☆聖書箇所 ピリピ2:19〜24
19私は早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。あなたがたのことを知って、励ましを受けるためです。 20テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。 21みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。 22しかし、テモテが適任であることは、あなたがたが知っています。子が父に仕えるように、テモテは私とともに福音のために奉仕してきました。 23ですから、私のことがどうなるのか分かり次第、すぐに彼を送りたいと望んでいます。 24また、私自身も近いうちに行けると、主にあって確信しています。
☆説教 ピリピ(11)パウロの友テモテ
受難週とイースターが入りましたので、ピリピの手紙の学びを中断しておりました。 で、今日は2章の19節に戻っていただいて、そしてパウロとテモテという、この人物に少し注目したいと思います。 聖書をちょっとじっくり見ていただいて、初めにこの箇所の文脈をもう一回捉えておきたいと思います。
2章に入りまして学びました。パウロがピリピの教会について気になっていることがあるわけです。 それは「教会が一つになっていない」という現実でありました。
ですから(ピリピ2章の)1節でパウロはこう説明しています。
<ピリピ2:1> 1ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
「あるなら」――これは「もしあるのなら」という仮定ではありません。 実際あるわけです。教会ですから。主イエスによって救われ、教会に連なる者とされた私たちには、いつもキリストにあっての励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情と憐れみの中を生かされています。
そこでパウロは、ピリピの教会に与えられているこの霊的な現実を、もっと積極的に生きるように勧めます。それが2節なんですね。
<ピリピ2:2> 2あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
この「霊的な現実を生きる」ことを邪魔している問題というのは、ピリピの教会にも、また私たちの教会にもあります。 それが4節ですね。
<ピリピ2:4> 4それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
とあるように、霊的な現実を邪魔する問題というのは、何といっても自己中心です。 ついつい私たちは自分のことだけを考え、ほかの人のことを顧みることをいたしません。
そうして、パウロはキリストの模範を教えます。 当時、まだこの手紙が書かれる前に既に存在していた「キリスト讃歌」と呼ばれる文書を彼は引用します。 その6節と7節、始めの部分に――
<ピリピ2:6〜8> 6 キリストは、神の御姿であられるのに、 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、 7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、 人間と同じようになられました。…… (そして8節――) 8 自らを低くして、死にまで、 それも十字架の死にまで従われました。
私たちを救うために、ご自分を卑しくされたキリストを語り、そして5節を見てください。
<ピリピ2:5> 5キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。 (※有名な文語訳では、汝らキリストの心を心とせよ)
というのが、この2章の文脈なわけですよね?
で、「キリスト・イエスの心を心として」生きている実例を、パウロは3つ挙げています。 @一つは自分自身です。17節を見てください。ちょっとこれ、ご一緒に読みたいと思います。
<ピリピ2:17> 17たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
要するに、私の殉教、私の死でさえ、 「もしそれが、いのちの言葉を握って、恐れおののいて自分の救いを達成しようとしている、あなたがたの助けになるなら、私は自分のいのちなんかどうでもいい」 と言う程、ピリピの教会のことを考えているわけですね。
A2番目の実例は(ピリピ2章の)20節のテモテに現れます。
<ピリピ2:20> 20テモテのように、私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。
ということで、このテモテをピリピの教会に送りたいということを言っているわけです。 「私と同じ心になって」というのは、テモテはパウロと同じ心になっています。 で、パウロはキリストの心と同じ心になっています。
B加えて(ピリピ2章)25節から、3番目の実例として、エパフロディトを挙げます。
<ピリピ2:25、30> 25私は、私の兄弟、同労者、戦友であり、あなたがたの使者で、私の必要に仕えてくれたエパフロディトを、あなたがたのところに送り返す必要があると考えました。
彼もまたそうです(※キリストの心を生きている実例)。30節を見ていただきますと――
30彼はキリストの働きのために、死ぬばかりになりました。あなたがたが私に仕えることができなかった分を果たすため、いのちの危険を冒したのです。
三人とも、どこかで他者のことを自分以上に気遣い、キリストのために他者のために、いのちを注ぎ出す覚悟を持っていました。
そういう流れの中で2章全体が記されているんだ、ということを心に留めながら、 今日はテモテを見ていただきたいと思います。
1)テモテについて聖書はどのように語っているのか?
ちょっと一回使ってみたいと思うんですが、この聖書の一番優秀な所は、 実は裏に地図が付いている。この地図だけも出版されている程、有名なんです。 地図の13番目を見てください。 地中海全域、小アジアとギリシャの都市が描いてあります。 上の方に<地図13:パウロの第1次、第2次伝道旅行>とこうありますが、 パウロがテモテに出会ったのは、第二次伝道旅行の時でありました。
すると、点線ではなくて、真っ直ぐな赤い線です。 で、ダマスコの教会から出発し、ま、エルサレムからダマスコを経由して、 ちょっと私は聖書を見ますが、皆さんは地図を見てください。
聖書によると、<使徒の働きの16章の1節>で、 パウロが第二次伝道旅行で、シラスを伴って出発します。 そしてシリア、わかります?右側の方にありますよね?シリアの地方。 それからキリキアの地方、右側の方にご覧いただけました? それからキリキアから少し西に、左に行った所にリステラという小アジアの町がありますでしょう?
なんとなくわかります?全然違う所見ています?そんなことないですよね?(笑) あのう、地図の第13番目、パウロの伝道旅行の第二回目の赤い線で、 右の一番下にエルサレムがある。それからぐ〜と上がってダマスコ、そこを通ってシリア地方、もう少し西に行ってキリキア、そして西に行ってリステラ――この町で、パウロは初めてテモテと出会いました。
<使徒の働きの16章の1節>を見ますと、父親がギリシャ人、母親がユダヤ人、おばあちゃんの頃から敬虔なクリスチャンであったテモテ。 運命的な出会いをします。テモテという言葉は、「神を崇める」という、そういう意味の名前がついていました。 パウロは「これからの伝道旅行に君を一緒に連れて行きたい」――その申し出をテモテは受けます。 テモテはまだユダヤ人の割礼を受けてない、ギリシャの世界に住んでいた人物でありました。 これからユダヤ教の会堂を回る時に、割礼を受けていないと怪しまれ、迫害されるかもしれないと、そこで青年テモテに敢えてユダヤ教の割礼を施し、 それからというもの、パウロはいつもこのテモテと一緒でありました。
開きませんけれども、<(使徒の働き)17章>ではシラスとテモテがベレアに行きます。 そして、パウロはアテネのアクロポリス(※アレオパゴス議会)に行きます。 それから<(同)18章>では、コリントで合流し、 <(同)20章>では、パウロがエペソの近くの港ミレトスからエルサレムに帰るまで、テモテはず〜っと一緒にいました。
これも開きませんけれども、<ローマ人への手紙の16章の21節>を見ますと、 この手紙を記した時に、テモテが一緒にいることが記されています。 <コリントの手紙の第二の1章の1節>でも、<コロサイの手紙1章の1節>でも、<テサロニケの手紙(1章の1節)>でも、
そして晩年には、パウロはテモテに手紙を書いています。 最後の手紙、<第二テモテ>で、パウロはテモテのことを、「愛する子テモテへ」(1章2節)という風に始まります。 彼と共にキリストのために労する人たちは沢山いました。 イエスさまは沢山の同労者を備えてくださいました。 しかし、このテモテは、パウロの子どものようになり、いや私(藤本牧師)はパウロの友となったんだろうと思います。 そして、テモテはパウロの人生の最後まで、パウロに寄り添っていきました。 親子ほどの年齢差で、パウロは沢山のことをテモテに教えました。 しかし二人はそれ以上に親しみのある関係でありました。
2)友は、どんな人?
それで第二テモテを一緒に見ていただきたいと思います。 テモテへの手紙、第二の4章9節。 一体どんな関係にあったのか? 9節から11節までを交替に読んでいきたいと思います。11節は一緒に読むことになりますが一緒に交読いたします。
<Uテモテ4:9〜11> 9あなたは、何とかして早く私のところに来てください。 10デマスは今の世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまいました。また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行きました。 11ルカだけが私とともにいます。マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。
この手紙がパウロが記した最後の手紙です。 そしてこの手紙を最後に、パウロは殉教していきます。 今読んだ所に、9節に「何とかして早く、私のところに来てください」と。 彼のもとを離れて行った人々が10節に記されています。 デマスは信仰を捨てたように見えてしまいますが、クレスケンス、テトスはそうではなくして、宣教のために違う町に出ていきました。 そういう中で、(パウロはテモテに)特別に「私のところに来てほしい」という切実な願いを発しています。
あるイギリスの雑誌社が、友だちという言葉の定義を一般から募集したことがあると、聞いたことが、読んだことがあります。 友だちってなんだ?何千っていう、このすてきな定義が寄せられて、なかなか良い定義でありますが、ちょっと紹介しますと――
友とは、私の喜びを共に喜んで何倍にもしてくれ、私の悲しみを共に悲しんで何分の一かにしてくれる人。
友とは私の沈黙を理解してくれる人。 沈んでいる時、誰とも話したくない時に、そっとそばに座ってくれ、ま、それだけこちらの悲しみが友の方に流れていく、そういう人物ですね。
優秀賞をもらった定義というのは、 「友とは、この世のすべてが、潮が引くように私のもとを去って行く時、私のもとに来てくれる人」です。
人生そういう風に感じる時がありますね。 「この世のすべてが、私のもとを潮が引くように去って行った時に、私のもとに来てくれる人」――それは言うまでもなく、第二テモテの手紙ではイエスさまご自身でありました。
第二テモテの今4章を見ていただきましたけれども、その4章の16節、17節、私(藤本牧師)が16節を読みますので、17節を皆さんで読んでください。
<Uテモテ4:16〜17> 16私の最初の弁明の際、だれも私を支持してくれず、みな私を見捨ててしまいました。どうか、その責任を彼らが負わせられることがありませんように。 17しかし、主は私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。こうして私は獅子の口から救い出されたのです。
最初の弁明というのは、ローマ帝国における最初の裁判です。 そこに彼が連れて行かれた時に、「だれも私を支持してくれず、みな私を見捨てました」、という中で、17節「しかし、主は私とともに立ち、私に力を与えてくださいました」ですから、やっぱり私たちの一番の友は、イエス・キリストです。 世が私たちを、潮が引くように私たちのもとから去っていく時に、イエスさまだけは私と共に立ち、私に力を与えてくださいます。
で、もし、私たちがパウロに、 「先生、イエスさま以外に、あなたの一番の友は誰ですか?」 と聞いたら、間違いなくパウロはテモテを挙げるでしょう。 牢獄の中で交わりから引き離されて、そこから脱することができない、このパウロは、 誰に一番会いたいのか?と尋ねれば、テモテに会いたい。 そしてテモテに手紙を書いて、これまで一緒に生きて来た、一緒に主に仕えて来たテモテに会いたい。 だから、「(何とかして」早く私のところに来てください」(9節)
パウロには家族はいませんでした。仲間はいました。同志もいました。また他にも多くの、キリストにあって共に労する者がいました。 でもテモテは特別です。それは多くの労苦を共にして来たからです。
いま第二テモテの4章を開いていますが、3章を見ていただけますか? 第二テモテの3章の10節と11節――多くの労苦を共にして来た。 3章の10節と11節を読みたいと思いますが、私(藤本牧師)が10節を読みますので、皆さんが11節を読んでください。
<Uテモテ3:10〜11> 10しかしあなたは、私の教え、生き方、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、 11また、アンティオキア、イコニオン、リステラで私に降りかかった迫害や苦難に、よくついて来てくれました。私はそのような迫害に耐えました。そして、主はそのすべてから私を救い出してくださいました。
ま、ここだろうと思いますね。 テモテはパウロから多くのものを吸収しました。それが10節です――「私の教え、生き方、計画、信仰、寛容、愛、忍耐」 でも一番パウロの心に留まっているのは、11節――「あなたは私に降りかかった迫害や苦難に、よくついて来てくれました」です。
私たちの人生で様々な重荷や辛い瞬間というのがあるんですが、その場面で一緒にいてくれる人、その場面にあって、自分の重荷を共に担ってくれる人、一緒について来てくれる人のことは、多分一生忘れないんだろうと思います。
私の両親(藤本栄造・幸子牧師夫妻)がこの教会で長い間40年ほど牧会し、そして引退し93と90ですから、色々話しますと、ま、老人性のこともあるのかも知れませんが、昔の話の方が全然多いですね。 今の自分がどうなっているというよりも、教会のあの方はどうしているということの方が多いです。
それはパウロと同じ心境で、自分の人生の終わりに向かって行った時に、ね、 私の教え、生き方、計画、信仰、寛容、愛、忍耐――そういうものをあなたは吸収してくれたという以上に、 あの辛い時期、あの大変な重荷を、よくあなたは一緒に担い、私について来てくれた、という思いが、パウロにしてみると、一番テモテに感謝していることですね。
パウロとテモテの関係というのは、親子の関係に近い。なぜなら、年齢的にそうだからです。もう年齢的に親と子どもというぐらい離れています。
ピリピの手紙に戻っていただきますと、ピリピの手紙の2章の22節に――
22しかし、テモテが適任であることは、あなたがたが知っています。【私は自分がピリピの教会に行けないから、19節の頭に早くテモテをピリピの教会に送りたいと。なぜならテモテは適任であると、説明】子が父に仕えるように、テモテは私とともに福音のために奉仕してきました。
「子が父に仕えるように」というのは、テモテはそのようにして、尊敬をもって、愛情をもって、パウロに仕えて来た。 でもそれだけではない。テモテは私と共に福音のために奉仕をして来たと。 その「年齢差」で言えば親子。でも「奉仕をして来た」という点においては、友のように、どんな時にも、テモテはパウロについて来た。そして一緒であった。 私(藤本牧師)は、そういう友を一人でも持っているパウロは幸せだなぁと思います。 (パウロには)家族はいなかったかも知れない。 でも自分が苦労している時に、その苦労を黙って理解してくれ、自分を支えてくれるような友を持っているパウロは、実に幸せですね。
私たちのこの教会というのは、どうなんでしょう? 広くて浅い交わりという場合もあるでしょうし、狭くて深い交わりという場合もあるでしょうし、教会で私たちは兄弟姉妹と呼びますけれども、 しかし、その本当の意味での友って、どういう風にして見つけるんだろうか?というのは、それは私たち自身の課題です。 むしろそういう人間関係をあまり持たない方が、自分としては楽だという人もいると思います。 そういう友が、この世の友であっても、私(藤本牧師)は何にも問題ないと思います。 でも自分の人生の中で、自分の抱えている苦難や悲しみを分かち合うような友がいれば、 そしてもし自分が牢獄にいるとしたら、誰に一番来てほしいと言ったら、 「彼に、あの人に一番会いたい」と言えるような友人を持っている人は幸せですね。
3)そういう意味で、テモテはパウロと心を一つにしているだけでなく、キリストと心を一つにしている。これが三番目なんですけれども――
ちょっと間単にお話して終わりにしたいと思います。 (ピリピ2章の)20節、もう一回一緒に20節を読んでいきたいと思います。
20テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。
申し上げましたように、「キリストの心を心として生きたい」と願っているパウロ。 でもそのパウロと心を一つにしているテモテ。 同じようにエパフロディトという人もそうなんです。 実はピリピの教会にも沢山、そういう人はいるんです。
私(藤本牧師)は、棕櫚の聖日に、釧路の教会に行ってまいりました。 二年前に釧路の教会から、牧師先生を他の教会に転任させたことによって、釧路の教会は牧師がいなくなりました。 受難週ですので、聖餐式を一緒にしたいと。 日頃は深川の教会とインターネットを繋いで、釧路の教会に、ま、そこそこの教会なんですけれども、三人集い、四人集い。 で、インターネットで観ているだけですので――深川の教会の先生は話しかけたりして、よく交わりの中に取り込んでおられますけれども――ま、聖餐式がなかなかできないので、私(藤本牧師)がまいりました。
あちらには、「勝手にホテルに、レンタカーで行きますので」とお伝えしたんですが、出口を出たら、なんと待っておられて(大笑)、私は 「到着の便を教えていなかったですよね?どうして、いらっしゃるんですか?」って言ったら、 「先生が夜遅くいらっしゃるので、ず〜っと待ってました」と。 「えっ、どれぐらい待ってたんですか?却って申し訳ない」 「二時間ぐらい待ってました」と。
ま、一緒にご主人とお茶をしながら、便が着くとなれば、降りて来る所で私(藤本牧師)を捜していたと。 奥さまは以前から皆さんのまとめ役で、一緒に来てくださったご主人というのはクリスチャンではない。 小学校の先生をしていて、校長先生となり、エジプトのカイロで日本人学校の校長先生もしておられた、と色々伺いました。
教会の中心的なメンバーはもう一人の女性。女性二人なんですよね。 高齢化が進んでいまして、10年前に私が行った時より二人、人数が少なくなっています。天に召されました。 教会堂は、二階は牧師館になっていまして、牧師がいないと建物の管理、庭の管理ができないという。 そういう中で、どうしようか?と。牧師が不在になる少し前に十字架の塔が壊れました。 これは修理しないと、どんどん雨漏りが進んで建物自体がだめになるということで、 牧師はいなくなるんだけれども、教団の方で60万円出して十字架の塔を修理しました。 その時設計士を通じて、「近くに安い住まいを捜しておられる夫婦がいる」ということを、私たちは聞きまして、その方に住んでいただくことにしました、という風に伺いました。
その方に日曜日にお会いしました。社会福祉の関係のお仕事で、クリスチャンではないんですけれども、教会堂も庭もきれいにしていてくださり、 何よりも(ありがたいのは、)10時の礼拝に皆が着いた時には、会堂が暖かいということは、8時ぐらいには暖房を入れていてくださるということですね。
合流ができたらと願っていてくださった近くの単立の教会がありました。釧路福音館でしたかね? でもそちらの方も牧師先生が代わり、少し雰囲気が変わり、難しくなったようでした。
(礼拝は)なんと多くて、一人二人、ゼロの時もある。 そして聖餐式をやるということで、6人の方が来られましたけれども、 その中心的な姉妹が、献金を全部まとめて、礼拝の人数を報告して、なんと献金の中から10分の1を、今でも教団の本部に毎月送金しておられるんです。 それはある意味、こんなことを言うと、前の福田先生に申し訳ないんですが、牧師がいた頃よりもしっかりしていました(大笑)。
それはもしかしたら、どの教会もそうなのかもしれない。 そういう教会が地方にはわんさかあるんですよ。わんさかあるんです。 何しろ日本のキリスト教会の60%は所謂国が言う所の「限界集落」の中に入っていますので、牧師がいなくなるだけじゃなくして、信徒がいなくなる。 80代後半ぐらいから礼拝にも来られなくなる、と言った時に、 それは牧師を支える所の信徒もいなければ、牧師もいないという教会が、2030年には60%ぐらいになる――と言われています。
それでも見事なまでに教会が存続していました。 それはその姉妹が、自分自身のことを求めず、イエス・キリストのことを求めている。 真実に、テモテのように、自分のことを考えずに、周囲の者たちのことを考えているからですよね。
そうしますと、もう一回聖書に戻っていただきますと、 ピリピの手紙の2章の20節に――
20テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者はだれもいません。
だからテモテを送ります、と。21節は、まるでピリピの教会の現状のようですよね?
21みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。
こんな手紙をパウロはピリピの教会に書いてしまった、と私(藤本牧師)は思います。 そしてテモテが派遣されたら、テモテは帰って来て、パウロに報告するはずですね。 「先生、あれは言い過ぎですよ。 私たちと同じように、キリストの心を心としている方々が、ピリピの教会には沢山おられましたよ。 先生は牢獄かもしれない。私も違う所にいるかもしれない。 でも、みんな自分自身のことばかりを求めていて、互いに顧み合わない教会ではありませんでした。 ピリピという教会はすばらしい教会です。 パウロ先生、ちょっとここで言い過ぎたんじゃないですか?」 と、私(藤本牧師は)は、テモテはパウロに報告したんじゃないかと思うんです。
そして、テモテはもう一つ口を挟んで、(ピリピ)1章を見てください。 「先生、あの手紙、最初の所で、先生はこういう風に書いておられましたよね。 1章の3節――
<ピリピ1章3〜6節> 3私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。 4あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、 5あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。 6あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。
と、パウロ先生、あなたはピリピの教会への手紙に書いたじゃないですか。 だったら大丈夫ですよ。 私(テモテ)はまさにキリスト・イエスの心を心としながら、牧師がいなくても互いにケアして、その信仰生涯を全うしようとしている、 ピリピの教会の人々、釧路の教会の人々、高津の教会の人々、日本の地方の教会の人々を見て来ました」 とテモテは、報告するのではないかと思います。
そしてその報告を受けて、パウロは心を慰められ、励まされ、 「もしかしたら一人でこの牢獄で息絶えるかもしれない。 しかし、私のして来たことは決して無駄ではなかった。 私がいる・いないに関わらず、イエス・キリストは教会を守っていてくださる」 ということを実感したのではないかと思います。 私たちもそういう教会でありますように。
☆お祈りをいたします――藤本牧師
5あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。 6あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。 (ピリピ1章5〜6節)
恵み深い天の父なる神さま、この確信が揺るぐような場面は多々あります。「牧師がいなければ、この教会はどうなるんだろうか?」とか「もし私たち自身が礼拝に通うことができないほど、体調を崩してしまったらどうなるのか?」
いや、あなたはこの世界が潮が引くように、私のもとから去って行ったとしても、「私と共に立ってくださり、私に力を与えてくださる救い主」(Uテモテ4:17)です。のみならず、あの孤独なパウロにテモテを備えたように、私にも友人を備えてくださり、自分のことかのように私を心配して、私のために祈って、私に語りかけ、私を慰め、力づけてくださる友人を与えていてくださることを心から感謝いたします。
そういう友人になることができるように、私たちに力を与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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