名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索

::: 説  教 :::


771 3965 統計カウンターの表示   管理者で接続
Name   T・Y
Subject   6/11 やさしい出会い(18)痛くはないのか? 使徒の働き26:9〜16
☆聖書箇所   使徒の働き26:9〜16

9以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。
10そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。
11また、すべての会堂で、しばしば彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとし、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行きました。
12このようにして、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ出かけて行きますと、
13その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。
14私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』
15私が『主よ。あなたはどなたですか』 と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
16起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。

☆説教   やさしい出会い(18)痛くはないのか?

今日は使徒の働きの26章。イエスに出会うというシリーズの18回目でありますけれども、今日のタイトルは14節から取りました。

14私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』

というイエス・キリストの出会いで、キリストはパウロに声をかけました。
そしてパウロが出会ったのは、復活のキリストで、十字架にかかる前のキリストではありませんでした。
パウロは復活のイエスさまに出会ったということを、使徒の働きで3回記しています。(***先日の黒川牧師のプリントの聖書箇所・22章、9章、26章)

あるいはコリントの15章でも記しています。
こちらは大変興味深いので、ちょっと見ていただきたいと思うんですね。
第一コリント15章の3節〜9節まで交替に読んでいきたいと思います。段落の途中になりますけれども、第一コリントです。

<Tコリント15:3〜9>
3私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと。
5また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
6その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
7その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。
8そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。
9私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

見たらわかるように、4節の「よみがえり」の後に、キリストは「ケパに現れ」「十二弟子に現れ」「五百人以上の兄弟たちに同時に現れ」、
7節に「その後、ヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。」
キリストは弟子たちに、五百人以上の弟子たちに出会われたということです。

「そして、最後に、月足らずで生まれた」(8節)というのは、未熟児のような私です。
当時の考え方で言えば、いつ死んでもおかしくない、という意味が込められているんでしょう。そういう私とも出会ってくださいました。

で、9節には付け足しではなく最も大事な部分ですね――そういう「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」
とこう書いてあります。
こうなりますと、パウロの言いたいことは明確で――「キリストはあなたにも出会う」ということです。
キリストはあなたにも現れてくださる。
教会を迫害した、最も弟子の中で小さい自分、値打ちのない自分に現れてくださったキリストは、クリスチャンと呼べない、信仰者としてみなされないような、わたしのような者にも、私たちのような者にも必ず出会ってくださるという話ですね。

キリスト教の讃美歌の中で最も有名なもの、また一般の人が知っているものは「アメージング・グレース」というジョン・ニュートンが作詞した讃美歌であります。
歌詞は民謡から取られましたので、いろんなところでいろんな歌詞を載せることができますけれども、「驚くばかりの恵み」ですね。
「驚くばかりの恵み こんな悲惨な私さえも 主は救ってくださった」とこういう風に讃美歌は始まります。

「驚くばかりの恵み、主イエス・キリストはこんな悲惨な私さえも救ってくださった」というジョン・ニュートンはまことに悲惨な人生を歩んでいました。
彼は18世紀のイギリスの奴隷売買と深く関わっていました。
西アフリカの港から奴隷を乗せて、イギリスに運ぶという仕事(***船長)です。

手描きではありますけれども当時の奴隷船の絵が残っています。
大体帆船に大きなオールがついていて、そのオールを漕ぐのも奴隷なんですけれども、船倉は下は三層構造になっています。
三層構造になっている屈むぐらいの高さの屋根の中に、ひざを屈めなければ通ることのできないその狭い空間に、マッチ棒のように並べられています。

皆さん、イワシのオイル缶って見たことありますでしょう。あるいは今で言うならば、アンチョビの缶って見たことあるんじゃないですか?
当時はイワシのオイル缶って言われていました。
それほどびっしり横に並べられた奴隷たちは、みな鎖で足が繋がっています。
誰一人として単独行動はできないようになります。

そういう中をイギリスに、やがてイギリスからアメリカに運んで行くわけですけれども、半分ぐらい亡くなりますね。
半分ぐらい亡くなりますと、直ぐに海に捨てて行きますね。そんな仕事をジョン・ニュートンはやっていました。
「こんな悲惨な私を救ってくださった」とか、あるいはパウロが「私は教会を迫害していた者です」という言葉の中に込められていた、
人のいのちを脅かす、しかも何とも思わずに脅かすような仕事に自分自身が就いていた、というのは現代の私たちではちょっと考えられないのかもしれません。

イエスさまはそんなある日突然、嵐の中でジョン・ニュートンに現れました。
ジョン・ニュートンはいのちの危険を感じ、神の名を呼んで自分の心の罪をイエスさまに告白しました。
そして「もし自分が生きながらえることができるなら、私はあなたに仕えます」という風に宣言をした人物であります。

使徒の働きの26章に戻っていただきますと、この26章でパウロはこんな風に自分を表現しております。
26章の9節をご覧ください。

9以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。
10そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。

ひと言で言いますと、現代的に言えばユダヤ教原理主義者です。
しかも非常に暴力的な態度ですね。
彼は「自分を神の子だとする」イエスだけはゆるせない。そんな冒涜は赦せないと心に思っていただけではなく、その救い主を信じてしまった者たちを抹殺するということに精力を傾けていました。
10節を見てください。

10そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の表を投じました。
11また、すべての会堂で、しばしば彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとし、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行きました。

で、12節で、そのようにして彼は、シリヤの大都会ダマスコへ出かけて行く途中であったと(記されています)。
エルサレムでは満足しきれない。付近の教会堂でも満足できない。
彼は外国へ行ってでも、イエスを信じる者を迫害するために――いや一言で言えば、しょっ引いてエルサレムで殺すんですけれども――殺すために出かけて行きました。

パウロは「奴隷狩り」ではない、「クリスチャン狩り」の先頭に立っていました。
クリスチャン狩りをしていいい、という許可証をエルサレムの全議会からもらっていました。
エルサレムからダマスコまで二百キロです。その二百キロを出かけてでも、そこにいるキリスト教に回心したユダヤ人たちを引き連れて処刑する、という目的のために出かけて行きます。
で3点、この場面からお話をしたいと思います。

1)パウロは苦しかったでしょうね。

非常に苦しかったと思います。自分でも気がついていなかったけれども、苦しかった。
それをイエスさまは「あなたはとげのついた棒を蹴っている」(と表現された)。
「とげのついた棒」というのは、当時家畜を誘導したり、あるいは柵の中に追い込むために使われたそうです。
牛が柵の中に誘導されるのを、ま、嫌いますよね。(牛が)自分のやりたいことをする。
すると、その棒を牛に当てる。当てることによって、思い通りのところに動かしているつもりで、実は(牛が)自分でその棒を蹴っているという人生。

パウロは一生懸命でありました。キリストとその教会を迫害することに執念を燃やしていました。
でもそれは明らかに神さまの目から見ると、まるで「とげのついた棒を自分で蹴っている」ような人生ですね。

私たちは「とげのついたような棒を蹴る」人生を送ります。これは不思議なものですね。
皆さんは私(藤本牧師)を見たら不思議だなぁと思う、それでいいんだと思いますけれども、私も良きことをしようと思って、いろんな仕事を引き受けます。
ここで頑張らずしていつ頑張るか――ということで引き受けますが、それは「とげのついた棒を蹴る」ほど自分を傷つけます。

私(藤本牧師)は今度の火曜日にMRI を受けます。
MRIの検査というのは、私は60歳になりまして、母(藤本栄造牧師夫人・幸子牧師)が60歳の時に、脳の動脈破裂でクモ膜下出血で半年――よく回復したなぁと思いますが――生死の間をさまようぐらいひどかったですよね。
あの時、開けてみてお医者さんが仰ったことは、
「ずいぶん時間がかかりました。手術は13時間かかりましたので。その理由は動脈瘤が4つもありました。その1つは脳の一番奥で、そこにたどり着くまでに4時間かかりました。」
私はその話をある方にしましたら、
「先生も診てもらった方がいいですよ。動脈瘤は遺伝します。40%50%の確率で遺伝しますから、診てもらった方がいいですよ。」

私は3月にクリニックに行って、そして予約をしました。
じゃ、予約の日取りに関しては、看護婦さんが向こうと電話をして、
「(予約」できますから。いつ頃がいいですか?」って言いましたので、私は
「3か月後の6月の半ばにしてください」って言ったら、看護婦さんが、
「藤本さん、いや、4月でもできるんですよ。5月でもできるんですよ。どうして6月なんですか?」って。で、
「私は今すっごく面倒な仕事をしていて、動脈瘤が見つかったらその仕事が終わらなくなっちゃうと思います」(大笑)
動脈瘤が気になって、ね、「大したことないですよ」ってお医者さんに言われたとしても、それが気になって仕事ができなくなってしまいますね。

皆さん、現役であった頃も、それを越えても、無理に無理を押しますでしょう。
周囲の目から見れば、何もそんなことしなくてもいいのになぁという位押しますよね。
「とげのついた棒を蹴る」という自分の人生は、様々な意味で当てはまります。
例えば何らかの快楽にはまってしまえば、「こんなことをしていては、すってんてんになっちゃうだろうな」と思いながらも、そう思いながらもやっぱり私たちははまっていくんだろうと思いますね。
「こんなものを飲んでいたら、そのうち依存症になってしまうだろう」なんて思いながらも、アルコールに浸ってしまう。
周囲から「あなた、一生懸命とげのついた棒を蹴っているんじゃない?」って言われても、「いや、この棒を蹴る快感が楽しくてしようがないんだよ」みたいなことを言って、私たちは蹴り続けるんですね。

イエスさまは真面目な顔をしてパウロに仰いました。
「それはあなたにとって痛いことだよ」と。
彼はかつてステパノが殉教した時に、ステパノに石を投げた人が返り血を浴びないように、その着物を預っていました。
ステパノは天を見上げながら「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分で分からないのです。わが霊を御手に委ねます」と言って、彼は天に召されて行きますね。(***使徒の働き7:55〜60)
そのきよらかなきよらかな姿を見ながら、パウロはきっと疑問に思ったに違いないと思います。
「もしかしたら神さまに近いのは、自分ではなくして彼かも知れない。でも自分はず〜っとこの道を歩んで来た。自分はもう一歩も引けない」
という思いで、突き進んでいく。苦しくても突き進んでいく。

2)これでいいんだと思い込んでいる道に、キリストはいきなりパウロを遮るように出会う。

苦しい道に、イエスは温かいまなざしで立って、遮るように出会う。
13節を見ていただきますと、こう始まりますね。

13その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。
14私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』

いつも申し上げますが、旧約聖書・新約聖書で名前が二回連続して呼ばれているシーンがあります。
「モーセ、モーセ」「サウロ、サウロ」
それは非常に温かな親密な声でありました。
もちろんこの瞬間まで、パウロは一度もイエス・キリストの声を聞いたことはありません。
イエス・キリストと関わるような関係に育ったこともありません。
徹底してイエス・キリストを嫌って来ました。
しかしイエス・キリストはこのサウロを知っていて、「サウロ、サウロ」と声をかけてくださいます。
それは「その途中」という風に13節で始まるように、まさに私たちの人生の途中、突然起こった出来事でありました。

それは神さまの時でありましたけれども、パウロにとっても、私たちにとっても、それは突然、イエス・キリストと出会います。
私たちが教会に来る時、あるいは救われる時も――友だちから誘われていたかもしれません。ず〜っと自分とは無関係な世界だと思っていたのかも知れません――でも突然、教会に足が向くんです。
あるいは修養会に行き、あるいは聖会に行き、行きたくないなぁと思っていて突然、神に出会うんですね。

ジョン・ウェスレーという人はロンドンのアルダスゲート街で行われた聖書研究会で、彼は不思議に心が熱く燃えるのを感じ、イエス・キリストを信じるんですけれども、その日の日記を読みますと、彼は「行きたくなかった」と書いてある。
行きたくない中しぶしぶ出かけて行って、そこで突然、イエス・キリストと出会うんですよね。

この殺意に溢れた男に主は光を照らして、彼の強い暗い内側を巡り照らされました。
そして「サウロ、サウロ」と誤った方向をやさしく諭すように、その矛盾にもがく彼の心を労わるように主は仰った。
「あなたはそんなにわたしのことを嫌いか?わたしに背を向けること、それがあなたの人生の生きがいなのか?あなたはとげのついた棒を思いっきり蹴って血だらけになっているけれども、それは痛くはないのか?」と。

なんと多くの私たちが、神を敵に回し、それでも神にまさっているつもりで大手を振って歩いているかと思います。
突然現れた主は、絶対的な力で彼の道を塞ぎ、そして優しく語りかけられました。

3)この出会いが彼の回心の始まりになります。

その回心は来週また見ていただきたいと思いますが、16節を見ていただきますと――
私が15節を読みますので、皆さんで16節を読んでみてください。

15私が『主よ。あなたはどなたですか』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
16起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。

興味深いですねぇ。
16節に「起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたが見たこと、また、これから後、(***これから後、ともう一度繰り返して強調する藤本牧師)、わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、云々」
一回の出会いではない。一回の出会いでもってあなたの人生は変わる。
そしてあなたの人生は、これまで、そして今日、そしてこれから後がある。
過去と、現在と、そして未来がある。
あなたは今日わたしと出会い、これから先の人生、わたしと共に歩む。
わたしがあなたに任命する仕事を成し遂げていく。

私たちはなかなか自分の人生を過去、現在、未来として理解していません。
ましてある大きな出来事があった時に、これから後はこうなるという風に、なかなか考えてないです。
大きな出来事があったとしても、今まで通りあたかも自分の人生が進んでいくかのように考えてしまいます。

明治の初めに、まだ明治になる前ですね。
外国人居留区ができて、そして宣教師が、築地、横浜、長崎、函館、いろんな所に住むようになりますね。
そこで日本人をじっくり観察していた宣教師が言います。
「『のどもと過ぎたら何とか』って言うのが、まさに日本人の気質だね。
私はこの国の人々に、魂の底に本当の意味で福音が届くかどうかは、長い時間がかかると思う」と彼は言いました。

何か大きな出来事を通して、例えば自分が病気になったり、自分が失敗したりしてそしてイエス・キリストの側に来ます。
でもそれは今日の日の出来事で、今日キリストは私と出会い、私の心を慰め、しかしそれは、これから後の人生に影響を与えるとは私たちはあまり考えない。
「取りあえず、今日の痛み、今日の苦しみを取り除いていただければ、これから後も、私は今まで通り生きて行きます」
「いやいや、そうではない。わたしが出会ったのは、これから後のあなたの人生にわたしが深く関わるために、わたしは今日出会った」
イエス・キリストは実にやさしくその道を遮りますが、これから後に関して、キリストは、「わたしはあなたを奉仕者、また証人として任命する」という特別な目的のためにパウロを、そして私たちを召しておられる。
キリストの教会を建て上げるために、私たちは召されているという意識を明確にしておきたいと思います。
そしてイエスさまは徐々に私たちを変えて、そのことを可能にしてくださいます。

現代の日本のクリスチャンで一番有名な人は星野富弘さんだろうと思います。
で、小柳姉のオリーブは、富弘さんの詩に曲を付けて新しくCDを出されます。
秋に小柳姉妹たちオリーブのお二人を迎えて、私たちの教会でコンサートをしたいなという風に願っておりますが、
星野富弘さんっていうのは首から下が不随です。

彼は体育の先生をしていて、そして生徒を前にして演技をしたところ、首から落ちて、教師になってわずか二か月でしたけれども、若〜い彼は意識不明、呼吸困難、呼吸停止、心臓停止、まさに生死の境目を通り、いのちは何とか取り止めますが、
肩から下が完全にマヒで重度の障害を負って生きて、もう何年になりますかね?もう40年ぐらいになるんじゃないでしょうか。
残された口に筆をくわえて描く花の絵、そして花の詩。それはいのちの尊厳を実に素直にやさしく歌い上げていますよね。

彼の闘病記を読みますと、彼は友人の勧めで聖書を読み始めます。そして病院で洗礼を受けるんですけれども、
ある日、自分がず〜っといた整形外科から、腎臓に非常に問題が出るようになりまして、泌尿器科に病棟を移されるんですね。
移された朝、看護婦さんが書類を持って来て、「星野さん、改めてあなたの情報をこの病棟として書き留めなければいけない」
生年月日・職業・けがをした日。最後の質問が「特別な宗教はありますか?」という質問だったんですね。
その時、彼の口からは、図らずも「キリスト教です」と言ってしまったんです。

彼はその時のことをこういう風に記しています。
――そのまま読んでいきますね――
答えてしまってから、私の胸はドキドキ鳴り始めた。神と私のつながりを人に伝えたのは初めてのことだった。聖書も半分くらいしか読んでいない。教会にも行ってはいない私が、クリスチャンだなんて、はずかしくて言えるはずはなかった。しかし、「宗教は何か」と言われたとき、「別にありません」とはどうしても言えなかった。

キリスト教……。看護婦さんは、少しも疑わずに私の言ったことを、紙にすらすらと、しかも当然のように記入していった。神様って、もしかしたらこの看護婦さんのような方ではないだろうかと思った。私のような者でも、「信じています」と言えば、神さまはうなずいて、天の真っ白い紙に私の名前を書き入れてくださるのではないだろうか。(――ここまで読み終わり――)

そしてしばらくして彼は、洗礼を受けます。
まことにその通りだろうと思いますね。

教会を迫害していたパウロと出会ったキリストは、パウロをペッシャンコに叩き潰した(笑)と言うのなら、まだ解りますよね。まだ解りますよ。
「わたしを、わたしとわたしの教会を迫害するのはおまえか?」と言って、キリストはパウロの前に現れて、パウロをペッチャンコに叩き潰したと言うのなら、まだ解りますね。
そうではないです。
「あなたはとげのついた棒を蹴って痛くはないのか?あなたのこれからの人生をわたしは変える」
「こんな私が変わるんですか?いや、これほどの罪を犯した私が、ゆるされるんですか?」
「わたしはあなたの人生を変える。わたしについて来なさい。そして、これから先の人生はこれまでの人生に勝る祝福をあなたに授ける」――神さまはこう仰います。

☆お祈り――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、私たちも様々な道を歩んで来ました。しかし不思議に道の途中で、突然あなたが現れてくださり、私たちの名を呼んで、私たちのたましいを捕えてくださり、私たちが何者であるのかをよく知った上で、「これから後」と、「私たちの人生をこれから先、用いてくださる」というあなたの語りかけを心から感謝いたします(アーメン)。

私たちも素直に、あなたに従っていきたいと思います。そしてどうか、この小さき小さき人生をあなたに用いていただけるように、パウロのように素直に心をあなたに向かって広げることができるようにしてください。

今日いらっしゃったお一人お一人の一週間を、また今日いらっしゃることのできなかったお一人お一人の一週間を等しく祝福してください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2017.06.12 - 17:32

175.133.12.55 - Mozilla/5.0 (Windows NT 6.3; Win64; x64; Trident/7.0; MALNJS; rv:11.0) like Gecko

Name   E-Mail   Password

 前文 6/18 父の日・戸塚伝道師:天のお父さん! ルカ...
 次文 沼津・小島牧師の新刊本を販売しております
文章投稿 *^^*削除修正返答を書くリスト

チェックされた全文書を見る
315kojimabook.pdf [355 KB] ダウンロードSimple view *^^*お詫びとお願い――小島牧師の新刊本 T・Y 2017.06.22 6835
314Simple view *^^*宗教改革500年をオンラインで学ぶ 藤本満 2017.06.20 6302
3132017年林間聖会.pdf [1.1 MB] ダウンロードSimple view *^^*2017年林間聖会のご案内 T・Y 2017.06.19 6786
312CCF20170619_00007.pdf [535 KB] ダウンロードSimple view *^^*ベック由美子さんコンサートのお知らせ T・Y 2017.06.19 6721
311Simple view *^^*6/18 父の日・戸塚伝道師:天のお父さん! ルカ... T・Y 2017.06.19 6624
310現在参照中の文章です...6/11 やさしい出会い(18)痛くはないのか? ... T・Y 2017.06.12 7056
309小島先生の本文書1.pdf [355 KB] ダウンロードSimple view *^^*沼津・小島牧師の新刊本を販売しております T・Y 2017.06.06 7140
308Simple view *^^*6/4ペンテコステ(聖霊降臨記念日):魂の渇き... T・Y 2017.06.05 7350
307Simple view *^^*5/28 献児式:やさしい出会い(17)わたしに従... T・Y 2017.05.29 7231
306Fw__.zip [1.9 MB] ダウンロードSimple view *^^*5/21 黒川知文牧師:神に変えられた人生  使徒... T・Y 2017.05.22 7509
305Simple view *^^*5/14 母の日:あなたを手のひらに刻んだ イザヤ... T・Y 2017.05.15 8675
304CCF20170511_00001.pdf [1.3 MB] ダウンロードSimple view *^^*日本聾話学校チャリティー映画会のお知らせ T・Y 2017.05.11 7699
チェック項目を全て削除。 チェック項目を全て削除。

前頁 次頁
本頁が先頭ページです前へ戻る 31  32  33  34  35  36  37  38  39  40 次へ進む本頁が最終ページです
文章投稿 *^^* 再読込
投稿者氏名を検索項目欄に追加/除去タイトルを検索項目欄に追加/除去内容を検索項目欄に追加/除去 メイン画面に戻る。... *^^*