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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   4/30 やさしい出会い(15)信じる者になりなさい ヨハネ20:18〜29
☆聖書箇所    ヨハネの福音書20:18〜29

18マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。
 19その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
 24十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
25それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。
 26八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。
27それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
28トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
29イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

☆説教    「信じる者になりなさい」

ヨハネの福音書の20章の19節から、見ていただきました。

  19その日、すなわち週の初めの日の夕方(***というのは、イエス・キリストが復活された日曜日の夕方です、と説明)のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、(***すり抜けるように、復活の主は、と説明)イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。……」
22……彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

この場面に、(また続けて24節から読み進む)――

  24十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
25それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。

聖書の中では、こういう事情をもって、トマスは疑い深い人だと言われています。
あるいは、トマスは自分で見て確かめない限り信じることができない、実証主義者だとも言われています。
でも恐らくそういうことではないんだろうと思います。
私たちは、トマスが信じたいんだけれども信じられない、というそういうジレンマを自分自身も味わいます。
トマスの思いは恐らく、自分もその場に居合わせたかった、という思いでしょう。
自分もその時一緒に信じたかった、という思いがあったに違いありません。
でも現実はその場に居合わせることができずに、単純に信じるに至らせない何かが自分の心にあったんだろうと思います。

クラレンス・マッカートニーという学者がトマスの疑いをこんな風に分析しています。
――引用――
すべての疑いの中で最も深いものは、我々の人生経験から生まれた疑いだ。
批評家の書斎で生まれる疑いも大したことはない。
宗教学の論争で生まれる疑い、科学の発達の過程で宗教にかけられてきた疑いも別に深いものではない。
信仰の妨げとなる疑いは科学の実験室や、思想家の研究などで生ずるものではない。
すべての疑いの中で最も深いものは、そして信じる妨げとなる疑いは、人生と呼ばれる奇妙な体験の中で生まれてくる。

「キリストの処女降誕が生理学的に言って可能だろうか?」――そんな疑いは神がいれば可能であり、神がいなければ不可能である、という単純なものに過ぎない。
しかし、初めて与えられた愛する子どもを失ったという母親の疑い――「果たして神などいるんだろうか?果たして子どもは天国に行ったのだろうか?」という疑いははるかに深く深刻である。

「聖書の創世記に書いてある天地創造が真実かどうか?」――それもまた、神がおられれば天地創造となるし、神がおられないという人には、進化論を信じるしか他はない。
だが子どもの頃から、父親にけなされ、踏みにじられ、そんな体験をして来た人が、「天国には限りなく愛に満ちておられる父なる神がおられる――そんなことは信じられない」という疑いは、はるかに深刻なものがある。
――引用はここまで――

なるほどと思いますね。
「すべてのこと、相働きて益となる」(***ローマ8:28)聖書に記されていますが、そんなこと本当なのだろうか?
何億という人々の一人、そしてその中の私を愛し、私の最善を願っておられる――それはもちろん私たちは誰でも心のどこかで信じたいです。
でもそれをためらわせるような、躊躇させるような要因がそこら中に転がっています。
先ず第一番目に――

1)私はそのように神によって目を留めていただけるような存在ではない。

私たちほとんど、どのような思いで教会に通い、家庭集会に通い、求道していたんだろうかと思いますが、
恐らく教会に通いながら、キリスト教の誤りを発見しようとか、キリスト教に挑戦しようとか、そんな思いで椅子に座る方は、数から言えば少ないですね。
戸塚先生はそうでしたけれども(大笑)、数から言えば少ないと思いますね。

本当は行きたくない教会に、いきなり行っていたのではないんだろうと思います。
心のどこかで、「私も信じたい。何とか信じてみたい。信仰というものを掴んでみたい」と思いながら、通っていたんではないんだろうかと思います。
そう思いながらも、疑いも、躊躇も、ためらいも、心の中にいっぱい詰まっています。
信じたい、しかし踏み切ることができない。

明治のキリスト教会を引っ張った内村鑑三(***1861〜1930)という人がいます。
彼は札幌農学校(現北大の前身)で――ウイリアム・クラーク博士(1826〜1886・初代教頭、米教育者)が農学校の第一期生を教え――札幌の官庁から雇われて行ったわけですけれども、そこで先輩のクリスチャンができ上がり、彼は二期生として入ります。
やがて洗礼を受け、当時新島襄(にいじま・じょう1843〜1890)が同志社にいました。
同志社を中心にリバイバルがあったり、東京にリバイバルがあったり、札幌から出て来た新島襄はそういう集会に出て、皆さんが泣きながら回心しイエス・キリストを信じる姿を見て、それを数日間見て、そして日記にとうとう告白します。
「私の心には感動はなかった。ああ、どれ程多くの人々が泣いたことよ。しかし、私の心にも、私の目にも、涙はなかった。」

内村鑑三は失望して、そしてアメリカに行きます。明治16年(1883)の出来事でありました。
やがて彼はアメリカで静かに、そして同じような集会に出て、そしてとうとうイエス・キリストを信じるんですね。
でもそこに至るまで時間がかかりました。
「信じたい。何とか信じたい。信仰というものを掴んでみたい」
と思いながらもなかなか掴めるものではない。振るい切ることができない。

そういう思いがトマスにあったのではないかと思うんですね。
トマスは言いました。
「みんな、私は信じない。もう信じられない。あれほどまでに命をかけて来た主イエス・キリストはあのゴルゴタの丘で、十字架の上で、みんなに罵られ、裸にされ、無力に、無抵抗にさらし者にされて、磔になったのだ」
と言いながらも、トマスもイエスが復活したことをどこかで信じたい。
その信じたいという思いが祈りのようになって出て来ます。
「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手を槍で突かれたそのわきに差し入れてみなければ、私は決して信じない」と、トマスは言います(25節)。

2)さて、聖書を見ていただきたいと思いますが、イエスさまはどのようにトマスに出会われたのでしょうか?

26節、ちょっと一緒に26節を読んでみたいと思います。

   26八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように」と言われた。

これは19節と同じですね。19節もやはり戸は閉められていました。
イエスはそこに来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。
全く同じ言葉が二回繰り返されているということは、イエスはこうして私たちの所に現れる、という意味です。

私たちが疲れて、私たちが様々な問題を抱えて、自分の心を堅く閉じているところに、
イエスはその扉をすり抜けるように入って来て、そして「平安があなたがたの内にあるように」と一言仰ってくださる。

イエスさまはトマスのためらい、トマスの躊躇を理解しておられました。
ためらっているトマス、躊躇しているトマスを厳しく叱って、「おまえは不信仰だ」「あなたは頑固者だ」と主は仰いませんでした。

もしかしたら弟子たちの間では、そのような批判が出たかもしれません。
「私たちは本当に見た。あれは主だ。イエスさまだ」
「みんな信じたのに、おまえは何という頑固者だ」
「トマス、おまえは素直じゃない」
ということを、弟子たちは言ったに違いありません。
しかし、イエスさまはそう仰いませんでした。
26節から27節をちょっと見ていただきたいと思うんですが――

27それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。(その次に、と強調される藤本牧師・今日の説教題)信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

「トマス、おまえは不信仰で、頑固者だ」とイエスさまは仰らなかった。
イエスは「平安があなたがたにあるように」と入って来られて、
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と優しく仰いました。

トマスはちょっと前に、「自分の手をそのわきの槍の傷痕に差し入れるまでは信じない」(***25節)と言ったのですが、そこにイエスさまはいらっしゃいませんでした。
しかしイエスさまは、トマスの言葉を聞いておられたのですね。
イエスさまは心のためらいを知っておられました。
イエスさまは信じたいと思いながらもためらっている人の気持ちを理解して、そして助けてくださいました。ですから、27節に――

27それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

とトマスの疑いの思いを全部知った上で、イエスさまはそういう風に仰ったんです。
「これが見たかったんでしょう。手の傷を触ってご覧なさい。わきに手を差し入れてご覧なさい。間違いなく、わたしだ。あなたを愛し、あなたを導いて来たわたしだよ」

そうして見せられた傷痕は十字架の傷跡でありました。
トマスは十字架の傷痕を見せられ、そこに触れるように言われます。
「疑っていないで、確かな証拠を見てご覧」
でもそれだけではないでしょう。

その十字架の傷痕というのは、さらに深い意味があります。
この十字架は、主がトマスを愛しておられる、ということのしるしです。
その傷痕は、主イエスがトマスの罪を背負われた、ということのしるしです。
この傷痕は、彼があれほどこだわっていた罪が赦された、ということのしるしです。
そして27節の最後に、先ほど読みました「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と仰ったんですね。

生活の中で生じて来るためらい、苦難の中で沸々と湧いて来る疑い、試練の中で信仰が揺らぎます。
疲労していくと賛美が消えてしまいます。
イエスさまは私たちの閉じられた心の中に入って来て仰います。
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」

聖書にこう言葉がありますよね。(***ローマ8:31)
「神が私たちの味方なら、誰が私たちに敵対するでしょうか」
そしてイエスさまは、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」

聖書にありますでしょう。(***同8:28)
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために、(神が)すべてのことを働かせて益とされることを、私たちは知っています」と。
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」

(***使徒16:31)
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」

(***マタイ28:20)
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」

(***Uコリント12:9)
(主の恵みは、)「わたしの恵みは、あなたに十分である」
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」

(***創世記22:14)
「【主】の山の上には備えがある」
試練のたきぎを背負って、主の山に登るのですが、主の山には備えがある。
「信じる者になりなさい」

(***イザヤ41:13)
「あなたの神、あなたの主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言っているのだ」
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」

そのイエスの命令がトマスの心に入ったときに、彼は変えられます。
そしてトマスはそこにひざまずいて、「私の主、私の神」と、28節に(イエスに)ひざまずいて告白しています。
イエスが救い主であること、自分を愛して自分の心の疑いを知っておられて、心を変えてくださったということを解ったんですね。

3)私たちへの招き、私たちへの挑戦が記されています。

29イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

というのは、まさにその後、聖書を読む人々のために記された言葉です。
「見ずに信じる者は幸いです」――これは私たちに対する信仰への招きです。
確かに心を変えてくださるのはイエスさまの働きです。
イエスさまが扉のように閉じられたこの心に入って来てくださらなければ、どうしても私たちは信じることができないでしょう。

しかし、それでも「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。そして見ずして信じる者は幸いです」と、何はともあれ、イエスさまを信じるようにイエスさまは招いておられる。
何はともあれ、イエスさまを信じるようにイエスさまは招いておられる。

私(藤本牧師)と妻に大きな違いがあるんですが、あまり大きな違いじゃないんですが、
妻は、お客さんが一人もいないで店員が待ち構えているようなお店に平気で入って行けるんですが(笑)、
そうすると店員に目をつけられて、店員がアメリカですと、“May I help you?”ですが、「何かお探しですか?」って言った時に、簡単に「いや結構です。見ているだけです」と言えるのが私の妻で(大笑)、私は言えないんですね。
私(藤本牧師)は本当に言えなくて、ですから店員がこう近づいて来たなぁと思うと、私も移動するんですね(大笑)。
ず〜っとこうやって移動して、対極にいることができるようにですね。
私は買いたいものがあるんですよ。買いたいものがある。それがそこにあるんだけれども、店員がそこにいる限り、そこに行けないという(大笑)、その微妙なジレンマの中にあるんですよね。

これって、私たちと神さまとの関係にす〜ごく似ているんですよ。
本当はそこで信じたい、買いたい、そこで手に入れたいんですよ。
ところが、神さまが近づいてくると、いや、教会の人が近づいてくると、私たちは微妙な距離を取って、「いえ、ちょっとのぞいただけです」とか、
意を決して教会に来たのに(大笑)、「ちょっと覗いてみただけです」とか。
ま、その気持ちも分からないわけではないんですが、それが私たちですね。

つまりどういうことかと言いますとね、いつでも逃げる準備をしておくんですね(笑)。
これは、いろんなことに当てはめて、功を奏するわけですけれども、
これでは復活のイエスに出会うことはできない。これではできない。
トマスは信じたい、信じられない、でも信じたいという苦悩を、皆の前で投げ出すかのように言った。
そして主が心の中に入って来たときに、主の胸に飛び込んでいく。
微妙な距離を取りながらも、いつでも逃げれる準備をしていたわけではない。
何かきっかけがあれば、いのちを賭けて神に向かう、救い主キリストのところに向かうという気持ちは、彼のどこかにあったんですね。

トマスの出来事を記しているのは、使徒ヨハネだけです。ヨハネの福音書だけに出て来ます。
そしてやがて黙示録で、イエスさまの有名な言葉をヨハネは記します。
ちょっとそれは見ていただきたいと思いますので、ヨハネの黙示録は聖書の一番最後です。
その3章の20節を、一緒に見ていただきたいと思います。

20見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

何度か話していますが、ホルマン・ハントという画家による、「世の光」という大きな大きな作品がロンドンのSaint Peter?聖パウロだったかな?ロンドンの大聖堂に掲げられていますね。
その絵はインターネットで検索したら、ホルマン・ハント「世の光」で、すぐ出て来ますが、
扉の外に立っているイエスさまの姿は、イエス・キリストは私たちを代表し、私たちの罪を抱えて神の御前に出る、祭司の装束をしておられる。
しかし同時に、この世界の王であるイエスさまの頭の上には、王冠が冠らされています。
そして「世の光」というタイトルの通りに、イエスさまはランプを手に提げています。
その絵は、イエスさまが扉に向かって少し身を傾けながら扉を叩いている。
黙示録の3章の20節に――

20見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

ところがホルマン・ハントの絵ですと、主が叩いている扉に取っ手はついてないんです。
そしてその扉の周りには蔦が絡まっていて、長い間一度もその扉が開けられたことがないということが表現されています。
扉は中からしか開けられない。
それでもイエスさまは何度も何度も扉を叩いて、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」

私たちの祈りは――
「イエスさま、どうか、扉をすり抜けて私の心に入って来てください。
なかなか扉が開けられない、その愚かな私は、よく分かっています。
ですからトマスの時のように、あなたが一方的に扉をすり抜けて、私の心に入って来てください。
それがあなたであるということを、私に分からせてください。
私の心の中にある“信じたい”という思いを掻き立ててくださり、そして何とも言えないあなたの臨在をもって、私の心を満たしてください」

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、御子イエス・キリストは復活された後、弟子たちに現れ、トマスに現れ、そして今朝私たちの心の扉をすり抜けて、私たちのうちに現れることもできる。

「見ずして信じる者は幸いです」(ヨハネ20:29)――私たちのこの五官の一つである目というものは、錯覚もしますし、見えなくもなります。どうか心の目をもって、心の手をもって、あなたを感じることができますように。

そして私たちの人生の様々な難しい局面の中にあって、あなたの存在、あなたの導き、見守り、そしてあなたの言葉を「信じない者にならないように、信じる者になりなさい」(***同27)というあなたの招きに応えることができますように助けてください(アーメン)。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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