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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   5/7 やさしい出会い(16)旅の途上で私たちと出会う ルカ24:13〜35
☆聖書箇所    ルカ24:13〜35

  13ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロ離れたエマオという村に行く途中であった。
14そして、ふたりでこのいっさいの出来事について、話し合っていた。
15話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
16しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
17イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。
18クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」
19イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。
20それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
21しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
22また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、
23イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。
24それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」
25するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
26キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」
27それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
28彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
29それで、彼らが、「いっしょにお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
30彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
31それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
32そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
33すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
34「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。
35彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。

☆説教    やさしい出会い(16)旅の途上で私たちと出会う

ルカの福音書の24章を見ておりますが、
イエス・キリストが私たちと出会うという場面は、もちろん三年半のイエスさまの(公)生涯の中で日々あったことでありますが、
聖書の記述としては、よみがえりのイエスが私たちと出会うという場面は沢山記されています。
よみがえりのイエスが私たちと出会うということは、これはまさしく私たち自身に当てはまることで、
主はよみがえられ、私たちの閉ざされた心、私たちの暗い世界、また私たちの人生の旅路の中に現れてくださる。出会ってくださる。

今日見ていただきました(ルカ)24章のこの13節から見ていただきますと――「ちょうどこの日、ふたりの弟子が」とあります。
ふたりの弟子でありますけれども、福音書の中で今まで一度も出て来ていません。一度も出て来ていない。
しかし、15節から始まりますように、「イエスさまご自身が近づいて、」気がつかないうちに「ふたりと一緒に道を歩いて」行かれます。
その弟子というのは――ペテロでもない、ヨハネでもない。(イエスさまが)このふたりの近くに来て個人的に教えてくださる――このふたりというのは、まさに「私たち」のことです。
ですから今日見ていただく「エマオの途上の主イエス・キリスト」というのは、まさに「私たちの日常に出会ってくださる主イエスさま」です。
17節をご覧ください。

17イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。

出来事の中で、17節の「暗い顔つきで」というふたりが、32節を見ていただきますと――

32そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

その「暗〜い顔つき」をしていたふたり、「その心を内側で燃やしてくださるイエスさま」の出会いというものを、今日は一緒に見ていただきたいと思うんです。

失意のどん底にいたふたりが顔を上げます。
暗い顔つきに、重い足取りに輝きが戻ります。そしてふたりは走って行きます。
イエスさまとの出会いが、どのようにして彼らの心を燃やすことができたんでしょうか?
先ず第一番目に――

1)主は、彼らに尋ねます。

19節にありますが、18節を私(藤本牧師)が読んで、19節、皆さんが読んでください。

18クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」
19イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。

17節でイエスさまは、「その話は何のことですか」と尋ねておられます。
19節でイエスが「どんな事ですか」と尋ねておられます。
イエスさまはこの出来事の中心におられたわけですから、エルサレムに近ごろ何があったのか、一番よく知っておられます。
隅から隅までご存じですが、しかし、それをこのふたりの口から、ま、聞いているのです。

ふたりの口から情報を得ている、ということではない。
ふたりの心の中を、その気持ちを、イエスさまは聞こうとしておられる。
「どんなことですか? 話してみなさい」
この会話の中で、人間同士のつながり、交わりが生まれるということを、まず最初に覚えていただきたいと思うんです。
イエスさまが出会われた時に、イエスさまは
「あなたのその気持ちは、どんなことですか?どんな感じですか?」という風に聞かれますね。

皆さんは田園都市線を使って、通勤通学をしていらっしゃる方多いと思うんですが、ま、ほんとに「腹の立つ電車」というのはこういう電車だなぁと思いますね(笑)。
高津駅の前上り下り合わせて、朝8時台に行き交う電車というのは96本です。
96本という数字は私(藤本牧師)が時刻表を全部数えたからです(大笑)。
あまりにも悔しいので全部数えました。
そして実は京王線も小田急線も見ましたけれども、そんなのは田園都市線だけです。
それは住宅を開発し、そして沿線を伸ばしますけれども、一向に用地買収をしなかった。いつまでも複線のままです。
京王や小田急は地下に潜り、複々線化をし、渋滞緩和に勤めるんですけれども、
十両の電車が満杯で入って来ます。満杯で出て行くんですけれども、8時台に渋谷に着こうと思ったら、普段17分のところがやっぱり35分ぐらいは見なければ難しいですね。
そしてほとんどのケースが、「お客さまが気分が悪くなりましたので、介護するために電車が遅れました」――ほんとかなぁ?と思いますね。(大笑)
たかがそれだけのことで、こんなに遅れるのかという位遅れますし、遅れることによって、ますます気分が悪くなりますね。
その連鎖反応で、渋谷に着くまでいったい何人のお客さんが気分を害するのかと思う位(大笑)。

私(藤本牧師)は座ってました時に、目の前の男性が倒れてしまったというのが二回ほどありました。
その男性の救護をさせていただいたわけですけれども、私は思いますね。
「気分が悪いんなら、気分が悪いと言ってくれ」(笑)と。「そしたらすぐ変わるのに」
でも実際自分が気分が悪くなって立っている側になりましたら、前の方に、
「気分が悪いんですけれど、変わってもらえませんでしょうか?」っていうのは言えないですよね。

この言えないという連鎖がこれほどの問題につながって行くのかという風に考えますと、
私たちはそうそう簡単に自分の内側の思いを、人には言わないということがよくわかります。
割と文句や不平は言います。
しかしその中で、自分はいったい何に悩んでいるのだろうか、人生の根本にどういう問題があるんだろうか、自分はどれほど大変なんだろうか、ということでさえ、ぐっと飲み込んで私たちは言わないですね。

ふたりの弟子たちはイエスさまに言いました。
「あなたはエルサレムにいながら、いったい何が起こったのかということを知らないとしたら、その知らないというのはあなただけですよ。全員が知っているんですよ」と。
イエスさまも知っているんです。
でもイエスさまはその暗〜い顔つきをしている彼らの心の内側を知りたいんですね。

私(藤本牧師)の知っている先生で、この先生と面談をする時に、本当に私自身イライラするんですけれども、
「先生、ちょっといいですか」と、そういう風に始まるんです。
第一声が「ちょっといいですか?」で始まるんですね。
で、その「ちょっといいですか」が始まって、大体彼は40分してそろそろ終わるかなと思う時に、私が立ち上がろうとした時に、「いやもう一つあるんですよ」と(言う)――それが本題なんです(大笑)。
私はいっつも帰って来て圭子(夫人)に言うんですね。
「あの先生どうしてああなんだろう」と。すると、圭子が
「本題から先に言ってもらったら、と言えばいいじゃない」と(大笑)。
いつも問題が最後にあるんだったら、先に言って……
大体二時間かかるんですね、この先生の「ちょっといいですか」は(大笑)。
人はどうしてそんなに本題を後ろに持って来るのかな、と思いますね。

で、私たちは普通に挨拶をし、普通に会話をする仲なんですけれども、自分の体調が悪いということも、友人になかなか言わないですね。
ましてや、自分の心の中にこんな悩みや問題があるということを言わない。
しかしイエスさまは、二回「なんのことですか?」「どんな事ですか?」
その暗い顔つきを見ながら、その出来事を、彼らの思いを知ろうとしています。

そして恐らく問題の解決は特に人間同士の場合は、私たちはそれを話すことによって、自分自身で、自分の出来事を整理していく。
自分の気持ち、何に原因があるのか、どんな気持ちを抱いているのか、それを人に言葉で表現することによって、整理をしていくんですね。
どうか、お祈りをするために座りましたならば、定型文句に捉われずに、自分の心の中をイエスさまに話すつもりで、家族に話すつもりで、友人に打ち明けるように、イエスさまにお話しをすることですね。

2)イエスさまは聖書の言葉を説明してくださいます。

27節からちょっと見てください。

27それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

と、こうなります。

イエスさまはみことばをもって、説明を始めます。
「聖書全体から」というのは、聖書の様々な箇所から、ご自分について書かれてある事がらを説き明かし始められました。
そして32節で、「心が燃えている」というのはこの場面ですね。

32……「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

というのは、イエスさまが聖書の言葉を説明し始めていた時に、それに耳を傾けていた時に、彼らの心はうちに燃え始めるんですね。

いま長野県に住んでいる武井兄――フェイスブックをしておられる方々はよく奥さまの日常を知ることができるんですが――彼が長野に帰る時に一つ大きな問題を抱えていました。
彼は自分で詞を作り、歌を作り、そして(ギターを弾きながら)歌いますね。それを教会でも披露してくださったことがあるんですが。

彼には独特な才能がありました。その音楽家の道を行けというのか、それとももう少し落ち着いた家族と一緒との生活を行けというのか、彼はその迷いで心を引き裂かれて生きていました。
恐らく私(藤本牧師)は今でも迷っているんじゃないかなぁと思うんですけれども(笑)、

彼は一年に一回ぐらい、私(藤本牧師)に相談に来るんですね。
「自分はどっちの道を行ったらいいだろうか?」と。
私(藤本牧師)があまり答えませんと、「聖書の言葉でそれを示してくれ」と彼は言うんです。
私は「そんな言葉があるんなら、ぼくの方が知りたい」と(大笑)、
「そんな迷っている時に、Aを行くのか、Bを行くのか、そんな聖書の言葉があるんだったら、ぼくの方で知りたいよ」

旧約聖書に、「あなたが右に行くにも左に行くにも、神は後ろから声を聞かせてくださる」(***イザヤ30:21)というのは、それは天丼にするか、カツ丼にするかという問題じゃないんですよ(笑)。
それは、右にそれても、左にそれても、神はそのみ教えをしっかりとあなたに聞かせてくださる、という意味であって、
Aという大学に行こうか、Cという大学に行こうか、その判断を神さまが教えてくれる、という意味では必ずしもないです。

ですから私は武井君にも、いつも詩篇の1篇の(2〜3節)――
「まことに、その人は【主】のおしえを喜ぶ。昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その人は、何をしても栄える。」(を選んで言います)。

「『何をしても栄える』って書いてあるんだから、迷うようなことじゃないんじゃないの?」と。
「『主の教えを喜びとし、イエスさまという水路のそばに自分を植えていれば、何をしても栄える』と書いてある。
そして『時が来ると、神さまが結果を出してくださる』。
人生というのは、それでいいよ。
あの時自分が選択を誤ったから、自分の人生はこうなったかと、後ろを振り返って自分の人生を考えても、ほとんど何の意味もない。
でも自分自身をイエスさまという水路のそばに置いたら、必ず時が来ると実がなり、その人は何をしても栄える」と。

彼はある時言いました。
「その聖句を何回も何回も読んでいます。なかなか納得は自分には与えられない。でも僕はその聖句を何回も読みました」と。
何回も読みましたと。
同じ詩篇を何回も何回も読んで、迷っていればいいんです。
なかなか迷いは消えて行かない。だからある方向に自然と足を踏み出すんでしょう。
しかしその時、不安を感じる必要はない。
もし私たち自身が水路の側に植わっていれば、その踏み出した一歩をもって、必ず神さまはその世界で祝福してくださる。

皆さん、ローズンゲンという聖書日課があるんですが、ま、毎日聖書の言葉が書いてあるんですね。
ローズンゲンというわけのわからないタイトルがついているんですけれども、聞いたことございます?
ローズンというのは「くじ」です。くじ引きのくじ。ゲンというのはドイツ語の「言葉」ですからくじ引きで引く言葉なんですね。
で、始まるのは、1730年、40年ですね。

ドイツには、様々な国教会が乱立していまして、「信仰の自由を持っている自分の考えるやり方で礼拝をしたい」「自分の思っている方法で洗礼を受けたい」というのがなかなか許されない。
そういう人たちは宗教的な難民になります。
難民になった人を、ツィンツェンドルフ(***1700〜1760モラヴィア兄弟団の監督)という伯爵が大きな領地を持っていまして、そこに「神のとりで」という共同体を創り、そこにみんな逃げて来ます。
「ヘルンフート」――神のとりで、神の守りですね。

ツィンツェンドルフはやがてその共同体の人々のために、合言葉と呼ばれるような聖句を考えました。
で、コミュニティーの長老が毎朝、ツィンツェンドルフが用意した聖句の入った紙を箱からくじを引くように出すんです。
そしてそのコミュニティーのそれぞれの家を回りながら、「今日のみことばはこれですよ」ってこう教えて行くんですよね。

ジョン・ウェスレー(***1703〜1791英国国教会の司祭、その後メソジスト運動、メソジスト派の父)という人も、そういう聖書の見方をしていました。
言わば、私たちで言いますと、聖書を閉じますね、それでパッと開くわけですよ(笑)。
パッと開いてパッと見た、その聖書の言葉がその日の言葉だって言われますと、「おいおい、そんな読み方でいいのか?」という風になってしまいますでしょう?
でも、18世紀の彼らはまさにそういう読み方をしていたんですね。

そしてツィンツェンドルフは、なんと生涯をかけて、55冊の年間の聖句、聖書日課を発行します。そして1万5千もの聖句を選び出しました。
1740年には英語、フランス語、オランダ語に翻訳され、そしてそれを使って来た人々の中には、
ドイツのビスマルクですとか、スイスに逃亡したカール・バルトという神学者ですとか、ユダヤ人のためにいのちを捧げたディートリヒ・ボンへファーという偉大な神学者がこのローズンゲンを使っているんですよ。
まるでくじ引きを引くように、その日の聖書の言葉を読む。

それは、一番最初の年度版に、ツィンツェンドルフの序文にこう記されているんです。
「私たちは、それぞれの日ごとに、どんな事態に出会うことになるのか知り得ないゆえに、それぞれの日ごとに然るべき合言葉を選ぶことを摂理の御手にお委ねするのだ」と。

私たちは誰しも一日の内にどんなことが起きるのか、どんな事態に出会うのか、知っている者は誰もいません。
ですから、その日に必要なみことばが何であるのかは、むしろくじ引きによって主の手に委ねる。
でも、このツィンツェンドルフの考え方には、もう一つ底がありまして――
そのみことばを共同体で共有する。
みんなで共有する、それが私たちの合言葉になるという、独特なものの考え方でありますね。

きっと皆さんが礼拝にいらっしゃったならば、自分の必要と自分の事態とは全然違うみことばが開かれるという場合もあるでしょう。
でも丹念にみことばを追って行くと、牧師の説教では使われなかったそのみことばが、皆さんの目に留まるという場合もあるに違いない。
それは神さまが摂理の中で、皆さんに語りかけるために選んでくださったみことばです。

ですから、司会者が聖書を読む時に、牧師の説教だけでなく、読まれる聖書のみことばに、自分はいったいどこから力を受けるんだろうか?
詩篇のみことばであれば、どれが自分に響くんであろうか?という期待感をもって、その聖書を大事にされるといいです。
そしてその聖書の中から、自分なりに今日のみことばということを選ぶならば、それが私たちにとってのローズンゲンになるんですね。

どんな事態に出会うか、どんな出来事に出会うのか、知り得ない私たちのために、神は私たちに近づき、私たちに語りかけ、私たちの心の模様を教えるように仰る。
私たちはそれをもって、一旦自分の気持ちを整理し、しかしそれだけでなく、神は私たちにみことばをくださる。
そのみことばを心から受ける時に、私たちは何とも言えない熱い思いに浸される。

3) 私たちが招くなら、いつでも復活の主は共に食事をしてくださる

(ルカ24章の)28節と29節を見ていただきたいと思うのですが、ここからは、ちょっと32節までを交替に読んでいきたいと思います。28〜32まで、ですね。

28彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
29それで、彼らが、「いっしょにお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
30彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
31それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
32そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

やがて旅路は夕暮れ時を迎えます。夜がやって来ます。
二人は自分たちが泊まろうとしていた宿に、イエスさまとは知らずに、思わず声をかけます。29節で「いっしょにお泊りください」

そうしてイエスさまは彼らと共に食卓に着かれます。
「どんなことですか、あなたの心を悩ませているのは?」
そう尋ねて、彼らの心の中を探りました。
彼らはその重たい気持ちをそのまんま主に伝えました。

次にイエスさまは、彼らの気持ちを変えるために、みことばを開いてくださいました。
そして最後にイエスさまは食卓で、ご自身をお示しになります。
「わたしだよ」
ようやく、彼らはイエスさまだと気づくんですね。
「あなたと共にいるのは、わたしだよ」

後ろから近づき、ともに道を歩いてくださり、みことばを開いてくださった方がイエスであるということを、今の今まで気がつくことはありませんでした。
しかし食卓に着いて、いつものようにパンを取り、祝福してそれを裂き、食べ始めた時にイエスさまだとわかるんですね。

皆さん、どういう食事をされます?
昼なんか簡単に済ませたいという時、私(藤本牧師)あのう圭子(夫人)が時々立って食べているのを見るんですね(大笑)。
台所でパパッと用意して、もうテーブルの上に持って来るのももうあれなのでしょう。台所で立って食べてるんですよね。
で、私はいつも「立って食べないでよ。座って食べてよ」
ところがね、圭子がいないと、私は自分で作りますよね。
そうすると、私も立って食べているんですよね(大笑)。
これって何なんだろう?って自分で考えてしまって……
食べるのが嫌いではないです。
しかしいろんな用件がありますと、さっさと済ませたいという気持ちがものすごく前に走るんですね。
だから立って食べて、もうそれで良しと。一番簡単なのは、マックで良しと。
これでもう15分で仕上げてしまえば、仕事に戻れると――食卓に余裕というものがないんですね。

でも私には、余裕のある時間帯というのがあるんです。
それはコーヒーを飲む時です。
これは食事よりもはるかにゆっくり飲みますね。
一日の皆さんの営みの中で、きっとゆっくりされる時というのがあるに違いないです。
それが食卓であればベストです。なぜならゆっくり食べることは消化にも良いでしょうし(笑)、
それはそこで座って召し上がるということが、一日のリズムになるでしょうし。

食卓でイエスさまが現れるというのは、これは聖書独特ですね。
しかもルカの福音書では独特です。ルカの福音書では、イエスさまが弟子たちといっしょに食事をしているという場面が、一番多いんです。
ですからルカの福音書では、聖餐卓というのが特別な意味を持つようになります。

教会では聖餐だけでなく、愛さんというのがありますね。
月に一回サンドイッチでも、一緒に食べる時に、主は共にいてくださる。
ルカの福音書では、一緒に祈る時だけではない。
「ふたりでも三人でも、わたしの名によって祈る時には、わたしもともにいます」と(***マタイ18:20)――いや、それだけではない。
「ふたりでも三人でも、いやひとりでも、あなたが食事をする時に、わたしを招くなら、わたしも共にあなたと食べる」
招くなら、です。

【***ヨハネ黙示録3:20参照】
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

弟子たちは招きました。「いっしょにお泊りください」(***29節)。
そして招いた時に、主は一緒に食事をしてくださる。

私(藤本牧師)の神学生時代、圭子(夫人)も共に大切にした友人がいます。
同期生で、同じ年に入学してガーナから来ていたジェームス・ウオルトンという。
アフリカのニュースを見る度に、私は彼のことを考えるんですが、きっと今頃ガーナの教会の指導者になっていると思うのですが。

彼は毎朝静かにディボ―ションして、そして「あらゆる必要を神さまが満たしてくださる」という信仰に委ねて、神学校に700人位いるんですけれども、彼の信仰だけはピカ一でありました。だれも真似することができない。
ガーナに一度も帰ることはなかったです。

遠いガーナから学校の奨学金だけで来て、そしてつつましい生活をしながら、その信仰と学びだけを着実に彼は積み上げて行きました。
休みに入りますと、寮の食堂が閉まりますので、よく彼と交替で晩御飯を作りました。
彼が作るのはいつも同じものです。ガー二アンライスと。
何なの?ガーニアンライスと言う。
ガーニアンライスって何なの?ガーナのライスと(大笑)。
鍋にお米を入れますね。それから水に浸して、チキンブイヨンを入れて、それからケチャップを半分ぐらいぶあ〜っと入れるんです。その中にチキンを入れて、適当な野菜を入れて炊き上げるだけ。
ま、結構おいしいんです。結構おいしい。

彼の祈りはとっても短く、ものすごく印象的です。お祈りは――
「主イエスさま、どうか天から降りて来て、私とともに食事をしてください」
それだけ。
「どうか、天から降りて来て、私たちと共に食事をしてください」

もちろん今日食べる日々の糧を与えてくださるのも、イエスさまの祝福です。
その食事を祝福して、私たちの霊と肉の糧としてくださるのもイエスさまです。
でも最も大切なことは、イエスさまとともに食事をするという場面。

そして一緒に食事をしてくださるイエスさまは、格別に私たちを祝福してくださり、31節に――「彼らの目が開かれ、イエスだとわかった」――ここでよ〜うやくイエスさまだとわかるんですね。
これが最大の恵みでありました。

聖書を説明していただく以上に、そこによみがえりのイエスが、私とともに座っているというその現実に気がつくことこそが、最大の恵みでありました。
イエスさまは日々私たちと出会ってくださるという思いで聖書を開き、また食事ができる私たちでありますように。

☆お祈り――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、あなたが現れてくださるのは、聖餐の卓ばかりでなく、また教会の愛さんばかりでなく、私たちの日常の中で、私たちが招くならいつでもあなたは天から降りて、私たちと共に食事をしてくださる。

知らない内に後ろから近づき、聖書のみことばを説明してくださり、私たちの心の中をつぶさに引き出してくださり、のみならず共に食事をしてくださるイエスさま。

よみがえって、共にいてくださるあなたに気がつくことができる日を、私たちに一週間の中で一回でも二回でも与えてくださいますように(アーメン)。今週、特に与えてくださいますようによろしくお願いいたします。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2017.05.08 - 16:58

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