☆聖書箇所 ヨハネ3:16
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
☆説教 与えるために
ヨハネの福音書の3章の16節、この言葉を詳しく説明する意図はありません。 しかしこの有名な聖書の言葉は、様々な意味で、聖書のメッセージそのものである、ということを覚えて、(ヨハネ)3章の16節、一度共に読んでおきたいと思います。
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
「ひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
「お母さん、のどが渇いた。何か飲みたい」 これはガーニャという4歳になる女の子の悲痛な訴えでありました。 1988年12月7日、ソビエトのアルメニアの出来事でありました。 午前11時41分にこの地方最大の地震がありまして、5千人のいのちが奪われてしまいます。
ガーニャとお母さんは自宅のアパートが激しく崩れ、そして何トンものコンクリートと鉄筋のがれきの山に埋もれてしまいました。 この親子の横には、既に息を絶えた母親の妹の遺体もありました。
地震の激しい揺れがあり、お母さんはすぐに娘を腕に抱えて、どうしようと思った瞬間に、床がスト〜ンと崩れて、9階建てのアパートの地下へと放り込まれて落ちていきました。 それ以来、何とか生き延びるんですけれども、娘さんはお母さんに
「お母さん、のどが渇いた。のどが渇いた」 と何回も、か弱い声で、お母さんは何か飲むものを捜すんですけれども、一向に見当たりません。
お母さんも娘も仰向けに床に倒れ、分厚いコンクリートの壁が僅か数十センチの所で覆いかぶさるように止まっている、というその状況の中、真っ暗な中で手探りして、 お母さんはようやくブラックベリーのジャムが床に転がっているのを見つけて、それを少しずつ舐めて、もう二目になろうとしていました。
で、「お母さん、のどが渇いた」です。
自分たちはもうだめだ。でも何とか娘に生き延びてほしい。 アルメニアの冬がやって来る時期でありました。 この寒さの中、お母さんはストッキングを脱いで、それを娘の身体に巻き付け、 二人身体を寄せ合ってなんと8日間も、助け出されるまで8日間も生き延びていきます。
真っ暗な中で、母と娘には、時間の感覚はもう全然ありませんでした。 勿論手足の感覚さえもありません。 動くことさえもできずに、ただ死を待っていただけの母親でありますが、 もうだめだ。もう本当にだめだ。一緒にこの子と死ねるだけでも自分は幸せなんだ、 と思いながら、8日間過ぎていきます。
でもそのようにして諦めそうになる度に、母親を奮い立たせる言葉がありました。 それが娘の「お母さん、のどが渇いた」という訴えです。 そう訴えを聞いている内に、「この子よりも自分は先に死ねない」――お母さんは思うようになりました。
彼女は真っ暗な中で、一つの考えが頭に浮かびました。 それは以前テレビの特集番組で見た、南極探検隊の話でありました。 喉が渇いて死にかけていた仲間の隊員に、ある人物が手を切って、血を流して、その血を飲ませて助けたという話でありました。
お母さんはそれを思い出して、そこらにあるガラスの破片を見つけて、そして左手の人差し指を傷つけ、 「ガーニャ、お母さんの指をしゃぶって、これを飲みなさい」と。 そんなちょっこっとの血では、渇きは癒えませんでした。 どういうことになるのか、想像もできない小さな娘は、自分がお母さんの血を飲んでいるなんて意識は全くなく、 「お母さん、まだのどが渇いている。もっと飲ませて。もっと飲ませて」と。 お母さんは、何度も自分の指を切っては、飲ませました。 こうしなければ、娘が生き延びる方法はありません。 それだけを考えて、指を切った。
お母さんの血が娘の唯一の希望でありました。
「与えるために」というのは不思議な言葉ですね。 地上のお母さんには沢山の役割があり、沢山の使命があり、同時に欠けも弱さも沢山あります。 でもどこかで、この「与えるために」という方向性と言いましょうか、それがとてもイエスさまと似ています。 お母さんというのは、「与えるために」、子どもに与えるために存在している、存在の方向性というものを持っています。 それはイエス・キリストと同じです。イエス・キリストも自分のいのちを与えるために、(この世に来られました)。
それゆえに、主は私たちに問われます。 「あなたは渇いていないか?」と。そして「さあ、渇いているなら、わたしのもとに来なさい」と。 「イエスさまの存在の方向性」というものは、最近、ピリピの手紙で学びました。 「キリストの心を心とせよ」という「キリスト賛歌」の中で、 原始キリスト教会は、不思議にも「イエス・キリストの存在の方向性」というものを掴んでいました。 まだ新約聖書の書物ができ上がる、記される以前のことでありましたけれども。
このイエス・キリストというお方は、ご自分の栄光の姿ではなく、私たちのことを顧みて、ご自分を空しくして、しもべの姿を取られました。 ルターはこんなことを言うんですね。 「ただのイエス・キリストというのは、非常に考えにくい。考えられない」 私たちも、ただのイエス・キリストというものの言い方はおかしいですけれども、 それは神学の本を見れば「イエス・キリスト」ということが色々記されています――三位一体の第二の格であるとか、キリストが創造者であるとか――でもそれって、ものすごく考えにくい。 で、ルターが言うには、キリストは「いつも私たちのために」「私のために」という修飾語がついて初めて、キリストという存在が私たちにわかるようになる、と言うのです。
ちょっと下世話な話で申し訳ないんですが、以前私が妙に感動したテレビの宣伝がありました。 皆さんもその宣伝を覚えておられると思うんですが、 女性の方が、友人と食事をしているんですね。 デザートが出て来ますと、半分食べて半分残ったデザートを、友人がそっとフォークを出して食べちゃうんですよ。 「えっ、なにそれ?」って言いますと、すると、友人が言うんですね。 「あなたのためよ」(笑)。
「あなたのため」――その宣伝のシリーズはずっと続くんです。 何か食べていると、必ず友人が半分持っていくんです。 で、「なにそれ?」って言うと、「あなたのためだから」って。 宣伝は外為オンラインの宣伝なんですね(笑)。 外為オンラインという、「あなたのためだから」「あなたのためだから」って。
私(藤本牧師)があの宣伝に妙〜に共感を受けたのは、やはりその言葉ですね。 「あなたのためだから」という、あれ程何度も何度も強調されるあの言葉っていうのは、 「イエス・キリストの存在」を表す言葉なんですよ。 私たちは「主イエス・キリスト」と言いますけれども、実はそうではない、「私のための主イエス・キリスト」なんです。
同じように私たちは「母親」という表現をしますけれども、しかし独立した母親の人格を考えるのでなく、「私のお母さん」を考えるんです。 他の人は「おばさん」と呼ぶんです(笑)。自分のお母さんを「おばさん」と呼ぶ人はいないんです(笑)。 お母さんと言う時に、それは自分との関わりにおいて、初めて存在する。 イエス・キリストというお方は、「私のために」という関わりがあって初めて、キリストの意味があるわけですね。
ですからルターの言った言葉の意味がわかります。 私たちがキリストを考える時に、三位一体のキリスト、創造者なるキリスト、栄光のキリスト、色々あると思います。 しかし、「キリストの存在の方向性」というのは、初めから決まっていて、それは紛れもなく「あなたのために」なんです。
色々あるんですよね。 私たちは十字架、十字架と言いますけれども、「十字架」という単体の言葉は意味がないんですよ。 私たちは略して「十字架」と言いますけれども、十字架ではなく、「十字架にかかられたキリスト」なんです。 私たちが考えているのは、棒切れが二つ組み合わさっている十字架ではない。 あくまで本来そこにおられるべき「十字架にかかられたキリスト」で、 しかも「十字架にかかられたキリスト」という事実がそこに存在しているのではなくて、 「私の罪のために十字架にかかられたキリスト」という所まで行かない限り、 キリストの意味合いは何ら私たちの人生に影響を与えないじゃないですか?
母親という一人の人物もいますでしょう。 その人物には特性があり、欠けがあり、また長所があり短所があり、様々な賜物や使命も働きもあるかもしれませんけれども、 私が「母親」と呼ぶ時に、それは「私にとっての母親」であり、 母親にしてみれば、「私はあなたのために母親なんだ」なんですよね。
それはイエス・キリストと同じで、 あなたのためにキリストは、身を低くして世に来られ、 あなたのためにキリストは、死の苦しみをその身に受け、 あなたのためにキリストは、よみにくだり、 あなたのためにキリストは、復活され、 そしてこのキリストはあなたのために、この世界に再び来られる。
という風に私とキリストというものが、くっつかない限り、 つまり私と母親というものが、くっつかない限り、それが母親にならないのと同じように、 私とキリストがくっつかない限り、キリストと私の関わりはないんですね。
で、2点短く見ていただきたいと思いますが――
1)この方は与える方です。
3章の16節を見ていただくとわかりますが、「神は、」とありますが――
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。……
「世を愛された」――ここに出て来るギリシャ語はコスモスというギリシャ語です。 宇宙ですね。 コスモスと言えば、あの美しく調和のとれた花を思い出す人もいますし、 あるいはギリシャ語で、調和のとれた宇宙、このすばらしい世界を言うかもしれません。
ところが聖書は、このコスモスの霊的な実態、それゆえにこのコスモスの乱れた惨状を見ています。 このコスモスは、19節をちょっと見てください。
19そのさばきとは、光が世に来ているのに、(光がコスモスの所に来ているのに、と説明)自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。
つまり、コスモスというのは「闇」なわけですよね。 愛すべきことを知っているのに、愛せない、寛容であるべきことを考えているのに、互いに裁き合う。 すべき善よりも、すべきでない悪を愛し、そこに腰を下ろし、そこから抜け出すことができない世、すなわち私たち。 そして20節を見ていただきますと――
20悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。
コスモスをむしろ愛する。
ではそういうコスモスは、いったいどうなるのか? イエスさまの側に行くことを好まない世界。 イエスさまの前に行って、自分の行いが明るみに出るのを恐れて、イエスさまに背を向けるような私たち、コスモス。 素直になりたくても、なかなかなれない私たち。 正義でありたくても、いろんなものを着込んで、対面ばかり繕って、そして頑固になる私たち。 この「闇」に等しきコスモスは、普通はどうなるのか?と言えば、17節を見ればよくわかります。
17神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
これが驚きの言葉です。 つまり、「神がこの闇の世を裁く」と言う方が自然なんです。 神と世との関係を考えた時に、これほど光を拒絶する世を神は裁かれる。 ところが驚くべきメッセージは、17節の後半にある。 「いやいや、御子イエス・キリストは、この世を救うという方向性を取られた」ということです。
この方はご自分のいのちを私たちに与えるために、この世界に来られました。 それがこの方の存在の方向性であったということが、きれいに描かれているのが、ヨハネの福音書の3章です。 それはまるで母親の存在の方向性が、子どものために向かっているかのように、 キリストの存在の方向性というのは、私たちに向かっています。
2)与える方は、いつも私たちに問われています。
二番目に、ヨハネの福音書の7章の37節を見てください。 7章の37節を、ちょっと一緒にこれは読んでみたいと思うんですね。 先程の「渇く」「お母さん、のどが渇いた」っていうのと同じですが、(ヨハネ7章)37節を読んでみたいと思います。
<ヨハネ7:37> 37さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
イエスさまは「与える」という方向性を持っておられるという話をしました。 でも、与えるという方向性を持っておられたとしても、 「私は渇いている」と娘が母親に訴えたように、私たちが神に訴えない限り、 イエスさまは私たちの方に向かないです。
「祭りの大いなる日」というのは、ユダヤ人の「仮庵の祭り」で、世界中か巡礼をもってエルサレムに人々が集まって来ました。 でも人々は祭りの騒ぎに興じて、自分たちが本当に霊的に渇いているという意識はない。 つまり「仮庵の祭り」というのは、ユダヤ教の三大祭りの一つですから、そこには非常に霊的な意味が含まれています。
エジプトを出たイスラエルの人々が昔、荒野でテントを張りました。 そのように、当時、男性は一週間、二週間と都を出て、そしてテント生活をします。 そこに於いて、彼らは今の豊かな生活の中で、昔のように改めて渇きを体験します。 そして神殿に戻って来て、神殿に注がれる水から、自分たちの渇きを潤します。 でもそれは一つの祭りの出来事であって、私たちが喉が渇いたら、ペットボトルを買い、カフェに行って水を飲み、何か渇きを満たすのと同じことです。
イエスさまはそうではなくて、大きな声で言われた。 「だれでも渇いているなら」というのは、「あなたがたは、真実に霊的な渇きを感じない限り、わたしがあなたのために存在するという、存在の方向性は発揮できない」 つまり、こういうことです。 私たちがイエスさまに「イエスさま、私は渇いています」と言わない限り、イエスさまのいのちの水は、私たちの上に注がれないです。
段々気温が上がって来ますと、私たちは「渇いている」という思いで、コンビニに立ち寄ります。 「すごくのどが渇いた」と思いながら、私たちは自動販売機の前に立ちます。 そして冷たいボトルが出てきたら、それを一気に飲みます。 それが私たちの「渇いている」という感覚と、「渇きが満たされた」という実感です。 ごめんなさい、それ以上の実感は私たちにはないと思います。
聖書が訴えているのは、そうではなく、「私たちの人生の中で、どうしようもない渇きというのがあるのではないか?」とイエスさまは仰っているのですね。 それは日常の生活の水をどんなに飲んだところで、自分自身の霊的な渇きは癒やされない。 物足りないどころか、何か砂を飲んでいるかのように自分は苦しい。 自分の問題に一向に解決が見えて来ない。満足もなければ、癒しもない。 何か人生がカラカラに乾いているように思う。 いっそ人生を変えた方がいいんじゃないかと私たちは考えるわけですよね。 それで、私たちは、「そうだ、職を変えてみよう」とか、「そうだ、住む場所を変えてみよう」とか、家を変えてみよう、車を変えてみよう、変えてみるものは沢山あるわけです。
イエスさまが仰っているのは、そうではない。 「もし、あなたがそういう渇きを覚えているなら、わたしのところに来て飲みなさい」と、 つまり招きです。 「わたしは与えるために来た。 わたしはいのちの水をあなたに注ぐために来た。 でもあなたが自分自身の渇きをわたしのところに持って来ない限り、わたしはそれを癒やしてあげることができない」 とイエスさまは、私たちにいつも語りかけてくださっているわけですよね。 「のど渇いてない?」「のど渇いてない?」って。
ゴールデンウイークに孫が二人来ました。 この二人は全然性格が違いまして、ま、性格というか傾向、体質が違うんですね。 一人は、兄ちゃんの方は、ほとんど飲まない。ほとんどトイレに行かない。 もう一人は、電車で普通に500mlのペットボトルをポッと渡しますとね、30分後には全部飲み終えているわけですよね。そして着いたなり、すぐトイレに行く。 ああ、人間って違うんだなぁと(思います)。 殆んど渇きを覚えない人は、飲まないし、その分トイレに行かない。 ところがすごく渇く人は、すぐ飲みたいと言って、そしてやっぱりトイレに行く。 で、医学的に言えば、どっちの方が健康的なのかわかりませんけれども、そういう体質はあるわけですよね。
私(藤本牧師)は物凄くのどが渇く方なんです。従ってトイレにも行く方なんです。 カバンの中には必ずペットボトルを入れておく方なんです。 ですから、人も同じだろうと思って、いつも尋ねるわけですね。 「のど渇いてない?」「飲む?」「もう一本あるけど、どう?」 必ず、断られますね(大笑)。そうすると、私のカバンの中に入っているもう一本のペットボトルというのは、ま、無駄に終わる。 ま、渇いてないからいいわけですけれども、
イエスさまは同じように、私は尋ねるんじゃないかと思うんですよ。 「あなたは渇いてないのか?」って。 そりゃ、私たちの問題っていうのは、渇いている、渇いてないの問題じゃないですよ。 私たちの問題っていうのは、経済の問題であり、あるいは健康の問題であり、明日の問題であり、でも究極的に考えれば、それは人生の問題なんですよ。 最終的に考えれば、それは永遠のいのちの問題なんです。 いのちの水を、私たちはどれくらい得るかどうか、という問題なんですが、 私たちはその究極の問題をイエスさまの所には持って来ないです。 そしてすぐにインターネットで検索して、この渇きを癒やす方法は他にないのか?を考える。
イエスさまがお尋ねになるのは、「あなたは渇いてないのか?」 どうして尋ねるのか? 「わたしは、あなたのためにいる」「わたしはあなたのために来た」 「わたしはあなたのために十字架にかかった」「わたしはあなたのために再び来る」「わたしはあなたのために復活した」 「『わたしという存在は、あなたのためにある』ということをもう少し認識してほしい」 ということを、お母さん(イエスさま?)も願っておられると思うんですよね。 お母さん、そういう「母の日」でありますように、一言お祈りをいたします。
☆お祈り――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、私たちは自分の人生を自分で生きているかのように思いますし、親から自立して自分の足で歩いているかのように思いますが、しかし振り返ってみますと、母親が自分のためにどれほど尽くしてくれたのか?母親の存在が自分を犠牲にしてでも、私を生かすためにあった、ということをふと思いを起こします。
それと同じように、イエスさま、あなたはご自身のために、この世界に来られたのでなく、ご自身を空しくして、ご自身を貧しくして、私たちを富ませるためにこの世界に来られました。そのあなたが、私たちに向かって「あなたは渇いてないのか?」と言われた時に、日曜日毎に、あるいは日々そのことを問われた時に、「主よ、私は渇いています」と、「私は困っています」「私は悩んでいます」「私は寂しいです」「私は不安です」――そのことを素直にあなたにお話しすることができますように。なぜなら、あなたは私のためにおられるのですから。愛する主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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