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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   11/19 宗教改革(3)十字架の神学  Tコリント1:22〜25
☆聖書箇所   Tコリント1:22〜25

22ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
24しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
25なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

☆説教    宗教改革(3)十字架の神学

今日は少し難しい題をつけて、宗教改革500年でございますので、その学びを一旦ここで区切って、そしてクリスマスを迎えたいと思います。
実は宗教改革500年に因んで、説教を三つしか揃えませんでした。ま、ルター派でしたら、毎日曜日この500年のルターに関わるメッセージなんでしょうけれども、何分私たちはルター派ではないのでと言うと申し訳ないんですが、それでも大切なことは学ぶことができると思っています。

一番最初の説教は「悔い改めから信仰義認」という、いわゆる宗教改革の原理ともいうべき「信仰のみによって」というこれを学びました。
「信仰のみによって」という真理に到達するために、私たちは悔い改めから始まらない限り、どこか心の底で、自分の力、自分の努力でなんとかなると言う。
その絶望、自分は自分でどうしようもないという所に到達して、初めてこの「信仰のみによって」というこの確信に行くんだということを、ルターの人生と私たちを合わせてお話をいたしました。

二番目の説教では、義とされた私たちはもはや「自分の義を打ち立てる」という、自分でどうにかしなければいけないというこの義務感から、負い目から解放されて、つまり自由にされて、「主が何とかしてくださった」という感謝のあまりに、神と人とに仕える者となるという――これがルターの有名な「キリスト者の自由」というものの考え方です。
私たちはもはや、すべて主の御手の中にある。
主は私たちを子どもとしてくださり、そして義としてくださった。
もはや私たちは自分自身の義ばかり考えるのではなく、周囲の方々の信仰のために、必要のために、自分を注ぎ出すことができるというのが、キリスト者の生き方であるということを話ししました。

で、今日は有名なルターの「十字架の神学」です。
説教の三分の二はある程度難しいです。難しいですけれど、私(藤本牧師)がよく話すことなので、皆さんご理解いただけると思います。
そして最後の三分の一が、今日のメインだと思いながら、少し聞いていただきたいと思います。

「十字架の神学」という言葉はルターの教えの中では、三本柱(***信仰・聖書・万人祭司)の一つと考えてもいいと思います。

1)先ずこの「十字架の神学」と呼ばれる表現が出て来た背景を、押さえておきたいと思います。

1517年、今から500年前、マルティン・ルターは贖宥状という、その罪の償いを、償い状をお金で買って果たしてしまう――償いなしに、お金で贖宥状を買うことによって、償いから免れる――という当時のやり方に対して、有名な「95か条の提題」というものを、ヴィッテンベルグの城の教会の扉に釘で打ち付けた。
この「95か条の提題」というのは、そんなに長い文章ではありません。
95か条ありますけれども、ラテン語で、わずか二週間にしてヨーロッパを駆け巡りました――これがグーテンベルグの印刷技術のおかげでありますね。
これが今から500年前の1517年です。

その次の年、1518年のことでありました。
ルターはまだ修道士で、彼が所属していますアウグスチヌス修道会という、全ヨーロッパに行き届いた非常に厳しい修道会ですが、この修道会が慌ててこのルターを抑えにかかります。
この宗教改革の動き、それからローマ教皇、それからローマ教会に対する、この長い歴史に対するプロテストですね、抗議――それを抑えるために、1518年にドイツのハイデルベルクで討論会を開きます。
ルターを論破するために討論会が開かれました。
そこでまたマルティン・ルターは提題を出すわけです――これが「ハイデルベルク討論のための提題」――その提題の中に、初めて「十字架の神学」という言葉が出て来ます。

「十字架の神学」って何か?と考えるには、ルターが対比しました「栄光の神学」を先に説明した方が簡単です。
修道士時代のルターは「栄光の神学」に包まれていました。
どういう世界かと言いますと、教会に行きますと宗教画が掲げられています。
その多くは「栄光の内に、キリストがこの世界に再び来られ、そして義人に報いを与え、悪人を裁く」というそのキリストが描かれていました。
このキリストの再臨に応えるために修道をするわけです――つまり修道というのは、「栄光のキリストを仰ぎながら、天国の階段を上って行く」ということを意味していました。

で、私(藤本牧師)はよく使う表現ですが、中世後期というのはゴシック建築の時代です。
このゴシック建築というのは、中世のものの考え方を象徴しています。
地上における人間の努力、地上における私たちの犠牲、そして教会が与えてくれる洗礼、それから聖餐――(カトリックでは)ミサですね――それから回心のサクラメント、そして私たちが亡くなる時には終油という――その亡くなる時に十字を切って油を塗っていただくという――こういう七つのサクラメントがあるわけですけれども、
その様々な地上における私たちの努力や、理性や、教会のサクラメントが、教会堂の柱のように、ゴシック建築の教会では、(***両手を頭上に上げてアーチを作る藤本牧師)内側の柱がアーチ状を為しながら、天高くそびえて行きますよね。
あれが中世のものの考え方だと思ってくだされば、非常に解り易いと思います。
人の努力、そして神の恵み、それらが調和を為して、天高くそびえていく。
その階段を上って行く作業が修道で、これはもちろんのことながら、一般の人々にはほとんど無関係でありました。
本当にこの階段を上りたければ、本当に救いにあずかりたければ、私たちは献身して修道士にならなければ意味をなしません。

ここに生まれてくる「栄光の神学」というのは、ルターが端的にこういう風に言います。
「栄光の神学」というのは、私たちが救われるために、神が私たちのために何をしてくださったか?ではない。「私たちが神のために何をなし得るか?」ということを考える。

「福音というのは、神が私たちのために何をしてくださったのか」そして、「その神がしてくださった救いのわざを受け取るのが信仰」という「乞食の手」だという話を(藤本牧師は以前よく)しました。

しかし、「栄光の神学」はそうではなく、「救われるために、私は神の助けを借りながら、何をしたらいいのでしょうか?」といつもそのことを考えていかなければなりません。
ですから、悔い改め、ミサにあずかり、償いを為し、何とか神の助けを借りて天国の階段を上って行くという――こういうメンタリティー、こういう考え方というのは、どちらかと言うと、私たち人間には解り易いです。解り易いです。
救いを賜物として、信仰のみによって神から受け取るよりも、どこかで自分の努力が功を奏して、神の助けによって私は天国にたどり着いた、という考え方の方がはるかに人間として解り易い。

ルターはそういうものを、「宗教」として総じて呼びます。
ルターに繋がる伝統というものは、宗教批判をします――宗教はどこかでそういう方向に堕落していく。人間のものの考え方というものに染まって行く。
それに対抗するために、私たちはいつも福音に耳を傾けなければいけない。
その福音は聖書に記されていて、この聖書の福音の教えから離れて行く時に、私たちはどうしても自分で階段を上って行くという、そういうものの考え方に陥ってしまう。

しかし、その修道の道を真剣に追求すればするほど、私たちは逆に躓く。ルターは躓いたわけですね。
一体どこまで上れば、神さまは「よくやった。これであなたも義人の仲間入りだ」と私を認めてくれるんだろうか?
一体どこまで祈り込めば、一体どこまで奉げれば、どこまで奉仕すれば、私は神に喜ばれる人となることができるんだろうか?という所で、ルターは絶望していきました。

そしてその時彼は、初めて「福音」というものの意味することが分かるようになります。
栄光には程遠い自分を認識し、絶望し、そして彼は階段の上からふと下を見ました。
すると、なんと彼が目標としていたキリストは、階段の上におられたのではない。
階段の下に、この世界の真っ只中に、私たちの罪を背負って十字架に磔になっておられた。そしてそのキリストから発せられた言葉が、私たちの罪を担うかのように、
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(***詩篇22:1、マタイ27:46、マルコ15:34)
というこの言葉通りに、キリストは見捨てられた存在となって、十字架にかかったわけですね。

私たちプロテスタントは、宗教改革以来、像を、聖像を嫌います。
特にスイスの宗教改革の伝統は日本では強いですね。ですから、ステンドグラスもない。
スイスは20世紀になるまでは、パイプオルガンも聖像・聖画も、全部取り去ってしまいました。
その時、きれ〜いなまでに、十字架から磔になったキリスト像を外します。
そして私たちがプロテスタント教会全般に見るように、(***自身の右手を振って、後ろの壁の十字架を指さして)十字架と言うと、この木がクロスしているこの十字架になってしまうわけです。

皆さんが仮にカトリック教会に行ったら、こういう十字架はないです。
こういう十字架は、こういう十字架と言うとイエスさまに申し訳ない。怒られてしまいますが(笑)、シンボルに過ぎない。
カトリック教会に行けば必ずこの十字架に磔になっているキリストの像、その苦悩に歪む像、苦悩に歪みながら憐れみに溢れたキリストの像がきちんとついています。
そして私たちが見上げるのは、この木のシンボルのごとき十字架ではない。
私たちが見上げるのは、悲惨なまでに磔になって、息絶えておられるイエス・キリストなんです。

十字架はローマ帝国が産み出した極刑でありました。
それぞれの文化が極刑を産み出します。フランス革命のギロチンですとか、アメリカの銃殺ですとか、電気椅子ですとか。
ローマ市民はどんな極悪人であっても、この十字架という方法で処刑されることはなかったと言われています。
十字架の上で処刑されるのであるとすると、それは植民地の異国人でありました。
しかも帝国に反逆するような者のために作られた刑ですから、いわゆる見せしめの刑です。見せしめの処刑。

十字架にかかる者は、エルサレムで言うならば、自らその重た〜い十字架を背負い、市内を引き回され、そして市街のゴルゴタの丘、どくろの形をした丘に行き、生きたまま釘で打たれて、十字架が起こされて磔になり、自分の身体の重荷で手首足首に打たれたその場所から出血を起こし、最終的には失血死となるわけです。
で、死ぬには時間がかかりました。24時間ぐらいかかりました。

イエスさまの場合は、背中をひどく鞭で打たれ、その時点で多量に出血したがために、わずか6時間で息を絶えられます。
息を絶えた時に、ローマの総督が「もう死んだのか」(***マルコ15:44)と驚くほど速かったわけですね。

さて、二番目に聖書を見ていただきたいと思います。

2)そんな十字架に誰がどのように救いを見出すのか?

22節、ちょっと一緒に読んでみたいと思います。Tコリントの1章22節。

22ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。

「ユダヤ人はしるしを要求し」というのは、もし神の救いとしてキリストが現れたのであれば、当然のこととしてあらゆる奇跡を行い――これはしるしですね――ましてや人の手によって殺されることなどあり得ない、という意味です。
「ユダヤ人はしるしを要求する」――つまり力を要求します。
それは私たちにも通じるのかもしれない。神に祈る時に、病に勝つ力、悪に勝つ力、権力に勝つ力、貧しさに勝つ力、敵に勝つ力。
ユダヤ人は力・しるしを要求する。あるいはもうちょっと簡単に言いますと、結果を要求する。目に見える結果を要求する。

22節にある「ギリシア人は知恵を追求」する――イエス・キリストがこの世界に来られる前に、ギリシャはソクラテス(BC469頃〜BC399没・プラトンの師匠)、プラトン(BC427~BC347)、アリストテレス(BC384〜BC322)という三大哲学者を輩出していました。
そしてキケロ(***BC106〜BC43、ローマ共和政ローマ末期の政治家・哲学者・文筆家)に代表されるような詩、そして戯曲、演劇の世界、一言で言いますと、ギリシャ文化という言葉があるように、ギリシャ人は文化を追求しました。
「知恵を追求する」というのは、文化を愛した。少しでも便利になるように、少しでも賢くなるように、少しでも上に行くことができるように。

ユダヤ人ならしるしを、ギリシア人なら知恵を求めるでしょう。
彼らは果たして十字架を受け入れるのか?いやいや、絶対に受け入れない。
23節をご覧ください。23節も一緒に読んでみたいと思います。

23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、

私たちはイエス・キリストの像を十字架から外してしまって、よかったのか悪かったのかわかりません。
外してしまったら、きれいな素敵なシンボルです。ですから世の中一般の人もペンダントにし、あるいはピアスやイヤリングとして十字架が成り立ちます。
なかなかここにイエス・キリストが磔になっているまま、ペンダントやイヤリングにする人はいないのではないでしょうか?

十字架に磔になったキリストというのは、それは力を求める人にとっては、それは敗北以外の何ものでもないです。
知恵を求める人にとっては、愚かなことでしかない。ここに私たちの救いがある、これこそが神の恵みで福音であるという、そういう教えを理解することはできないですね。

でも18節を見てください。読み残しました18節――

<Tコリント1:18>
18十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

なぜならキリストの十字架は私たちの罪のために、私たちの弱さのために、私たちの愚かさのために、私たちのつまらない人生のために、私たちの孤独のために、主イエス・キリストは私たちの人生の負の部分を全部担って十字架にかかられた。
それによって、私たちが大胆に神の恵みの座に近づく(***へブル4:16)特権を切り開いてくださった。

ルターはここにおいて、「栄光の神学」を捨てました。
人の理性は、栄光の内に天高く座しておられる神にある――そういうものではない。
人の努力は、サクラメントという恵みの助けを借りながら上に上る、というものではない。
サクラメントは、「神ご自身が私たちの救いのために為してくださったことを、信仰という乞食の手をもって、ただひたすら頭を下げ感謝し受け取る」のがサクラメントである。
「神は最大の贈り物を、『救い』という贈り物を、十字架の上で私たちに指し伸ばしていてくださる」
これがルターにとりまして、「栄光の神学」から「十字架の神学」へと変わって行った瞬間です。

さて、三番目、これをもう少し深く捉えていただくために、この話をいたします。
この話は私たちにとって大変大切であります。

3)十字架という悲惨な出来事の中に、神の救いを見る、あるいは神を見る、ためには、大変大きな信仰が必要です。

私たちが祈って適切な仕事が与えられ、仕事が成功し、病気が直ったという事実の中に、神の存在を認めることは容易なことです。
それはもしかしたら、信仰は要らないかもしれない。
あ、なるほど神さまは助けてくださった。祈りに答えてくださった。神さまは確かにおられると言う。
これは確かにすばらしい信仰なんです。でもそれは与えられて自然な信仰というか、そのように神さまが答えてくださったのであれば、誰もが賛美するでしょう。
そのような勝利であれば、だれもが神さまに感謝するでしょう。

でも神さまがそこにおられないかのような状況――というのは、磔になったキリストですね。
そして周囲の人々が、イエス・キリストの十字架を見ながら「もしあなたが救い主なら、自分で十字架から降りて自分を救って見ろ」(と言う)。
誰もローマの極刑の中に救いがある、あるいは誰も悲惨な十字架の中に神がおられる、とは思いませんでした。

つまり「十字架の神学」には信仰が必要で、暗やみの中に、苦労の中に、挫折の中に、病の中に神がおられる、ということを見出す信仰はまことの信仰です。
まことの信仰――繁栄の中ではない。健康の中でもない。もちろんその中にも神はおられます。しかし十字架のような試練の中でも、神を見失わない信仰、それが十字架の信仰です。

ルターはこの十字架の信仰という言葉を使った1518年の次の年、1519年にザクセンという、ま、ルターが住んでいたお城ですね、お城というかザクセンという州と考えていただいてもいいですが、
この州は有名なフリードリヒ(3世***1463〜1525)という人物が治めていまして、神聖ローマ帝国の皇帝になることができる権利を持っている有名な人物の一人でありました。
このフリードリヒが病気で倒れます。

病気で倒れた時に、ルターが「苦労し、重荷を負う人々のための、慰めに関する14章」という文章を書きます。
「苦労し、重荷を負う人々のための、慰めに関する14章」
そしてその序文の中で、病気で倒れたフリードリヒにルターはこういう風に語りかける。
これが今日のメインの話です。

「私は閣下が重い病に襲われ、しかし同時にキリストがあなたの中に病んでいたもうているのを知っています。」

「私はフリードリヒ閣下が重い病に襲われ、しかし同時に、キリストが閣下の中に病んでいたもうているのを知っています。
なぜなら、閣下の骨肉から私に向かって、『見よ。わたしはここで病んでいる』と呼びかけているキリストの声を聞くからです」と。

キリストの声を聞く。どこから聞こえて来るか?
「見よ。わたしはここで病んでいる」と叫んでいるキリストは、力強くあれども、病に倒れ、いま瀕死の重体にあるフリードリヒの内側から、
キリストが「見よ。わたしは今ここで病んでいる」という声を聞きますと。
キリストは病んでいる者の中におられる。それは紛れもなく、十字架のキリストです。
その十字架のキリストが私たちに呼びかける。「見よ、わたしはここで病んでいる」と。

私たちはHさんの住所を知りません。
圭子(夫人)と話しました。ま、住所を知っても、行っても迷惑になるだけなんだけれども、中国に行ってH姉の額に手を置いてお祈りしたいねと。
姉妹はT姉としょっちゅう連絡を取られたんですが、最初の頃、よくわからない表現があって(笑)、姉妹の文章の中に家族、家族って沢山出て来るんです。
「家族に宜しく」とかですね、「家族のことを考えるともう、居ても立ってもいられない」というような表現が何回も出て来るんです。
それでT姉が私と一緒に、「この“家族”は“自分の家族”を指すのか、“教会の家族”を指すのか、どっちなんだろう?」(笑)
で、何回か繰り返しているうちに、あっ、これは“教会の家族”を指すんだ。

“教会の”という言葉が付かない。“家族”なんですよね。
だから姉妹は、中国にいればお父さんがいる。妹さんと息子さんはカナダ。妹さんは今(***HさんのことをHさんの友人から知らせを受けて、一番早い飛行機で)中国に帰って来た。ご主人は日本で仕事を続けておられる。
という中で、ま、自分の骨肉である家族のことも思うでしょう。
だけど姉妹にとって、“家族”という日本語は高津教会でよく使う、“教会家族”のことなんですよ。

姉妹は癌に倒れた時に、この教会家族の中に身を置くことによって、ず〜っと睡眠障害に襲われていたのが、一瞬にして、一日にして解放されて良く寝られるようになったんです。
姉妹は長い間東京大学の大学院の博士課程で学ばれ、その後日本で就職され、日本語は非常に堪能ですけれども、姉妹は高津教会に来て初めて日本に来た意義があったと思ったと。
それまで日本に自分の居場所があると感じたことはない。でもここに来たら、自分の居場所があると感じた。
私たちはそういう風に考える姉妹のために、何時も祈り、心を寄せて来ました。

だけどルターはそれだけではない。
姉妹の中におられる病んでいるキリストが、私たちに向かって叫んでいる。
「わたしのために祈ってくれ」と。
キリストはそこまで弱くなられ、姉妹の中におられる。
ルターはこういう風に記しています。
「かくして私が苦しんでいる時には、私が病気になった時には、もはや私一人が苦しんでいるのではなく、キリストも苦しみ、そしてすべてのキリスト者が私と共に苦しむ」
私たちはそういう共同体という教会に身を置いているんだ、ということをよく心に留めるべきだろうと思います。

やがて私たちも病みます。やがて私たちも病みます。
その時に、私の内なるキリストが共に病み、そして教会家族に向かって叫ぶ。
「わたしのために祈ってくれ。わたしのために心を寄せてくれ。家族として心を寄せてくれ」
私たちも一つ家族となり、一つキリストの身体となり、爪の先一つが痛んでも全身痛むかのように、H姉が痛まれた時に、キリストと共に私たちの家族も傷つき、苦しみ祈り、
そして姉妹の内側から叫ぶ「わたしのために祈れ」と仰るキリストの声に耳を傾ける。

それがルターが言う「磔になり苦しんだキリストは、私たちの人生の最も暗い場面にでさえ、私たちと共におられる」
栄光や成功の中にキリストを見るのではなく、試練や苦しみや病の中に神がおられる。
私たちが彼らのために祈る時に、私たちはキリストのために祈り、私たちが彼らを助け、彼らを看護する時に、私たちはキリストを看護しているんだ、ということを忘れることがありませんように。お祈りをして終わりにいたします。

☆お祈り――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、私たちにはどこかでユダヤ人のように、神の恵みを成功と繁栄と力の中に求め、あるいはギリシャ人のように、神の恵みをこの人間の文化の粋の中に求める傾向があることを認めざるを得ません。

しかし十字架を見上げる度に、キリストの苦悩の表情、そしてキリストが私たちの罪を担って、病の人となり、息絶えられた、そのお姿を見ながら、私たちがまた病む時に、キリストも私たちの内において病んでくださり、叫んでくださり、苦しんでくださり、私たちはもし教会家族がそのような状況に陥った時に、その病めるキリストのために祈り、病める愛する家族のために祈り、苦しみを共にするというその愛の思いを、少しでも私たちに与えてくださいますようによろしくお願いいたします。愛する主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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