☆聖書箇所 マタイ28:16〜20
16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。 17そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。 18イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。 19ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、 20わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがとともにいます。」
☆説教 2019イースター:復活の主は私の所に来てくださる
今朝はピリピの手紙の学びを一時中断いたしまして、マタイの福音書の復活の記事を見ていただきました。 説教のタイトルは、「復活の主は私のところに来てくださる」であります。
イースターは教会の礼拝の中で最も重要な礼拝です。 神を礼拝するということは、旧約聖書の昔からあります。 しかし、クリスチャンが、キリスト者が神を礼拝するということの原点は、イースターの朝にあります。
旧約聖書とヘブルの人の礼拝は土曜日です。 今でも、ユダヤ教の礼拝は土曜日です。 このイースターを越えて、クリスチャンは礼拝を日曜日にしました。 それはこの日に、主がよみがえられたからです。 この日に、主が出会ってくださり、主を礼拝したからです。
イースターの朝、初めてイエスさまを礼拝した様子が、(マタイ28章)9節に書いてあります。
9すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。
と書いてあるのが、聖書の中で、イエスを礼拝している一番初めの場面です。 「おはよう」という言葉はこれは挨拶の言葉ですから、夜であれば「こんばんは」です。 でもイエスさまは私たちに挨拶の声をかけてくださる。礼拝で必ず声をかけてくださる。 もしかしたら皆さんにとりまして、誰とも話をしない、挨拶をしない日曜日であるかもしれません。 しかし礼拝に来る度に、礼拝でイエスさまご自身が私たちを迎えてくださり、私たちに「おはよう」と声をかけてくださる。 これは大変な勇気です。
私(藤本牧師)はだいぶ忘れてしまいました。昔、選挙の時に、松沢さんだったかなぁ? 今でも国会議員をしておられると思いますが――彼が市会議員から始まったんだろうと思いますが―― ある夏の疲れた日、高津駅で降りて、ほんとにもう疲れて10時頃だったと思いますが、改札の所で、「皆さん、お疲れさま。松沢でございます」という、その一つ一つの丁寧な挨拶を聞きながら、「あ、この人に入れよう」と思いました(大笑)。 あまりそういうの良くないのかもしれませんが(笑)、私はこの方の挨拶によって、とっても励まされました。 ものすごく暑い、疲れた日でしたけれど、ネクタイして、そしてスーツで「皆さん、お疲れさまでございます」と声をかけてくださったことの嬉しさと言うんですかね、 往々にして、私たちは家に帰っても誰も声をかけてくれない、というそういう状況が待っていますので、誰かに声をかけてもらうことの嬉しさっていうのはあるんです。
イエスさまは「おはよう」と言って声をかけてくださる。 ですから教会の私たちは、いつも誰かに出会ったら、隣の人に「おはようございます」とどこかで声をかけるということの大切さですね。 これが(マタイ28章)16節と17節にも繰り返されています。 これはイースターの朝ではなく、今度は弟子たちに出会っている場面ですが、16節――
16さて、十一人の弟子たちは(***ということは、イエスを裏切ったユダはもうここにはいませんでした、と説明)ガリラヤに行き(***エルサレムからガリラヤに戻ってですね、と説明)、イエスが指示された山に登った。 17そしてイエスに会って礼拝した。……
これは「イエスに出会って礼拝した」です。 よみがえられたイエスが私たちと出会う。その御前でひれ伏して礼拝をするというのが、礼拝の原点であり、礼拝の考え方です。 私たちはいつも十字架と復活のイエスに会い、その御前にひれ伏す。
私たちが礼拝する復活の主というのは、いかなるお方なのか? 3つのポイントを見て短くお話をします。
1)この方は赦しをもって近づいてくださる
この方は復活のイエスのみならず、十字架のイエスです。 ですから赦しをもって、近づいて来てくださいます。
(マタイ28章)17節で、弟子たちはガリラヤの山で復活されたイエスにひれ伏して礼拝いたしますが、先ほど申し上げましたように、弟子たちは11人となっています。 それはユダは裏切った後悔と絶望の中で、彼は自死いたしました。 残ったのは11人ですが、この11人もイエスさまを捨てて、十字架の前に散り散りばらばらになっていった11人です。 イエスさまが逮捕される時に、蜘蛛の子を散らすように逃げて行きました。
主イエスの十字架の死と埋葬を見届けたのは、彼らではなく女性たちでありました。 弟子の筆頭でありましたペテロは、イエスさまが裁判にかかっている間、大祭司の官邸の裏庭でたき火に当たりながら、「あなたもあのイエスの仲間ですよね?」と言われた時に、イエスさまのことを「あいつなんか知らない」と三度、徹底的にイエスさまとの関わりを断ち切ってしまいます。 ですからこの16節で、集まって来た弟子たちというのは、礼拝をするどころか、主の御前に出ることさえもできない人たちでありました。
ところが、18節に「イエスは近づいて来て」とあります。 ここはとっても興味深いです。 9節もう一回見ていただきますと、「彼女たちは近寄って」とあります。そしてイエスさまを礼拝した。 十字架の主を見届け、その埋葬に至るまで最後まで手を尽くした女たちは、自分から主に近づくことができたのでありましょう。 しかし、蜘蛛の子を散らすように逃げて行った弟子たちには、主に近づくことができなかった。 そういう彼ら、主を裏切り見捨ててしまったという後ろめたさを持っている11人の弟子たちに、イエスさまの方が近づいて行かれました。 イエスさまの方で、なんと「平安があなたがたにあるように」(***ヨハネ20:19、21、26)と仰るんですね。 礼拝する者、礼拝の場に来る者っていうのは既にイエスさまに受け入れられている者たちです。 私たちはイエスさまに受け入れられている者たちです。
ドフトエフスキー(***ロシアの思想家、小説家1821〜1881)の「罪と罰」(***1866)という分厚い本があります。 ロシアのキリスト教文学の最高峰。 その場面に、ラスコーリニコフとソーニャ、二人の男女の主人公がこんな話をします。 ちょうどこの二人が、ラザロの復活の物語を読む前の会話なんですけれども。
ラスコーリニコフがソーニャについてある疑問を抱きます。 一体彼女はどうしてこんなに惨めな境遇に甘んじているんだろうか? どうしてこんなに長い間この苦境に耐えているんだろうか? ソーニャという女性は、貧しさの中で、父親や弟たちの生活を支えるために、売春婦に身を落としていたわけですね。
ラスコーリニコフは自分の内側で三つの可能性を考えます。 つまり人間が限界状況に陥った時に、三つの可能性があるのではないか。 一つは自殺です。彼は、ソーニャはよく身投げする決心がつかなかったものだとも考えます。 二番目の可能性は、発狂するというものです。 三番目の可能性は、もしかしたらそれが彼女を支えてきたのかもしれない。 それは淫乱な心ではないだろうか? つまり限界の状況の中で、ふてぶてしく人間は居座ることができるという可能性がある。
でもラスコーリニコフは、この三つのうち、ソーニャはどれにも当てはまらないのではないかと考えます。 そのどれでもないとすれば、一体何なのか? そこで、彼女にこう言います。 「それで君は、まさか神さまにお祈りをするのか?ソーニャ」 お祈りをするのか?――ソーニャはただ黙って、その場に立っています。 ラスコーリニコフは、返事を待ちます。
息詰る時が流れて、その後で、ドストエフスキーの圧倒的な叙述が続きます。 その内容はこうですね。 「神さまがいなかったら、どうして生きて来られたでしょうか?」
私たちが礼拝に来て、自分自身がふさわしくない者であるという自覚を十二分に持っています。 そしてこれから聖餐にあずかろうと思った時に、その自覚はもっと大きくなるに違いありません。 でもどんな状況であっても、私を受け入れてくださる神さまがいなかったら、私はどうして生きて来られたでしょう? 人間には、限界状況に至っても、自殺もしない、狂いもしない、罪の中に居直ることもしない、そういう可能性がある。 祈る時に、礼拝する時に、主イエス・キリストが、十字架にかかったイエスが近づいて来て、罪深い私に近づいて来て、受け入れてくださる恵みというものが礼拝にはある、ということをドフトエフスキーは言いたかったわけですね。 「神さまが私と共にいてくださらなかったら、どうして生きて来られたでしょう?」 これがイースターのメッセージです。
主の復活がなかったら、主がもう一度戻って来て、私たちを迎えてくださらなかったら、主がこの状況で私を受け入れてくださらなければ、私に希望はない。 よみがえりの主は、罪深くも、信頼し、すがる彼らを、私たちを受け入れてくださいます。 両手を広げて受け入れてくださいます。 ですから、私たちが今朝聖餐の恵みにあずかる時に、主は両手を広げて、罪深い私たちを赦して、受け入れてくださる、ということを心に留めてください。
2)疑いを拭い去る主が近づく
これはトマスの記事(***ヨハネ20:24〜29)を見るとよく分かるんですが、今回はそれを避けて17節にこういう言葉があります。 (マタイ28章)17節をちょっとご一緒に読んでみたいと思います。 非常に興味深いですね。17節――
17そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。
「疑う者もいた」――何を疑うんだろうか?と思います。 主イエスは本当に復活したのか?という疑いなんだろうと思いますけれども、 でも少なくとも彼らは、いま生きておられる主イエスを目の前に見ているわけですよね。
いったい何を疑ったのだろうか? 私(藤本牧師)は、この言葉は、むしろ私たちのためにあるような気がします。 礼拝を守り、信仰者として歩みつつも、やっぱり「疑う」ということは、私たちの人生から離れないですね。 イエスさまは本当に復活したのだろうか?という疑いもあれば、 奇跡というものは本当にあるんだろうか?という疑いもあれば、 しかし、私たちが抱く最も根本的な疑いは、神さまは本当にこんな自分を愛しておられるんだろうか?という疑いです。 この世の人生において、私たちは色んな苦しみ、悲しみに遭います。思ってもみなかったことが起こります。 その苦しみ・悲しみの中で、私たちはイエスさまの愛を疑います。
昔、受難週の金曜日に、教会のある姉妹からメールをもらいました。 そのメールは「私には、十字架の贖いがよくわかりません」というメールでした。 私(藤本牧師)はそのメールに返事をしました、返事はこうです。 「いや、分かっているはずです。自分の罪深さが分かるなら、イエスさまの愛にすがろうとするなら、分かるはずです。分からない、分からないと、むやみやたらに言わない方がいいですよ」って。 「割と冷たいメールだなぁ」と(大笑)改めて自分で思ってしまいました。 でもその方は「本当に分からなかった」って言うんですね。 「洗礼を受けて20年30年になっているのに、いつまで経っても分からない、分からないなんて言うもんじゃない。」 それは世界中に何億といる人間の中で、どうして神さまが、こんなつまらない私を愛してくださるのか?ということが分からなかった。 ま、そう言われてみると、その疑いは私の中にもあるかもしれない。 世界中に何億といる中で、どうして神さまがこんなにつまらない私を愛してくださるのか?ということが分からなかった。
なんと金曜日、その夜ですね、イエスさまはこの姉妹に、夢の中に現れてくださいます。ふっと、うたた寝をしていた時にですね、 夢を見た姉妹は、私にメールを送ってくださいました。 そのまんま、読みますね。
「先生、4月7日の深夜、私はなぜか不思議な幻を見ました。数百メートル先が丘の頂上になっており――というのは、自分の家から上って行った所に公園があるらしいんですけれども――そこでイエスさまは十字架にかかっておられるのです。膝を曲げて、冴えない姿で。辺りには誰もいない。聖書の中にも出て来た群衆も犯罪人の十字架も、そこにはありません。ただ一人イエスさまだけが十字架にかかっていました。ただ私のためだけに、十字架にかかったイエスさまが、何も言わずにおられるのです。
私は今まで恐ろしいことを考えていました。山ほどいるクリスチャンのための、たった一人のイエスさまのいのち、そうなると、あまり大したことではないのかもしれない。でも人類が一人ならば、それは物凄いことだ。人間が私一人しかいなくても、イエスさまは私のために十字架にかかってくださったと考えたならば、それは物凄いことだということが分かりました。」
疑いに陥る私たちに、復活された主イエスが近づいて来ます。 「あなたの人生を、そこに起こるすべての事を支配しているのは、悪魔の力や死の力ではない。 ――死に打ち勝った神の恵みがあなたの人生を支配している。 ――わたしが、あなたのすべての罪を背負って十字架にかかって死んだ。そのわたしの死によって、あなたの罪は赦されている。 そしてあなたはわたしの復活にあずかって、神に赦された者として、新しく生きることができる。」 イエスさまはそう仰る。そう仰って、私たちを疑いから引き上げてくださる。
それが起こるのが礼拝ですよ。 そこでそれが起こらないなら、礼拝は礼拝になってないと言ってもいい位で、 どの福音書でも、一番最初の礼拝を見ると、そういうことが起こっています。 罪深き彼らがゆるされ、彼らのうちにある疑いが取り除かれ、そしてイエスさまはトマスに仰いますよね。 「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(***ヨハネ20:27) 「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
3)イエスさまは権威をもって、私たちに近づいて来てくださる
弟子たちに近づいて、イエスさまは仰いました。 (マタイ28章)18節から読んでいきますね。
18イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。(***近づいて来て、近づいて来て、と何回も出て来ますでしょう?と説明)「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。 19ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、 20わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
この最後の言葉の最初は「天においても地においても、一切の権威がわたしに与えられている」と。 神さまがお造りになったこの世界の全体において、最高の権威と力を持っておられるということです。 私たちは色んな力の下敷きになりますね――人間関係が一番多いのかもしれない。社会の組織がそうなのかもしれない。国家や制度という権力なのかもしれない――様々な力の支配下にあります。
しかし、そんな私たちが究極的に絶対に逃げられないのは「死」です。 何から逃げようが、「死」からは逃れられないですね。 人間はどんな力や権威を手に入れ、自分の思いのままに生き、すべての願いを叶えたとしても、死に打ち勝つことはできない。 で、「復活」はその「死」の力を打ち破ったことの象徴です。
ですから、子どもたちは教会学校でも、また今日、そのイースター・エッグというものを持って帰ります。 「復活」は、私たちが絶対逃れられない「死」の支配さえも主イエス・キリストが打ち破ったとするならば、 私たちが他に圧迫される「心配」という権威、「思い煩い」という支配、「厄介な人間関係」や「人生の課題」という様々な仕組み――そこからさえも、主は私たちを復活させてくださいます。 そのことを信じようではありませんか? なかなか納得いかなくても、信じようではありませんか?
ドイツのハノーバーの墓地に、興味深いお墓があるという話を聞いたことがあります。 これはドイツから出ている説教集に書いてありました。 キリスト教の復活を、意固地なまでに否定していた女性がいた。 彼女は、生きているうちに、自分の墓をデザインします。 大きな御影石と大理石でできた墓を、封印するかのように、鋼鉄の留め金で固定するという。一番上の石を固定する。 そしてその表面には、「この墓が開けられることは絶対にない」と刻印されていました。
高津教会の墓石には、二文字で大きく「復活」と書いてあります。ね。 この女性の墓石には、「絶対に復活しない。復活はない」というメッセージが刻まれています。
ところが時が経って、一粒の種が、墓石の隙間で根を張るようになります。 それがやがて成長し、鉄のボルトを腐らせ、捻じ曲げ、その石を持ち上げていったという話です。
一粒の種でいい――と言うならば、私たちにしてみると「一つの聖書の言葉でいい」。 時に、私たちの様々な人生の課題が、重い墓石のように私たちを抑え込んでいく時に、 重たい石に封印され、私たちはあえて「この墓が開けられることは絶対にない」と刻みたくなる私たちの人生。 しかし、みことばの小さな種が、鉄のボルトを、その成長と共に捻じ曲げていくことができる。
人生の様々な墓石に、イエスさまは「復活」と、スタンプを押していかれる。 主よ。どうか私の人生のこの問題に、あなたの「復活」というスタンプを押してください。 一切の力と権威を持っておられるあなた自身が、 「見よ。世の終わりまでわたしはあなたとともにいる」と語りかけ、 「復活」というスタンプを押してください。
☆お祈り――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、あなたはいつも私たちに出会って、私たちに近づいて、気持ちよく迎えてくださいます。「おはよう」と声をかけ、そして十字架の傷跡を見せ、「わたしはあなたの罪のため、たった一人でも、あなたの罪のために十字架にかかった」と仰ってくださり、人生の課題の中で、こんなに沢山の人間がいて、どうして私のような人間一人を主は愛してくださるだろう――そんな疑いを晴らせて、あなたは仰います。「信じない者にならないで信じる者になりなさい」と。
そしてあなたの権威をもって、どうにも動かない石を動かしてくださるあなたの力に期待する、今日のこの日とさせてください。まだまだ石は重いかもしれません。でも「みことばの種が蒔かれた時に、必ずあなたが石を動かしてくださる」という希望を、私たちはしっかり胸にしまい込むことができますようにお助けください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
☆聖餐式の讃美 福265 主の食卓を囲み
以下は「聖日説教」に掲載
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