☆聖書箇所 民数記13:21〜33
21そこで、彼らは上って行き、ツィンの荒野からレボ・ハマテのレホブまで、その地を探った。 22彼らは上って行ってネゲブに入り、ヘブロンまで行った。そこにはアナクの子孫であるアヒマンと、シェシャイと、タルマイが住んでいた。ヘブロンはエジプトのツォアンより七年前に建てられた。 23彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが一ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った。 24イスラエル人がそこで切り取ったぶどうのふさのことから、その場所はエシュコルの谷と呼ばれた。 25四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。 26そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。 27彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。 28しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。 29ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」 30そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」 31しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」 32彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。 33そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」
☆説教 神の人モーセ(41)恐れに飲まれる民
「神の人モーセ」と題して、モーセとイスラエルの民を学んで、今日で41回目であります。途中、しばらく飛んでいますけれども、そろそろ一年を超えようとしています。
今日は民数記の13章を開いていただきました。 荒野の旅を続けていたイスラエルが、約束の地カナンを前にして、偵察隊を出す。その偵察隊は12部族から12名。 13章の前半部分に名前が出ています。この12人が偵察に行きます。
6節には、「ユダ部族からはエフネの子カレブ。」有名なカレブが偵察隊に入ります。 8節には、「エフライム部族からはヌンの子ホセア。」 このホセアは、16節を見ますと、「モーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた。」このヨシュアがモーセの後継者となります。
先遣隊が調べてくる事柄が具体的に記されています。18節――
18その地がどんなであるか、そこに住んでいる民が強いか弱いか、あるいは少ないか多いかを調べなさい。 19また彼らが住んでいる土地はどうか、それが良いか悪いか。彼らが住んでいる町々はどうか、それらは宿営かそれとも城壁の町か。 20土地はどうか、それは肥えているか、やせているか。そこには木があるか、ないかを調べなさい。あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい。」その季節は初ぶどうの熟すころであった。
結果、すばらしい土地でありました。23節にこうありますね。
23彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが一ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った。
ぶどうのふさは一ふさです。でもふたりが棒で担ぐほどの大きさであった。 いちじくもざくろも、いまだにこのパレスチナの地が世界的な産地ですよね。 ぶどうが一ふさでふたりが(棒で)担ぐ(笑)ほどの大きさって、どんなぶどうだろうと思いますけれども、よほど大きかったに違いないですね。
しかし12人の先発隊が他のものも見てしまいました。それは見たくないもので、敵の姿、背が高く屈強な民族があちらこちらに住んでいました。ちょっと見てください。28節――
28しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、その上、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。 29ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」
みんな戦闘部族です。特に強かったのは、アナクとそれからエブスですね。それを見た途端、一瞬にしてムードは変わってしまいます。とても攻め上れない。 その土地と豊かなぶどうを見た時に、「よし、やってやろう。今こそチャンスが到来した」(と叫んだことでしょう)。しかし、その背の高いアナク人、屈強なエブス人を見た時に、彼らは一転して、一晩大声で泣き明かしています。14章の1節を見てください。
14:1全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。
私は今でも覚えています。 小学校5年生の時に、ある休みの日に高津小学校の校庭で、クラスのみんなと一緒に野球をやっていました。すると、向こうの方からユニフォームで身を固めた、少年野球のチームがやって来ました。
当時そんなに少年野球のチームってなかったのですが、ま、チームですから、2年生ぐらいから6年生ぐらいまでいるんですけれども、大人の監督が私たちのクラスのチームに試合を申し込んで来たのですね。それで僕らは固まって「いいじゃん、やってやろうじゃん」(笑)と受けて立ったんですね。
私たちが先攻で、ユニフォームを着ているチームが守りで、割と小さな男の子、3年生ぐらいの小さな男の子が投球練習を始めたのです。そして、唖然ですよ。めちゃめちゃ速い。球が速いのです。あんな速い球見たこともない。 私たちは誰が一番で行くか決めている間に、「おいおい、誰がやろうじゃないかって言ったんだよ。絶対勝てないよな」という風に、一転してムードは変わるのです。
私たちの人生って、そのようにしてわっと喜んでおいて、勇み込んで中に飛び込んでみたら、「おいおいできるのか」って言うシーンがいくらでもあるのです。 そいうことを考えながら、今日の聖書の箇所を、短く3つのポイントで見ていただきたいと思いますが、まず第一番目に――
1)恐れは自分を小さくする
ちょっと(民数記13章)32節から読んでいきますが、
32彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。(***というよりも、事実そのままなのですが)「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。 33そこで私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」
自分がイナゴのように見えた。そして彼らにもそう見えたに違いない――私たちは自分の人生で、あるいは仕事で、ある失敗をしますと、問題がますます大きく見えます。そして自分がますます小さく見えます。 そればかりか、相手が自分を小さく見ているように感じます。 自分には能力がないと自覚するばかりか、周囲も自分のことをそう見ているに違いないと思い、一瞬にして自信を喪失する――それが私たちですね。
30年も前に神学校で説教学を学んでいたときに、先生がこんなことを話されました。神学校の授業で私は2つしか覚えていないのですが、その一つがこれなのですね。
神学校を卒業してまもなく、その先生の生徒がアメリカの田舎の普通の教会に派遣された。20代で、田舎の割りと高齢者の多い教会に派遣された。派遣されたというよりは、そこは招聘制の教会でありましたから、その神学生は卒業前にその教会に説教に行くのですね。それから招聘委員会が、教会が投票して、彼を招聘することを決めたわけです。
神学校を卒業したばかりですから、説教にまだ慣れていなくて随分苦労したという。ある日一人の会員が牧師館を訪ねて、 「先生、お話があります」 「何でしょうか?あなたに何があったのでしょうか?」 「いやいや、先生、私のことではありません。先生のことです。先生の説教を聴いていまして、正直言って、何の恵みも感じられません(笑)――ま、これはよくあることですが――毎週毎週、少なくとも私の期待は大きく裏切られています」 それで、その会員はうしろから説教のテープを取り出して、 「先生、これは前任のブラウン先生の説教テープです。よく聴いてみてください。(笑)先生、先生の問題はたぶん、説教の内容ではないと思います。大変話しにくいのですが、ストレートに申し上げますと、先生の話し方がどうもしっくり来ない」 そう言って、教会員は去っていきますね。
若い牧師は前任の先生の説教のテープ5〜6本を何度も聴くのです。一生懸命聴くのです。 そのようにして、テープを持って来られた兄弟は親切な方です。 やっぱり神学校卒業仕立てで、まともな話ができるわけないわけですから、「これを参考にしてください」(と言われ)、彼は悩んで祈って一生懸命勉強した。――そのようにして受けたプレッシャーですね。
次の週、彼が講壇に立って説教を始めてしばらくしますと、口の中が妙に乾く。そして額に、脇の下に汗が流れるのを彼は感じるわけです。 そのようにして、普段の聴衆の顔が西瓜のように、どんどんどんどん顔だけが大きくなっていくのを感じるのです。 説教の間、その顔一つ一つ、気になってしようがない。
一つ大きなプレッシャーをかけられますと、私たちは皆、ここに出て来るイスラエルの人々のようです。 どんなに沢山の恵みに溢れていた土地や境遇であったとしても、自分の置かれている立場、あるいは自分の能力がどんなに優れたものであったとしても、仮に私たちがあるプレッシャーに晒されて、そして自分が小さく見えた途端に、心を占めるのはもはや自分の恵まれた境遇ではない。 マイナス面だけが心を占めるのです――私たち誰でもがそうですね。
そして思うことは、自分には無理だ。自分にはそもそも能力がない。あの人のようではない。自分は小さい。 そればかりか、周囲の人々も、私の無能さを嘲笑っているに違いないという風に見えてしまう。
2)恐れは神さまを小さくする。
つまり問題を恐れると、自分が小さく見えるばかりでなく、神さまが小さく見える。14章の3節を見てください。2節から、ちょっと私が読みますので、皆さんは3節を読んでください。
14:2イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。 3なぜ【主】は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」
そして4節に――
4そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」
モーセもアロンも頼りにならない。別の指導者を立てて、エジプトに帰ろう。 3節に「なぜ【主】は、私たちをこの地に導いて来て」――神さまはどうしてこんなことをされる。どうして、私たちをこの地に導かれたのか。神さまは信用できない。神さまは私たちを助けてくださらない。
思い煩いがどんどん心の中で大きくなるにつれ、神さまはそれに応じて、どんどん遠くに、そしてどんどん小さく見えてしまうのですね。 神さまは彼らの不信仰に驚かれました。14章の11節に――
11【主】はモーセに仰せられた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。
このことばはとっても象徴的ですね。 「わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず」ということは、――これまで神さまの恵みは豊かであり、神さまのさまざまなみわざは大変大きかったにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。
彼らは信じているのです。しかし、そのアナク人の背の高さを見た途端に、彼らは心変わりをして、一転して自分の信仰を忘れていくのです。 私たちはこの恐れを抱くような、一転して自分たちが不信仰に陥るような場面を、今まで何度も体験して来ました。
確かにこの場所はすばらしい。自分は良い人間関係に恵まれていると思っていた次の週、ある出来事をきっかけにして、自分がものすごく小さく見え、いや実は周囲の者たちも自分を小さく見ているという自覚に立ち、そしてあっという間に、神さまに対する信仰さえも失っていく。――それって、特別なことではない。それはごく普通のことで、これが恐れが生み出す心理の状況です。
3)この状況でのヨシュアとカレブの信仰を見ていただきたいと思います。
14章の9節をちょっとご覧ください。9節の前に、6節から見ましょう。
6すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、 7イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。 8もし、私たちが【主】の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。 9ただ、【主】にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし、【主】が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」
9節は「【主】にそむいてはならない」。そして最後の方に、「【主】が私たちとともにおられるのだ」。 彼らを恐れてはならない。恐れるのは神だ。恐れるのは彼らではない。自分が置かれている境遇ではない。 堂々とそこに入って行こう。神さまが彼らの守りを解除される。私たちが恐れるべきは神さまだ。 神さまに信頼しないこと、それが神さまにそむくことだ。
先ほど神学校を出たばかりの若い牧師の話をしましたが、実は話には続きがあります。
次の週の礼拝が終わった後、彼は顔中汗をかいて、そして教会の出口で、礼拝に来られた聴衆一人ひとりに挨拶をしました。 その中には牧師の説教に注文をつけてくれた会員もいました。 彼としっかりと握手をしました。 最後に出て来られたのが高齢の婦人で、おばあさんは厳しい顔をして、彼と握手をしながら言いました。
「先生、何があったか知りませんけれども、誰かに何か言われたのではないですか?(笑) 先生、今朝誰かのご機嫌を伺いながら説教をされましたよね。 若い先生、すぐに書斎に戻って悔い改めなさい。(笑) 来週は誰かのご機嫌を伺った説教ではなくて、神さまを恐れてみことばを語りなさい。」
説教をして、自分の足りない所を指摘されることは悪いことではないです。謙虚に受け止めることは大切です。 しかし、人の目に映る自分を気にしすぎて、神さまの目に映る自分が見えなくなっていく。 そうして多くの神学生は神学校を卒業して、自分が人の目にどう映るかばかりを気にして、時に人を恐れ、不安や思い煩い、やがて信仰が薄っぺらになり、神に仕えることを忘れていくのです。 そういうことに気をつけなさいと、私は説教学の先生に言われました。
これは別に説教の話だけではない。 私たちは世の中に出て行くときに、私たちが職場が変わって、新しく人の目に晒されるときに、誰もが自分自身の自信を一瞬失うのです。 周囲の人からは「君、いいところに配属されたんじゃないか」とか、「いや、なかなかいい場所だよね」と(言われ、能力を認められたかのように嬉しく思うこともある)。
でも小さな失敗を通じて、自分の能力がものすごく小さく見える。 のみならず、周囲の人は自分の能力をものすごく小さく評価しているように感じる。 のみならず、神さまはなぜ自分をこんな所に置かれたのだろうと、自信喪失から劣等感へ、劣等感から不信仰へと、私たちの気持ちは移っていくのですね。
ヨシュアとカレブは、 「【主】にそむいてはならない。 【主】が私たちをその地に導き入れられたとすれば、彼らの守りはすでに彼らから取り去られている。 しかし【主】が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない」 と、着物を引き裂きながら(14:6)ですね、イスラエルの人の前で訴えました(14:9)。
もう一つヨシュアとカレブの信仰に特筆することがあります。ふたりは約束の地のすばらしいことを強調しますね。7節に――
7「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった」と。
実際大きなぶどうのふさは持って来ているわけですよ。 すばらしく良い地だったと、このふたりは物事の積極面を強調します。 そして、それを神さまへの信仰とつなげていくのです。8節に――
8もし、私たちが【主】の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。
と高らかに、そのすばらしい積極面を強調するのです。 信仰には、どこかこういう大らかさと勇気が伴う。
私たちは気をつけなければいけないのですが、人によって、物事の積極面を見る人と物事の消極面を見る人と必ずその差は出ます。 個人差だと、個体差だと言っていいほど出て来ます。 でも、物事の消極面を見る私の傍には、神さまは必ず大らかに物事の積極面を見る人を連れて来てくださいます。そういう人を備えてくださる。
物事の消極面を見る人は、神さまがわざわざあなたの傍に置いてくださった大らかな人を馬鹿にするのですね――あなたは現実がわからないからそこまで大らかでいられるのだと(笑)。 それを言ったら、もうそれでおしまいですよ。物事の消極面に捕らわれがちなあなたのために、神さまはわざわざ物事の積極面を見る大らかな人を連れて来てくださったにもかかわらず、あなたは依然として物事の消極的な面にのみこだわり、積極的なものの見方をする人をむしろ馬鹿にする。
ヨシュアとカレブは、もしかしたら人々から馬鹿にされたかもしれませんね。 少なくとも、斥候隊の10人からは馬鹿にされたと思いますよ――彼らは物事の現実を見ていないと。 でも彼らを動かしているのは希望ですよ。8節に――
8(もし、私たちが【主】の御心にかなえば、)私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。
と言うのは、彼らの信仰的、希望的、ま、推測ですね。 「必ず【主】は私たちに下さる」と断言するよりも、「【主】は私たちにその地をくださるだろう」と。
もうちょっと平らに言いますとね――大丈夫だよ。神さまは必ず道を切り開いて、道を私たちに備えて、私たちは勝利できるはずだと。 周囲の者たちは、「どうしてお前はそれほど肯定的でいられるのか」と(言うでしょう)。 ヨシュアとカレブは言いますよね――いや、(私たちには)希望がある。【主】は必ず私たちにその地を下さるよ。だって、すばらしい地だもの。まさしく神さまが導いてくださるのにふさわしいと言えるくらい、すばらしい地だったと、彼らは神さまに希望を置くのです。
ジョン・バニヤン(John Bunyan:1628-1688)というイギリスのピューリタンの人物がいます。1600年代に活躍した人物で、迫害の中で、独房に閉じ込められながら、「天路歴程」という書物を記します。 「天路歴程」というのは、天国の道へ足を進めて行く一人の巡礼者を描いています。永遠の都をこの人物は旅して行くわけですね。
あるとき、その旅の中で、この巡礼者は「絶望」という名前の巨人のとりこになってしまう。彼は「疑い」という名前のお城に閉じ込められてしまいます。暗い顔をして、牢獄の冷たい床に座り込んでしまいます。 何しろ自分を捕らえてしまったのは、「絶望」という名前の巨人で、自分が閉じ込められているのは、「疑い」という名前のお城ですからね。
彼はすべてがこれで終わったと思います。二度と太陽の日を浴びることもないかもしれない。友だちと楽しく歌うことも踊ることもないだろう。友を助けることもできない。永遠の都を見ることはこれで終わりだ。どうしようもない。助けも来ない。考えれば考えるほど、暗くなっていきます。
そのとき彼はふと、思い出すのですね。 巡礼の旅に出る前に貰った、一つの鍵を思い出すのです。 その鍵は大事に彼はポーチの中にしまってあった。そうだ、これがあった。もしかしたらこの鍵がこの牢獄の扉を開けることができるかもしれない。
しかし、鍵を鍵穴に差し込もうとした瞬間に声が聞こえます。 「もしこの鍵でだめならどうなる。合わなかったらどうなる。それで終わりだぞ」 しかし、そのとき直感的に勇気が彼に湧いてきます――いや、この鍵はこのときのためだったに違いない。 つまり(「絶望」という名の)巨人のとりこになり、「疑い」という名の牢獄に閉じ込められたときのために、巡礼の旅を始める前にこの鍵が与えられたに違いない。
そして差し込んでみますと、見事なまでにぴったり合うのですね。そうなんです。その鍵は、まさにそのときのためにあったのですね。 巡礼者は外に出ます。そして外に出た瞬間、わずかでありましたけれども、「栄光」という山の上に、永遠の都を彼は垣間見た。 巡礼の旅はまだまだ続きます。でもそのとき彼は、はっきりと望遠鏡で見たかのように、永遠の都を見たのです。
鍵の名前は「希望」です。 「絶望」という巨人のとりこになり、「恐れ」「不安」という牢獄に閉じ込められ、しかし、「希望」という鍵が、巡礼の旅を始める以前から彼に与えられ、大事に大事にポーチの中にしまってあった。 この場面でその鍵を使わなければ、彼は一生「絶望」という巨人のとりこのままです。
私たちは「天路歴程」の中で、失望しますし、がっかりしますし、諦めますし、諦めてしまいそうになりますでしょう。 しかし主イエス・キリストは、私たちがそもそも信仰の旅路を始める前に、「希望」という鍵を与えてくださっている。 それを使うか使わないかは、あなた次第だということを私たちは忘れてはいけない。
自分がことさら小さく見えるとき、周囲の目がことさら自分に厳しいと思われるとき、私たちは「必ずそれができる」(民数記13:30)というカレブとヨシュアの信仰に立って、「絶望」の牢獄の扉を開ける――そういう信仰者でありたいと願います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、 「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが【主】の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。【主】が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」 (***民数記14:7〜9 カレブとヨシュアの言ったことば)――もし、自分がそのように言うことができなければ、自分の代わりにそのように言ってくださる方の声を受け入れることができますように。
私たちは「絶望」の牢獄に座っているときに、ますます硬く心を閉ざし、恐れの中に閉じ込められていきます。そんなときに、自分の信仰生涯のポーチの中に与えられた「希望」という鍵、“この鍵をいま使わずして、いつ使うのか”と、主よ、どうか私たちに「希望」の鍵に気づく力を与えてくださり、信仰をもってその鍵を握って、鍵穴に差し込む力を注いでください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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