☆聖書箇所 出エジプト34:29〜35 29それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。 30アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。 31モーセが彼らを呼び寄せたとき、アロンと会衆の上に立つ者がみな彼のところに戻って来た。それでモーセは彼らに話しかけた。 32それから後、イスラエル人全部が近寄って来たので、彼は【主】がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。 33モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいを掛けた。 34モーセが【主】の前に入って行って主と話すときには、いつも、外に出るときまで、おおいをはずしていた。そして出て来ると、命じられたことをイスラエル人に告げた。 35イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すために入って行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。
☆説教 神の人モーセ(39) 光り輝く顔
「神の人モーセ」と題して、今日は39回目です。私(藤本牧師)はよく頑張っているなぁと思いますが、皆さんももっと頑張っているなぁと思いますね。
39回目、その間いろいろ季節に合わせた説教が入りますけれども、ここしばらくは32章、33章と、モーセが十戒の板を受け取るためにシナイ山に上っている間に、民は不安に思って、アロンに偶像を造ってもらうように頼む。その偶像の周りを走り踊っている民を見たモーセは激怒して民を裁きますね。 やがて気を取り直して、モーセが神の間にその敗れの狭間に立って、とりなしをして来たという場面をず〜っと見ています。
そしてその最後の結末のように描かれているのが、(今日の箇所出エジプト記34章)29節〜35節です。 それはとりなしを終えて、再び刻まれた十戒の板を、モーセは山から持って降りて来たときに、モーセの顔が輝いていたという風に始まります。29節――
29それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。 30アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。
今日はここから3つのポイントでお話したいと思います。まず最初に――
1)光り輝くモーセの顔
光り輝くモーセの顔の場所を見ますとね、ま、私たち牧師は、私だけではないと思いますが、果たして自分が神のことばを語るとき、そのように輝いているのだろうかと反省させられます。私はあんまり輝いていないと思いますね。まあ正直、だってよく出口で、皆さんに「お疲れじゃないですか」って言われますもの(大笑)。輝いていないんでしょうね。 たまには「今日は輝いていましたね」という声かけをよろしくお願いします(大笑)。すごい励ましになる。一生懸命頑張って、「疲れていましたね」って言われると、なんか気が抜けちゃうのです。
もっとも主の愛に、主の平和に、主の希望に輝くというのは、すべての信仰者の願うところです。私たちは誰もが願っています。
私は、ここ数年、日本基督教団の渋谷教会で11月にもたれるバックストン聖会で奉仕をしています。 バックストン【***Barclay Fowell Buxton、(1860〜1946)英国教会宣教会(CMS)宣教師として来日、1903年に日本伝道隊を創立】という名前は、皆さん、どこかでお聞きになったことがありますでしょう。 日本のキリスト教会の歴史に重大な貢献をしたイギリスから来た宣教師で、彼はとても社会的に高い地位にあって、イギリスではお城に住んでいたような人物です。
1890年に日本に来て、松江を中心に伝道活動をします。中国への宣教師、ハドソン・テイラー【***James Hudson Taylor、イギリス生まれ、1832〜1905】とも交わりがありました。 強力な伝道(活動)と共に、一番有名なのが彼の品性です。彼の品性にはキリストのような輝きがあったと(いうことです)。
そして、バックストンのもとから、日本の偉大なキリスト者が生まれていきます。――
*笹尾鉄三郎【***ささお てつさぶろう、慶応4年8月15日(1868年9月30日) - 大正3年(1914年12月30日)は日本のキリスト教の大衆伝道者、牧師、神学校教師、宗教家、讃美歌作家】
*米田豊【***よねだ ゆたか、(1884年4月25日 - 1976年4月9日)は、日本の牧師、神学校教師。島根県松江市生まれ。ホーリネスの指導者として活躍】
*沢村五郎【***さわむら ごろう、(1887年6月9日 - 1977年6月5日)は日本の牧師、神学教育者、関西聖書神学校創設者】
*小島伊助【***おじま いすけ、(1894年 - 1992年)は日本イエス・キリスト教団の指導者。日本のきよめ派に大きな影響を与えた】
インマヌエルも、バックストンに直接さかのぼりませんが、その影響と無関係ではないと思います。
バックストン先生について、よく言われます。 「きよめについて語る人はあるが、バックストン先生はきよめを見せる人であった」 それほど、その品性には輝きがあったということですね。
当時、日本のキリスト教会を指導していた一人に内村鑑三【***うちむら かんぞう(1861〜1930) キリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。 高崎藩士内村宜之の長男として江戸小石川に生まれる。 札幌農学校でキリスト教に出会う。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた】がいますが、内村鑑三は宣教師嫌いでありました。 その彼をして、「バックストン先生は、人類の華である」と言わしめたバックストン。 今では、その写真を見るだけで、温かみと輝きが伝わって来ます。
顔の輝きこそ、クリスチャンに求められ、期待され、与えられる恵みですが、それを得る方法は、一つしかないということが、この聖書の箇所に語られています――それは、神さまと交わる、特別な時間を持っていることです。
35節をちょっと見てください。
35イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すために入って行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。
「主と話すために入って行くまで」というのは、会見の天幕に入って行くまで。 そしてモーセは荒野で、いつも自分のために会見の天幕を開き、それを宿営の外に、特別な場所と時間を持って、神さまと話をしていた。お祈りをしていたということがわかる。
モーセの顔が光り輝いていたのは、別にこのシナイ山の出来事だけではなかった。モーセが、友と友が顔を合わせて話すように神さまと祈ったときに、いつも彼の顔は輝いていたのです。いつもなのです。
モーセにとって、祈りの時間、祈りの部屋――そこで神と顔と顔を合わせるかのように祈るとき、私たちも何らかの形で顔が輝く。 そして顔の輝き、神の栄光を自分自身に反映させる方法があるとしたら、それ以外にない。
2)顔におおいが掛けられているとき
33節。32節を私が読みますので、皆さんが33節を読んでください。
32それから後、イスラエル人全部が近寄って来たので、彼は【主】がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。 33モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいをかけた。
ちょっと読んで不思議だなぁと思いますよね。 「モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいをかけた」ということはですね、最初モーセの顔が光り輝いているのを民は恐れたのです。(民が)恐れたが故に(モーセは)顔におおいを掛けて、そして民と会って民と語ったというのであれば、なるほど顔のおおいというのはそういうことだなということが解ります。
でもそうではない。 恐れる民の心を静めて、彼は神さまから聞いたことをすべて民に語ったのです。 そして語り終えたときに彼は顔に覆いをかけるわけですね。 モーセは顔の覆いを取るのは、神さまとお会いするときと、神さまから聞いたことばを民に語るときで、顔の覆いを取っていた。それ以外は覆いを掛けていました。
モーセは神の前では、顔と顔を合わせて覆いなしで語り、そして神のことばを民の前で語るときには、同じように素顔で、神の栄光の光を反映させながら語っていました。 みことばを語り終えると、あえて覆いを掛けて輝きを隠す。その光が見えないようにしておいたのです。
さてこれを私たちに当てはめるとどうなるのか?私(藤本牧師)はいろいろ考えてこうなるのではないかと思いました。
私たちは、誰の目から見ても、あの人はいつでも光輝いて見える(と言われる)ようなすばらしい、尊敬される人間になって、神のことばを語ることができるようになるのではないです。 モーセにしても私たちにしても、いつも同じです。
でも神さまと祈り、神さまの栄光を私たちが反映するときがある。そのとき私たちは光る。 そしてその光をもって人々の前に立つときは、私たちは神のことばを語るときです。 罪人であり弱さをかかえていて、少しも立派ではない私たちが、神さまとの交わりを与えられていて、神さまのみ恵みによって生かされていて、そのみことばを語っている時に、私たちの顔は隠す必要がない。私たちの顔は輝いている。 信仰者は、キリストの話、聖書の話、信仰の話をする時に一番輝く。顔の覆いを隠す必要はない。恥ずかしがる必要はない。そういうときに一番輝く。
皆さん自分を振り返ってみて、どんなときに一番顔が輝くと思います? 私はこの前、娘に言われました。 「お父さん、そんなパフェで、よく嬉しそうに食べるね」(大笑)。そんなパフェで……。 私は先日、友人の牧師にも言われました。 「先生、そのクリーム餡蜜、そんなにおいしいの?」(大笑)。あぁ、自分の顔が光り輝いているんだ(大笑)。 いったいいろんな場面で、その顔に笑顔が満ち、光り輝きますよね――自分の自慢話をするとき、自分の仕事や自分の趣味や自分の遊びの話をするとき。
でもそうではない。キリストの恵みを語るときに、私たち(キリスト者)は一番輝く。 実は先日、以前加藤兄が関わっておられました日本聾話学校のチャリティー映画会と、その子どもたちのハンドベルと合唱を聞きに行きました。 日本聾話学校 http://nrg.ac.jp/ 映画もよかったですけれども、何と言っても子どもたちの元気な賛美がよかったですね。全然耳が聞こえないのですよ。 でも、その子どもたちに人口内耳と特殊な電波を発することによって、音をとり、そして小学校1年生から6年生までの子どもが、ほんとに楽しく思いっきり歌って、音をはずすのなら思いっきりはずして(笑)、その何とも言えない幸せな姿、私は輝いていると思いました。
そして輝いていたのは、ボランティアの方々なのか先生なのかわかりませんけれども、会場付近でいろいろチラシを配って誘導してくださる方々は、何とも輝いている。 それは言うまでもなく、ミッションの理念を持って、日本で唯一聾話学校を展開している方々の、福音の誇りですよ。誇りとしているのは、イエス・キリスト。
私たちはおおよそ何にも用のないときに光り輝いています(笑)。 モーセは違った。何にも用のないときには、むしろ顔におおいを掛けていて、そしてここぞというときに、そのおおおいをはずして福音を語る。 そしてそのときに、神さまはモーセの顔を光らせてくださる。あぁ、そうありたいなぁと思います。
先日、圭子(先生)といっしょに、あるお店に行きました。 店員さんが沢山いて、私たちはシャツを持ってレジに並んだのですけれども、私はそれをちょっと距離を置いて見ていました。
びっくりです。店員さんが輝いている。ほほえみの嵐(笑)。 「さ、ここへ」と言うときに笑いますし、洋服をたたみながら笑いますし、お金を払っても、おつりを払っても、ず〜っとそのさわやかな笑み。 私がびっくりしたのは、レジの隣で商品を片付けている人――商品を片付けているんですよ、こっち向いていない――でも笑いながら片付けている(大笑)。この社員教育は何だろう(笑)?!
店の売り場で店員さんは笑ってないですよ。黙々とばらばらになった洋服をたたんでいるのです。でもレジのそばに来たら、たたむ人も笑わなければいけない。あれは毎日、毎朝、練習しているのです。 私はここに神学生の実習を送り込んだら(大笑)、どんなにすごい……(大笑)と思いましたけれども、でも、気持ちのいい、日本ならでは教育、日本ならではのサービスです。
でも、率直に思います。 あぁ、自分には無理だな。あの笑顔は無理だな。 でも彼らとて、同じです。一歩レジから離れたら、普通の顔に戻るのです。
でも、私たちもそうなりたいと思いました。 せめて神さまを賛美する時には、せめて愛する兄弟姉妹と挨拶する時には、せめて神さまに感謝する時には、せめて神さまの恵みを語る時には輝きたい!輝かせてください。 顔のおおいが――不安のおおいであるのか、イライラのおおいであるのか――それを取り除いて、主よ、どうか自由に私を輝かせてください。
3)私みたいな者も輝くのでしょうか?
輝きなんか自分とは関係ない、と思っているのが私たちでありましょう。でも、オズワルド・チェンバーズ【***Oswald Chambers, 1874年6月24日 - 1917年11月15日 スコットランド出身の伝道者、神学校教師、説教家】という有名な信仰者がこんなことを記しています。 ちょっと読んでいきますので、聞いてください。
「私たちは、誰でも、いわゆる「光輝く瞬間」というものを経験します。私たちはいつも同じように鈍いわけではなく、いつも同じように飲み食いするだけで満足しているわけではありません。 私たちの生涯には、いつもの自分とは違った自分に気がつくときがあるものです。そのような時に急に行くべき道を悟ったり、大切な決断をしたり、霊的な力を発揮するものです。天から光が差し込んで来るのです。その時、光の源である主に向くのです。」
輝きなんか自分とは関係ない、とは言えないです。自分は鈍い者と思っていても、いつも同じように鈍いわけではない。飲み食いするだけでいつも満足しているわけでもない。 あるとき、ふと悟ったり、考えたり、決断したり、そのとき、実は天から光が与えられていると、チェンバーズは言いたいのですね。 そのとき、実は私たちは主に顔を向けて、輝きをいただいている。そのとき、私たちの顔つきが変わっている。
ですからパウロは言いました。そのみことばを読んで終りにいたします。 Uコリントの3章の16節です。16節〜18節までご一緒に読みましょう。
Uコリント3:16しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。 17主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには、自由があります。 18私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 16節に「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれる」――不安な覆いも、あせりの覆いも、憤りの覆いも、迷いの覆いも取り除かれる、人がもし主に向くなら。
そして、18節に「私たちはみな、顔の覆いを取り除けられ、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」
もう二十年も前に、計算したのですが、二十年前に渡辺忠兄がロンドンの美術館に行きました。 そのときに、有名な聖画を沢山描いた17世紀フランスのラ・トゥールという画家の「少年イエス」(「大工の聖ヨセフ」ルーブル美術館蔵でしょうか?)という絵に大変心を惹かれて、教会に戻って来て証しをしてくださいました。
【***ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(Georges de La Tour,1593年3月19日 - 1652年1月30日)は、現フランス領のロレーヌ地方で17世紀前半に活動、「夜の画家」と呼ばれた】
その後、大学生だった今の大竹真由美姉(当時は坂上姉)が、同じようにルーブルに行った時に、スライドの写真を買ってきてもらいました。 まだ、インターネットの時代ではありませんでした。
今週の週報にほんの一部だけ印刷しましたが、絵はもっと大きいのです。この9倍ぐらいの大きさで、左側にはお父さんの大工ヨセフが、木を切っている。少年イエスはろうそくを持っています。 見たら解るように、ろうそくの光以上に少年イエスの顔が輝いています。 お父さんは思わず大工の工具の手を止めて、じっと少年イエスの顔を見入っている。
皆さん、「少年イエス」「大工の聖ヨセフ」でグーグルの検索をしたら、いくらでも出て来ます、この絵は。
「わたしは世の光です」とおっしゃったイエスさまは、ろうそくの光以上に 輝いていた。その輝きぶりにヨセフは仰天して、仕事の手を休めて見入った。
もちろんイエス・キリストにも、疲れる時も、批判に打ちひしがれる時も、涙する時もありました。そして実際に公の生涯に立たれたときに、変貌山ではこれ以上の輝きを発します。
そしてパウロは言うのですね。「人が主に向くなら」(16節)「私たちはみな」(18節)。 何と言っても大きな慰めは「私たちはみな」という部分です。 誰もが輝ける。それは時には小さな光かもしれません。 でもパウロは、聖霊の働きによって、その光はだんだん大きくなる、「栄光から栄光へ」(18節)と私たちは姿が変えられていく、変貌して行く(と言うのです)。そのすべてが「人が主に向くなら」にかかるのです。
私たちもまた主に向くなら、めったに輝かない私たちでありますけれども、主がきっと、神の愛を語るときに、神の愛を実行に移すときに、私たちを輝かせてくださる。 「栄光から栄光」へというのは、これは最初は小さい。でも後に大きくなるのですね。
ずいぶん昔に、日本の有名な陸上選手がみな旭化成に集まったというときがありました。随分昔です。 当時有名なマラソンランナーだった、宗 猛(そう たけし、1953年1月9日−一卵性双生児の兄は茂しげる)さんが監督で、そこに相当数の高ランクの男女の長距離ランナーが集まって、陸上部が出来ていました。 そこに入ると、確実に個人の記録が伸びると言われていました。
どうしてそうなるか、テレビのドキュメンタリーがありまして、私(藤本牧師)は昔、それを見たことが記憶の中にあります。 いったいどんな秘訣があるのか? その質問に選手たちは、みんな同じように答えていました。 実は監督は私たちと走ってくれる。フルは走らないけれども、大体1万メートル、十キロ走ってくれる。それも一人ひとりと。一年に何回かは一人ひとりと監督は走ってくれる。 自分のすぐわきを、監督がいっしょに走って、リズムを刻み、ペースを整え、自分の少し前を走って、引っ張ってくれる。 選手たちは、だれもが監督に少し引っ張られて、記録を確実に上げていく。
私はそれを見た時に、とても温かい気持ちになりました。 イエスさまは、私たちと一緒に走っていてくれる。 何の輝きも自分にはないのですが、しかし、この方の背中を見るだけでも、この方と肩を並べて走るだけでも、私たちは輝きを反映させる。
でもそれは「栄光から栄光へ」(Uコリント3:18)。 つまりイエス・キリストは私たちをさまざまな試練の中を通し、人生のさまざまな曲がり角を通らせながら、少しずつ私たちの栄光を増してくださる。 「人が主に向くなら」(Uコリント3:16)、人が主について行くなら、私たちもまた輝くことが出来る。 (「人が主に向くなら」――それが私たちの信仰です)。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、自分の内側にあるのは、弱き力、とてつもない夢、ひどい挫折、そんな私たちがいかにして輝くことが出来ようかと、考えさせられることは多々ありますが、でもそんな私たちも、実は全然関係ないところで爛々と目を光らせているのかもしれません。それが自分の趣味であり、自分の仕事であり、楽しみであり……。
でもどうか、私たちはあなたを信じているのでありますから、あなたの愛を語るときに、あなたのみことばに触れるときに、そのみことばを伝えようとするときに、私たちを輝かせてください。
自分に輝きがないと思ったときに、すぐ前を走っておられるイエスさまの背中を見るように、イエスさまの御顔を仰ぐことができますように。そのとき、どうか私たちみんなに、少しでも長い時間を主とともに過ごすことが出来るように。やがて自分自身の心が変えられて、内側に平安と愛が満ちていくことがよく解りますように、祝福してください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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