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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   5/26藤本栄造牧師の説教 主のために生きる ローマ14:1〜12
☆聖書箇所     ローマ14:1〜12

1あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
2何でも食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。
3食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。
4あなたがたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。
5ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分お心の中で確信を持ちなさい。
6日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
7私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
8もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
9キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。
10それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。
11次のように書かれているからです。
  「主は言われる。わたしは生きている。
  すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、
  すべての舌は、神をほめたたえる。」
12こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。

☆説教    主のために生きる

皆さんおはようございます。(おはようございます)。
私ここに立ちましたのは、昨年の1月です。1年半ぶりにここに立ちますと、2つのことを覚えます。ひとつはちょっと震えそうです。皆さんの顔がいっせいにこちらを向きます(笑)。もうちょっと頭の髪の毛もふさふさして、皺もなければいいのですけれども。

横須賀に来て8年経ちます。8つ年を重ねまして、8つ老人になりましたら、あるものもなくなって来るのも、やむを得ないと思っています。でも今日お目にかかれて嬉しゅうございます。最近ちょっと休むことも多ございますが、この8年間、健康を害して休んだことはございません。いろいろな所用で休むことはありますが、でもどこか悪くなったから寝込んでいるのだということはございません。背後にあるお祈りに守られて、私たち夫婦は元気に過ごしております。

私が高津に出かけてまいりますときに、「先生よくいらっしゃいますね」とこう言って励ましてくださいます。(高津に出かけるには)いくつかの理由があるんです。

そのひとつは、私の住んでおります所は、老人の施設です。ケアハウスです。シャロームという福祉法人です。特別養護老人ホームには、100人の方が収容されています。ショートステイの方が20人います。私たちケアハウスは、特別養護老人ホームから線を引かれまして、ちょっと上に、こちらは20人ぐらいです。だけど、職員の方を除きますと、全部老人です。こっち向いても老人、こっち向いても老人(大笑)。こっちの人はひざが痛いと言いますし、こっちの人は腰が痛いと言う。今日はどこの病院に行きます。こっちの整形医に行きます。そんな話が多いですね。

ゴールデンウイーク、皆さんたちの方はうきうきしてたでしょう。車を使ってどこへいく、温泉へ行く、外国に行くんだ、いろんな計画がございましたでしょう。ところが、ケアハウス、老人の施設は、この日は、どこの病院もお医者さんも歯医者さんも整形医もみな休みです(笑)。じゃどこかへ行きますかと言うと、行かないです。なかなか一人でいくことが難しくなっています。

でも私は高津に着くと、年寄りもいらっしゃいますけれども、若い方も多いです(笑)。学生さんも多いです。よく働きます。災害時にボランティアに出かけた人もいます。コンサートがあります。フェローシップがあります。ともかくここへ参りますと、私たちのような老人から見ますと、みな元気だなぁと思います。まるでスーパーマンのように(笑)よく働いています。

老人ばかりの世界からここへ来るとほっとします(笑)。あぁ元気だなぁと。大山さんも元気だと。そんな元気をもらうために、私はやって来ています。来てみると、元気(をもらう)だけでなく、いろんなことを聞くのです。――赤ちゃんが生まれた。いま産まれる。今週産まれる――そんな話を聞きます。

皆さん世の中で役所へ行きますと、少子化問題というのは深刻な課題です。町の人口が減っている。人口が減ったら生産が上がらない。生産が上がらなければ税金が取れない。そうすると、国民に配分する年金やなんかに、全部支障が来る。少子化問題というのは、大きな問題です。

ここへ来ると少子化問題はどこへ行った?(大笑)あそこでもオギャーと泣いて、ここでも今週生まれます、いま生まれます(笑)。政府から表彰をもらわなきゃいけません(大笑)。

こちらの部屋に(準備室の方を向いて)、古い教会を壊す時と、建てた時の献堂式の写真があります、私がこちらに参りますと、時々それを見るんです。わからないですね。大山顕君どこにいるんだ?写真に写っているこれは幼稚園か1年か2年生だ。今は二人の子どものお父さん。山本さんの子どもさん、どこにいるのか?前に足をにょろっと出して、あまり行儀良くなく座っている(大笑)。でも今はちゃんと二人のお母さん。Tさんも、一人の新しく赤ちゃんが生まれています。

あの頃、渡辺崇君たちはさかんに少年たちを教会学校に誘っておりました。渡辺崇君どこにいるの?確かにいるんです。あ、これが渡辺君か。しっかりとお父さんになったな。わずか10年、20年、30年の間に皆さん、あの写真と現在と比較なさいますと、もうえらい違います。私も私の家内も思ったのです。私の髪の毛もふさふさしておりましたのに、いつの間にかこんなになってしまいました(笑)。

いろんなこといっぱい聞くのです。昨年、高橋正義兄姉たちが金婚式を迎えた。彼らは私が昭和36年にここへ来て、一番初めに救われたたましいです。あれだけのお金を使って、トランペットを買って、路傍伝道に参加しました。「あんた、トランペット吹くの?」と言ったら、「いや、よう吹かない」(大笑)。「ただ信ぜよ」を練習して、そして仲間に入って路傍伝道に加わりました。いくつかの戦いがあったでしょう。激しい戦いもあったでしょう。けれでも50年経って、金婚式を夫婦で迎えたと言うのです。喜ぶべき祝福です。そんな祝福を私がここへ来ますと、私が歳を取ってふにゃ~としている時に、元気をもらうでしょう。疲れて帰りますと、家内に「今日は疲れたよ、けれどいい話聞いて来たよ」と言うと、もう疲れはどこかへ行ってしまいます。

この間、長岡兄からいいニュースを聞きました。お断りしておきますが、そういうニユースはここだけしか聞けない。他で聞けないニュースなのです。
兄弟は税務の仕事をしていらっしゃいます。「先生、この頃、教会関係の税務を見る機会が多くなりました」と。信用されているのですね。教会から税務署に税務の仕事をお願いしますと言えるのは、よほど信頼感の篤い人物です。せっかく仕事をしてくれるものですから、口移しで次から次から長岡さんの所へ頼みに来るそうです。「△聖書協会の税務を指導しました」と。

必ずそのときの会話で、「長岡さん、あなたはどちらの教会ですか?」と聞く。「僕はインマヌエルの高津教会です」と言うと、向こうの係りの方が、「それじゃあ、藤本満先生の教会ですね」と言うそうです。「そうです」「あの先生はいいからな」と言ってくれるのです。そんな話をここだけで聞くのです。皆さんに初めてお話するようなことです。長岡さんに、「なんで要らんことを言ったんだ」って、怒られるかもしれません(大笑)。

でも、横須賀からここに来て、そんな話を聞くと嬉しいでしょう。私は喜んで聞いているのです。いつまで来られるか解りませんが、お互いの教会はとても恵まれた教会だなぁということを、いろんなことを誰からの口からも聞くことを通じて聞かせられます。たまに来るものですから、皆さんの中からあんまり暗いニュースは聞かせてくれません。時々、私は今度入院して手術を受けるのです、そんな話は聞きます。それはその方の心の威圧感がいやされるからだと思います。でも皆さんが寄ってたかって、私を強めようと思って、いろんないいニュースを聞かせてくださる。私も調子に乗って、それを聞こうと思って来るのです。

教会というのは、世代が交代しますと、教勢ががたんと減る時がある。お父さんの教会はよく来たけれども、息子の教会になったら教勢が急に減ってしまった。お父さんと息子と信仰が違うからでしょうね。お父さんの信仰を叩き込まれた人たちが今の息子の信仰にはついていけないという面もあったのでしょうね。よく聞きます。

ところが私たちの教会は、私がいなくなった方が(大笑)……。どう思われますか?(声を大にされて)私と家内は、一生懸命汗水垂らして(大笑)、伝道したり、訪問したり、家庭集会をしたり、ひっくり返るように奉仕をしたものです。でも、今の者は涼しい顔をしているけれども、教会の人数はいっそう多く増やしたりして……。ありがたいことだなぁと思っています。

これからも皆さん、私がんばって来ますから、いいニュースを聞かせてください(大笑)。今度はどこどこで赤ちゃんが生まれた、今度は折井さんとこに負けないように、4階建てを建てた(笑)(など)、いいニュースを聞かせてください。そして私は全体から見ますと、教会は祝福されているなぁと。この教会を神さまは祝福してくださっているなぁと。人間の力で出来るわけありません。私は何ぼ大きなうちわで後ろからうわーっと扇いだって、燃え上がらないじゃありませんか。聖霊の働きがこの教会に顕著になって、皆さんの一人ひとりの心に行き届いていてくださることを。ちょっと今日は前置きが長くなり過ぎました(笑)。もうお祈りをして終わっていいんじゃないかと思います(大笑)。

ロ−マ書の14章を読んでもらいました。ロ−マ書という手紙は、とっても重い書物です。パウロが書きました。(全部で)16章ですが、長うございます。コリントの教会とちょっと趣が違うようです。細かく、教理的に神学的に積み立てるようにして語り始めました。

人間の罪深さ、その人間を救うために神はどうなさったか。ただ十字架にかかって死んでくださっただけではない。十字架にかかって、主イエスが死んでくださったことによって、私がどうなるのか、この世界はどう変わっていくのか、大きな問題が書いてあります。教理の問題が1~11章まで続くのです。12章に入りますと、クリスチャンの個人的な実践の生活が書いてあります。

一番初めに何を勧めていると思いますか。ローマ人への手紙の12章の1節です。一緒に読みましょうか。ちょっと長うございます。

1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

すごいこと書いてあると思いませんか?――あなたを生ける供え物として神にささげなさい。献身から始まるのです。救われたクリスチャン、キリストの恵みに与って来たクリスチャン、パウロはさぁ、クリスチャンはこうするんだよと言った時に、「あなたを神さまにささげなさい」というところから始まるのです。すごいでしょう。そしてクリスチャンの長い生涯の中で、ロマ書の12章1節が消化できたら大したものです。

私たちは毎日聞いています。聖書も読みます。説教も聴きます。いったいクリスチャン、どうすればいいのだ。何のことはない。あなたを生ける神の供え物として、あなたをささげてしまいなさい。献身です。集会を終わろうとする時に、さぁみんな神さまにささげようではないかと言って出て行ってしまったら、そこでもう集会は終りです。そして、そこから、必ずリバイバルが始まる。

パウロは、とっても難しい課題をローマの教会に書きました。彼は難しいことを要求しました。難しいことを要求した背後には、またとっても難しいほど緻密に、神さまの恵みが皆さんに届いていることの証しです。
取り上げるように、いたぶられるように、〜出来なければお前は地獄へ行くぞと、そんな脅しをかけるように、神さまは献身を勧めていらっしゃるのではありません。

数々の恵みを受けただろう?今度はあなたは神さまにどうすべきか?いや~、持っているものの全部を神さまにささげる?物ではない。お金ではない。あなたの生活の姿勢を神さまにささげなさい。なかなか難しいことであります。心で解っていても、実際の生活ではそんなことどこかへ行ってしまいます。

でもローマ書を読みますと、これを受け取ったローマ教会の人たちは偉いんですよ。こんな大胆な言葉を「ありがとうございます」と受け取ったのですから。それに「主よ、従って行きます」と言ったのですから。ローマの教会はありがたいです。強いです。

13章に続きます。13章の終りは有名なアウグスチヌスが回心したときに、先に満たされたおことばです。それは、半分終末的な意味が含まれております。

13:12夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。

お母さんのモニカの懸命の祈りに、ある日、ふと家に入ってきた賛美歌を通して……そして彼アウグスチヌスは悔い改めたのです。初代神学の元を創った大聖徒になったのです。終末の気配がここで語られます。

そして今日読んだ14章です。

14章はちょっと1節を読みますと、

1あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。

こういう優しい言葉で始まっています。12章と13章、14章は全然違う。そしてその内容は、教会のことに触れている。どちらかといいますと、パウロはクリスチャンの現実的な生活を今度は言い出そうとしている。クリスチャンの現実的な生活を考えようとすると、それは教会を意味している。教会はクリスチャンたちの集まりです。ここではクリスチャンの交わりがあります。具体的にいろんな問題が出ているのです。赤ちゃんが生まれたらどうしよう。何ていう名前をつけよう。あるいは今度職場が変わったけれども、どうなるだろう。このごろ経済的にとても苦しいのだ、いや豊かなのだ。現実の問題が教会でいっぱい。皆さんお互いもそうです。

しかしどこの教会であっても、信仰的に見て、聖書的に見て、完全な教会というものは、残念ながら、ない。教会は教会で懸命に奉仕をしているのだけれども、教会はいろいろな面において、足りない所が出てくる。それは教会のメンバーである私たちにあるからである。

あなた方のうちに強い人は弱い人を受け入れてあげなさいと、言われる。そうすると、この教会は強い人と弱い人と2つのグループに分かれていたように感じられる。
大体ローマの教会には8種類の民族がいたと言われています。ユダヤ教を信じていた人と、異邦人的なあり方を信じている人と。ユダヤ教を信じている人は律法的な生活習慣で育っている。異邦人はそういうことにあまり関係が無い。

当時お肉屋さんにお肉が並んでいる。時にはそのお肉が偶像に供えられたものが払い下げになってお店に並んでいる場合がある。
ある人は、「だからお肉は絶対食べない」という人がいる。けれども、ある人は「神さまに供えられたものだから、感謝していただけばいいじゃないか」という。
すると片一方の人は、「あの人たちは肉を食べていない。馬鹿な人だなぁ」と言う人がいる。片一方は「あんな偶像に供えられた肉を遠慮なく食べている。あれは神さまに申し訳ないことだ」と言う。
日にちを考えても、律法的に考えている人と、そうでない弱い人と強い人がいる。
すると、一人の人は一人の人を汚す。そんなことはありえない。聖書にそう書いてない。教会はそんなことに触れないというクリスチャンがいる。

でもパウロは言うのです。食べる人は神さまに感謝をして、与えてもらったものを感謝していただいたらいいではないか。食べない者は感謝して、自分は感謝していただかなければそれでいいのではないか。どうしてそんなことでいがみ合うのだということであります。
そしてひとつの解決は、神さまは、弱いからだの人を、憐れみによって、教会に受け入れたのだから、あなたがたはどうしてそれを妨害するのか、と(ロマ14章)3節に出て来るのです。ちょっと読んでみます。

3(食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、)食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。

神さまが受け入れたのだから、神さまが受け入れた者を裁くことはない。弱い人は神さまのあわれみを受けて神さまに受け入れられた。強い人は教会に加えられるのに、何が要ったのでしょうか?何も要らないのでしょうか?
強い人は強い人で、高ぶった思いがあって、人をさばくような思いがあって、強い人も教会に加えられようと思ったならば、神さまのあわれみを受けなければならない。

確かに強い人は肉は食べないとがんばる。弱い人は感謝していただくのだろう。ずいぶん相反する行動になる。しかし、教会と言うことに限ると、こちらの方は、教会に加わるためには神さまのあわれみを受けたではないか。沢山神さまのあわれみを受けたから教会に入れられる。わしはそんなもの食わんと偉そうに言っているあなたも、教会と言うことを考えると、その高ぶった思いが砕かれなければ、それが許されなければ、あわれみが加えられなければ、教会に加えられることが出来ない。大事なことで、簡単なことですけれども、大事なことなのです。

弱いグループと強いグループの対立というのは、教会は2000年経ちましたけれども、この形――肉を食べるか食べないか――そんな形ではありませんけれども、いつでも教会の中にこういうものがあることは確かなのです。
教会が大きくなればなるほど、教会が盛んであればあるほど、強い人と弱い人と区別がついて来る。いつの間にか強い人が偉くなったような感じがする。いやわしはこうなんだと言って胸を張っている人、いや私たちはいつも申し訳ないと言って頭を垂れる人がいる。

でもパウロの言う教会の中には、弱い人も強い人もだれでもここに来ようと思ったら、主のあわれみが要るのではないかと。イエスさまの十字架とイエスさまの復活が要らない人はだれもここへ入って来られない。
何ぼ貧しい生活をしていても、主の十字架と主の復活のあわれみにすがれば、私たちは神さまの子どもにしてもらえる。
だれかれの力を借りなくても、自分で堂々と自活の出来る人であっても、十字架と復活の恵みがなければ、どうなりますか?少なくとも教会には入れない。神さまには受け入れられない。
全部一つにすると、強いか弱いかの差はあっても、物を持っているかいないかの差があるにしても、やったかやらないかの差があったにしても、クリスチャンは、よ〜く考えてご覧なさい、みんな神さまのあわれみを受けた人たちです。

私も神さまのあわれみがなかったら、今日ここにおられません。どんなに弱い人であっても大丈夫です。そのためにイエスさまは十字架にかかって死んで、そのためにあなたを立てるために、イエスさまはよみがえってくださったじゃないですか。何も卑屈になる必要はありません。

パウロは献身しなさいと言う所から始まって、クリスチャンの生活に詳しくメスを入れます。しかし、大事なことは教会の生活の現実の中で、私たちはあれやこれや言うのではありません。皆、神さまのあわれみを受けたのです。感謝したいですね。神さまのあわれみなくして、今日ここにあるクリスチャンは一人もおりません。
もし沢山神さまのあわれみを受けたという人は、却って弱い人かもしれません。
少ししかあわれみを受けてない人は、ちょっとクリスチャンの層が浅いですから、すぐ化けの皮が出てくるような感じですが、遜りたいものですね。

すぐに彼は言う。だれも自分のために生きている者はいない。自分のために死ぬ人はいない――私たちはキリストのために生きていて、キリストのために死ぬのだ――ずいぶんはっきりとした人生観ですね。これは少なくてもクリスチャンに与えられたことばで、クリスチャンでない人にはあまり関係のないことばです。
私たちは自分のために何かをして来て、時々がっかりすることがあるではありませんか。こんなに一生懸命やったけれども、大したことなかった。こんなに苦労して子どもを育てたのに、何も親から恩義を受けていないような顔してどこかへ行っちゃった(笑)。こんなに苦労しているのに、子どもは何もしてくれない。こんなに沢山財産を――こないだの「遺言書」(長岡兄の指導フェローシップのこと)出ておけばよかったわ(笑)――蓄えたけれども、どうなるんだ。

しばしば私たちはこの世の生活で、自分のために一生懸命に働いていて、一生懸命であればあるほど、どこか突き当たった時に皆さんがっかりしてしまうのです。それは、主のために奉仕をするのです。
ちょっと3箇所ぐらい聖書を開きますよ。こういうことはパウロは好きなのですね。よく使っています。
ピリピの手紙1章20節、一緒に読んでみましょう。

ピリピ1:20それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。(第3版)

(***第2版は次のようです。このため、会衆の声がそろっていませんでした)

ピリピ1:20それは、私がどういう場合にも、恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。

「生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。」(第3版)。毎日のご飯を食べながら、お仕事をしながら、お掃除をしながら、――生きるにも死ぬにもキリストの御名があがめられるために――そのことをやってると言えますか?
あぁしんどい。腰が痛い。……生きるにも死ぬにも私の小さなわざで、キリストがあがめられたらすばらしいですね。

もう一箇所見てみますよ。Tテサロニケ5章の10節です。

Tテサロニケ5:10主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。

私たちが目覚めていても、寝ていても主と共に生きるため――密接な関係ですね。これは活躍しましても、私たちはどんな時でも、主の御手の中にあるのだということを思い出すのです。主が離れることはないのだと。主の中で、生きている時も、死んでる時も、元気に働いている時も、ベッドで休んでいる時も、何をする時も主と共にあります。

かつて罪を犯して神さまの栄えを受けることが出来なかった私たちは、今は主と共にあって、起きている時も、寝ている時も、召されている時も、主の御手の中にある――これが僕の贖いです。
あなたの性格、主のために生きるということは難しいと言われるではありませんか。それは主の御手の中にあれば、主と共に生きていることになる。主とともに死ぬということはまた別のことです。

ちょっと終りの時間、証しをさせてもらいます。
私は横須賀のシャロームという老人の施設にいまお世話になっています。高津に通うのは、特別養護老人ホームが100人います。私たちのような比較的健常者はケアハウスにいます。20人。100人いる特養ホームというのは、介護度5以上の自分で何も出来ないという人たちで、車椅子の生活で、デーサービスもありますが、でもそこしか出られません。でも、ケアハウスの場合は、大体健常者ですから、こんな風に外へ出られるわけです。

理事長が亡くなったのです。理事長と言うのは、トップで168人ぐらい働いている中のトップで、経営全部を切り盛りしている社会福祉法人ですね。理事長のほかに施設長という人がいて、施設長は現場の長。皆さんの中でもそういう関係をしている人はよく解っているでしょうけれども、施設長は工場長のように、直接現場を廻っている。介護の仕方が悪かったり、お掃除が良くなかったりすると、いろいろ注意します。こちらの希望は施設長に言います。なかなか理事長には会いませんけれども、施設長にもなかなか話、しにくいです。

こないだ聞きました。渡辺崇兄はいま施設長だとか。施設長というのは工場長。何を置いても配置を決めて、自分も休めないと言っていました。ご存知のように福祉の現場では、働きづめで給料が安いのが、福祉の仕事の特徴だと。管理、施設長として若いのに、よくがんばって働いています。

理事長が亡くなった。私はふとしたことから理事長と親しくなった。昨年8月、病院に見舞いに行ったとき、理事長は言いました。
「こないだ主治医が廻ってきて、私は急性骨髄性白血病だと宣告されたのです。もうこんな歳になると、骨髄移植も出来ないから、血液のがんで死ぬのを待つだけだ」と。
医者は、あなたの余命は6ヶ月、早かったら3ヶ月だなぁ、と言った。
「では来年の春は花は見られませんね」と言ったら
「そりゃ無理でしょう」と言った。

その先生がお医者さんから宣告をされました。最後まで自分の死をじっと見つめ、こういう病気ですから、頭はどうもありません。頭は最期まで冴えているのですよ。4月16日に亡くなりました。
「母さん、今とっても心が平安だから休むよ」と言った、その一言を最期に。

その間、彼は葬儀のことは全部自分でした。そして召されていった。だが、いい最期を遂げられまして、皆さん涙を流しておられました。私と特に親しゅうしておりまして、何かと言うと、「藤本先生によろしく」。葬儀の一番最後のお祈りが藤本先生にしてもらいたいと、ちゃんと指名してある。そして書面を見ますと、最期のお祈りの所に書いてある。元インマヌエル綜合伝道団総理、藤本栄造様と。私はそこですぐ自分は葬儀をやるために、総理をやったなどと一回も言ったことがない(笑)。どこで調べたのか。説教は向こうの教団の総理。最期のお祈りはインマヌエル綜合伝道団の元総理、ちょっと喜んでもらえました。私は無我夢中で話しました。

あなたの余命はあと6ヶ月ですよとお医者さんに言われたら、どう思われますか。「母さん、今日はとっても平安だ。ぼくは寝るよ」と言って、そのまま。
死なんか解らないものです。私たちはかつて帝京病院に入院されておりました横田兄を私は最期を看取りました。金子兄も、相馬兄も最期を看取りました。沢山の方のそばで最期を見取りました。でも皆ほんとに静かに終わっております。

生きる時は主のためで主と共に生きる。自分のことも大事です。健康のことや自分ですることも全部大事です。でも自分のためではないのです。主のためです。主のために自分のからだをいたわり、自分の仕事を栄えさせ、しっかりとした家庭を築いていくということは、主のためです。時が来たら、主のために、明け渡していけばよいのです。

クリスチャンは沢山の経験をいたしますけれども、高津の教会も新しい方がどんどん増えていらっしゃいまして、私のいた時より確かに人数が増えてまいりました。みんな神さまのあわれみによって許されたもので、受け入れられたのは神さまです。

どんなときであれ、人間は死ぬことを希望としておりません。人間は死にたいという意志も持ちません。人間は生きたいと思います。生きることに一生懸命です。けれどもクリスチャンは、死ぬことを“召される”と言います。自分は死にたくないけれども、神さまが召される。私たちも理事長も、○理事長と言いますけれども、まだまだ仕事があったのです。けれでも神さまが召されたのです。それで彼は死んだ。

いま私たちの中では、それを乗り越えて、一生懸命福音を語ろうと頑張っております。
願わくは、私たちもこの導きを受けてここに参りました以上、一つ、不完全な教会であるに違いありませんけれども、みんな主から受け入れられた者として、不完全な教会には違いありませんけれども、やり方には小も大もあるかもわかりませんけれども、沢山やれる人と沢山出来ない人があるかもわかりませんけれども、みんな主のためにということで一つにまとまることが出来ましたら、神さまの栄えが現れるのではないかと思います。

☆お祈り

神さま、このよき時を与えてくださいまして、感謝をいたします。不思議なようにあなたは、この教会に私たちを導いてくださいました。不思議なようにここに座っております。だれが何をしたというのでなく、神さまが導いてくださいました。あなたさまがああいう声をかけて、ここに集わせてくださいました。あなたからのあわれみのゆえにわが家族があります。それぞれくたばっておりますけれども、それぞれ一生懸命やっております。私たちはただ主の前に祈るのみであります。
どうか等しい恵みをもって、行き届いてくださいますように。
病める者のいる家族に、受験や何かのために、大きい試練と戦っている家族に、小さな子供たちに、どうぞ主の恵みが満遍なく届くことが出来ますように。
まず親たちが何の争いもなく、不完全な教会でありながら、充分神さまの恵みを受け入れて感謝する者たちとしてくださいますように。
今週も暑くなるようですが、お互いの健康を支えていてくださいますようにお願いいたします。主イエスさまの御名によって、感謝をしてお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2013.05.28 - 01:04
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