☆聖書箇所 ヨハネ7:37〜39
37さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。 39これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
☆説教 ペンテコステ: 魂の渇き
今日はペンテコステでありますので、このヨハネの福音書の7章を開きました。 私(藤本牧師)はいつもペンテコステに一番ふさわしい聖書の箇所は、このヨハネの福音書の7章だと思っています。 37節からもう一度読んでまいります。
37さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。
これは何と言ってもカギとなるのは、実は一番最初に出て来る「祭り」です。 イエスさまがこのことを仰ったのは、「祭りの終わりの大いなる日」だと書いてあります。 ユダヤ教では三つの大きな祭りがあります。「過ぎ越しの祭り」「仮庵の祭り」「刈り入れの祭り」で、ここに出てくるのは「仮庵の祭り」です。
「仮庵の祭り」というのは、人々は自分の住んでいる家を出て、木の枝や葉っぱで造った仮小屋で一週間過ごすというお祭りです。 そして彼らはかつて先祖が奴隷となっていたエジプトから脱出し、脱出した後モーセに率いられながら40年間、荒野で苦しんでさすらった日のことを思い出します。 飢えに悩み、のどの渇きに苦しみ、そんな時に神は彼らの叫びに答えられ、モーセが岩を杖で打つとそこから水がほとばしり出た、という出来事が出てまいります。
人間は水と睡眠を摂っていたら、たとえ何にも食べなかったとしても2〜3週間生きていけると言われています。 もし一滴も水を飲まないままでしたら、大体私たちは四日ぐらいで死んでしまうそうです。 もちろんその間渇くんだろうと思います。
日本は水の国です。緑とそして川、湧き水の国です。 先日イスラエルを旅行された長岡兄も、以前にいらっしゃいました渡辺兄姉も、 帰って来られて、何が一番印象的だったのか、お尋ねしますと、 お三人とも共通の答えですよね――それは旧約聖書の世界は荒野だということ。 一面乾いた水のない世界が茫漠として広がっている様というのは、実は日本にはないです。
この祭りで人々は、自分たちがこの世のあっては旅人であるということ、いつも仮の宿に住んでいること、しかし神さまは水を湧き出させてくださる、渇きを癒してくださるということを、民みんなが記念いたしました。
そして祭りの間1週間、毎朝神殿の祭司は、神殿の丘を降りてシロアムの池に行きます。そこに湧き出て来る水を黄金の杓で汲み上げ、神殿に持ち来たり、神殿の祭壇にこの水を注ぐということをいたしました。
イスラエルの人々にとって、この儀式は単にモーセの時代のことを思い出すだけではありませんでした。 もっともっと深い意味で、霊的な渇きを満たすいのちの水を待ち焦がれる出来事でありました。
その水というのは、エゼキエル書に預言されています。 預言者は幻を見ました――やがて神の救いが完成するその日、神殿の敷居から水が溢れ出るという、それが川となるという幻をエゼキエルは見ました。 最初は、預言者のくるぶしを浸すぐらいの小さな流れでありました。 しかし、しばらくすると川になり、預言者の膝まで、やがて腰まで、やがてその流れに圧倒される大きな川となりました。
そしてその川の水の一つの特徴があります。エゼキエルの47章の9節に――「この川が入る所では、すべてのものが生きる」と。 この川のほとりにある食物はあらゆる実を生らせると。 魚も、植物も、そして人間も、すべてを生かす神の水というものを人々は期待しながら、待ち焦がれながら、この祭りを過ごしていました。
しかしながら神殿の祭司がどれほどシロアムの池から水を汲んで、祭壇のところに注いだとしても、所詮それは象徴的であるということを人々はよく知っていました。 その瞬間音楽が奏でられ、人々は歓喜いたしますけれども、それはあくまでも祭りに過ぎないということを、このヨハネの福音書の7章の人々は解っていました。
そしてそこで、この祭りの騒ぎの只中で、イエスさまは大声で仰った。
37……「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
という招きです。 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」 この37節の欄外を見ますと、注が書いてありますけれども―― 「いつもわたしのもとに来て、いつも飲んでいなさい」 「誰でも渇く者は、いつもわたしの所に来て、そしていつも飲んでいなさい」
簡単に三つのポイントでお話をいたします。
1)魂の渇き
「魂の渇き」という概念は、ヨハネの福音書に実は何回か出て来ます。 ここ以外に一番有名なのは、4章のサマリヤの女とイエス・キリストが出会っている場面です。 その時イエスさまは疲れて、昼の12時ごろ、サマリヤの町はずれの井戸の所に座っておられました。 そこに水を汲みに来た女性――真昼間の暑い中、井戸に水を汲みに来るということは普段はいたしません。 彼女は人目を避けるように、昼間に水を汲みに来た、人生が破綻してしまった女性です。 イエスさまは「わたしに水を飲ませてくれ」という風に声をかけますが、女性の方がびっくりして言葉を失ってしまいますと、イエスは言葉を続けます。
13「この(井戸の、を付け加えて説明)水を飲む者は(だれでも、)また渇きます。 14しかしわたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」 (ヨハネの福音書)4章の13節〜14節に書いてあります。
この女性は何に飢え渇いていたのでしょう? 聖書を読みますと、「彼女は5回結婚して今一緒に住んでいる男性は、彼女の夫ではない」と記されていました。 5回も結婚する。いつも初めは喜びに溢れて、必ず幸せになると思って結婚するんですけれども、やがて二人の愛が枯れ果ててしまう。 今度こそ愛されると期待しては裏切られる――その女性の渇いた思いをイエスさまは見抜かれました。
実は私たちは皆、人生どこか深い所で、渇くことのない生ける水を求めてさすらう旅人であるということがわかります。 この世が価値とする物をいくら追い求めて獲得しても、人の心の渇きは決して癒されないものです。 私たちは一生懸命、自分の人生を何か積み上げて来ますけれども、それが脆くも崩れて行く時があります。 いくら積み上げても、いくら成し遂げても、人の心の渇きは癒されるものではないです。 一つの欲望を満たしてもまた渇く。限りがない、ということをよく知っていますし、逆に飲めば飲むほど益々渇き、安らぐことがないということも、私たちはよく知っています。
なぜなら、人は神のもとに帰らない限り、本当の平安を見出すことはできないように造られているというのが聖書の教えです。 私たちは単なる生物ではありません。神によって創造され、神との交わりに生きる人なんですから、 人の心はたとえ表面は華やかで、この世の様々な楽しみを次々と追い求めているようであっても、その奥底では生ける水を求めて渇き続け、神の恵みを求めて叫び続ける――それが私たちの人生であります。
1996年にアメリカの海兵隊のジョイ・モーラという人物が、イラン沖で停泊していた空母からちょっとした弾みで海に落ちてしまいました。 よくある出来事だということを、私(藤本牧師)は読みました。 彼が空母から落ちてなんと36時間、乗組員は彼がいないということに気がつきませんでした。 そして本格的な捜査活動を始めるのに、もう24時間かかります。 そして彼のいのちは絶望視されて、家族のもとにも彼が行方不明になってしまったという連絡が入ります。 しかし、甲板から落ちてなんと奇跡的に、彼はイランの漁船に拾われて助かります。 そこまで72時間、海軍で教わったズボンを救命具として、海の上を漂うという方法を実践しながら、彼はひたすら大海原で助けが来るのを待ちました。
後にアメリカのニュース番組のインタビューに答えて、 「その72時間、神さまは何度も彼を絶望の淵から引き上げ、支えてくださった」ということを彼は証しをします。 でも興味深いことに、彼が海に漂う間、彼の内側から、 「とてつもない欲求が上がって来た。その欲求がやがて叫びとなり、その欲求が彼を支えた」と言うんですね。 その欲求、何だと思います? 彼は海に漂いながら、自分の身体も魂も「叫び」を上げ始めるんです。その「叫び」が彼を支えるんです。その「叫び」は「水が欲しい」です。 水が欲しい。海に漂い、一面の海なんです。それでいて、全身が叫ぶ。「水が飲みたい」。美味しい水が、飲める水が、生ける水が飲みたい。 その「飲みたいという欲求」が、彼を支えるんですね。
サマリヤの女の内にもそういう欲求がありました。 女は言います。「先生、そういう水があるなら、私は飲みたいです。魂の渇きを癒す、そういう水があるというなら、私は飲んでみたいです」 そして「水が欲しい」という欲求が、この心の内側に、魂の内側にあることに気がついた時に、私たちは主の招きに応えることができます。 その招きは、「だれでも渇いているなら、わたしのところにいつも来て、わたしからいつも飲んでいなさい」(***ヨハネ7:37欄外注)です。 「わたしのところにいつも来て、わたしのところからいつも飲んでいなさい」
自分の信仰生活を振り返ってみて、「以前、あれ程祝された。あれ程恵まれた」――そうではなくして、 「いつもわたしのところに来て、いつも飲んでいなさい。そうしている内に、あなたの心の内から、生ける水が川となって流れ出るようになる」 そのように、イエスさまは私たちを招いていてくださいます。
2)イエスさまはこういう風に仰います。39節
(ヨハネ7章)39節にありますので、ご一緒に読んでみたいと思います。
39これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
御霊というのは聖霊のことです。 イエスさまの所に来て飲むというのは、イエス・キリストは私たちに聖霊を与えるという意味であるとヨハネは39節で解説をしています。 この部分は(福音書記者としての)ヨハネの解説ですね。
39節に真ん中の行に、「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかった」とあります。 ヨハネの独特な表現です。 この「栄光を受ける」「栄光を受けていなかった」というのは、 【イエスが十字架にかかり、イエスが復活し、天に昇り、栄光の座に着くという一連の出来事】をヨハネは指します。 ですから、イエス・キリストは、まだ私たちの罪のために十字架にかかっていない。私たちのために死を打ち破り、復活していない。私たちの王として天の御位に座しておられない。 まだそういう段階では聖霊は私たちに注がれていなかった、ということをヨハネは記したいんですね。 でもその時が来ると、私たちは必ず聖霊を受けることができる。 聖なる神の御霊をこの身に受けることができる。 聖霊はイエスさまから来ます。
私たちの教会で洗礼を受ける時に、私たちは水に浸ける浸礼(しんれい)ということをいたしません。 浸礼というのは、以前高津教会は多摩川で洗礼式をしていましたから、その時にいたしました。 私(藤本牧師)は浸礼を施したことはありません。 でも浸礼の練習をしたことがあります(笑)。 それは神学校の授業で「今日は神学校のプールに行って、みんなで浸礼のやり方を勉強しましょう」。 で、受ける側と授ける側の練習をするんですね(笑)。
で、大体白い衣に着替える。バプテストはそうですよね。 そして来たらですね、鼻を押さえることを先ず指示しません。 鼻を押さえたら必ず牧師がその手の上に手を添えて、もう一度ちゃんと押さえてあげなさい。 それから洗礼を受ける人に半分身を屈めて、そして一・二・三で頭の後ろに手を置いて、そしてその人物はしゃがむように。 そして若干倒して水に浸けなさい。浸礼になった時にその人物が後ろに体重をかけると、授けているあなたも一緒に水に沈みます(大笑)と。 だから持って行かれないように足を踏ん張りながら、あくまでもその人がしゃがむ程度に水を浸しなさいと。
これはロマ書から取られています。ロマ書の6章に―― 【あなたがたが洗礼を受けた時に、イエス・キリストの十字架につく。 つまりあなたがたは完全に沈められて一旦葬られる。 そうして水から上がった時に、あなたがたの全身は主によって生かされる者になる。神に生きる者になる】 という意味で、全身の洗礼を授けますね。
バプテスマのヨハネの時代は灌水礼(かんすいれい)だったと言われています。 それはバケツのようなもので水をすくって、そして頭からざばんとこう掛ける。 バプテスマのヨハネには特別な意味合いがありました。 彼は「神の国は近づいた」と言って、そしてヨルダン川でみんなを集めて、そして人々に悔い改めを迫ります。その時に、ヨハネは言いました。 「あなたがたがアブラハムの子孫だからと言って、神の国が到来した時に、自動的に神の国に入れるわけではない。悔い改めなさい」 「ではどの程度悔い改めたらいいのでしょうか?」――人々は皆そう思ったに違いないですね。 そしてバプテスマのヨハネは言いました。「ゼロからやり直しなさい」 「ゼロからやり直すってどういうことですか?私たちは既にイスラエル人と言われ、割礼の契約を受け、神の恵みに生かされています」 「いやいや、あなたがたはその契約を破った。だからゼロからやり直しなさい。 すなわち異邦人――イスラエルの人々でない人々――がユダヤ教に入る時に、先ず「水の洗いきよめ」という儀式を受けます。それが洗礼です。 ですからイスラエルの人々は、今まで、人生これまで洗礼を受けたっていうことはなかったんです。 異邦人だけが、そのゼロから始めるという儀式を受けます。 「あなたがたは割礼を受けたということを忘れて、人生ゼロから出直しなさい」
どのイメージを取っても、私たちの人生にふさわしいです。 【私たちが全身浸けられた時に、私たちは罪に対して死に、古い自分が全部水の中に浸けられ、一旦葬られ、そしてもう一度起こされる時に、私たちは神に対して生きる者となる】という意味で、聖書の教えにふさわしいです。
またそれが灌水礼(かんすいれい)であるならば、それもまたバプテスマのヨハネの教えを思い出します。 【私たちがどんなに神の御前に自慢できることがあったとしても、どんな立派な人生を送ってきたとしても、それは神の御前には意味がない。 あなたは人生ゼロから出直しなさい、というよりも、私はあなたに真っ白な人生を与える。今日この日からあなたは一歩を神の子として踏み出しなさい】です。
こういう儀式をやりますと、皆さん教会堂の中にシャワールームを備えなければいけないですね(笑)。 濡れちゃいますので、もう一回やり直さなければいけない。 最近は可動式の洗礼槽(せんれいそう)というのがありますので、バスタブで、でもあまり寒い時期に、それをやりますと風邪を引きますでしょう? またお年寄りはなかなかそれができませんよね? ですから私たちの教会では滴礼(てきれい)という方式を使います。 それは頭の上に水を垂らすんです。
これはいったい何を象徴しているのか? これは聖霊が注がれるということを象徴しているんです。 水を上から数滴垂らすことによって、全身きれいになるわけではない。 しかしイエス・キリストが洗礼を受けられた時に、すぐそのあとに―― 「御霊が鳩のような形で主の上にとどまった」(***マタイ3:16、マルコ1:10、ルカ3:22、ヨハネ1:32) この聖書の箇所を現すように、聖霊が私たちの内側に留まるということを表現しています。 つまり、言い方を変えますと、洗礼を受けた者の内にみな神の御霊が宿っていると。 「私はなかなかそれが実感できない」と言おうが言うまいが、聖霊はあなたの内に宿っているんです。
3)私たちは改めて、このイエスさま、聖霊、そして自分自身という関係を考え直さなければいけない。
でないと、(ヨハネ7章)38節の意味合いがわからなくなってしまう。 38節、もう一度一緒に読んでみたいと思います。
38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
「聖書が言っているとおり」っていうのは、聖書の預言が成就したということです。 そして「その人の心の奥底から」、たましいの奥底から、「生ける水の川が流れ出るようになる」 「生ける」というのは、周囲を生かすという意味です。 それはエゼキエルの預言にあったように、その川の両側の食物は、葉が茂り、そして実が生る。その水の中に入る者はすべて生きるようになる。
▽そういう(生ける)水が、私の心の内側から出て来ているんだろうか、という疑問がありますよね? ▽しかもその水が「心の奥底から」出て来る。たましいの奥底から出て来るというこの約束に、私たちは果たして適合しているんだろうか、疑問がありますよね? ▽そして三番目に、「川となって流れ出る」というのは、圧倒的に内側から流れ出ているという、これが私に実現しているんだろうか、という疑問がありますよね?
「洗礼を受けて、キリストの霊が、聖霊が私たちの内側に宿った。 しかしその霊が生ける水となって、たましいの奥底から流れ出て、 川のように圧倒的な力で溢れているんだろうか?」と言われた時に、 ここに座っておられる方々、ここに立って話している私(藤本牧師)も含めて誰一人、「そうなっています」と断言できる者はいないです。
私たちの心から出て来るのは時に憤りであり、悲しみであり、私たちの心の底から出て来る言葉で私たちは人を傷つけ、人を呆れさせ、あの人はあんな人なんだ、と周囲を疑わせるような存在であるという認識がなければ、ペンテコステの礼拝に来る意味はない。 「私は120%聖霊に充満されています」――不遜ですね。 「私はいつも渇いています。いっつも渇いています。ですからいつもあなたの所に来て、いつも飲みたいと思います」――それは謙遜ですね。
私たちは礼拝に来る度に、自分の魂に飢え渇きを感じ、そして「いつもわたしのところに来なさい」というイエス・キリストから生ける水を飲ませていただく。 それによって、内なる聖霊は力を増し、泉となって、川となって、私たちの内側から溢れ出るということを、私たちは覚えなければいけないです。
でもそのためには、大切なステップがあります――それは自分に注がれた聖霊に自分の人生を明け渡すということです――これが私たちはなかなかできないです。 いつの間にか、心の王座に座っている、ま、聖霊ではなく、自分自身。 そしてその自分自身をよ〜く観察してみると、魂の王座でふんぞり返っている自分ですね。 そして神さまのことを考えずに、自分の心を覗いてみると、なんと開き直って魂の王座に座っている自分を見て、私たちは呆れてしまうんですね。 キリストから聖霊が私たちに与えられ、その時私たちがキリストに、そして聖霊に自分の人生を明け渡さない限り、聖霊はキリストの恵みと愛、キリストの力と希望を私たちの心と人生に及ばせることはできないです。
私(藤本牧師)はこの話に勝るものはないので、以前使徒信条を学んだ時に紹介しましたけれども、この話に勝る話はないので、もう一回よ〜く聞いてください。 多分忘れておられる方も多いと思いますし、初めての方も多いと思います。 それは有名なイギリスのC・S・ルイスの「ナルニア国物語」の一場面です。 「ナルニア国物語」は二回のシリーズで映画化されて、日本でも観た人、非常に興味を抱く人は多いんですけれども、物語の中にこういうくだりがあります。
子どもたちが鏡を見ている内に吸い込まれて、あの不思議な国のアリスじゃないですけれども、ナルニア国に迷い込む。神の国です。 この国全体を支配しているアスランというライオンがいます。 しかしその国の中にも様々な出来事があり、試練があり、また怪物がいて、危ない目に遭うというナルニア国ですね。
いろんな出来事の後に、小さなジルという女の子が喉が渇くんです。 するとライオンのアスランが、これはイエス・キリストの象徴なんですけれども、 「君は喉がカラッカラだろう?」 「もう死ぬほど。カラッカラ」 「なら、この泉から飲みなさい」 すると女の子は、「では、お願いがあるんですけれども、私が飲む間、どこか遠くに行ってくれない?」
ライオンはじ〜っと見て、深い唸り声を上げます。 その瞬間、女の子は身動きもせず感じ取った。「あ、間違ったお願いをした」と。 そんなお願いをする位なら、川の流れごと、大きな山ごと、そっくり動かして自分の口に運んでくれとお願いした方がましだったんじゃないかと。 ライオンに「あっちに行ってくれ」なんて言えるような自分ではないということを女の子は痛感するんですね。
その水の滴りや、あまりにも魅力的で、飲まずにはいられないんです。 ジルは、恐る恐るアスランに訊いてみます。 「私が近づいても私に何にもしない?」 すると、ライオンは「いや、そういう約束はできない」 もう女の子は喉が渇いて、気がついたら自然と自分の足が泉の流れに近づいて行くんです。 そして振り返ってまた言います。 「まさか、あなた、女の子を食べたりしないでしょうね?」 ライオンは言います。 「わたしは、女の子も男の子も飲み込んでしまう。大人も王さまも、皇帝も彼らの国の領土も、わたしは一飲みにできる」
物語にはこういう風に記されています。 ライオンは自慢げには言わなかった。そんなことをして申し訳ないという言い方でもなかった。まして、そこに乱暴さもなかった。 ジルは「もういい。もういいわ」と言って、そして「ほかの泉を捜すから」と離れそうになったその瞬間、ライオンは言います。 「ほかの泉はない。この世界には、ナルニア国には、泉はここしかない」
クリスチャンの世界も泉は一つだけです。 その泉の前におられるのは、イエス・キリストです。 聖霊は私たちの心にしまって、必要な時に力を与えてくださる、私たちのお守りではないです。 神に心を向けるというのは、キリストに飲み込まれてしまうこと。 そしてキリストが主体となり、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私の中にあって生きているのです」 と自分に言い聞かせ、何度も言い聞かせ、 私たちは毎日イエス・キリストの所に行って、毎日私を生かす神のことばをいただく。 それ以外の方法にはない。 それ以外の泉はこの世界にはない、ということを心に留めておきたいと思います。
☆お祈り――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、私たちは今朝遜って言います。私たちの心の奥底から、聖書が約束している通りに、必ずしも生ける水が川となって流れていないことを。その水の流れがあったとしても、非常に細々とした流れであり、時にそこに周囲の者を傷つけてしまうような濁った水であることを、私たちは謙遜に認めます。
しかし同時に、真実に魂の奥底から生ける水の川が流れ出て、私自身もまた周囲の者もそれによって生かされる、という経験をしてみたいという思いがいっぱいあります。主よ、どうか私たちにその水を飲ませてください。聖霊を私たちの内に満たしてください。そのためにその泉の前にいるあなたに飲み込まれてしまうことも良しとさせてください。
私たちが心の中にいま抱いている、私たちが固執している問題、私たちが抱えている問題がありましたならば、それを手放し、私たちの日常で、人生の主体が自分自身ではなくあなたであることを心に受け留め、あなたが無理をするなと言ったら、無理をすることがありませんように。あなたが立ち上がれと仰ったならば、立ち上がることができますように。あなたが待てと仰るなら、待つことができますように。そしてあなたが喜べと言ったら、心から喜ぶことができますように、私たちの信仰を成長させてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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