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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   6/18 父の日・戸塚伝道師:天のお父さん! ルカ15:21〜32
6/18 父の日・戸塚伝道師:天のお父さん! ルカ15:21〜32

※藤本牧師は、午後のフェローシップで、宗教改革500年の学びのシリーズ第一回「聖像聖画の捉え方」を教えてくださいました。
なお、その動画もすでに配信されていますので、関心のある方は「聖日説教」でご覧いただけます。
藤本牧師の学びの方は文字化しておりませんが、今月末に本も出版されますので、ご了承ください。

☆聖書箇所   ルカ15:21〜32 

21息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
22ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
23そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
24この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』
そして彼らは祝宴を始めた。
25ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。
26それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
27しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
28すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
29しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
30それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
31父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
32だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

☆戸塚伝道師の説教    天のお父さん!

今日は父の日ということで、父の日にちなんで、(聖書箇所を)どこにしようかなと思って、何をお話しようかなと思って、子育て経験のない私が何にも語る資格がありません。
ですから、どうしようかなと思ってお祈りしたところ、この場所が導かれました。
今日は「天のお父さん!」と題して、3つの視点で、恵みを分かち合いたいと思います。

1)先ず弟の視点ですね。

ルカの福音書15章と言ったらば、あ、もう「放蕩息子の話だ」、教会学校ではもう、あ、もう「放蕩息子の話・ルカの福音書15章」という風に言われるわけですけれども、イエスさまが語られたたとえ話ですね。
放蕩した罪を悔い改めて、お父さんのもとへ帰る話です。
この話は15章の10節のすぐ後に話されるわけですね。

<ルカ15:10>
10あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」

喜びがわき起こる。悔い改めれば、喜びがわき起こる。
同じように7節にも、同じ喜びのことが書いてありますけれども、このすぐ後に、イエスさまはこのたとえ話をなさるわけです。

【<同15:7>
7あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。】

このたとえ話を読みますと、お父さんは息子を大喜びで迎えて、食事会、宴会をするわけですね。パーティーをするわけです。
息子が帰って来たという嬉しさでいっぱいのお父さんの姿が書いてあります。

その前にも、15章の6節と9節に、「いなくなった羊が見つかった羊飼いの喜び」(6節)と、それから「なくした銀貨が見つかったという女性の喜び」(9節)が書かれていますけれども、
それと連動しているかのように、「お父さんの喜び」が書かれているわけです(***22〜24節)。

そしてこの後に放蕩息子のお兄さんが登場するわけです。
で、第二番目の視点、お兄さんの視点で、今日はしばらくここを見ていきたいと思います。

2)放蕩息子の兄の視点

放蕩息子に対して、お兄さんを何と言ったらいいのか?
「ふてくされ真面目息子」(大笑)という風に、私(戸塚伝道師)はちょっと考えてみました。
この「ふてくされ真面目息子」は、25節――

25ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。

という言葉で始まっているわけですね。
兄は畑で仕事をしていました。
久しぶりに弟が帰って来ているなんていうことは全く知らずに、一日中一生懸命仕事をしていました。
そして兄はいつものように、父の家に仕事が終わって帰って行こうとするわけですね。
すると、「音楽や踊りの音が聞こえて来た。」「家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。」(25節)。
派手な、なんか宴会みたいなものをやっているような雰囲気。はっきり言えばどんちゃん騒ぎですね。どんちゃん騒ぎをしていたわけです。
宴会ですね。もう、お酒も入っていたことでしょう。
お父さんの思いは、「息子が帰って来た!息子が帰って来た!一緒に喜んでください!一緒に喜んでください!帰って来たんです!帰って来たんです!」
嬉しい、嬉しいという思いで、どんちゃん騒ぎをしていたわけですね。
もう大喜びですね。

で、それを聞いているうちに、なんでかわからない、なんでどんちゃん騒ぎをしているのかわからないんですけれども、
お兄さんは、そのどんちゃん騒ぎの音自体に、すごい嫌悪感をきっと感じたんだと思います。
なんだ、このバカ騒ぎは!(笑)。いつもの家とは違う。いつもの家とは違う。なんて品のない歌を歌っているんだろう(大笑)。音楽と踊り。
今で言うとカラオケね、歌いながらなんか手拍子なんか打ったりして、わあわわ〜やっているんでしょうね、「北国の春」かなんかを(大笑)歌ってるような。
Mさん上手なんですよ、「北国の春」(大笑)。
もうなんて、こんな歌を歌っているんだ!この世的な歌を。もう嫌だ、嫌だ、嫌だ!もうどんちゃん騒ぎには関わりたくない。
きっとなんか親父が酒を飲んでいるんじゃないかとか、そう思っていたのかもしれない。
関わりたくない。巻き込まれたくないという思い。近づきたくないという思いですね。
その表れが26節です。

26それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、

とありますが、自分で行って確かめないんですよ。
しもべを呼んで、「これはいったい何ですか?」って風に、「なんだ?」って風に言うわけです。近づきたくないから。すると、27節――

27しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』

それを聞くわけですね。

28すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。

と書いてあります。
「なんだ、このどんちゃん騒ぎは、お父さんが喜んで開いた宴会だったのか!弟が帰って来たと言って」――兄は怒ってふてくされてしまった。
家に入ろうともしなかった。

でもこのお父さん、いいお父さんですね。
家から出て来て、わざわざ、どんちゃん騒ぎをしている中で、家から出て来て、お兄さんのところへ行っていろいろなだめるわけですよ。
その間にも音楽や踊りは続いていたと思うんですね。

今度はお父さんのしもべたちが二曲目を歌ったのか、三曲目を歌ったのか、わああ〜やっているわけです。
それをBGMにしながら、29節以下のお父さんに対する兄の訴えが続くわけです。
兄は29節の前半で、こう言い切っています。

29しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。……

こう言っています。
「ご覧なさい」という言葉で始まっています――「見てください、お父さん」ということですね。
「見てくださいお父さん」「何を?」
「私を解ってくださいよ」「何を?」
「私を正しく評価してください」「何を?」
「お父さまのために、やってきたこと、頑張ってきたことをしっかりと認めてください」という意味の「ご覧なさい」だったと思います。

しかも「長年の間、そうして来た。お父さまに仕えて来た。戒めを破ったことは一度もありません」――この言葉の裏に――
「弟のように、遊女に溺れたことなんか一回もない。
弟のように、お父さんの財産を食いつぶしてはいない。
ここまで一生懸命真面目にお父さんに仕え、働いてきたことを、お父さん、ご覧なさい。見てください。正しく評価してください」

ところが29節の後半――

29……その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹を下さったことがありません。
30それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』

と書いてあります。
29節に「その私には」とあります。30節に「それなのに」とあります。
「その私には」「それなのに」――この二つに言葉の中に、
お父さんのために、私はこんなにベストを尽くして来たのに、という思いが強〜く込められている。
「その私には」、友だちと楽しめと言って、何かしてくださったことはなかった。
「それなのに」、あんなあなたのダメ息子を、お父さんはなぜ叱らないのか?なぜ許しちゃうのか?なぜ受け入れるのか?そして、バカ騒ぎするほど大喜びするのか?
兄息子はそれが全くわからずに、腹が立って腹が立ってしようがない。
なぜ私には宴会を開いてくださらないのに、あんな弟のために……あんな弟のために……
お父さんはどうかしちゃったのか?強〜い違和感を感じたんです。

お父さん、なぜですか?おかしいじゃないですか!ひどいじゃないですか!
こんなに忠実にお父さんに仕え、誘惑にも打ち勝って、お父さんのために真面目に頑張って、頑張って、頑張って来たのに、なんで認めてくださらないんですか?
もうそういう思いで、胸が張り裂けそうな兄の思いが伝わって来ます。

確かにこの兄の言うことは尤もかもしれませんね。
この兄の悔しさ、理不尽な思い、父への憤り、そして弟へのさげすみ――私(戸塚伝道師)が兄の立場になっていたら、なにか解るような気がします。
兄は間違ったことしていない。正論をしっかりと訴えている、お父さんに。
そしてそういう気持ちになったのは当然。

でも一番大事なことが、この兄には見えていなかった――それは何か?
それは31節のお父さんの言葉に、それが隠されているのではないかと思います。

31父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。

この言葉です――「子よ。おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは、全部おまえのものだ」
兄は見えていなかった大事なこと、それがこの父親の言葉に書いてある。
よく読むと3つあるんですね。

@「子よ」という言葉です。
お父さんは兄息子に、「子よ」っていう言葉で語りかけているわけです。
「子よ」「子どもよ」「息子よ」――ということは、お兄さんは一生懸命父親に仕えて頑張って来たとは言ったとしても、兄は父の雇い人ではない。
父の雇人ではなくて、父のかけがえのない、愛する息子なんだと、だから「子よ」と言ったわけです。
「私のかけがえのない息子なんだ、おまえは」――これがお兄さんには解らなかった。

Aおまえはいつも私といっしょにいる。
弟はいなくなってしまった。でもおまえはいつもいつも私と一緒にいてくれたよね。嬉しいよ。嬉しいよ。
「おまえがいてくれて嬉しいよ。安心だよ。心強いよ」――このことをお兄さんは解らなかった。

B私のものは全部おまえのものだ。
弟と分けて、おまえにやった財産があるだろう。
当時、財産分けはお兄さんは三分の二、弟は三分の一だそうです。
ということは、この兄は弟よりも二倍もらっているわけですよ。
それだけではない。私のものは、全部おまえのものだ。全部おまえのものなのだ。おまえはこの家の長男なんだ。私の跡継ぎなんだ。
「私のものは全部おまえのものなのだ」――兄はこのことも解らなかった。

この3つの大事なこと、兄息子には見えていなかった。
だからお父さんの喜びようが全然わからない。一緒に喜べなかった。

で、このイエスさまのたとえ話、放蕩息子である弟の罪ばかり強調されていますけれども、
でも以上のような意味で、ふてくされ真面目息子であるお兄さんの罪も根深いものがありますね。
え、罪を犯したの、お兄さん?犯してるの?犯してないじゃない、真面目じゃない?
でも一番大事なことが見えていなかったこと――これをイエスさまが語っているわけですね。
「自分の努力や、一生懸命さや、真面目さや、頑張りと引き換えに、父親の愛を、父親の評価を勝ち取ろうとしていた兄の姿は、罪深いのではないだろうか?
さらに、そのような頑張りもしない、真面目でもない、仕えてもいない、勝手なことをしていた弟に対して、弟をバカにし、弟を恨んでいる――そういう兄の心の状態は罪深いのではないだろうか?」

30節にその思いが、お兄さんのその思いが表れていますね。

30それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。

弟に対する兄のさげすみ、そして「肥えた子牛をほふらせなさったのですか」という父親への批判。

実は、このお兄さんの姿勢、兄の罪、これと同じようなスタンスで、実はこのルカの福音書の15章が始まっているんです。それがわかりました。
15章の1節をご覧いただきますと――

<ルカ15:1〜2>
1さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
2すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」

「つぶやいて」というのは、国語辞典を開きましたらば、小声で独り言、不平を言うことって書いてありました。
小声で言ったんですね、不平を――「この人は罪人たちを受け入れて、食事まで一緒にする」――何か兄の台詞に似ていますよね。
「遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか」

「この人」――これはイエスさまですね。でも放蕩息子のお父さんになぞらえることができる。
この「罪人」――これは放蕩息子になぞらえることができる。
すると、この「ふてくされ真面目息子」というのは、お兄さんは、パリサイ人や律法学者たちのことを指しているのではないかという風に読めます。
そこで3節――

3そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。

パリサイ人や律法学者たちがつぶやいているのをイエスさまがはっと聞いて、そこでイエスさまはこの後の譬え話を話された。
ということは、この15章というのは、この「ふてくされ真面目ユダヤ教徒」であるパリサイ人や律法学者たちのために、この15章の譬え話を、本当はイエスさまは語りたかったのではないか、そう思うんです。

ていうことは、この15章で一番イエスさまが言いたかったことは――聖書の記者であるルカが一番書きたかったことは――いったい何かと申しますと、
それは放蕩息子の、弟(息子)の罪ではなくて、パリサイ人や律法学者と同じような罪を持っている兄息子の、父と弟に対する姿勢を書きたかった。
それをイエスさまは一番言いたかった。
その罪をイエスさまはしっかりと指摘したかった、ということが解ります。
ルカの福音書15章のテーマは、このパリサイ人、律法学者の根深い罪にあるということが解ります。

一つ目の視点――弟。二つ目の視点――ちょっと長々と話しましたけれども、お兄さん。
では三つ目の視点――

3)それでは、私たちはどちらのタイプでしょうか?弟のタイプでしょうか?お兄さんのタイプでしょうか?どちらでしょうか?

両方です、って言う方がいらっしゃるかもしれません。
時に応じて弟になったり、お兄さんになったりという方がいらっしゃるかもしれない。

私(戸塚伝道師)は典型的なお兄さんタイプです(大笑)。
ま、教師していたからかもしれません。ま、性格的にそうなのかもしれない。
「ふてくされ真面目男」
血液型?血液型はA型だと思うでしょ、違います。B型です(大笑)。
B型ってマイペースなんですよ。こだわりが強いんです。真面目さでこだわりが強いのかもしれない。
ひねくれたB型ですね。どんちゃん騒ぎ、嫌です(大笑)。教師たちの宴会とかカラオケ大会、嫌です。ほんとに嫌ですよ。

つまらない人間だなぁと思いますよ(大笑)。ずるい人間かも知れない。いい子ぶっちゃってね(大笑)。
自分ではそう思ってないんですよ。でもなんかいい子ぶっているように見えてしまうらしい。なんか自然体ではないように。
人間としての人生経験の幅もあんまりない。何しろ教師ですからね。
あの箱(学校の教室?)の中に、一国一城の主として子どもたちを教えていたわけですから。

チャレンジも冒険もしたくない。
献身したのは冒険じゃないんですか?確かに、献身は冒険かもしれませんけれども(笑って)。
でも、冒険とは思っていない。やっぱり真面目路線の延長かもしれない。
それでいて、自分にはない弟息子のようなタイプに憧れるんですよ。
ちょいワルに憧れる自分(大笑)がいるんです。
アーサー・ホーランド先生のようにね、ハーレー乗り回してね、かっこいい生き方してるなぁって、憧れるんですよ。
自分らしさに徹している生き方ね。

高津教会にもちょいワルがいるそうですけれども(笑)、教え子にもいっぱいワルがいましたよ。
でもしょっちゅう叱られていれば、叱られるほどね、その子憎めないんですよ。不思議ですね。
そういう叱る時もね、真面目教師の叱り方とちょいワル教師の叱り方は違うんですよ。
ちょいワル教師は、叱り方が上手。泳がせてから、しばらく泳がせてから(大笑)ギャフンと言わせるわけです。
皆さんどちらでしょうか?弟タイプでしょうか、兄タイプでしょうか?

ところで、このイエスさまのたとえ話では、お父さんが天の父なる神さまのこと、そしてしばしば私たちキリスト者とその神さまとの関係は、兄タイプになりがちであると言われています。
皆さん、真面目に礼拝に出ておられるし、聖書を読んで、お祈りして、感謝の捧げものをして、
でもイエスさまから問われているような気がします――「あなたはお兄さんのようなタイプではないですか?」

もちろん礼拝に出て、お祈りして、聖書を読んで、感謝の捧げものをするということは、神さまの恵みを覚えてそうさせていただくというのは、これはすばらしいことだと思うんです。
でも兄息子が考えていたように、これらの努力と引き換えに、神さまは恵みをくださるのではないんです。
神さまと私との関係というのは、経営者と雇い人の関係ではないんです。
親と子の関係なんです。私たちは神さまによって創られ、望まれてこの世に生み出された、かけがえのない神さまの子どもなんです、ひとりひとりが。

このように考えると、弟息子の方が、お父さんの子どもらしい関係をずばり生きていたのではないでしょうか? だって、弟は、
「お父さん、財産の分け前をくださいよ」とお父さんの生きている内におねだりしているわけですよ。
お父さんの気持ちを動かすツボを心得ていたのかもしれない(笑)。

それでお父さんは息子のいいなりですよね。息子の言いなり。
もちろん溺愛ではないと思います。ちゃんと考えがあったんでしょう。
で息子は、お父さんに反抗して家を飛び出しちゃった。
それなのに、お父さんは追いかけないんです。
追いかけずに、捜しもしないでじ〜っと待っているわけです。

そして息子は放蕩して、どん底の中で、腹が減って飢え死にしそうな時に、はっと我に返って、お父さんのことをちゃんと思い出すんです。
あ、おやじのところにパンがあるじゃないか。あのパンにありつくためにはどうすればいいか?よし、こう言おう(大笑)。
そういって台詞を考えるわけです。
「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの息子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください」
よし、これで行こう(大笑)。そして、一生懸命練習するわけですよ。
ぶん殴られるかなぁと思いながら帰って行くわけですよ。

そうしたらば、お父さんは大喜び。許しちゃって、100%。何も言わないで、そして宴会まで開いてくれて。弟息子ちゃっかりですよ(大笑)。
弟は親子の関係に生きていた。愛と信頼に基づいた大人の関係に生きていた。
めちゃくちゃでしたよ、確かに、弟は。でも親子の関係に生きてました。
天の父なる神さまと私との関係も、親子の関係に、そういういい関係に作っているでしょうか?

いま、NHKの朝の連続テレビ小説に「ひよっこ」ていうのがありますね。
忙しい時には全然観られませんでしたけれども、最近観られるようになりました。
東京へ出稼ぎに行ったまま帰って来ない、みね子というヒロインのお父さんがいます。
東京で何をしているんだかわからない。
そのみね子は、お父さんに呼びかけるわけです。
「お父さん!東京で、これから私はやっていけるんでしょうか?」「お父さん!今日また私は変な人に会ってしまいました。これから大変なようです」「お父さん!辛いです。私これからどうやって生きたらいいでしょうか。お父さん!お父さん!お父さん!」って、みね子はお父さんに呼びかけるんです。

私たちも天の父なる神さまに、「お父さん!」(と呼びかける)そういう関係でいるでしょうか?
私は何かいやに形式的に「天にましますわれらの父よ」「天の父なる神さま」、何かこう一方的に、父なる神さまに、習慣だからお祈りしているような時が、なんか私は時々あるんですね。
一方的にわ〜っとお祈りしてお願いして、そしてお祈りし終わったら全く忘れちゃったりして(大笑)。

でも私たち、「天のお父さん!」って呼んでみると、何か違った風景が見えて来る。
「天のお父さん!」「お父さん!」――何でもお父さんにお願いして、何でもお父さんに相談して、何でも耳を傾けてくださるお父さん。愚痴も言っているお父さん。
お父さんに時々反抗しちゃったりして。天の父なるお父さんに。
「嫌です。お父さん!」とか、「あの人、嫌です」とか、「こんな仕事、ちょっとやってられるか、と思っています」とか。
みね子以上に、お父さんと親密な関わり合いを持つことができる関係。

多くの人が求めているのは、キリスト教の神さまじゃないんですよ。お父さんなんですよ。天のお父さんなんです。
「お父さん!お父さん!辛いです。お父さん!お父さん!」を求めているんです。
聖なる神さまを、「お父さん」とは普通呼べない。近づくこともできない罪人である私たち。
でも私たちはお父さんと呼べる。なぜか?イエスさまの十字架があるからです。
イエスさまの十字架があるから、イエスさまのお名前で、「お父さん!お父さん!」そう言える。

で、この「お父さん」、私も罪人です。
弟息子のように、神さま抜きで好き勝手なことをしちゃう時があります。
兄息子のように、神さまが私にとって恵み深いお父さんであることに気づかないでいることがある。
でも日々の生活の中で、このお父さんに、悔い改めもしない内にもう一方的にお父さんに抱きしめられて、このお父さんに宴会まで開いてくれるようなお父さん。
大喜びで私を迎えてくださるお父さん。
このお父さん、私たち一人ひとりを子どもとして抱きしめ続けてくださるお父さん、いるんですね。いるんです。
そしてこのお父さんは、今も私たち一人ひとりに言われます。
「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだよ」(ルカ15:31)
今週、このみことばに心を留めて過ごしたいと思います。
私たちは、この天のお父さんの子どもです。

☆お祈り――戸塚伝道師

天のお父さん!天のお父さん!お父さん!あなたの子どもですから嬉しいです。ひとり子イエスさまの十字架の贖いと聖霊の助けによって、聖なる神さまを「アバ、父よ。お父さん」と呼べることをありがとうございます(アーメン)。
あなたはどんな時も、どんなことがあっても、一緒にいつもいてくださいます。
「私のものは、全部おまえのものだ」(ルカ15:31)と言ってくださいます。にもかかわらず、なかなかそのことに気がつかずに過ごしていることが多い私です。

お父さん、すみません。この一週間、お父さんに嬉しいことも辛いことも何でもお話し相談しながら、あなたのあふれんばかりの恵みに支えられて、お父さんと一緒に歩むことができますように導いてください(アーメン)。お父さん、これからもどうぞよろしくお願いいたします。イエスさまのお名前で天のお父さんにお祈りいたします。アーメン。


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