☆聖書箇所 イザヤ49:14〜16
14 しかし、シオンは言った。 「【主】は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。
15 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。 自分の胎の子をあわれまないだろうか。 たとい、女たちが忘れても、 このわたしはあなたを忘れない。 16 見よ。わたしは手のひらに あなたを刻んだ。 あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。
☆説教 母の日:あなたを手のひらに刻んだ
イザヤ書の49章を見ていただきました。 14節からだけ、もう一回読ませていただきます。イザヤ書49章の14節――
14 しかし、シオンは言った。 「【主】は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。
15 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。 自分の胎の子をあわれまないだろうか。 たとい、女たちが忘れても、 このわたしはあなたを忘れない。 16 見よ。わたしは手のひらに あなたを刻んだ。 あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。
恐らく「母の日」を考える時に、聖書の中で最も尊い言葉だろうと思います。 最も尊い言葉――それは母親の子どもに対する愛と、神さまの私たちに対する愛とが見事に重ねられている聖書の箇所はここだからです。
ユダヤ人の格言にこういうものがあります。 「神さまはどこにもおられる。そのことを証明するために、神さまは母親を創られた。」 それほど母親は、神さまの様々な思いを具体化している、ということでしょう。
こういう話があります。 神さまがこの世界を創造された時に、母親を創造するのに、格別に時間と労を要した。 天使が言います。「神さま、ずいぶん集中しておられるのですね」 神さまは天使に答えました。 「君ね、このモデルの性能を読んでくれたかい? わたしが考えているのはプラスティック製ではない。でも頑丈で洗濯機で洗えるような頑丈なものだ。 それでいて、その腕に抱きしめられたら、折れた足から壊れた心に至るまで癒すことができる温かさを備えている。 まともなご飯だけでなく、余り物、残り物でも動くように創らないと母親はダメなんだよ」
「それに6組の腕が必要だ」 「えっ6組、12本ですか?」 「いやいや、難しいのは腕の数ではない。目の方だ。最低でも3つのペアの目が必要だ。 子どもの悩みを見抜く目。姿を見せない所でいたずらしているのを察知する目、忍び寄る危険を見抜く目だ。 しかもそこに視線だけで、愛を伝える微妙な技術が必要なんだ」
「神さま、それって贅沢じゃないですか?一つのモデルにそれだけ沢山の性能を盛り込むのは困難ですよ」 神さまは言います。「だからこそ、慎重に時間をかけて創っているのだ」 「じゃあ、神さま。せめてお休みになって、もう明日にしたらどうでしょう?もう遅いですよ」 「いや、もう少しだ。もう少しで、わたしに最も近い存在、母親が完成する」
そして天使が、じっとその母親のモデルを見て言いました。 「神さま、大変です。あなたが、これほどの時間と労力をかけて作られたのに、このほっぺたの所、既に壊れていますよ。何か水滴がほっぺたから漏れていますよ」 「いや、それは水滴が漏れているのではない。そのほほにあるのは、涙だ」
母親こそ、神さまの愛を現すことができる唯一の地上的な存在、と言ってもいいのかもしれません。 私たちキリスト教、聖書の世界では「父なる神」と言いますけれども、しかし実際に神さまはもしかしたら父親よりも母親に近いのかもしれないと思う程、母親の愛は特別であります で、今日は聖書の中から3つのポイントで見ていただきたいと思いますが――
1)まずは、子どもの嘆きを見ていただきたいと思います。
母親にとっては子どもの嘆き。神さまにとっては、子どもである私たちの嘆きです。
このイザヤ書の後半部分には、神さまの慰めのメッセージが記されています。 状況はこんな感じですね。 神さまに対して、罪を犯し続けて来たイスラエル。 預言者の警告を足蹴にして、自分の好勝手に生きて来た神の民は、とうとう、その罪の代償を払うことになります。 そこで北のイスラエル王国は、アッシリア帝国に滅ぼされ、 南のユダ王国は、バビロン帝国に滅ぼされます。
エルサレムの神殿は崩壊し、城壁は壊され、民はバビロンに捕囚に捕られてしまいます。 それを彼らは、自分の罪に対する神の裁きであると受け留めました。 しかし国が崩壊していくという大きな裁きを、現実には受け留めることはできなかったと思います。 信仰は、神に帰るどころか――国が故郷が壊れていくことによって、自分たちが捕囚に捕られて行くことによって――ますます神さまから離れていきます。 それはあきらめのようなものでありました。 どうせ自分たちは以前の状態に戻ることはできない。 どうせ神は私たちから離れてしまわれた。いや、そうなっても仕方がないような生き方しかして来なかった。 苦しい境遇から信仰は生まれず、却ってその苦しい境遇からあきらめと無力感が漂っていました。
そこに神さまは、こういう風に呼びかけます。 (イザヤ49章の)7節を、ちょっとページを戻して見ていただけますでしょうか? 7節を読みますね。
7 イスラエルを贖う、その聖なる方、【主】は、 人にさげすまれている者、 民に忌みきらわれている者、 支配者たちの奴隷に向かってこう仰せられる。 (つまり、捕囚に捕られたイスラエルの民にこう仰せられる、と説明) 「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。 【主】が真実であり、 イスラエルの聖なる方が あなたを選んだからである。」
今は奴隷のように、屈辱の中にいるあなたがた。やがてあなたがたに対して王たちは立ち上がり、首長たちもひれ伏すようになる。 なぜなら「神は真実であり、そしてイスラエルの聖なる方があなたを選んだからである。」 これがバビロンに奴隷として収容されている人々に向かって、語られた神さまのメッセージでありました。
「わたしがあなたを選んだ」(7節) 8節をご覧ください。
8 【主】はこう仰せられる。 「恵みのときに、わたしはあなたに答え、 救いの日にあなたを助けた。 わたしはあなたを見守り、 あなたを民の契約とし、 国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。
恵みの日がやって来る。わたしはあなたに答える。 救いの日がやって来る。そしてあなたは荒れ果てた地を再び自分の相続の地として、祝福として受け継ぐことになる。 これは歴史に現された神さまの真実です。
そしてその真実なる神さまが、9節でこう語ります。
9 わたしは捕われ人には『出よ』と言い、 やみの中にいる者には『姿を現せ』と言う。
「姿を現せ」――自分自身の罪深さのゆえに、もうあきらめてしまい、無気力の中に身をゆだねている者たちよ、出て来なさい。 わたしはあなたがたを忘れてない。 わたしはあなたがたを選んだ。わたしは真実なる神である。わたしはあなたがたを祝福する。姿を現せ。
ところが現状に諦めている人々は、自分たちの罪深さに諦めている人々は、神さまから突き放されて無気力になってしまった人々は、出て来ない。姿を現さないです。 彼らの思いが明確な思いとなって出て来たのは、14節です。 ですから(イザヤ49章の)14節ご一緒に読んでみましょう。
14 しかし、シオンは言った。 「【主】は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。
神さまは 「わたしはあなたを選んだ。わたしはあなたを忘れない。あなたを見守っている。出て来なさい。姿を現しなさい。立ち上がりなさい。わたしに再び信頼しなさい」 と言うんですけれども、罪深い子どもたちは 「いや、主は私を見捨てた。主は私を忘れた」(14節)と言い張るんですよね。 試練の長〜いトンネルの中で彼らは絶望に浸り、祈りがなかなか答えられなかったから、 「神は聞いておられない。顔を背けてしまっておられる」と悩んでしまいます。 実際、神さまを忘れ、神さまを見捨てたのは自分なんです。しかし同時にそんな私が見捨てられたという風に誰もが思うものです。
2)さて、ここからですね。驚きの神さまの愛が表に出て来ます。
その驚きのご自身の愛を、神さまは母親の思いに託されました。それが15節です。
15 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。 自分の胎の子をあわれまないだろうか。 たとい、女たちが忘れても、 このわたしはあなたを忘れない。
忘れない――母が子どもを見捨てるだろうか? 子どもを忘れるだろうか? お腹を痛めて産んだ子をあわれまないだろうか?
どんな事情があったとしても、母は子どもを忘れない――そういう事実を神さまは知っておられるのです。 ですから15節の真ん中に――「たとい、女たちが忘れても」という、その複雑な事情があったとしても、 たとい母親たちが忘れても……、いやいや、おおよそ母親は忘れない。子どもたちのことは忘れない、ということを思い返してほしい」と、神さまは仰っておられます。
前に小学校の教科書に出て来た、「小さな青い馬」という話を皆さんに紹介したことがあります。10年ぐらい前でしたかね。 とてもいい話で、きれいな絵と一緒に今江祥智(***1932〜2015いまえ・よしとも)という童話作家が、「小さな青い馬」(***1970ポプラ社)という話を書きました。
この話はこう始まります。 「のぼるは、かあちゃんの顔を知らない。かあちゃんはのぼるがまだず〜っと小さいときに死んでしまった。しかし、のぼるは毎日元気に暮らしている。いいとうちゃんがいるからだ。」
お父さんは踏切番で、二人は人里離れた山小屋に住んでいるんですね。 ですからのぼる君にはお友だちがいません。 そして時に、とうちゃんが夜勤の夜はとても寂しいです。 のぼるは、そんな夜には死んだかあちゃんの夢を見るんですね。 「かあちゃんの顔をはっきりと覚えていなかったので、夢ごとにかあちゃんの顔はみんな違っていた。それでもかあちゃんの夢を見ると、のぼるにはなぜか嬉しかった。」
ある夏の夜、おとうさんが夜勤の夜、彼は眠れなくて外に出ます。すると、小さな青い馬と出会うんですね。 そしてその馬と話をし、友だちになり、その馬と一緒に遊ぶようになるという物語なんです。 最後の方になりまして、とうちゃんが病気になります。 そして本当に病気になってしまって、町のお医者さんにどうしても診てもらわなければいけないという時に、のぼるとその小さな青い馬は一緒に、町からお医者さんを連れて来ます。 物語では、その日以来、二度と小さな青い馬はのぼるの前に姿を現すことはありませんでした。
姿を現さない馬を待っているのぼる。そののぼるの肩に手を載せて、とうちゃんは言います。 「のぼる。来年から、がっこうだど」 「がっこう?」 「んだ。おまえは小学校へかようのだ」
物語の終わりはこうなるんです。 その夜、のぼるは夢を見た。久しぶりで、かあちゃんの夢だった。 「のぼるちゃん、もうがっこうさゆく年になったんだね」 かあちゃんはそう言って、本当に嬉しそうににっと笑いました。 その瞬間、黒い目がきらきら光りました。 「おっ、次郎の目と同じ色じゃ」 次郎というのは、夢に出て来た小さな青い馬です。 とうちゃんが病気で寝ているときに、のぼると一緒に町からお医者さんを連れて来た、あの青い馬です。
かあちゃんの目が黒く大きく広がり、もう一度のぼるに笑いかけます。 のぼるはどこかで、この馬の足音を聞いたように思い出しました。 何かに乗って、運ばれて行くような気持ちがしました。 そうだ、うんと小さいとき、ちょうどこんなふうに、かあちゃんにおんぶしてもらった。
物語ですけれども、何とも言えない温かみがあります。 「青い馬」をつくりだしたのは、いったい何だったのだろうかと思いますね。 おんぶしてもらって身体で覚えた、今も身体の中に残っているお母さんの温かみというのが、その小さな青い馬をつくりだしたのだろうか? そんなお母さんを忘れられなくて、恋しくて、寂しくて、いくら元気に振る舞っても、その寂しさは消えません。 でも少年の中には、絶対に忘れられないお母さんへの思いがあって、それがあの「青い馬」になったんだろうか?
いや、そうじゃないですよね。 お母さんの、少年を、自分の子どもを慕う思い、その思いが「青い馬」となって、少年の夢の中に現れたわけですよ。 お母さんの少年を思う愛が、「青い馬」となって、その少年の寂しい夜を夢の中で慰めてくれた。 つまり、たとえ死んで見えなくなったとしても、決して自分の息子を忘れたわけではない、今も変わらず愛しているという、 その母の思いが「青い馬」となって、息子を助けたんだと思います。
少年は、「ぼくは絶対に忘れないお母さんの愛。ぼくのことを絶対に忘れないお母さんの愛」に一つ安心したかのように、小学生になっていきます。 自分はお母さんのことを絶対に忘れない。でもそれ以上にお母さんはぼくのことを絶対に忘れない――その確信を胸に彼は小学生になります。
ここにキリスト教の福音の本質がある、ということをよく覚えておいていただきたいと思います。 私たちが絶対に神さまのことを忘れない、神さまに対して忠実であり、その信仰をしっかりと持っている――それはそれは大切なことです。 時には自分の信仰がきちんとしてることを、祝福の拠り所とすることもあると思います。 自分が神さまを忘れていないから、救いを期待できるように思うでしょう。
しかし、福音の本質というのは、そうではない。 私たちが救われるのは、神さまが私たちを忘れないからです。 私たちが神さまを忘れないからではない。 母親が子どものことを絶対に忘れないように、神さまが私たちを忘れないから、私たちは救われるんです。 私のような罪深い者が神さまのもとへ帰ることができるとしたら、神さまが私を忘れておられないからです。 私のような者が神の道を歩んでいくことができるとしたら、私のような愚かな者が信仰を捨てないでいられるとしたら、神さまが――母親が自分の子どもを憐れむように――私を憐れんでくださるから、私は信仰の中に留まっていることができるからです。 私が少し胸を張っていられるのは――私が神さまのことを忘れていないからではない。神さまが私のことを忘れておられないから――その事実に胸を張るんです。
神さまは、その母親の愛にご自身の愛をたとえて仰いました。 「『神に見捨てられた、神は私を覚えていない』と言うな。 母親が、自分の子どもを忘れるだろうか?自分がお腹を痛めて産んだ子を、憐れまないだろうか?絶対に忘れない。絶対に憐れむ。 それと同じように、わたしはあなたを憐れみ、あなたを贖い、あなたを産んだ。わたしはあなたを絶対に忘れない。 そして仮にこの世界の母親が忘れるようなことがあっても、わたしはあなたを忘れない」と。
3)絶対に忘れないということを、さらに確証付けるために神さまは仰いました。
三番目に16節を一緒に読んでみたいと思います。
16 見よ。わたしは手のひらに あなたを刻んだ。 あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。
私(藤本牧師)は自分の人生で歯医者を、歯医者さんを何度も変えました。 それは歯医者さんが気に入らないからじゃないんですよね。 歯医者さんの予約を忘れてしまうから(笑)、もうみっともなくて行けないというわけですね。ま、一回ぐらい許してもらえるんですけれども。 以前、溝口の駅のビルの中にある歯医者さんだったんですけれども、その時は二回連続予約を忘れてしまいました。 私は申し訳ないと思って、歯医者さんに何か謝りの品を持って行かなきゃいけないと色々考えて、丸井の中を色々考え歩いたんですけれども見当たらないんですよね。 最終的に決めたのがチョコレートでした(笑)。なんかバカだなぁと思いましたね、渡しながら。 「歯医者さんに謝りの品として、チョコレートを渡す」って言うのは、果たしてどうなんだろうか?(大笑)と思いながら、やがてその歯医者さんを去って行きました。 そんなことが何度もこう続いてしまうんですよね。
同じように、私(藤本牧師)はマッサージ屋さんも何度も変えるというんですかね。同じように予約を忘れてしまうんです。 それで忘れないように、今は携帯にスマートホンに、カレンダーを見つけて、アラームで通知が来るようにし、それでもそれを見逃がしますので、手に書くんですよね。 手に書くとやっぱり目立ちます。こっち(手のひら側)に書くと汗で流れてしまいますので、こっち(手の甲)に書くんですね。 そうすると人に見られて――「ああ、先生また何か忘れものしないように」「ええそうなんですよ」って――ここに書くんですけれども、その内手を洗っちゃうんですよ、お手洗いに行って(大笑)。そうするとまた消えちゃうんですよね。 消えて、いったい何だったんだろうかというのが、なかなか思い出せないですね(笑)。 これがもし入れ墨だったら(大笑)、消えないですよね。
「刻む」(イザヤ49章16節)っていう言葉はいったいどういう感覚なのだろう? 神さまは、「わたしはあなたのことを忘れない」(***15節)と。 それは、あなたのことを「わたしの手のひらに刻んだ」という表現は、聖書の中ではここしか出て来ない。 おおよそ人間的な表現で言うならば、つまり人間の言葉の世界で言うなら、「手のひらに刻む」という表現はどの文化の中にもないですよ。 (通常は)「手のひらに書く」んです。 でも神さまはあえてそれを乗り越えるかのように、「わたしはあなたを手に刻んだ」 一番よく見えるように、決して忘れない場所、手のひらに、消えないように「あなたを刻んだ」
そして、16節の後半、これがとっても尊い言葉です。 「あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」
お母さんというのは、子どもの事になると特別ですね。 私の妻は特技がありまして、どこででも寝られる(大笑)という特技ですね。 一緒に電車に乗りますと、座ったら一秒でもう目をつむって手を組んでおりますけれども(笑)、私(藤本牧師)は必ず聞くんですね。「一秒で寝たの?」 「いや、一秒じゃ寝られない。でも一分あったら寝られる」――これはもう妻の特技ですね。
その妻が寝られない。それは子どもに様々なことがあると、やっぱり寝られない。 「へぇ、君でも寝られないんだ」「そりゃ、寝られない」 子どものことを考えたら、子どもの心配事を考え始めたら、母親はみんな寝られないんですよね。
それが母親にとって、大きな大きな城壁です。そしてその城壁のために、母親は何でもする。いつも祈っている。 つまりその城壁はいつも母親の前にあるんですよ。 そして、神さまが仰ったことは、「あなたの城壁は、いつもわたしの前にもある」と。 あなたが城壁のように抱えている、直面している大きな大きな問題は、あなたにとっての城壁だけではない。わたしにとっての城壁でもあり、それはいっつもわたしの前にあると。
母の日にお母さんは励まされなければいけないと、そりゃ思います。 お母さんは感謝されなければならないだけでなく、励まされなければならない。 それはきっと子どもが、家族が、励ましてくださることでございましょう。 でも覚えておいていただきたいことは、神さまが励ましてくださる。 「あなたが抱えている城壁のような問題は、あなたにとっての城壁だけではない。 それはいつもわたしの前にある」ということを、覚えておいていただきたいと思います。
☆お祈り――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、あなたはご自身の思いを母親の愛に込められました。 「わたしはあなたを選んだ。あなたは必ず荒れ果てた地をゆずりの地として受け継ぎ、諸国の王たちはあなたたちの前に来てひれ伏す。大丈夫、あなたたちは一旦はわたしに背を向け、辛い道を行ったが、あなたは必ず回復され、わたしはあなたを愛する」(***イザヤ49:7〜8)と神さまが語りかけながらも、 「いいえ、あなたは私を見捨てた。あなたは私を忘れました」(***同14節)とイスラエルの人々は言い、私たちは言い、 そのようにして、自分の抱えている問題に諦め、神さまがあたかも私たちのことをもはやご覧になっておられない、顧みておられないかのように、私たちは自分の罪深さの中に屈してしまいます。
その時、あなたは「立ち上がって、母親を見てご覧。母親は絶対に子どものことを忘れない。それと同じように、わたしはあなたのことを忘れない」(***同15〜16節)と仰る神さま、どうか特別に私たちの教会の母親たちを、また私たちの母親たちを憐れんでください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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