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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   5/19ペンテコステ 聖霊によって助けられ ローマ8:18〜26
☆聖書箇所      ローマ8:18〜26

 18今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
19被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。
20それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
21被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
22私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
23そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
24私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
25もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
 26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

☆説教      聖霊によって助けられ

ペンテコステばかりはなかなか日本には定着いたしません。唯一定着しているのはクリスマスで、12月25日と日付が決まっているからで、イースターは2月の新月から数えて何週目という、毎年日が変わりますし、ペンテコステはイースターから数えて50日目と、これまた日付が変わります。大体5月か6月に持たれます。

使徒の働きの2章に、ペンテコステの日のことが記されています。
イエス・キリストが復活の後に天に昇り、そして「代わりに助け主をもう一人送る」と仰ったイエス・キリストの約束を信じて、弟子たちが一同に祈っていた所に、聖霊が天から降り、それは大風のようにその場を揺り動かし、炎のように分かれて、一人一人の上にとどまった(2〜3節)。
そして弟子たちは、そこに集まっていたさまざまな国の人々に福音を宣べ伝えるために、いろいろな言語で、他国語で、キリストを証しし始めた(4節)。
その日の内に、3千人が悔い改めて洗礼を受けた(41節)。そして教会が始まっていく。

使徒の働きの1章の8節をちょっと見てください。これがまさに教会の誕生だと言ってもよいでしょう。ご一緒に1章の8節を読みたいと思います。

使徒1:8しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

このことばが言われてから1500年後に、スペインのザビエルが日本にキリスト教を紹介しました。日本は世界の中でも遅かった方だろうと思います。
しかし、その後にアフリカ諸国、あるいは、それとほぼ同時期に、中南米の諸国にキリスト教が伝わっていきます。
聖霊が私たちの上に臨まれるときに、私たちは力を受け、キリストの福音の証人となる――使徒の働きは、まさにその力強い(聖霊の)働きの連続が記されています。

この上からの力づけ、聖霊の力づけを、さまざまな奇跡を通して描いている箇所もありますが、しかし、もう少し日常的に静かに描いている箇所もあります。
もちろん、聖霊の力はいつも人間の限界を超えた圧倒的な神の助け、そして、私たちの一人ひとりの人生を主導する、神の圧倒的な力であることは変わりがありませんが。

しかし、今日開いていただきましたロマ書の8章の26節には、もう少し繊細な力、繊細な働きとして、聖霊のことが描かれています。
今日はこの8章の26節を一緒に学びたいと思いますので、ここもご一緒に読んでみたいと思います。

ロマ8:26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
 
ここを選んだ理由は、最後に「とりなしてくださいます」という言葉があったからです。
私たちはしばらく連続して、モーセが民のためにとりなしをしているということを学びました。
聖霊が私たちのためにとりなしていてくださるということは、どういうことだろうか?

読みますと、私たちはどのように祈ったらよいのかわからない。
どのように祈ったらよいのか、私たちの代わりに、とりなしてくださるというのは、聖霊は私たちの代わりに祈っていてくださる、ということです。
私たちが祈らない時、祈れない時、さまざまな状況下で、聖霊はいつも私たちの代わりに祈っていてくださる。
聖霊が私たちの言葉にならない言葉、深い悩みを引き受けてくださり、代わりに祈っていてくださる、と(著者のパウロは)言うのです。

3つのポイントで、短くこの26節から学んでみたいと思います。

1)弱い私たち

(26節の)最初の一行目に、「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。」ここに「弱い私たち」という言葉があります。
弱いという言葉はちょっと18節をめくっていただきますと、

18今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

「今の時のいろいろの苦しみは」とあります。「いろいろの」という言葉は実は言語にはありません。苦しみが複数形ですから、「今の時のいろいろの苦しみ」という風に、この新改訳聖書は訳しています。

先ほどの「弱い私たち」(26節)というのは、ま、私たちが複数ですから当然かもしれませんが、ここも複数形なのですね。そしたら、私は18節と都合を合わせるかのように、もし丁寧に訳すのなら、「さまざまな弱さを抱えている私たち」とこう訳してくれますと、何かとても雰囲気が出るように思います。

今の時の苦しみのさまざまなのです。――それが健康上の苦しみか、人間関係の苦しみか、あるいは自分自身の苦しみか、家族の苦しみか、教会の苦しみか、日本国の苦しみか、経済的な苦しみか――いろいろの苦しみの中を、私たちはいま通過します。   

それと同じように、私たちの弱さもまことにさまざまで、それは当然のことながら人によって違います。一人ひとりの弱さもあれば、教会の弱さもあります。健康の弱さもあれば、心の弱さもあります。

教会というところは、特に弱い人が社会から逃げて来る場所だと、批判する人もいます。私はそんな批判を恥じる必要はないと思います。
むしろ、教会がそういう場所でなくなった時に、私たちは恥じるべきです。
教会というのは、まさにこの世界で、弱いと思う人が逃げてくる場所でなければならない。神さまはご自身のことを隠れ家と仰いました。(***詩篇36:7、申命記32:10〜11、33:27、詩篇46:1、59:16でしょうか?)

実際私たちは、弱い人の集まりです。
それを私たちはもう少し正しく言いますと、弱い人の集まりではない。
教会は「弱さを知っている人の」集まりです。

パウロは、その苦しみ、弱さということにものすごく集中して、8章を語っています。そして、聖霊という言葉も、実はこの8章に集中しています。
ロマ書で8章以前に、1章に聖霊という言葉は二回、2章に一回、5章に一回、それだけです。あと二十数回はこの8章に集中しています。

8章でパウロが集中的に論じていることは、実は苦しみなのです。
18節に「今の時のいろいろの苦しみ」とありましたが、たとえば、20節を見てください。

20それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、云々(服従させた方によるのであって、望みがあるからです)。

被造物が虚無に服している。被造物というのは、自然界の全部、動植物を合わせて、私たちも被造物でありますが、21節――

21被造物自体も、滅びの束縛から解放され、(神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。)――そのことを望んでいる。

22私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

22節はとっても大切な意味合いが込められています。
被造物全体というのは、私たちも含めて、産みの苦しみをしている。
聖書の中に、産みの苦しみって何回も出てまいります。とてもイエスさまも用いられますし、いわば陣痛ですね。

陣痛って言うのは、初めぽつぽつと来て、間隔が狭まり、医者に行きますと、まだ早いよと帰される。そしていよいよだという時には、それは男性には解らない苦しみを体験するのでしょうね。
体験するのですが、出産して新しく生まれた自分の子どもを腕に抱くと、その陣痛を全部忘れてしまうほど、喜びが大きいのでしょう。私はよく知りませんが(笑)。大きいのだと思います。

それが産みの苦しみという独特な場合です。それは、新しい新創造が始まるまで、苦しみは実は増していく。
まぁ、「世の終りの時」という表現が聖書にありますが、その時に至るまでの迫害、矛盾、混乱というのはその日が近づくにつれて、度合いを増していく。
でもやがて主イエス・キリストが再び来られる時に、それらすべてから解き放たれ、喜びに満たされる時を、私たちも、自然界も、すべての被造物が待っている。

被造物と聞きますと、――自然界が荒れ狂うのです。大地震があるとか、あるいは環境の変化で絶滅していく動植物があるとか、またこの世界は弱肉強食で成り立っているとか――パウロが言うには、この世界全体が私たちと共にうめいている。

そして、それは、キリストによって救われ生かされている者も同じだと言うのですね。それが23節に書いてあります。世のうめきは私たちのうめきと同じだと。

23そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

最後に「からだが贖われる」という表現があります。
それは23節の前半に、すでに御霊の初穂をいただいているということは、実はイエス・キリストの十字架を信じ、たましいは贖われているという意味です。
しかし、この身体はどうすることもできない。どんな信仰者も疲れます。病みます。痛みます。

聖霊の臨在の中を生きるということは、私たちの弱さを知り、私たちはそれを恥じずに、それを臆せずに、むしろそれを受け入れて生きることでもあるわけです。
私たちは心の中でうめきながら、この身体の不自由さ、この身体のさまざまな痛みが贖われることを待っています。
 
この社会では、私たちは自分の弱さを隠して生きなければならないということもあるでしょう。あまり人に公にしないということもあると思います。
しかし、聖霊がおられる世界では、自らの弱さを受け入れ、そして互いの弱さを受け入れ合って、私たちは生きていると信じています。

そういう意味で、ありのままの自分と、ありのままの互いを受け入れる。それが教会で虚勢を張ることなく、強そうに振る舞うことなく、ありのままの弱さを抱えているというのが、とても大切です。

でも、私たちは、やがて、そんな弱さをたとえ抱えている身体もまた、贖われる時がやって来る、その時を待ち焦がれている、ということも忘れてはいけないことなのです。

オリンピックの棒高飛びで、金メダルを取りましたアメリカのボブ・リチャードという選手がいますが、彼がよく話をする話があります。

大学で、アメリカン・フットボールの選手がいたそうです。
どちらかと言えば、煮えきらないタイプで、どちらかと言えば、練習にも真剣味を欠いている。
チームが腕立てを50回やれば、自分は50回声だけ出し、25回しか腕を曲げない。
チームにとっては、いてもいなくてもいい存在で、ユニフォームは着ていても、試合に出たことは全くない。
出たとしても、すでに負けが決まっている試合に、ちょっと最後の方だけ出る。
        
ある日、遠征中に監督のところに連絡が入りました。この選手のお父さんが急病で危ない、と。
監督は真っ青になって、(命じました。)
「おい、おまえ、もういい、もういい。すぐ帰れ。
車で送ってやるから、すぐ支度しろ。
今週いっぱいは休みを取れ。練習も、試合も、心配するな」  
 
残念なことに、彼のお父さんは、その日に亡くなりました。
土曜日、大切な試合の日がやって来ました。
ロッカー・ルームで、選手と監督が最後の打ち合せをしていた時に、驚いたことに、彼がやって来たのです。しかも、バッチリとアメリカン・フットボールの防具を身に着けて、ユニフォームも着ている。

「おい、大丈夫か。まさか、今日おまえが来るとは思わなかったよ」監督が言いました。
「監督、今日は是非俺を出してください。俺にやらせてください」
目が輝いていました。その声には今までになく、ガッツが入っていました。

でも、大事な試合です。のんべんだらりの怠け者に試合を任せるわけにはいきません。
「まあいい。ベンチに座ってろ」

試合が始まりました。監督が、振り向いて、目が合うたんびに、彼は言います。
「監督、俺を出してください。今日は、大丈夫です」

チームの結果は散々です。負け試合です。
ところが彼は、ベンチからみんなを励まします。
そしてまた、監督に言います。
「俺を出してください。お願いします」

監督は、スコア・ボードを見て、諦め加減に言いました。
「いいだろう。それほど言うなら、気が済むまでやってこい。これ以上、悪くはならんだろう」
  
そして出てきたのが、煮えきらない怠け者。
お父さんを週の初めに亡くして、2日前には葬式を出した彼。
その彼が、ものすごい勢いで走り回り、ファインプレーを続出します。

試合が終わって、監督が彼に尋ねました。
「おまえが、あんな勢いで走ったのを見たことはなかったぞ。一体、どうしたんだ。何があったんだ」

「監督、俺の親父、今週死んだでしょう」「ああ」
「監督、俺の親父ね、ずっと目が見えなかったんですよ。でもね、親父は俺がフットボールをやっているということを誇りに思っていました。
親父は天国に行きましたから、今日の試合で、親父は初めて俺がフットボールをしている姿を見ていてくれるんです。だから、どうしても、出たかったんです」

目が見えなければ、愛する息子の試合も見ることが出来ないでしょうね。
耳が不自由であれば、自分のやりたい沢山のこともすることも出来ない。
足が不自由であれば、みなと同じように走ることも出来ない。
それだけではない。私たちは途中で、たとえば仕事を失うかもしれないし、手術を受けて痛みを抱えるかもしれないし、私たちはこの世界で、好きなようにやってみたい、思いっきり活躍してみたいということは沢山あるかもしれない。

でも、今の時は苦しみの時であり、私たちはさまざまな弱さを抱えていて、何をしようにもハンディを背負っているというこの現実ですね。
そして、そのハンディは時に年齢と共に増え、時に自分の心と身体が思うようにマッチしなくなって、大きく崩れていきます。

ですから、私たちは皆、待ち焦がれている。たましいばかりか、この身体もまた贖われる時を待っているのです。
自分の身体だけでなく、愛する者たちの身体、家族、友人、みなそのハンディを取り除いてあげたいという気持ちが私たちにはある。
その時がやがて来ることを「うめきながら」待っているのが弱い私たちですね。

さてこの弱い私たち、様々な弱さを抱える私たちを――

2)御霊は助ける、と書いてあります。
 
26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。

よく、この言葉が一番含蓄があるので、これまでも何回か話をして来たと思います。

この助ける、という動詞は、非常に興味深い。日本語では助けるは2文字です。
ところがギリシャ語ではものすごく長い。それは動詞で、スン・アンティ・ランバノマイという長い動詞で、3つのことばの合成語です。

             スン――ともに
        アンティ――〜に代わって
      ランバノマイ――荷う

それが一語になって日本語で訳されているのは、「御霊は私たちを助けてくださる」。でも含蓄があまりに大きくて――

御霊は、スン、私たちと共にいてくださる。
   アンティ、私たちに代わって――私たちのうめき、私たちの痛み、私たちの弱さを
 ランバノマイ、荷ってくださる。

それが、(日本語で)2文字の「助ける」という言葉に込められた意味です。

御霊は、寄る辺のない私たちと共に生きてくださり、苦しい私たちに代わってくださり、私たちの弱さを、重荷を、うめきを荷っていてくださるということを、意識して生きているのかと言われたら、(意識)していないでしょう。
(意識して)「生きていません」と認めるのが、ペンテコステの悔い改めですよ。

そして私たちはこの日、(御霊を意識して)生きていないと思ったら、「主よ。どうか、あなたが私と共にいて、私に代わって、私の重荷、弱さ、苦しみを荷っていてくださるということを、しっかりと心に留めることが出来ますように、私の内に住んでおられるあなたを自覚する日曜日とさせてください」(と祈ることです。)

しかも、ここにはもう一つの動詞があります。それが、26節の最後になりますが――
私たちのために「とりなしてくださいます」。助けてくださいます。
とりなしてくださるのは、代わりに祈ってくださる(という意味です)。

この言葉の重みをわかっていただきたい。
数週間前の聖日で私たちは学びました。
モーセが十戒を受けている間に、民は40日不在のモーセが心配になって、金の子牛を造って祭りをして、その周りを踊っているのです。

十戒の第一番目に「あなたには、わたしのほかに、(ほかの)神々があってはならない」(出エジプト20:3)第二番目には、「(あなたは、自分のために)偶像を刻んではならない」(同20:4)であったにもかかわらず、偶像の周りを踊っているのです。

神さまは民を滅ぼそうとされました(同32:10)。その時、モーセは自分のいのちを投げ出して、敗れの狭間に立った(同32:32)ということを学びましたよね。

モーセは「どうか、民を助けてください。もし、それがかなわないなら、私のいのちを取ってください」(と、神さまに願うのです)。
神さまはモーセに切々と語ります。
「あなたは悪くない。あなたは本当に真実だ。あなたはあまりにも真実だから、あなたの家族から、わたしは新しい民を起こそう。
アブラハムを用いて、イスラエルの民を起こした。でも、もうイスラエルの民はこれで終りにしよう。代わりにあなたを用いて、わたしは新しい神の民を造る」と提案した所、モーセは、
「いいえ、私のいのちを取ってくださっても結構ですから、民を救ってください」(と言うのです)。
モーセが民のためにとりなしたというより、自分のいのちと引き換えでもいいので、民をどうにかしてください(と懇願しているのです)。

それから前回学んだことは、神さまが、そこから民を送り出す時に、
「わたしはとてもではないけれども、民と一緒には行けない。あんなに強情な自己中心な民と行ったら、次回また同じようなことが起こった時にわたしは彼らを滅ぼしてしまう。代わりに使者を民には遣わす」(33:3)と仰った。

そして神さまはモーセに仰ったのです。「わたしはあなたとは一緒に行って、あなたを休ませよう」(33:14)。でもその時、モーセは(それでは満足しませんでした)。
「神さま、私とだけではだめです。私たちと共に行ってください」(33:15〜16)と神さまに泣きつくのです。

とりなすモーセは、民の問題を、民の将来を、すべて自分のこととしてその身に引き受ける。
だとしたら、聖霊が悩み苦しめる私たちを、どれほどまでに背負っていてくださるか。
それが(ロマ書8章)26節の「聖霊のうめき」というのは「言いようもないうめき」という言葉で表現されています。

私たちはうめくというのは、普通ですよね。だけど聖霊がうめくってどういうことなのだろうか?
それは、私たちの足りなさを知っておられるからでしょう。私たちの罪深さを知っておられるからでしょう。この世界のどうしようもない様子もよく知っておられるからでしょう。
その中に、苦しんでいる神の子どもである私たちをよくご覧になっているからでしょう。
私たちのうめきをご自身のうめきとして、聖霊は背負って荷ってくださる。

教会が誕生し、福音が伝えられ、神の愛のうちを生かされる――ペンテコステの大いなる出来事です。
でもその大いなる出来事というのは、今も、同じ力、同じ奇跡をもって、弱い私、様々なことで悩み苦しんでいる私たちと教会を助けてくださる。

ドイツの(女性)作家、ル・フォール(1876-1971)の作品に「断頭台下の最後の女」という小説があります。
歴史小説で、フランス革命を描いています。断頭台というのは、ギロチンのことです。

フランスはカトリックの国ですから、激化した民衆によって、教会が迫害され、フランスの非常に有名な、カルメル会の修道女たちが次々に断頭台に送られる、というその場面を小説の中に描いています。
ル・フォールの小説名、「断頭台下の最後の女」というのは、カルメル会の修道女です。

次々に断頭台の上で殉教する修道女たちにとって、一番悲惨なのは最後に逝く者。
最後に一人残って、だれも一緒に唱和してくれない中、ひとりで賛美歌を歌いつつ、殉教していかなければならない。
その最後の女性が、小説の主人公で、その最後の女性はとっても弱い、ブランシュという名前の女性でした。
か細い、か弱い、そのために修道院の生活に耐え切れずに逃亡した女性でした。

最後の女性は、断頭台の上ではなく、断頭台の下で、とりまく群衆の中で、か細い、弱い子どものような声で、しかしル・フォールの表現では「身震いもせずに、それどころか、小鳥のように嬉々として「来たり給え、創造主なる聖霊よ」(来たれ、みたまよ)の賛美歌を最後まで歌い、殉教していった。

そこでル・フォールはこう書いています。
「あなたは、ひとりの英雄的な女性の勝利を期待していらっしゃった。ところが、あなたが出会われたのは、弱い者の中に現れた奇跡なのです。」
 
弱い者の中に現れる奇跡って、どんな奇跡だと思います?
私たちは強い者の中に現れる奇跡を期待しがちです。
そして沢山の修道女が殉教していくなら、一番最後に行くべき人間は、まぁ、修道会の指導者が、最後みんなを送り出したあと、朗々と断頭台の上で賛美をささげ、使徒信条を唱え、そして殉教していけばいいのだと思いますが、一番弱い者が最後に残される。

彼女は断頭台の上ではなく、下で、か細い声で賛美歌を歌った。しかし身震いもせずに、それどころか、小鳥のように嬉々として。
神さまが選ばれたのは、一番弱い者だった。
そしてその者の内に奇跡を起こすことによって、ご自身の聖霊の力を現された。

私たちはこういうことの中に、限りない希望を見出すのです。
聖霊によって強められ、アフリカの奥地へ、中国の奥地へ宣教に出て行った。
キリスト教会にそのような英雄的な方々は沢山いらっしゃいます。
そして私たちは英雄的な方々によって、励まされます。
でも、さまざまな弱さを背負っている私たちの勝利というのは、同じようにして、神の御前で尊い勝利です。

私たちと共にいて、私たちの代わりに、私たちの恐れ、思い煩い、弱さをすべて背負っていてくださるというお方を、私たちは台所で、電車の中で、仕事の机で、学校で、私たちがぐっと意識した時に、御霊は弱い私たちを助けていてくださる(ということを実感します)。

あぁ振り返ってみると、祈る時間も無かった、(というような時でも)その間も御霊は私たちのために、とりなしをしていてくださる。
私たちのためにいのちを張って、私たちを助けて守っていてくださる。――あぁ、主に守られた(と、救い主キリストの御霊による勝利を覚え、感謝することも多い、弱い私たちの日常ではないでしょうか?)。

☆お祈り

私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
(ロマ8:26)

恵み深い天の父なる神さま、私たちは聖書の記述の中から、また教会の歴史の中から、また高津教会の小さな歴史の中から、あなたが用いられ、あなたが聖霊を注がれた英雄的な器を沢山知っています。その生き方が私たちを励まします。

でもあなたは実は、今も、さまざまな苦しみを受け、さまざまな弱さを抱えた、弱い私たちと共に歩んでくださり、その私たちのすべての恐れや重荷を荷っていてくださるということを、ほんの一瞬でも思い起こすことが出来たならば、それがどれほど大きな力であり、どれほど大きな現実となるのか(計り知れない恵みであります)。

どうか、このペンテコステの聖日を、弱い私たちのうちに生きておられる聖霊を、ひしと感じることが出来るように、いま温かな思いを私たちのうちに注いでください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2013.05.20 - 17:41
LAST UPDATE: 2013.05.21 - 00:07

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平位 全一 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 183.72.145.173
ペンテコステのメッセージを、感謝します。平位
2013.05.22 - 12:28 
T・Y 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 175.133.12.55
かつて神学院長だった先生に読んでいただいて、大変光栄に思います。
2013.05.22 - 16:53 
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