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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   7/7聖餐式 彼はきよくなった U列王記5:1〜14  
☆聖書箇所         U列王記5:1〜14  (新改訳第3版)

1アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。【主】がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士で、ツァラアトに冒されていた。
2アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、
3その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。」
4それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。
5アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。
6彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。「さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣ナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトを直してくださいますように。」
7イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」
 8神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
9こうしてナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入り口に立った。
10エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」
11しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、【主】の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。
12ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。
13そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」
14そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。

☆説教      彼はきよくなった

列王記第Uの5章ですが、少し聖書はここしか開きません。ずっと開いていただいて、じっくりご覧いただきたいと思います。私にとりましては、聖書の中で最も好きな物語の箇所です。1節をご覧いただきますと、いきなり、「アラムの王の将軍ナアマンは」と始まります。

ある所にナアマンという人がいた。アラムというのは、現在のシリアで、イスラエルの北から東の山岳地帯、中東のスイスと呼ばれています。高い山から二つの川、アマナ、パルパルという川が流れているその澄んだ高原には、首都のダマスカスがあり、当時も今も栄えていました。ナアマンはそのシリアの軍隊の将軍で、当時の王さまはシリアの歴史の中で最も尊敬を受けているベン・ハダテという人物です。ナアマンはすばらしい国に生まれ、最高の教育を受け、傑出した能力で最高の地位を獲得した人物でありました。

1節をご覧いただきますと、彼は「その主君に重んじられ、尊敬されていた」。そしてその節の最後に「この人は勇士で」あった。でもその一番最後に、彼はハンセン病に罹っていたと、物語は始まります。

ハンセン病は一般の病気です。もちろん直ります。しかしその症状から、古代の昔にあっては、特別に汚れた病とみなされてしまいました。
そして特に聖書では、この病は人間の罪にたとえられていました。その意味でこの病は「癒される」のではない、「きよめられる」という表現が聖書の随所に登場いたします。

ですから、今日この話を考えるときに、ナアマンの問題は私たちの罪の問題であると、重ねて考えていただきたいと思います。その問題というのは、当時の最上の文化シリアをもってしても、全く手の出ない問題でありました。

ナアマンは自分自身が感染しているということに気がついていない時期もあったに違いない。しかし一旦自分が汚れていることに気がついたら、それはいつまでも彼に付きまといました。人の罪とはそういうものです。

皆さんの中に、初めて教会にいらっしゃったきっかけを思い起こされると――自分の一言で自分の友人を傷つけてしまった。そのことが自分の心に深〜く刺さり、自分の罪深さに気がついた――それが教会に来るきっかけであったという方もおられるでしょう。

今から振り返ってみたら、なぜあんな小さな問題で、自分の心の罪深さに真剣に悩んでいたのか、きっとそれは聖霊の働きによって、私たち誰もが持っている罪深さを神さまが教えてくださったに違いありません。
一旦その問題に目が留まりますと、止まることなく深〜く私たちのたましいに突き刺さってしまう。

さて、問題を抱えたナアマンがどのようにして解決を手にしていったのか、これが今日の私たちの関心です。今日は割りと簡単に聖書を見ていっていただきますので、よろしくお願いいたします。

1)ナアマンのプライド

ナアマンは、ハンセン病という、当時にあってはものすごく偏見の対象となっていた病に罹っていましたけれども、彼は主君に重んじられた、尊敬された人物でありました。
ですからプライドの塊となってイスラエルに出かけて行きます。
私たちは誰でも、どんな状況でも主導権は自分で握っておきたいと思うものです。
人の世話になっても借りは作らないと言わんばかりに、ナアマンは神の人エリシャのところに、ものすごい量の贈り物を持って行きます。5節ちょっと見てください。

5アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。

今の量で換算しますと、銀340キロ、金7キロ、晴れ着10着です。
彼は自分の立場を優先しようと、5節の前半にあります王からの親書を持って行きました。外交文書です。
「これさえあれば、王宮でも神殿でも門を開くぞ」と、ベン・ハダテはナアマンにその手紙を渡します。しかも、彼はお忍びで出かけたわけではありませんでした。9節を見てください。

9こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入り口に立った。

ということは、大国シリアの大将として彼は出かけて行きます。
一人の患者ではない、外交文書を持って、戦車と馬を乗り付けて、そして膨大な量の贈り物を持って、神の人エリシャの元に出かけて行くわけです。

さて、このようにして自分に主導権があるようにして、それを放さないナアマンが障害にぶつかります。
第一にナアマンはイスラエルの王宮に出かけますが、そこにエリシャはいませんでした。6節――

6彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。「さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣ナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトを直してくださいますように。」

ツァラアトというのは、昔の訳ではらい病、ハンセン病です。
王が王にあてた手紙の中で、私の家臣のナアマンのハンセン病を直せという文章です。7節に――

7イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを直せと言う。しかし、考えて見なさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」

王宮にエリシャはいませんでした。8節に――

8神の人エリシャはイスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください……。」

そして、金7キロ、銀340キロ、晴れ着十着を乗せた戦車と馬が田舎のエリシャの家の前に到着するというのが、先ほど申しました9節であります。

プライドの塊となってイスラエルに出かけて行ったナアマンですが、まず、王宮には解決はなかった。
ナアマンは思ったに違いない――絶対に王のところに行けば、そこにいなくても王がその人物を呼び寄せるはずだと。
ところが、その助けはイスラエルの王とは無関係でありました。イスラエルの王は、エリシャを呼びつける事はできません。

「とりあえずエリシャのところに行ってくれ」とたらい回しにされて、最終的に自分がたどり着いたのは、なんと王宮の立派な建物ではなく、実に簡素なエリシャの家でありました。
なんという対照――馬と戦車とそして大量の土産物を携えた将軍と多くの兵士が、エリシャのちっぽけな簡素な家の前に整列をしているのです。

2)神さまはナアマンのシナリオ、そして私たちのシナリオを砕かれます

10エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」
11しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、【主】の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。
12ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして彼は怒って帰途についた。

神さまがナアマンのシナリオを砕かれた方法――まず第一にエリシャは家から出て来もしない。エリシャは使いの者を送っただけです。
しかも想像さえしなかった解決策を提示します。使いの者がナアマンに告げます。「イスラエルのヨルダン川へ行って、あなたのからだを洗え」と。

それを聞いた途端に、(ナアマンには)ものすごい怒りがこみ上げて来ました。――王宮に行って、外交文書を出したにもかかわらず、私はこの田舎のエリシャの家に回された。そして、そこにいるであろう神の人は家から出て来もしない。

「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、【主】の名を呼んで(11節)、この患部の上で彼の手を動かし、このハンセン病を直してくれると思っていたのに」と言うことばに、今日の学びの核心が浮き彫りにされています。

つまりナアマンは、自分なりのシナリオを持っていたということがわかります。
ナアマンのシナリオ――
*まず自分は将軍として尊敬と敬意をもって迎えられるに違いない。
*エリシャの家の前に立ったら、家来の者が脇について、シリアの王の手紙を、あわてて出て来たエリシャの前で読み上げるに違いない。
*そしてエリシャは出て来て、立ち、彼の神、【主】の名を呼んで、私の手の上で彼の手を動かし、これらの病を直してくれると私は思っていた。
*それが終わったら、彼にふんだんのお土産を取らせる。そして彼は深々と礼をして、「ありがとうございました。わざわざシリアから来てくださって」と言って帰るに違いないと思った。

私たちも同じです。私たちの人生にはシナリオがあります。
結婚のシナリオ、老後のシナリオ、子育てのシナリオ、仕事のシナリオ、そして極めつけは宗教のシナリオ、救いのシナリオ。
自分が作ったシナリオどおりに、自分の人生は動くに違いない。そして動かないと失望し、はたまた不平不満、怒りとなって行きます。

自分はこういう風にして救われよう――かつてミッション・スクールだった。かつて教会学校に通っていた。しかしそれから10年、20年、30年、まあまあ様子を見ながら、やがて自分が病に倒れたら、もう一度聖書を読み教会にでも行ってみようかな。

さまざまな宗教にさまざまなシナリオがあります。
キリスト教もシナリオを作ったことがありました。
皆さんもヨーロッパへ行って、ゴシック様式の壮大な建築物を見ますと、あれはみな町の人々の献金で建てられました。

その献金を引き出すときに、当時のカトリック教会は「あなたの罪に応じて免罪符というのを発行します。あなたの罪を教えなさい。その深〜い罪であるならば、100万の免罪符を買わないとあなたは天国へ行くことができない」(という風に説得しました)。

さまざまな宗教が割りと説得力のあるシナリオを作って、私たちに救いを提供しようとする。そのシナリオは実に人間的にできていて、その分、私たちには頷きが得られるのです。

人生のシナリオというのは、イエスさまの12弟子の一人、ユダもそうでありました。ユダには自分のシナリオがあった。――救い主というのは、エルサレムを帝国ローマから解放する力のある救い主だった。救い主キリストに求められるのは、愛ではなく、力だった。

それが、信頼して来たイエス・キリストは、とんでもない方向に行ってしまうようになります。
イエスはますます遜り、ますます静かになり、ますます霊的になり、主が愛と赦しに富んでおられればおられるほど、ユダは逆に苛立つ。
どうして救い主は道端のこじきを相手にするのか?どうして救い主が貧しい女の信仰をほめるのか?

ユダが欲しかったのは、愛ではなく、力。思い通りにしたい。そうならないと、彼はイライラして我慢がならない。
ユダは自分の人生のエネルギーをあくまでも政治、権力、財産、支配欲、そういうところに注いで疑いませんでした。彼は上を目指したい。そこにすべてのエネルギーを注ぎます。

そんなユダは神の愛から自分を締め出して、哀れに破滅して行きました。

3)神さまが提示した罪をきよめるシナリオ

散々プライドを傷つけられたナアマンは、怒って帰ろうとします。そのとき家来の一人が助言を与えます。13節――

13そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」

この助言の意味する所――「わが父よ。あの預言者が、もしも、難しいことをあなたに命じたとしたら、きっとあなたはそれをなさったのではありませんか。」

昔、霊感商法というのが流行っていた頃、私(藤本牧師)はよく大学生に言いました。――変な宗教に引っかかるなよと。
暑い夏の日、大学のキャンパスから坂を下りて渋谷に下り、渋谷のハチ公前で待っていると、ひとりの女性が声を掛けてきた。自分は一生懸命、この暑さの中で汗を拭いていた。

すると、「お見受けした所少しお疲れですね」と。――誰でも疲れています(笑)。
「私は詳しいことわからないですが、背中が重くないですか?」――その段階で10人の内5人は背中が重いですからね(笑)。
「ちょっとお見受けした所の感覚では、もしかしたら、何かものすごく重いものが背中に乗っているように思えるのです。私では無理なので、よろしければ近くの喫茶店に行って、少し専門の方に来てもらいます。お金はかかりませんので、無料で診てもらいませんか?」――と言いますと、10人のうち9人は断りますでしょう。でも1人は引っかかる。

そしてやって来る。
「背中の上に小さな赤ちゃんがいます。流産をなさった経験はありませんか?」――って来るのですね。霊感商法に普通、男性は引っかからない。日本は男性の国ですから、流産は少ないかもしれない。それでもやっぱりパーセンテージとしては高いです。

女性は母性がありますので、そういう出来事がありますとやっぱり心に痛みを負うのです。
もしかしたら自分が無理なダイエットをしたんじゃないかとか、無理して夜遅くまで仕事をしていたせいじゃないだろうかという、その心の痛みというのは、男性にはわからない。

しかし女性は、10年20年、やっぱり抱えるものだろうと思います。
実に人間的な方法で、そこを突くのです。そして言うのです、霊感商法は。――「もしここで、この観音様の像をお買い求めになれば、逆に背中の水子はあなたの守り神になりますよ」と。

そのときに、「その観音様の像はおいくらでしょうか」と言ったときに、「5万円です」と言ったら、皆さん立って帰るでしょう?
たった5万円でそんなに大きな問題が解決するのか(笑)と思うじゃないですか。それで相手は200万円ですと(出して来るのです)。
5万円で解決するような問題ではない、200万円もするような問題ですよと言わないと、乗って来ないです。
そして、「いや、いきなり200万円は」と言ったときにすかさず、「大丈夫です。ローンがありますから」(笑)。

おおよそ私たちは、とても人間的なものの考え方で、救いというものを考えた。それは宗教全体がそうで、一日8回ある方向に向かって、深々と礼拝をささげなさい。それが50度の暑さの中でも、砂漠の中でも、自分の小さな家の中でも、ある方向に向いて礼拝をささげるべしとか、あなたのような難しい問題を抱えているならば、お百度参りでもしなさいとか、この暑い中、お遍路さんをしなさい、そしてそれによって、自分自身が浄化されていくということを経験しなさいと言われた方が、よほど人間の理性には何かこう納得がいくのです。

ところがエリシャが言ったのは、あなたの身体をヨルダン川で洗いなさい。当時のヨルダン川はきれいだったと思います。それでも、シリアのアマナやパルパルの方が澄んだ水をたたえていました。そんなことで直るなら、私はとうの昔に直っている(とナアマンは思ったことでしょう)。

私たちはナアマンと同じように迷うでしょう。
13節の後半部分、ナアマンのしもべたちが彼に言った言葉――「もしもむずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか」――の背後にある文脈は、“やってみないとわからないでしょう”。

そして、
“将軍、もしあなたがそれをしなければ、その罪はあなたにこびりつき、あなたはそれを癒すために、それをきよめるために、ありとあらゆる方法を試し、そして人生を使い尽くし、それであなたの人生は終りではないですか?”
“今残された唯一の手段は、これ以外にあるのでしょうか?”
という挑戦をナアマンは受けたのです。

私たちはナアマンと同じように迷います。でもそれはナアマンと同じように、一瞬の躊躇でもある。なぜなら、他に方法がないことはわかっているのです。
私たちはヨルダン川に身を浸すのではない。素直にイエス・キリストの十字架の血潮にあずかる。

今朝備えられている聖餐というのは、私たちの罪を洗いきよめ、私たちの罪を赦し、私たちを全く新たにするためのイエス・キリストの十字架です。
そして私たちの罪が赦され、キリストの前に新しくされるには、この方法以外にないということを私たちは知っているのです。

「すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのように、きよくなった」(14節)ということばのとおりに、私たちはこの聖餐を受けて、幼子のからだのように、このたましいもきよくしていただこうではありませんか。

ナアマンはただ単純にエリシャのことばを信じて、水に飛び込みました。
私たちも罪をきよめるために、ただ十字架の血潮を信じる以外にない。
私たちはただ単純に、ただ信じて、今朝聖餐式に臨みます。

新しい讃美歌はわかりませんけれども、以前の讃美歌に「ただ信ぜよ」という讃美歌がありました。今の人はあまり知らないと思います。
昔の人は「ただ信ぜよ」と言うのですね。
私(藤本牧師)はあまり好きではなかった、この讃美歌は(笑)。

小さい頃から、路傍伝道といえばこの讃美歌だった。
大きな太鼓が3回どーんどーんどーんと鳴るのですね。
それで路傍伝道の一番最初の人が「リバイバル聖歌、何ば〜ん」と言うのですね。そしてラッパが、♪パ〜パパパ〜パパパパパ〜と鳴り、みんなで歌うのです。

歌詞は(歌いながら)♪十〜字架に掛かりたる救〜い主を見よや。
♪是はなが犯したる罪のため、た〜だ信ぜよ、た〜だ信ぜよ。信ずる者はたれもみ〜な救われん♪
私は子どもの頃、「こはながおかしたる」(笑)というのがわからなかった。
「十字架に掛かりたる救い主を見よ。この方はあなたが犯した罪のために、――是はなが犯したる罪のため――長岡さんがすぐそばに(大笑)おられたので、私はこれは長岡さんの(おばあさんですけれども)讃美歌だと(大笑)ず〜っと子どもの頃思っていましたけれども……。

でも、やっぱり好きでなかったのは、「ただ信ぜよ、ただ信ぜよ。信ずる者は誰も皆救われん」――どうにもこのフレーズ、何となく、当時私は安っぽいと思った。でもそれはとんでもない間違いでした。

「ただ信ぜよ」というのは、英語では“only by faith”ですけれども、信仰によってのみ。
「ただ信ぜよ」の意味は、それ以外に救われる道はないという意味です。
「ただ信じさえすれば誰でもが救われます」と、そういうことを歌っているのではない。

救いはすべての人のためにあり、あなたがどんなにインテリであろうと、どんなに社会的地位が高かろうが、イエス・キリストの救いにあずかり、罪をきよめていただくためにはこれ以外の方法にはないというのが、「ただ信ぜよ」の “only by faith”これ以外にはない。

それほど私たちの罪は重症で、罪深くて、(きよくなるためには)自分の努力ではどうすることもできない、ということがナアマンにはわかった。それでナアマンはヨルダン川の流れに単純に身を浸した。

今朝私たちも同じ気持ちで聖餐にあずかります。
「御子イエス・キリストの血、すべての罪より私たちをきよめます」(Tヨハネ1:7)との約束を信じ、イエス・キリストの血にあずかります。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、どうか私たちの耳にも、あのナアマンのしもべたちが近づいて、なした助言を聞かせてください。
私たちは自分のシナリオを実現するために、難しいことばかりをして来ます。

「時に自分がきよくなろうとやたらに精進してみたり、無理な努力を重ねてみたり、でも実はそんな方法できよくなるほどあなたの罪は単純ではない。
唯一イエス・キリストの十字架の血潮にあずかり、その中で身と心を洗ってきよくなりなさい」。

ナアマンが単純に信じたように、私たちも今朝単純に信じて、この罪をきよめていただきたいと願っています。どうか、聖餐にあずかる私たちの心をあなたの約束どおりにきよめて、すべての罪を赦して私たちから遠のけて、海の深みに葬り去ってください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

☆聖餐式

福音讃美歌の261番(しみも咎も)の1節〜3節までを歌いまして、3節になりましたら、聖餐の配さんをしてくださる役員の方々は前に進んでください。
******
天の父なる神さま、私たちは今から御子イエス・キリストの命じられた聖餐の恵みにあずかり、キリストの御苦しみを覚え、新しい信仰を抱いて、自らをその罪の赦しに繋ぎ、献身を更新しようとしています。
いま聖霊の光に照らされ、すべての罪を悔い改め、十字架を信じ、御子イエスの血の力を仰ぎつつ、御前にいる私たちを憐れんで下さい。そして、このみからだと御血潮にあずからせてください。
御前にあるこのパンとぶどうの液を聖別し、これらを信仰をもって受ける私たちの霊肉のために用いられますように、よろしくお願いいたします。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
******
イザヤ50:8〜9を読まれてアーメン唱和し、パンをいただく。
ルカ24:13〜19、25〜32を読まれてアーメン唱和し、ぶどう液をいただく。

奏楽の内に容器を回収します。しばらく、黙祷をもってこの恵みに心から感謝をしたいと思います。

聖餐式の感謝のお祈りを中村兄にお願いいたします。

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2013.07.08 - 21:44
LAST UPDATE: 2013.07.09 - 09:51

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