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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   3/31 竹内神学生:ゲツセマネから始まった信仰  マルコ14:32〜42 
☆聖書箇所――マルコ14:32〜42

  32さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」
33そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、
34彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」
35それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。
36そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」 
37イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。
38誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
39 イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
40そして再び戻って来てご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたがとても重くなっていたのである。彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった。
41イエスは三度目に戻って来ると、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
42立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」

☆説教   ゲツセマネから始まった信仰

皆さま、おはようございま〜す(おはようございます)。おはようございま〜す。
奇しくも3月27日が――すみません、私事ばかり言います――私の59歳の誕生日でございました。おめでとうございます。えっへっへっへ(大笑)。そして、今そこに来ております母は、4月の2日生まれなんですよね。今日はちょうどいい中日(大笑)というか、おめでたの中日ということで、大変めでたい日であります。

そして明日が新年度4月1日ですし、確か明日でしたっけ、新元号――ま、クリスチャンは関係ないんでしょうけれども――新元号が発表になったりとか、まさに時代の変わり目、まさに今日から明日にかけて、ま、一日でガラッと変わるわけじゃないんですけれども、ちょうど時代も人にとっても再出発の日であったり、再スタートの日でもあるし、誕生日でもあると。このよき日にメッセージを取り次がせていただけることを感謝いたします。

さて、今日は信仰の原点とも言えます――もう週報に書いてあったのでご存じだと思うんですけれども――『ゲツセマネの園での祈り』、イエスさまの汗と涙と血にまみれた必死な祈り。
そして寝ちゃう、だらしない、私(竹内神学生)のようなすぐ寝ちゃう、私のような「お弟子さんたち」について。
また送り出すというか、死につけるのを見てしまう――ま、復活はするんですが――「父なる神の苦悩」について(三者三様の姿の)描かれた『ゲツセマネの祈り』について取り上げさせていただきます。
そこから少しまた展開はするんですけれども。

「アガペーの愛」ですよね。ゲツセマネの祈り、イエスさまの愛というのは、与えるだけで無条件に与えるだけのアガペーの愛。
十字架にかかったイエスさまの死を、心から嘆き悲しむ姿を私に伝えて、自分もぽろぽろ涙を流し、主の壮絶な愛を私に何度も語り伝えたのは、5年前に召された竹内梨瑛(りえ)でした。
その梨瑛は、「一粒の麦」(***ヨハネ12:24)のように、自らの生涯を終えることで、私を牧者へと導いたのでしょうか?

梨瑛の召される一年前の2013年、今から6年前(※高津初日から三年目)、皆さん記憶があると思いますが、
当時は私は礼拝に参加していても、仕事もしてましたので、平日の仕事のストレス等もありまして、
礼拝中のメッセージ理解は、解る部分もあれば解らない部分もあると、部分的かつ不十分な聖書理解でありました。
ですからいつも家に帰ってから、梨瑛にメッセージのポイントを改めて再説明してもらうということで、聖書理解と信仰を少しづつ深めていきました。

そんな梨瑛は、藤本先生のメッセージを聞くとほぼ100%、ちょうどそこら辺の席ですね(※と左手を出して、最前列を指し示す竹内神学生)「グシュグシュ」言いながら感動の涙に溺れていました。
そんな梨瑛が必ず感動の涙を流す箇所が――ま、藤本先生のメッセージは基本泣いちゃうんですけれども(大笑)――それ以外にも、お約束で泣いちゃうのがこの『ゲツセマネの園での祈り』の箇所でした。

梨瑛は言います。似てるかどうかわからないんですけれども(※と言って梨瑛さんの口調をまねする竹内神学生)――
「としち〜ん、イエスさまはね、な〜んにも悪いことしてないのに、鞭で打たれたり、十字架に掛けられて唾も吐きかけられたり、嘲り笑われながら、殺されちゃったんだよ〜!
本当はな〜んにも悪いことしてないんだよ。なんて、かわいそうなんだろう?なんて酷いんだろう?」「グシュグシュ」(笑)……と大量の涙を流す人。

この涙の洗礼を私(竹内神学生)は何回受けたことでしょう(笑)
日々慌ただしく過ごす日々の中、しかし梨瑛のこの「グシュグシュ」と『ゲツセマネの祈り』の箇所は、私の脳裏から、そして耳から離れません。
気づけば「イエスさまの贖いの死」を思うと、私も自然に涙腺が潤うようになり、
この「贖いの十字架」に完全無罪な「神のひとり子イエスさま」が十字架につけられる悲惨、悲しみに、不条理に、怒りと悲しみを覚えるようになっていました。

イエスさまの「生け贄たる死」をもって、やっと全人類が「現在・過去・未来」に亘って罪赦された。
罪人たる人間が千人・万人単位で、「罪」の生け贄として十字架刑に処せられたとしても、そんなボリュームの生け贄では「贖いきれない」我々人間の『罪』。
罪なき神さまのひとり子、「聖なる小羊イエス」による『贖いの十字架』こそが、
罪の権化のような、学ばないし、応えない、「ど〜しょもない」罪人たる私たち人間への「恵み」そのものでありました。
その尊(とうと)過ぎる、勿体なさ過ぎる「生け贄の死」にも、
そうか、イエスさまが、あんな尊いイエスさまが死んでくださらないと(私たちは救われないのだと合点が行きます)、
そんだけ私たち一人ひとりがこんな罪深いのに、それが束になって三億もいれば、とんでもない罪の山が積もっているんですけれども、
その罪の山を平坦にしてくださるのはイエスさましかいらっしゃらない。

そんなにまでして、罪人たる我々人類を救おうとしてくださるイエスさま、そしてその死を見て、感じなければいけない父なる神さま。
死の恐怖を体験するイエスさまの「愛」たるや、一体どんなレベルの「愛」なのか?と思わされます。

はい、ではちょっと聖書の方に入って行きたいと思います。
先ずはマルコの福音書14章の32節〜42節を順に読み説かせていただきたいと思います。
その後、ゲツセマネの園でのイエスさまの御姿と、ある人物の姿を重ね、そのお証しを3ポイントでお話しさせていただきます。
先ずは本文を36節までとその後の節に分けて、読んでいきたいと思います。

1)本文の32〜36節

その中の32節にあります――

  32さて、彼らはゲッセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」

この「ゲッセマネ」とは、オリーブの山のふもとにある園のことで、「油搾り」の意味であります。ここでオリーブ油を搾っていたのでしょう。
しかし、このゲッセマネの園で搾り出されていたのは、芳醇なオリーブオイルだけであったのでしょうか?
実はその園では、聖きイエスさまの「血の涙」が、その罪を知らない「お身体」と「たましい」から、搾り出されていたのではないでしょうか?

そしてここのイエスさまは、最後の最後だからこそ、私たち「人間」と「愛弟子」たちと本当は一緒に祈りたかった。支えてほしかった。
共に悲しみを、痛みを分かち合いたかった。
この「祈り」こそが、互いに愛し合う、「神」と「人間」が解り合うための貴重な(コミュニケーション)ホットラインなのですから。

次に33節、2行目――

33そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、(***新改訳2017)

「イエスは深く恐れもだえ始められた」(***第3版で)の記述に着目したいと思います。
イエスさまの死ぬほどの苦しみ――文字に書いちゃうと、簡単すぎて申し訳ないんですけれども――言葉に尽くせないほどの苦しみ、悲しみ、痛みの箇所です。

この箇所を色々な訳で見てみました。聖書は幸い日本だけでも、新共同訳とかリビングバイブルとか、口語訳とか文語訳とか沢山あります。
そして英語版とかもあります。

先ず新共同訳ではここの部分は、「ひどく恐れもだえ……」
リビングバイブルでは「恐れと絶望に襲われ」
そして皆さんがお持ちの2017では、「深く悩み、もだえ始め」
口語訳では、「恐れおののきまた、悩みはじめて……」とあります。
また、ちょっと昔風のね、懐かしい匂いが漂う文語訳、「甚だしく、憂へ哀しみ……」とあります。
さらに英語版ではhorror and deepest distress とあり(笑)――ちょっと英語は私うまく読めないんですけれども――それは「恐れ、慄然と深い苦悩・悩み・苦しみ・悲嘆」と思いつく限りの悲しい、痛い言葉が羅列されています。
この羅列された言葉だけで、もう世界中の痛み・苦しみの文字が全て記されているような気がします。

このイエスさまの恐れは、肉体的な苦痛のみではなく、当初から神のご計画として本来であれば受け入れていたはずの「十字架につけられる」ということ、しかしそれは大きな矛盾であり、不条理であるということを私たちも知っています。
それは、精神的な痛み、苦しみ、苦痛のレベルで、それはまさにもう絶望であり、希望のない状態であり、憂い悲しみの深い深いレベルであります。
恐らく肉体的な苦痛もありますが、精神的な苦痛が99%ではないでしょうか?

全知全能の神の御子たるイエスさまをしても、襲われてしまう底なしの恐れ。
「耳から血が流れ出るような、血の涙に溺れるような」、見ている我々までもが痛々しくて、そのまま私たちまでもが息絶えてしまいそうな位に、壮絶な痛み、苦しみ、悲しみ、そして見捨てられてしまうという孤独……

罪のない聖なるお方が我々のために無残な「生け贄」として、「贖いの死」を遂げられるだけで、もう充分に「ありがたいこと」なのに、
さらに痛み、悲しみ、孤独まで、私たち人間と同じように味わっていただく必要なんてないと思いませんでしょうか?
もう充分だと思いませんでしょうか?
そこまでして「ダメダメな人類」に寄り添い、愛してくださる方、
こんなにも深い強い愛され方をされたなら、我々人間はあなたに、イエスさまに、父なる神さまに、聖霊さまに依り従うしかないじゃないですか。

はい、気分を変えまして(笑)、37節〜42節について読んでいきたいと思います。
ちょっと聖書の方も見ながら――

2)37〜42節

我々が「愛する」よりも先に愛してくださった、愛してくださっている、現在進行形でもありますイエスさま。
あなたは、まもなく召されようとしているのに、そのヒントは弟子たちに何度も何度も告白されているのに、
弟子たちは自分たち自身の事で精一杯で、思いを他人や主に寄せることができない。
未熟な罪人のそれは、私たちそのもの。
何年も経って、何日も経って、やっと知るあなたの貴重なメッセージに気づかず、未だに罪を犯し続ける信仰の幼い私たち。
大切な時に起きていられずに眠ってしまう未熟な我々は、肉体だけでなく、信仰もまだまだ赤子のように幼いのです。

では、「ゲツセマネでの(イエスさまの)お姿」と――実はそのもう一人登場する人物というのは、また私なんですけれども(笑)――竹内の「五年前梨瑛の召天から、神学院への献身、そして今、愛する高津教会を巣立とうとしている姿」を重ね合わせて、3ポイントでのお証しをさせていただきます。

@32〜36節前半では、
イエスさまが体感された、先ほどお話させていただいた、深い悲しみ。
オリーブの実から油を搾り取るように、イエスさまの身体から、血・汗・そして涙が、活き活きとしたたましいをも搾り尽くされました。

そして、私・竹内は五年前、妻・梨瑛の突然死の理不尽に遭遇してしまいます。
梨瑛を失った喪失感、死を受け入れられずに――これは前にも証ししましたけれども――
感情を表に出さないように自然になっていました。
そして食欲も、あんなに食欲の塊だった私が、いま復活していますけれども(大笑)、食事が十分できずに、覚えている方は、なぜかあの時は、数か月私は痩せました。
それはまさにイエスさまがオリーブの実のように、血・汗・涙を搾り取られ、悲しみ苦しまれた(ことを思い出すものでした)。
そして私(竹内神学生)も、梨瑛を失った喪失感から食欲もなくなり、何をする楽しみもなくなり、どんなにおいしそうなものを見ても、どんなに楽しそうなことを見ても、無表情、無感情で過ごす、血・汗・そして涙さえも枯れ切った姿でありました。
これが私にとってのゲツセマネの園。

Aそれから2年、私(竹内神学生)は、2016年、私は思いもよらぬ献身への道を歩んでいました。
それは36節、イエスさまが言われました。
「わたしがの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
このような究極の状態でも、「わたし、わたし」でなく、あくまで父なる神の思われる通りに、というイエスさまの信仰、生き様。
私(竹内神学生)は、私がイエスさまのように尊いということではないんですけれども、私も気がつけば献身し、牧者への道を歩む。
イエスさまと同じ、主の呼びかけに答えて「主の道」を歩んでいました。

Bそして40・41節、ご覧ください。

40そして再び戻って来てご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたがとても重くなっていたのである。彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった。
41イエスは三度目に戻って来ると、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。

ここには、どうしようもない弟子たちの姿が描かれています。
三回と書いてありますけれども――普通ですね(笑)、普通だったらもう二回言われたら、どんな人でも、ま、そんな大した先生じゃなくてもって失礼なんですけれども――学校の普通の先生に言われて、「起きていろ」と言われて普通は起きていますけれども、あのイエスさまに言われても寝ちまうという。
でも逆に言うと、それだけ弟子たちは日々、みんなのため、イエスさまのためを思って働いていたのかもしれません。
しかしもう今度の今度こそ、イエスさまは弟子たちに、十人いればそのうちの一人でも起きていて一緒に祈ってほしかった、支えてほしかったのだと思いますが、イエスさまを誰一人支えることはできませんでした。

しかし、しかし、しかし(※と段々声を大きく、三連発して)、ここから異なります。
竹内はこの患難を、梨瑛を失った悲しみを、ここ高津教会の皆さんに強く、温かく支えられて、乗り切ることができました。ハレルヤであります。
イエスさまを支えることができなかった弟子たち。
しかし私は幸いにも、勿論イエスさまであるとか、藤本先生の支えもありますが、そして高津教会のお一人お一人に支えられて、乗り切ることができましたことを感謝したいと思います。

人生これ以上はないと思えるような痛み・悲しみに襲われることがあります。
そんな時、あらゆることを信じられなくなってしまいます。
そんな時は、泣きながらでも私たちは祈る。
しかし、そんな時こそ、だからこそ神さまは、そんな時共にいて、共に悲しみ、最もふさわしい時に、ふさわしい形で祈りに応え、最善を現してくださる、と信じます。
私たちは主につながるぶどうの枝であり、
教会の祈りの友として、支え、支えられ、
祈り合う信仰の兄弟姉妹の集う高津教会の存在に心から感謝いたします。
ありがとうございます。

梨瑛ちん? 気づくと、俊ちんは神学生になっていました。
最近聞いたのは、梨瑛が実は私が献身するのを望んでいた、ということを最近知りました。
君はいつも小さな女の子のように、無邪気で、ありのままで、本当にイエスさまが大好きで、毎日日記帳に「イエスさま宛のラブレター」を書いていました。
「祈り」と言いつつ、その祈りは実は「イエスさまとの心の電話、ラブコール」のような感じでした(笑)。
召された後、その日記を私は発見して読んで、ヤキモチを焼いたぐらいです。

結局君はイエスさまと相思相愛のラブラブだったから、神さまに可愛がられて、天国に呼び戻されて御国へ召されてしまった。
いえ、それ以上に最近になって気づかされたのは、君は「一粒の麦」だったのかもしれない。

でも寂しくはありません。また会える。
そうイエスさまは、良いことしかなさらないお方。
イエスさまを信じ語り続けていたら、きっとまた天国で会える、と信じたい。

梨瑛が行きたかったBTC、聖宣神学院で学び、梨瑛が伝え続けて、伝え足りなかったイエスさまのすごさ!すっぱらしさ!を今度は私が伝える。
「イエスさまって人は、神さまは、人間が好きで好きで堪らなくて、好き過ぎて代わりに死んじゃったんだよね!すごいよね!俺らにはできないよね!」と言いながら。

イエスさま? あなたはずるいです。大好きなあなたと梨瑛の両方から言われたら、「あなた」を語るしかない、伝えるしかない。

梨瑛はもうすっかり、私の中に入り込んで、いつものビッグ・ハグで、沢山のプレゼントと愛とおせっかいをもって、ニコニコと満面の笑みで駆け寄ってくるようです。

梨瑛?見えていますか?
いま君が大好きだった高津教会の皆さんの前で、なんとメッセージをしています。
思い出すよね、9年前、来て早々の私たち夫婦に、怖がらずに話しかけてくださった高津教会の皆さん。
お赤飯弁当は二人の大好物でした(笑)。
梨瑛は金髪、長いつけまつげで、多分皆さんは笑いを堪えていたのではないかと思います(笑)。
そして私(竹内神学生)はタバコ臭くて(笑)、その臭いにも皆さん我慢してくださり、二人して派手な格好で来ても、笑顔で迎えてくださり(笑)、
水曜夜の祈祷会がいつの間にか楽しみに変わっていました。
それはイエスさまと、高津教会の皆さまの笑顔のおかげであります。

高津で受け取った「笑顔」と、毎週水曜の祈祷会で鍛え、身につけた「祈り魂!」を持って、姫路へ、ちょっと大げさですが世界へ、主の愛を広げ繋げてまいります。
大きく、ホンワカと、イエスさまのように、支えていただきありがとうございました。
メッセージは以上です。
お祈りさせていただきます。

☆お祈り――竹内神学生

恵み深き天の父なる神さま、主の御名を賛美いたします。私の誕生日と母の誕生日の中日、まさに年度の切り替わり、また日本的な元号の切り替わりの時でもあります。この時を境に、私はクリスチャンを、イエスさまを知らない者からイエスさまを知った者、そしてイエスさまを伝える者へと新しく生まれ変わらせていただきました。

それは私ひとりで為されたものではなく、梨瑛やイエスさま、神さまのお導きがありましたが、ほぼ毎回教会に通い続け、祈り、学ぶことができたのは、そこにいて時には素っ気なく、時には温かく迎え入れてくださった高津教会の皆さん、藤本先生、圭子先生、栄造先生、戸塚先生、上げていったら切りがありませんが、皆さんのおかげです。
どうか神さま、神さまの祝福と栄光、み恵みがいつまでもこの高津教会に降り注ぎますように。
感謝してイエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

※ありがとうございました、と言って講師の席へ戻る竹内神学生


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