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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   6 /16 父の日「互いに覆い、互いに支える」 創世記9:18〜29
☆聖書箇所      創世記9:18〜29

 18箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。
19この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。
 20さて、ノアは、ブドウ畑を作り始めた農夫であった。
21ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
22カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。
23それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。
24ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、
25言った。
    「のろわれよ。カナン。
      兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」
26また言った。
    「ほめたたえよ。セムの神、【主を】。
      カナンは彼らのしもべとなれ。
27  神がヤペテを広げ、
      セムの天幕に住まわせるように。
    カナンは彼らのしもべとなれ。」
   28ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。
29ノアの一生は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。

☆説教        互いに覆い、互いに支える

父の日ということで、創世記の9章を開いていただきましたが、ノアという人物に目を留めていただきたいと思います。

聖書の中で、ノアは「全き人」と呼ばれています。9章を開いていただきましたが、創世記の6章にちょっと戻ってください。

6章の8節と9節を短いですから読んでみましょう。

8しかし、ノアは、【主】の心にかなっていた。
    9これはノアの歴史である。
 ノアは正しい人であって、その時代においても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

9節からノアの歴史が始まりますが、ノアは正しい人であって、全き人であり、神とともに歩んだ。ただの全き人ではないのです。全き人の前に、ノアは「その時代にあっても」全き人であったということです。
その時代と言うのは、言うまでもなく、洪水によって世界が滅ぼされてしまう時代です。時代の描写は、11節にあります。

11地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。
12神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

「堕落」と「暴虐」ということばが出てきますが、堕落というのは、道徳的な退廃でしょうね。善悪の区別がつかなくなってしまって、悪を悪とも思わず、
そういう人々に満ちていた。
「すべての肉なるものが、地上でその道を乱していた」ということは、神さまはノア以外に、御心にかなう人物を見出すことが出来なかったという意味です。
暴虐というのは、社会的に暴力が満ちていた。

そのような時代に、ノアだけが主の御心にかなう、全き人であったというのは、とっても印象的ですね。そしてそのノアに、3人の子どもたちが与えられていた。10節――

10ノアは、三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。

さて、6章から9章の間に、「ノアの洪水」の出来事が記されています。そして洪水によって、この暴虐と道徳的な退廃に満ちていた世界は一掃されます。神さまはノアをもって、新しい人類の始まりと考えたわけです。
それほどノアは御心にかなっていましたし、それほどこの世界は暴虐とそして退廃に溢れていた。

やがて世界が滅び、そして箱舟に入ったノアと、ノアの家族と、動物たちだけが生き残ることになります。

今日読んでいただきましたのは、その洪水の後、ノアの生涯のずっ〜と後ろの方の出来事です。20節に――

20さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。

ノアは農夫となりました。そして、21節に――

21ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。

それを、息子のハムがいます。22節、カナンというのは、カナン民族の祖先、父祖であるハムは――

22カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。

外にいるふたりの兄弟というのは、セムとヤペテですね。

23それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。

という出来事です。

ハムは父の裸を見て、ふたりの兄弟に(笑いものにするかのように)「親父の無様な姿を見に来い」――こう言ったのですね。

そしてふたりの兄さんたちは、洋服を持って来て後ろ向きに天幕に入り、父さんの場所を確認すると、顔をそむけて裸をその洋服で覆ったという、実に不思議なエピソードがここに記されています。

なぜこんなエピソードがここに記されているのか――これは考えさせられます。
一つは明らかに歴史的な理由があるからですね。それが24節と25節に出てきますが、ちょっと読みますね。

24ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、
25言った。
  「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」

目覚めたお父さんは、このハムのしたことに憤って言います。「のろわれよ。カナン。」――カナンと言うのは、ハムの子孫のことを言います。(***9:18)

創世記を編集している人物が、よく言われるように、モーセだとしたら――今私たちはずっとモーセの生涯を学んでいますけれども――これから民を率いて神がアブラハムに与えると言われたカナンの地を占領するのです。
カナンの地を占領するっていうのは、カナンの民族を追い出すっていうことです。
そうなりますと、なるほどハムの子孫カナン人は、父親ノアによって「呪われよ」と言われた経緯がある、呪われた民族なのだと。
こうした歴史的な起源は、旧約聖書の人々やユダヤ人には、民族的な意味あいとして、とても通じるものがあった。
私たちにはない。私たちはむしろ、ノア個人として、あるいはハム個人として、民族の問題ではなく、ノアという人物、そしてハムという人物そのものに関心がある。

3点簡単に見ていただきたいと思います。

1)一人の人であるノア

神さまは人類の歴史をノアをもってやり直すという意味で、ノアの家族を残し、ノアに期待を掛けた。でもやはりノアも一人の人間であったということがよく解ります。

アダム以来、人類の罪はノアの中にもある。そしてそれは私たちの中にもある。
全き人、神と心が一つになっていたダビデも、同じように、大きな失敗をしています。
人間であるという現実を、私たちは甘く見てはならない。

しかし、ここで注目しておくべきは、この記事の中で、ノアは少なくとも責められてはいない。
自分の天幕の中で、泥酔して裸で寝ていた、このノアは責められてはいないです。むしろ責められているのは、それを見て笑いものにしようとしていた息子のハムの方です。
今日は父の日ですから、私を含めて、父親をひいき目に見て欲しいです(笑)。

ノアが醜態をさらしたとしても、それは彼の天幕、自分の天幕の中ですよ。
それは、息子たちにとっては模範となるような態度ではなかったに違いない。
しかしノアも一人の人ですよ。彼も疲れますし、気を抜くこともある。
一日のハードワークの後、彼の心がゆるんでいたとしても、それによって父親の威厳が欠けることがあったとしても、それは責められることではない。
                
    *自分の天幕ではないですか。
    *自分の家の中のことではありませんか。

でも私たちが小さなお子さんをほめますと、親は大体、もちろん謙遜の意味も込めてですけれども、「この子は外面がいいのです。内ではひどいものです」というようなことを親は言いますよね。
私はそれを聞くと「あぁ、その子は立派な子だ」と思いますね。
外面が出来るのですから(大笑。立派な外面をもってふるまえるというのは、いわば社会人じゃないですか。その立派な外面で、家の中で生きたらちょっとおかしくないですか?
外で社会人として、お客さんへの対応だとか、上司への対応だとか、それをそのまんま持って帰って来て、家の中で生きたら、ちょっとおかしいですよね?

今は鴻巣教会で、以前は高津教会にいた新井兄、懐かしい新井兄という兄弟がいますが、彼は教会学校の教師をしていて、銀行マンだった。
当時の銀行マンはほんとにバリバリで、いっつもスーツで、そして彼は教会学校の子どもたちを、お子様と呼ぶのですよ(エー!笑)。お子様方(大笑)。
やはり彼は結婚してもやはりスーツなのかなとか、彼は結婚してもあの銀行マンの姿勢は崩さないのかなと思うくらい、社会人としての姿勢が徹底していた、ものすごく真面目な兄弟でした。

でもきっと家ではくつろいでいるに違いない。自分の天幕の中(ですから)。

私この前、ある本で読みました。こんなシーンですね。
「大草原の小さな家」ってありますよね。実話に基づいたアメリカのテレビドラマですけれども、その中に、こんなシーンが出てくる(そうです)。

ある日、お父さんが外に出かけていって、帰ろうと思った時に、オオカミに出会うのです。 
ところが、オオカミはたまたまお腹がいっぱいで、飛びかかっては来なかった。でもすごい緊張感の中で、何とか逃れて来る。
家では、お父さんの帰りが遅い、お母さんと子どもたちが心配している。

そこへお父さんが、真っ青な顔をして息を切らして、外から帰って来て、
「オオカミに出会ったんだ。襲われそうだったんだ」
みんなお父さんに抱きついて、
「お父さん、無事でよかったねえ」と涙を流して喜ぶ。

というシーンがあると、その本に書いてあるのですね。

日本のお父さんも、社会でいっぱいオオカミに囲まれて(笑)、その中を必死の思いで生きて帰って来ます。
でも遅くなっても、だ〜れも心配してくれない(大笑)。
帰って来ても、だ〜れも喜んでくれない(大笑)し、「ただいま」と言っても、返事さえもない(笑)。
              
もちろん毎日、感激的なお出迎えはなくてもいいと思いますけれども、お父さんはみんな大変な中を生きているんですよ。
支え合う必要があることは確かですよね。

昔、よく娘がアメリカから帰ってくると、大体お土産は香水なのですね。
ちょっと言うんですよね。日本人はあまり香水をつけないから、ネクタイにしてくれないかなぁと。
いや、そういう意味じゃないんだと。加齢臭は公害になると(大笑)。ね、ちゃんとつけてよね、お父さんと言われると、あそう、そうだよね、と思いますけどね。

お父さんは時には、いや往々にして、家の中ではくつろいでいますよね。
お父さんはイライラもしますよ。無口になりますよ。
お父さんはわがままですよ。疲れますもの。
外でいい顔している分だけ、やっぱり家ではしんどいですよ。
家族のことを充分に考えることができないほど疲れているかもしれないし、家族の話に余裕をもって耳を傾けることもできないほど、沢山の事をもう聞いて来ている、外で。もう聞きたくない。
休みとなれば、ごろごろばかりしている、情けない父親かもしれない。
友達には見せられないほど、みっともない父親かもしれない。

でも少々の醜態も許されるのも、自分の天幕、自分の家なのですね。
ノアは責められてはいない。  

2番目に、先程言いましたように、

2)この記事で非難されているのはノアではなく、父の醜態を鬼の首を取ったかのように言いふらした息子のハムの方ですね。

あまりにも日頃の父親とは対照的な、素っ裸で泥酔している父親の姿を見てしまった。こんなビック・ニュースを独り占めしておく必要はない。弾むように相手の所に飛んで行きます。

でも私たちが考えなきゃいけないのは、このハムの姿、ハムの子孫がカナン人だということではない。
そうではなくて、ハムの子孫が私たちなのだということを考えなきゃいけない。
私たちはこのハムのようですね。何かを暴いてこれが真実だとわめき散らすことが大好きです。

それは電車の吊り広告、週刊誌の吊り広告のタイトルを見ているだけでも解るのですね。――あの芸能人は今――と言うと、思わず(続けて)どうしているのだろうと思っちゃうのですね(大笑)。あの晴れやかだった時代、今は名前も聞かない。様子も見たことがない。あの人は今どうしているだろう。
あの人にしてみればいい迷惑ですよ。そんなに付きまとわれて、まだ言われるのか。

誰もが、結婚よりも離婚のニュースを読みますでしょう。めでたく結婚したという記事を読まないでしょう。あんなに幸せそうだったのに、いとも簡単に離婚したという方を見ちゃいます。――それが人間の性(さが)ですね。
隠れた知られざる美談を紹介するよりも、欠陥を暴いて、失敗を暴露する方が大好き――それがハムの姿であり、ハムの子孫、末裔である私たちの姿ですね。

ヨハネの福音書の8章に出て来ますけれども、(暴く人間と覆う人間が対照的に描かれています)。
姦淫の現行犯で捕まった一人の女性を、イエスさまを前にして、当時の宗教家たちが引っ張り出して来る。そして、イエスさまに向かって、「姦淫の女は石打ちの刑だ。さぁ、この女を石打ちの刑に処しましょう」と、みんなの前に引っ張り出してくるのですね。考えますよね。

姦淫の現行犯で捕まったということは一人では無理ですから、男性もいたはずです。彼らは男性は逃がしたのです。女性だけ引っ張り出して来て、そして「これからこの女を裁きましょう」と叫んでいる、ファリサイ人たちの姿というのは容易に想像がつく。群衆は内心わくわくしながら、状況をじっと見守っているわけです。

彼らが声を張り上げて非難している間、イエスさまはじっと地面に座って何かを書いていた。なんだかわからない。絵を描いていたのか、字を書いていたのかは解りませんけれども、その姿勢は明らかですね――それはハムの末裔の醜い姿を見たくはない。

何かと言えば人のあらを探して、暴き出して、それを種に喜び楽しむようなあなたがたの姿は見たくはない。そしてイエスさまは静かに仰います。
「あなたがたの中で、罪を犯したことが一度もない人から、まず石を投げなさい」(ヨハネ8:7)。
自分は罪を犯したことは一度もないと、そういう自覚のある人から、石を投げたらどうかと(言われたのです)。

聖書の記事によれば、一人また一人とその場を去って行きます。
そして最後に(イエスさまは)仰います。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはならない」と(同8:11)。
今後こういうことはしてはいけないよと、でもわたしはあなたを罪には定めない、と(イエスさまは憐れみ深く諭された)。
(セムとヤペテが父の醜態を着物で覆ったように、イエスさまはこのことばで、この態度で、この女性を覆ってくださったのです)。

(創世記の)9章に戻っていただいて、セムとヤペテのこの姿をもう一回見ていただきたいと思うのです。(創世記9章)23節に――

23セムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。

ということは、彼らは父の尊厳を守ったということです。
もちろん父の尊厳を大切にした。父に対する敬意をもって、その父の醜態を彼らは覆ったのです。

3)イエス・キリストの十字架の「贖い」の2つの意味

キリスト教には、難しい漢字、難しいことばで「贖い」があります。
十字架がそうです。イエス・キリストの十字架は贖いであった。
贖いという漢字は貝偏ですから、これはお金に関わる。
罪を贖うというのは、罪と死の奴隷として売られていた私たちを、キリストは十字架の死をもって、買い戻してくださったという意味がある。

でも贖いにはもう一つ意味がありまして、詩篇の32篇をちょっと開いて見てください。
私(藤本牧師)が1節を読みますので、皆さんが2節を読んでください。
(***第3版)

詩篇32:1幸いなことよ。
            そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
           2幸いなことよ。
            【主】が、咎をお認めにならない人、
            その霊に欺きのない人は。

幸いな人は「罪を覆われた人」だ。
7節を見てください。

詩篇32:7あなたは私の隠れ場。
       あなたは苦しみから私を守り、
       救いの歓声で、私を取り囲まれます。

「取り囲む」ということばは10節にも出て来ます。

詩篇32:10悪者には心の痛みが多い。
        しかし、【主】に信頼する者には、
        恵みが、その人を取り囲む。

覆うというのと似ていますね。イエス・キリストは私たちの罪を覆ってくださる。救いの歓声で私たちを取り囲んでくださり、恵みが私たちを取り囲む。
罪が覆われるとき、それはもう見えない。
であるが故に、なかったこととして、その罪を赦す。
十字架から流されたキリストの血潮は、水が地の表を覆うように、私たちの罪を覆っていきます。

明らかに、イエス・キリストはハムの末裔ではない。――人の恥を暴くのでなく、それを覆い、人の弱さを責めるのでなく、それを覆い、人の欠けを非難するのではなく、それを補ってくださる。人の罪をさらけ出すのではなく、それを包むように憐れみを持っておられる――主イエスはそんな温かみのある、優しい救い主です。

私たちはハムの末裔から脱却する。あ、こんなことをしていると、自分はハムの末裔だなと思うような、そんなように人の弱みを暴いたりしない。
私たちはむしろイエス・キリストのように、セム、ヤペテのように、なるべく人の恥ずかしい部分には目をつぶってあげるのです。

そしてその欠けを補ってあげる、その弱さをカバーしてあげると、(ノアは)自分の裸を覆ってくれた二人の息子を祝福しますね。大きな感謝のことばを述べます。
それと同じように、私たちが人の罪を覆うときに、イエス・キリストのようになるだけでなく、その罪を覆ってもらった人は、私たちを限りなく尊く感謝の思いで見てくれると思います。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、今日は父の日です。どうか父に感謝することができるように。またこの世で、さまざまな戦いの中にあり、さまざまな苦労をしているお父さん一人ひとりをあなたが強めてください。

時にはぶつかることもあるでしょう。時にはうるさいお父さんでしょう。それでも私たちを愛し、私たちを育て守ってくださっている、あなたからの賜物、お父さんでありますので、もう少し優しく接することが出来るよう、またお父さんにも知恵を与えて、子どもを大切にし、家族のことを思い遣る温かな思いを与えてください。

また私たちは互いに父親であり、互いにノアであり、ハムであることを覚えます。どうか、この教会家族の中でも、私たちは互いの裸を覆うような存在とさせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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