼の走りは「復活」そのものだからです。

イエスさまは私たちに仰います。
「喜びなさい。十字架はあなたのために(あると)。わたしは(あなたのために)十字架にかかった」
そしてイエスさまは、復活もまた、同じようにして仰るのです。
「わたしはあなたのために復活した。
あなたがわたしを信じ、復活のいのちにあずかることができるなら、あなたもまた、わたしと共に復活するんだ」
――という人生を生きているのをクリスチャンと言いますね。
私たちは、今朝、共に聖餐の恵みにあずかりたいと願っています。

☆お祈り――藤本牧師

すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。
(マタイ28:9前半)

恵み深い天の父なる神さま、様々な木曜日、金曜日、土曜日を過ごしてまいりました。そこに私たちの罪深さ、この世の複雑さ、私たちの労苦、私たちの課題、様々なものが横たわっていました。時には暗い部屋に閉じこもるように、隠れていたかもしれません。

でもあなたは今日、私たちには復活はできないかもしれませんが、あなたの復活に共につながり、私たちもまた復活するように促してくださるから感謝いたします。私たちの心とたましい、そして身体を祝福してください。

そして共に喜びにあずかることができるように、あなたご自身の喜びにあずかることができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

☆聖餐式――藤本牧師司式

――礼拝のほぼ全部は聖日説教に掲載しております――


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