☆聖書箇所 T列王記18:16〜21
16そこで、オバデヤは行ってアハブに会い、彼に告げたので、アハブはエリヤに会うためにやって来た。 17アハブがエリヤを見るや、アハブは彼に言った。「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。」 18エリヤは言った。「私はイスラエルを煩わしません。あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは【主】の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。 19さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。」 20そこで、アハブはイスラエルのすべての人に使いをやり、預言者たちをカルメル山に集めた。 21エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、【主】が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。
☆説教 エリヤ(5)私たちを煩わすもの
エリヤの5回目を一緒に見ていただきました。 少し、飛び飛びになっている部分があると思いますが、エリヤはこの地方に登場したその第一声は、「私の仕える神、【主】は生きておられる」でございました。 でもこの「私の仕える神、【主】は生きておられる」という言葉を、私たちは自らのたましいに刻むごとくに、エリヤの記事を読むたびに「私の仕える神、【主】は生きておられる」というエリヤの言葉を思い出していただきたいと思います。
その彼がケリテ川に身を隠し、自らの信仰を学び、 貧窮したツァレファテのやもめのところに現れ、そして彼女に神を第一とすることを教え、 やがてそのやもめの息子がいのちを失いますと、そのために祈り、いのちを回復させ、 いよいよ「アハブに会いに行け」と、「一番問題の多いイスラエルの王アハブに会いに行け」と神がエリヤに伝えられた時に、彼は先ず王宮に仕えるオバデヤに会いに行った。 そして、そのオバデヤの勇気と信仰を奮い立たせるかのように、オバデヤに語った場面を前回話しました。
そして今日の場面では、エリヤはとうとうアハブに会います。 アハブはオバデヤの連絡を受けました。16節――
16そこで、オバデヤは行ってアハブに会い、彼に告げたので、アハブはエリヤに会うためにやって来た。 17アハブがエリヤを見るや、アハブは彼に言った。「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。」
三年の間、アハブはエリヤを捜し続けたんですね。 エリヤは「私の声によらなければ、この先雨も露も一滴も降りない」(***T列王17:1)と言った途端に、イスラエルの飢饉が始まって行きます。 エリヤは指名手配を受けたことでありましょう。 それは国境を越えて、国際捜査網を駆使して、エリヤを逮捕するために執念を燃やして捜して来た、エリヤがとうとう自分の前に姿を現したのです。 ですからアハブはエリヤを見るや、彼に言います。 「これはおまえか、イスラエルを煩わすもの」(17節)
で、ここから今日の話のタイトルをいただいて、三つのポイントでお話ししたいと思います。
1)いったいどちらが厄介者なのか?
イスラエルの王も、また彼の周囲の人々も、エリヤを厄介者扱いにします。 アハブ、そして父のオムリ、政治的な手腕はなかなかのものでありました。 オムリというアハブの父親が築いたのは、新しい都のサマリヤです。 丘の上に位置したエルサレムに匹敵するほどの天然の要害サマリヤを獲得して、そこに北のイスラエル王国の首都を据えます。
その息子のアハブもなかなかの者でありました。 兄弟王国である南のユダに、アハブは娘のアルタヤを嫁に送り、関係改善に努めます(***U列王8:26)。 ヨルダン川を越えたモアブの王国に対して、彼は強行的な姿勢で押さえ込むことができました(***U列王3:4)。 当時の巨大大国シリヤのベン・ハダデと、経済的な友好関係を結ぶことをいたしました(***T列王20章)。 そしてアハブのお嫁さんは、ツロ・シドンの出身ですけれども、そのギリシャの南端、ツロ・シドンの交易によって、国の経済は輸出入ともに大変活性化していきます。
言うまでもなく、このアハブが王として政治家として一番頭を悩まして来たのは、三年続いた飢饉です。 この干ばつの初めにエリヤが登場して、「私のことばによらなければ、露も雨も降らない」と宣言しました。 国を欲しいままに支配していると言っている王にしてみれば、エリヤほど厄介な存在はないです。 これはもしかしたら、国民の意見もそのようなものであったのでないかと思う程、エリヤほど厄介な存在はないです。
ところが、18節をちょっと見てください。18節をご一緒に読んでみたいと思います。 列王記第一の18章の18節です。
18エリヤは言った。「私はイスラエルを煩わしません。あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは【主】の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。
エリヤが即座に切り返した答えはこれですね。 「私がイスラエルを煩わしているのではない。あなたとあなたの父の家が煩わしているのだ」 アハブのもとで、850人の異教の預言者がイスラエルに乗り込んで来ました。 そして、イスラエルの人々は自分たちの信仰的起源を忘れてしまいました。
イスラエルという国が生まれる時に、あるいは私たちもそうですけれども、神の民というものが生まれる時に、それはいったいどのようなものなのか? ちょっと旧約聖書の出エジプト記の19章の4節から6節。交替に読んでみたいと思います。
<出エジプト記19:4〜6> 4あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、私のもとに連れて来たことを見た。 5今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。 6あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。 これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」
この6節の「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民」というのは、第一ペテロ(***2:9)にも引用されています。 4節をご覧いただきますと、神が一方的にイスラエルを解放してくださったと。 神が一方的に、私たちを死と罪の奴隷から解放してくださった。そしてご自身の翼に載せて、私たちは神の所にやって来た。
イエス・キリストの洗礼を受けるということは、イエス・キリストの新しい契約。 これが新約聖書に生きる私たちでありますけれども、それによって私たちは神の宝となる。 6節に私たちは神にとって「祭司の王国、聖なる国民となる」という。 自分はいったい何者であるのかということが、私たちもまた時に解らなくなってしまいます。
自分は「神の子である」と言われながら、いやいやあなたも普通の一般人ですと、こう思いますし、自分が「祭司の王国」として神に立てられているということを忘れて、罪の奴隷になることもありますし。 まして私たちの回りに、私たちをだますというと、聞こえが悪いですけれども、私たちがいったい何者であるのかということを忘れさせるような状況が次から次に起こって来ますと、私たちは自分が何者であるのか忘れてしまいます。
アハブのもとで、イスラエルの人々は自分たちの信仰を忘れてしまいました。 イスラエルという国が生まれる時、神は「わたしは、あなたがたをわたしの宝とする」と仰いました。 それを全部忘れさせてしまったアハブとアハブの家の者たち、エリヤが言うには、 「どちらが厄介者なのか、考えてみよ。 一見すると、イスラエルの社会に飢饉をもたらした私の方が厄介者だ。 しかしながら、イスラエルの原点をあやふやにし、人々の信仰を惑わし、人々を偶像崇拝に引きずり込んで行ったあなたの方が厄介者ではないのか?」 というのが彼(エリヤ)が言っていることです。いいですか。
聖書の視点で言えば、明らかに厄介者はアハブなのです。でもここはもう少し丁寧に考えてみたいと思います。
2)煩わせているというのは、実はエリヤでもあるのです。
エリヤもまた煩わせています。 預言者、あるいは聖書の言葉というのは、いわば私たちを煩わします。 私たちを考えさせます。私たちの価値観を覆させます。 「煩わす」という、もともとの言葉は、水をかき回して汚くするという意味です。
私たちの心の中に、人間だれしも、この永遠の世界はどうなっているんだろうか?とか、あるいは私たちは死んだらどうなるんだろうか?とか、自分はいったいどこから生まれて来たんだろうか?という、ま、様々な問題がありますよね。 それはない人はいないと思います。
しかし日常的な目標、課題、試練、喜び、そうしたものが私たちの心の中にぐっとこう占めていきますと、私たちの根本的な、究極的な疑問というのは、全部心の下に沈殿していくのです。 自分の心を閉めている圧倒的な部分というのは、この世界の今の出来事であって、自分が聖なる神の御前にどのような存在であるのか?という究極の問題は、全部池の下に溜まって行くわけです。
そうしますと「煩わす」というのは、エリヤは私たちの心の中に手を入れて、そして一回全部かき回すんですね。 そして心の中から、あなたの信仰は、あるいはあなたのたましいの問題は、あなたの人生の真実な課題は、いったいどこにあるのか?ということを私たちに問うて来るのが預言者の言葉であり、聖書の言葉です。
エリヤは偶像バアルもまことの神も区別がつかなくなっている状況をかき回しているわけです。 信仰が眠っている人々を揺さぶり、人々に決断を迫るというのが、この場面ですね。 そのように考えてみますと、アハブがエリヤを「イスラエルを煩わす者」と呼んだのは却って的を射ていた。 「アハブこそは私たちを煩わすもの」です。――ちょっとその場面を見てみたいと思いますが、(T列王記18章)19節をご覧ください。
19さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。」
ここに「イゼベルの食卓につく」という言葉があります。イゼベルというのは、アハブの奥さんです。 この奥さんがギリシャの南から、これだけの異教の預言者を連れて来たわけですね。 「彼らは皆イゼベルの食卓につく」と言っているように、明らかにエリヤはイゼベルを意識しています。 しかしエリヤの目標は、使命は、このイゼベルを倒すことではないんです。 (***預言者の使命は、イスラエルの民の信仰を揺り動かしているのです。) 21節、ちょっと見てください。
21エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、【主】が神であれば、それに従い、もしバアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。
一言も彼に答えなかったってどういうことでしょうか? 21節の「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか?」――これは原語の表現で言いますと、二つの枝の間を小鳥が行ったり来たりしている、そういう情景ですね。 あたかも小鳥がどちらの枝がいいかのように、時にはこちらの枝、時にはあちらの枝とこう、場所をどんどん移動するかのように、私たちの信仰は定まらないという。 そこにエリヤは迫っているんですね。 で、21節に「【主】が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え」と。
日本には「鰯の頭も信心から」という言葉があります。 それは信仰心の不思議さというものをたとえていることわざでありまして、信じる気持ちがあれば、たとえ鰯の頭でさえ、尊いものに見えてしまう、という独特な信仰心の感覚ですね。 これは別に何も日本人だけじゃないです。
新約聖書を見ればパウロは、当時のアテネの町に伝道に行った時に、驚き呆れ呆然とした出来事がありますね。 それはアテネの町は、犬も歩けば偶像に当たるという位、町に偶像が溢れていました。 色んな偶像に名前がついているんですけれども、中には「名前がない」という名前の偶像もあった。 でパウロはそこから話を始めて、「いや、あなたがたの町には名前がないという名前の偶像があるけれども、まことの神というのは、私たちが名前を付けるような神ではない」という話をしますよね。(***使徒の働き17:22〜31)
そしてイスラエルの回りの世界も同じで、男の神であるバアルに、女の神であるアシェラ、それから当時の習慣から言えば占い、呪術、霊媒。 様々な民族・部族が雑居しているパレスチナで、カミガミもまた雑居し、共存し、信仰は混じり合っていたというのは、今日私たちと何ら変わりがない。
そこにエリヤの挑戦ですね。 【主】なる神とバアルと、あなたがたはどっちつかずでいいのか? 私の仕えている神、【主】は生きておられる。
もし神がおられるとしたならば、神が唯一無比な存在であるとしたならば、神は私たちが欲するゴリヤク以上の存在ではないか? もし神がおられるとしたら、神は人がどっちつかずのいい加減な態度で接することを許されるだろうか? 薬ではあるまいし(笑)。
私(藤本牧師)の中では一つ思いがありまして、私は元来丈夫な方ではないですから、何か漢方に当たれば自分はなんかすごく元気になれるんじゃないかというような、そういう信仰心があるんですね。 最近、○○○○さんの○○○○がお手軽な漢方を出してこう並べますでしょう。 私は自分の症状にあったやつを、右から左へ全部試してみてどれが効くだろう?どれも効かないですね(大笑)。 「それはあなたの信仰によります(大笑)。これを飲むんだったら、ほんとに気を入れて飲みなさい」(大笑)と言われても、やっぱ、効かないものは効かないんですよね(笑)。
私たちはそういう感覚で、宗教とか、神を考える。 だから自分はどこにも所属しない。 「もしこれがこういう場面で効果を発するなら、それで行きます」と。 でも私たちはみんな死んでいくんですよ。死んでいった時に、一般の日本人はどうするか――それはお坊さんを呼んで来てお経を上げていただく以外にないんですね。 今まで使っていた「占い」なんていうものは、「死」という究極の問題にあって、何の用も足さないということは、私たちはよく知っているわけです。
受験の時にあの神社にお参りに行った。それはそうかもしれない。 しかし、それが「死」という場面で、私たちに何らかの解決が来るとは、だ〜れも思っていないですよ。だれも思っていないですね。
エリヤは大声で迫ります。 「薬ではあるまいし、効くか効かないかであなたがたは信じるのか? そんな信心を神は相手にされるだろうか? 何の決断もなく、何の犠牲も献身もなく、自分の好きなように神を選ぶというのは、どういうことなんだ?」 私たち日本人、私たち信仰者に向けられた挑戦ですね。
日本人の感覚をもう一回、こういう形で話しますと―― 今ではもう100%とは言いませんけれども、95%は結婚式はキリスト教です。95%は。 で、かなりの割合で、日曜日にキリスト教の結婚式をなさいますよね? 私(藤本牧師)も式場で式を挙げることはありますけれども、日曜日はないんですね。 牧師は日曜日は自分の教会で礼拝を守るって、それはもう決まってますので。 じゃ、日曜日に結婚式場に姿を現す牧師というのは、何者だ?(大笑)って言われれば、それは偽物だと言わざるを得ない(大笑)ですね。 色んな事情があるんですけれども、日曜の朝現れたら、100%偽物ですね(大笑)。
子どもが生まれたら、神社にお宮参りに行きますよ。誰もがですね。 でも小学校を受験させるなら、皆さんどういうわけか、ミッションスクールを選びますでしょう? どういうわけだか、ミッションスクールをお選びになりますよね? そして毎年、神社に初詣に行き、最後、亡くなる時に葬儀は仏式ですよね? すると日本人の宗教感覚っていうのは、いったいどういうことなんだろう? これは韓国の方にも、中国の方にも、ヨーロッパの方にも、インドの方にも、さっぱりわからないのが日本人の宗教感覚で、通過儀礼によって宗教を変えて行くということ。 これは、いろんな宗教心がありますけれど、これはまさに日本特有ですね。
以前、仏教のお偉い方が、日本人の宗教心というものをこういう風に説明されたのを、私(藤本牧師)は記しています。 人は、先ず、現実の見える形で生じた不都合を体験します。例えば病気、事故、離婚、入試の失敗、倒産、借金などです。 こうしたことが起こると、それが、恐怖心や先行き不安、あるいは憎しみとなります。
次に、人はその不都合の理由を原因を考えます。 その理由は、大体日本人の場合、家や親族のしがらみに落ち着きます。 しがらみというのは、不幸な死に方をした先祖、不治の病を背負って死んだ親、あるいは嘘、裏切り、憎しみなどを持ったまま死んだ身内に原因がある、と日本人は考えます。 こうしたしがらみを思い出すとともに、その負い目が今を生きている家族に及んでいると考えるそうです。 ですから、私たちの人生に起こる不都合は、タタリ、あるいはバチということになります。
浮かばれない霊、まだきちんと供養されていない霊などは、今の私たちの生活を背後で支配しているわけです。 そこで日本人は、このタタリを払うために、占いや、イタコの声を通して、霊たちの言葉を聞きとり、その霊の要求を満たしてやる。 霊を供養して、タタリを静めて、霊の支配を断ち切ろうとします。 そして霊が静まると、今度はこの世の私たちを守るカミサマ(守護霊)となって、ゴリヤクを施すことができる、と信じているのは大体の日本人の宗教感覚です。 ――ここまで引用終わり――
今の、最近の私たちはそこまで考えないかもしれませんね。 もしかするともっと単純で、健康でありさえすればよい。豊かでありさえすればよい。 そこに何らかの神が関わったとしても、それはどんな神が関わるとしても、ま、健康であれば、豊かであれば、それでよしですね。
こんなことを公けに言うのはあれなんかもしれませんが、最近幸福の科学(***1986年立宗)の大川隆法(総裁・1956年徳島県生れ)さんは――あの方はいろんな昔の方々の言葉を引用して本を出す人ですけれども―― 聖路加病院の名誉院長であった、「日野原先生の言葉が自分の上に降った」ということで、本を出しましたでしょう?(大笑) あれはねぇ、あれは日野原家は裁判を起こしてもいいんだと思いますよ(大笑)。 日野原家というのは、ず〜っと代々牧師ですもの。 ず〜っと敬虔なクリスチャンで来てて、そして、ま、かなり日本でも大きな働きをなさって、有名になって多くの人を励ました。励ましたんですね。 「生き方上手」という本はミリオンセラーになりましたし、彼はもうほんとに立派なクリスチャンですよね。 で、自分が死んだ後に、自分がこれまで述べた言葉を全部こう適当に集めて来て、「日野原先生の霊が私の上に降りた」と本を出して(笑)、そんなんでいいんですか!?と。 日本人の感覚というのは、どこかで「そんなんで、いいんじゃない?」という所に落ち着いてしまうとしたならば、エリヤの言葉は、日本人を煩わすものの言葉です。
私たちの信仰がどこかでいい加減な部分があるとすれば、何か試練が起こる度に、 「神はもう私たちを愛してはおられない」「神は私たちにその力の手を差し伸べてくださらない」「私たちはどうせ……」みたいなことを言っているとしたならば、そんなんでいいのか?と、エリヤは(憤ることでしょう)。 「全地を知る偉大な神、その栄光を全部自分で独り占めされる神、私たちを愛し、私たちを救うために御子イエスを十字架に送られた神の愛を、そんな形で疑うというのは、いったいどういうことなんだ!」と、エリヤは私たちの心の中に手を入れて、ぐるぐるぐるぐるかき回し、煩わすものですね。
エリヤは決断を要求します。 「だったら、じっくり考えろ」と。 「バアルが神だと思うなら、それに従え。もし誰かがバアルこそが神だと言うなら、それでよい。 ただその前に、すべての人はそれぞれ、自分の信仰心というものを注意深く調べてみなさい」と。
3)これはなるほどなぁですね。(T列王記18章)21節の最後ですね。(***不思議にも無反応な民です)。
ちょっと(21節を)途中から読みます。
21……もし、【主】が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。
21節の最後に、「しかし、民は一言も彼に答えなかった。」 これはものすごく印象深いですね。 一言も答えない、ということは、煮え切らない。 そうやって説教いただいたからと言って、「じゃ考えました。決断します」というわけにはいかない。 エリヤは無反応な人々を前にして、自分の訴えが最大限に効果を現す劇的なドラマを計画いたしました。23節に――
<T列王記18:23〜24> 23彼らは、私たちのために、二頭の雄牛を用意せよ。彼らは自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂き、たきぎの上に載せよ。彼らは火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにして、たきぎの上に載せ、火をつけないでおく。 24あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は【主】の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい」と言った。
あなたがたは無言だと。 だったらこれから私とバアルの預言者たちと対決をする。 雄牛二頭を用意し、一頭は彼ら。一頭はこちら。 「そしていけにえとして置いた時に、天から火をもって答える神が神である。あなたはその時決断しなさい」というのは、 ある意味、エリヤは、勇気をもって、民に決断を迫っているんです。民を追いつめているんです。 どちらかに決断をしなければいけないような状況を、あえて作り出しているんです。 その意味で彼は、自分のいのちをまな板の上に載せている、と言っても過言ではないですね。
彼は、エリヤは、信仰にいのちをかけていました。 決断の先頭を切ったのはエリヤです。 信仰を純粋に追及すべきだ、神の前に真実に生きるべきだという模範を、エリヤは先ず自分で示し、 この対決で失敗したら、自分のいのちが取られる。そんなもの構わない。 でも私は、「私の仕えている神、【主】は生きておられる」というところに、自分のいのちを賭けるんですよ。
今年2017年は、1517年、マルチン・ルターの宗教改革が始まってからちょうど500年という、ま、珍しい年です。 マルチン・ルターは、1517年にカトリック教会の免罪符、贖宥状(しょくゆうじょう)に対する挑戦として、「95か条の提題」という文章を出しました。 その文章は二週間で、グーテンベルグの印刷機で回されて、ヨーロッパ中を駆け巡って行きます。 ルターという一人の修道士が、ローマ教皇とこれから一戦をまじえるんだと、本当にそんなことをするんだろうか?
それを出した1517年の次の年、1518年に、ルターは自分の所属する修道会で討論会を開きます。 ヨハンエックという人物とルター。 その討論会のために、スイスからも沢山の有名な修道士たちが集まってまいりました。 そしてそれによって影響を受けた人々は、自分の町に帰って、聖書に基づく宗教改革ってことを真剣に考えます。
ルターが置かれていた状況というのは、ローマに引っ張り出されれば、必ず異端と断罪されて火あぶりの刑になるのです。 ローマ教皇の言葉で行くのか、聖書の言葉で行くのか、というのが議論の境目です。 ルターを直接に管轄するザクセンの領主は、「ルターの裁判はローマではさせない。ドイツでさせる」ということを主張しました。 ローマで裁判をしたら、必ず異端審問にあって死刑です。 ま、異端審問と決断されて、彼が死刑になってもいい――でもここで、ザクセン公は考えたんですね。 彼の裁判をローマに持って行ってしまったら、もうローマの言いなりだと。もしそれをやるなら、神聖ローマ帝国の帝国議会で、ドイツでやるべきだと。
いうことで、とうとう1521年、ヴォルムスという町で開かれた神聖ローマ帝国の議会にルターは呼び出されます。 ヨーロッパ中から神聖ローマ帝国関係者が集まって、彼は自説の撤回を求められました。 彼が出版したパンフレットや書物がうず高く積まれて、撤回を求められました。 彼は即答を避けて一晩考えます。 そして翌日に、帝国議会の傍聴席はいつもの何倍にも膨れ上がっていました。
そこでルターは宣言します。 「私は、聖書に従う。私の良心は神のみことばに捕われているのですから、私は取り消すことはできませんし、また取り消そうとも思いません」 この文章というのは、歴史文書に残っているんです。 で、次に言う文章というのは後に出て来る文章で、本当にルターが言ったかどうかは定かではない。でも最後にルターは、 「われ、ここに立つ。神よ、助けたまえ。アーメン」と言った。 自分がどこに立っているのか?というのが、ルターにとって、また歴史にとって非常に大きなことでありました。 それを聞いていた多くの諸侯、それを聞いていた多くの教会人たちはこの時初めて分かった。ルターが本気なんだと。 ルターが本気なんだということがわかったんですね。 ルターはいのちをかけて、教皇の教えではなく聖書の教えを取ろうとしているんだ、というこのルターのもとに、人々はどっと集まって来ます。
私たちはどこかで自分の信仰は本気なんだということを、皆の前に示す必要があるに違いない。きっとそういう時がやって来るのかもしれない。 ルターがここでヴォルムスの宗教会議で屈服していたら、宗教改革はなかったですね。 それはあくまで個人の確信として、ま、歴史の裏に葬り去られたでしょう。
私たちはどこかでエリヤのように見られる存在である。 この人の信仰が本物なのかどうか、家族の者は見ている。 それは私たちが自分の勘や自分の常識ではなく、自分の人生の判断をもつぱら神にゆだね、神に導きを求め、そして神にゆだねて進んで行くその姿は、自分だけのものではない。 それは教会全体、家族全体に大きな影響を与える。 そのことをエリヤは知って、一番最初に神に真実な信仰を差し出す人物となったわけです。
聖書の言葉は私たちの心をかき回します。 そして私たちは「かき回していただいてよかった」と言わなければいけない。 私たちの人生が平穏無事であれば、私たちは自分の人生で最も大切な疑問を、心の池の中に沈殿させてしまう、ということを覚えておいていただきたいと思います。
☆お祈り――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、「私が仕えている万軍の【主】は生きておられる」――そのように宣言したエリヤは、自分のいのちをあなたの前に出し、自分の信仰がまっすぐ真実であるということをもって、民のあやふやな信仰をかき混ぜ、そこにまっすぐな真実な一本の道を通そうといたしました。 私たちの信仰も試される場面が多々あることを知っています。どうかこのような時が来たら、私たちもエリヤのように「私の仕える神、【主】は生きておられる」という、この一言をもって、自分の信仰を整えることができるように。そしてもしその時まで、まるでお蔵入り(笑)していたかのような信仰であったとすれば、そのような試練にあってかき回され、自分自身の信仰を明確にする時となりますように、あなたが私たちの人生に起こる無理・難題・試練を用いてくださり、私たちのたましいがよりまっすぐになることができるように整えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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