☆聖書箇所 民数記14:1〜25
1全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。 2イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。 3なぜ【主】は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」 4そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」 5そこで、モーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会の集まっている前でひれ伏した。 6すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、 7イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。 8もし、私たちが【主】の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。 9ただ、【主】にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし【主】が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」 10しかし全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出した。そのとき、【主】の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現れた。 11【主】はモーセに仰せられた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。 12わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」 13モーセは【主】に申し上げた。「エジプトは、あなたが御力によって、彼らのうちからこの民を導き出されたことを聞いて、 14この地の住民に告げましょう。事実、彼らは、あなた、【主】がこの民のうちにおられ、あなた、【主】がまのあたりに現れて、あなたの雲が彼らの上に立ち、あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱のうちにあって、彼らの前を歩んでおられるのを聞いているのです。 15そこでもし、あなたがこの民をひとり残らず殺すなら、あなたのうわさを聞いた異邦の民は次のように言うでしょう。 16『【主】はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、彼らを荒野で殺したのだ。』 17どうか今、わが主の大きな力を現してください。あなたは次のように約束されました。 18『【主】は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす』と。 19あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」 20【主】は仰せられた。「わたしはあなたのことばどおりに赦そう。 21しかしながら、わたしが生きており、【主】の栄光が全地に満ちている以上、 22エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行ったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、 23わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。 24ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。 25低地にはアマレク人とカナン人が住んでいるので、あなたがたは、あす、向きを変えて葦の海の道を通り、荒野へ出発せよ。」
☆説教 神の人モーセ(42)他の者と違った心を持つ私たち
民数記の14章を見ていただきました。先週の、実は続きです。先週一週間ではとてもではありませんが、全部をカバーすることはできませんでしたが、話の流れはこうです。
荒野を旅してきたイスラエルの民は、とうとう約束の地カナンを前にします。そのときにモーセは偵察隊を派遣したということが、13章から始まります。神さまが連れ上ると約束されたその地は、それはそれはすばらしい地でありました。13章の23節に、偵察隊はその地の収穫を証拠として持って帰ってきます。
13:23彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが一ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った。
ぶどう一ふさをふたりでかつぐほどの大きさであったと。しかしながら、その地に住んでいる人々は非常に背が高かった。屈強な戦闘民族でありました。13章の32節から――
32彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。 33そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」
自分が小さく見え、周囲の目からも自分が小さく感じられた。そして14章の1節に――
14:1全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。
占領できるはずがない。約束の地だか何だか解らないけれども、「我々はもうひとりの指導者を立てて、モーセ以外の人物を立てて、さっさとエジプトに帰ろう」(14:4)と民は言い始めます。
偵察隊は十二部族から各一名ずつ(13:2)十二名でありました。そしてヨシュアとカレブの二人を除いて、他の十名は絶対に勝てないとおびえてしまったばかりか、それを声高に全会衆の前で報告し、人々は泣き明かす。
14章の7節に、これも前回見ました。でもヨシュアとカレブだけは――14章の7節から読んでいきますが――
7イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。 8もし、私たちが【主】の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。」
大らかな希望に溢れて、ぜひ行こうではありませんか(と、ヨシュアとカレブは自分たちの着物を引き裂いて、信仰者の視点をアピールしました)。 さて、そこまでお話をしました前回の続きとして、今日の学びをしたいと思います。今日は2つのポイントでお話をします。
1)大らかな希望を持って、信仰を持ってぜひ占領しましょうと言ったふたりは、神さまから称賛を受けます。
その称賛のことばが14章の24節にこう記されています。ちょっと24節をご一緒に読みたいと思います。
24ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。
ここで出て来ているのは、カレブの名前だけですが、30節をご覧いただきますと、「ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、……」と、この二人がほかの者と違った心を持っていたと、神さまから評価されています。
これは英語ではちょっと有名なフレーズです。24節の「ほかの者と違った心を持っていて」というのは ――“different spirit” ――違うスピリットを持っていた。他の十人とは違うスピリット、信仰を持っていた。
今年の元旦の聖句は、ダニエル書の10章の12節でありました。
ダニエル10:12恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。
ダニエルという人物は少年の頃にバビロンに連れて来られました。エルサレムから奴隷と捕られて異教の地バビロンに住むようになります。 非常に優れていた彼は王の目に留まり、バビロンでエリートの訓練を受けるのです。 それでも自分はバビロンのさまざまな文化には染まりたくないという思いで、彼は少年の頃に王が食べるご馳走には手をつけまいと、王の飲む酒には自分は口をつけまいと、ユダヤ人としての独自の考え方、価値観、そして信仰を貫こうと心に定めた。――“different spirit” です。
みんなが食べるものでも自分は食べない。みんながすることでも自分はしないと、みんなの価値観とは自分は違う生き方をする。 ダニエルは捕囚に連れて来られたバビロンにあって、自分の信仰を貫いていくのです。 その信仰というのは、唯一まことの神のみを信じ、その神の御心だけを自分は(求めて)生き抜いていく、と心に定める。
ダニエルの人生にはさまざまなことがありました。でもそのさまざまなことがあった晩年に、ダニエルは神さまの声を聞くのです。それが、 「恐れるな。あなたがそのように心に定めた初めの日から、――あの少年の日以来――ず〜っとあなたの祈りは聞かれている」(10:12)
周囲の流れに身を任せ、自分の信仰をいくらでも妥協して生きることの方が、どれほど楽であったに違いない。 しかし、ダニエルも、カレブも、また私たちも、神を信じる信仰の核心に妥協はしないのです。
他に妥協すべきことは、山ほどあったに違いない。 ダニエルは、事実バビロンの王たちに仕えます。バビロンの名前をもらいます。まさにバビロンという世界で活躍していった人物です。 しかし、いつも彼は自分は「他の者とは違う心」を持っている、「他のスピリット(信仰)」で自分は生きている(という自覚がありました)。
カレブとヨシュアは、なんと神に対する絶対的な信仰の故に、殺されかけるのです。(民数記の)14章の10節を見てください。 今日は、ちょっと聖書をじっくり読みながら、物語を読み取っていきたいと思いますが、民数記の14章10節に――
14:10しかし全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出した。
他の者と違った心を持って生きていこうとすると、少なからず抵抗にあう。しかもヨシュアとカレブは全会衆で石打ちの刑にされるほどまで、危機的な状況に立たされる。
しかし、この二人は、神さまによって守られます。10節の最後に――
10……そのとき、【主】の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現れた。 11【主】はモーセに仰せられた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。
神さまは非常に厳しい裁定を下されます。29節ご覧ください。このかたくなな不信仰な民への裁定は29節に記されています。
29この荒野で、あなた方は死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。 30ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決して入ることはできない。
違ったスピリットを持って、たとえみんなに石で打ち殺そうとされながらも、神さまの裁定は、――みなこの地で死ぬと言われます。でも信仰を貫いたヨシュアとカレブだけはわたしが約束した地に入ると。
34節見てください。神さまのもう一つ厳しい裁定。
34あなたがたがかの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎を負わなければならない。(こうしてわたしへの反抗が何かを思い知ろう)。
四十年、彼らは荒野をさまようことになります。四十日探った日数を一日一年と換算して、あなたがたは四十年荒野をさまよった。しかし、それでも、38節――
38しかし、かの地を探りに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブは生き残った。 神さまの裁定はとても厳しいものでありました。でもその厳しい裁定が下されるたびに聖書は記しているのです。 この違った心を持った――different spiritを持った――この二人に関しては、その裁定も別だということはどういうことか? それは神さまはこの二人を特別扱いされたということです。
私たちが覚えておかなければいけないことは、時にこの信仰の故にこの世で損をしているのではないかと思わされることも多々ある。この信仰の故に私たちの先輩の多くは殺されていく、殉教の死を迎えるようなキリスト教の歴史を私たちは実際に知っているわけですね。
もうすぐ「少年H」という映画が封切られますね。壮年会のメールでは、早速沼津の小島先生が、あの日本映画好きの小島先生が(笑)、とても「少年H」に期待すると(ブログなどで仰っているとか)。 (原作者の)妹尾河童(せのお・かっぱ:1930年生まれ、グラフィック・デザイナー、舞台美術家、エッセイスト.)さんというのは有名なイラストレーターですね。 私(藤本牧師)は、インドで神学校にもう15年ぐらい前にいました。そのときに、横溝眞理兄が妹尾河童さんが描いたインドの生活をですね、細か〜なイラストで紹介してくださったことを思い出します。
とても優れた人物ですが、お母さんはインマヌエルの神戸教会の前身の家庭集会から熱心なインマヌエルの信徒です。妹尾河童さんは自分のお母さんの信仰を受け継いでいろんな所で信仰に関わる講演をしておられます。 それで小島さんが見せてくださったのですけれども、今その「少年H 」という、封切られる映画のワンシーン、予告シーンに、神戸教会の岩上頼子先生がエキストラとして出演されている。牧師が日本映画でエキストラに出演するというのは珍しい。
実は「少年H」は、戦争時代を生き抜くあの家族の物語というのが、インマヌエルではちょっと有名なのですね。神戸の地にあって、教会がどういう風に闘い抜いたか、そこまで知ることはできませんが、しかし普通の信仰者、一人の信仰を持った人間が、小さな子どもを連れながら、あの戦時下をどういう風に生き抜いていったか、大変に励まされる大作ですね。
もうすぐ私たちは終戦(記念日)を迎えますが、終戦の(日を迎える)度ごとに私たちが心に刻むのは、戦後の貧しさもあります。戦争の残虐さもあります。しかし日本のキリスト者がどうしても思い出さなければいけないのは、その中で日本のクリスチャンが受けた弾圧ですよね。
多くの教会が解散され、百数十名の牧師が牢獄に収監され、そして徹底的にキリスト教が弾圧され、憲兵が集会に座り、少しでも天皇制を批判することがあれば直ちに教会が解散され、そして日本の教会に御真影が飾られ、礼拝の讃美を歌う前に宮城(皇居?)に向かって拝礼しという、そのような屈辱を強いられて来た。 その中でいのちを失ってしまった牧師もいれば、あるいは妥協を強いられた教会もあって、私たちはいつもそういうことを考えなければいけない。
私たちが韓国の教会に強いたその責任ですが、日本の教会の牧師がわざわざ韓国まで出向いて行って、そして天皇もキリストも同じようなものだみたいなことを言って、同じく御真影に拝礼をさせた。 日本の教会は戦争の後に戦責告白というものを出しました。その戦責告白というのがとても遅れた。ドイツの教会は戦責告白が早かったのに、どうして日本人はゼロからの出発――自分の罪の愚かさを認めて――早くにゼロからの出発をしなかったのかという、そういう反省もあります。
そうしたことがすべて、このヨシュアとカレブのdifferent spiritの中に入っている。彼らは自分の信仰を貫くためにいのちをかけた。そして、いのちをかけた信仰を神さまがどれほど評価されたか。――わたしに背いた者たちは、みんな二十歳以上(の者は)、この荒野でいのちを途絶える。でもこの二人だけは、わたしは特別な扱いをする。
神さまに特別扱いされる信仰者になりたい。「この世にあっては苦労するかもしれない。でもいつも神さまは私を特別扱いして下さった」そのような頷きをもって、最後天国に、約束の地に戻っていく者でありたいと思います。
2)またとりなしをするモーセ
14章13節からちょっと見て行きます。12節から見れば解りやすい。 神さまが先ほど申し上げました裁定を下す前に、12節に――(以下19節までモーセの長〜いとりなしのことばを読まれる。)
12わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」 13モーセは【主】に申し上げた。「エジプトは、あなたが御力によって、彼らのうちからこの民を導き出されたことを聞いて、 14この地の住民に告げましょう。事実、彼らは、あなた、【主】がこの民のうちにおられ、あなた、【主】がまのあたりに現れて、あなたの雲が彼らの上に立ち、あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱のうちにあって、彼らの前を歩んでおられるのを聞いているのです。 15そこでもし、あなたがこの民をひとり残らず殺すなら、あなたのうわさを聞いた異邦の民は次のように言うでしょう。 16『【主】はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、彼らを荒野で殺したのだ。』 17どうか今、わが主の大きな力を現してください。あなたは次のように約束されました。 18『【主】は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす』と。 19あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」
長〜い文章です。(13節〜19節まで)モーセはまたとりなしているのです。
しばらく前に、十戒の板を受け取っている間に、モーセがシナイ山に上ったきり帰って来ない。不安になった民は、モーセを捨てて、神さまを捨てて、金の子牛を造って祭り上げています。 その薄っぺらな信仰、簡単に背を向ける信仰を見た神さまは「この民はわたしの民にはなり得ない。滅ぼしてしまおう」という時に、「どうか神さま、あなたの御名の栄光のために、この民を滅ぼさないでください。もしかなわないなら、私をあなたのいのちの書から消し去ってください」と自分のいのちを張って、破れの狭間に立った、とりなしたモーセを一緒に見ました。(***出エジプト記32章)
それからしばらくして、モーセはまた破れの狭間に立ってとりなすのです。(民数記14章)15節の「(神さま、あなたが)もしここでひとり残らず滅ぼすなら、そのうわさを聞いて異邦の民はこう言うでしょう――16節【主】はこの民を、彼らに誓った地に導き入れられなかったので、彼らを荒野で殺したのだろうと。どうか、神さま、あなたの御名のために、彼らの罪を赦してください」 さらにとりなしの決定的なのは、19節ですね――「あなたの大きな恵みによってこの民を赦してください」
ここに神の人モーセ、神の民イスラエルの指導者モーセの姿が浮き彫りにされています。どういうことか? モーセは指導者です。モーセは民の先頭に立っていました。モーセは神の奇跡を導き出す人物でありました。 しかし彼が神の人であり、指導者であったのは、彼が民の罪をすべて背負ってとりなす者であったからです。
彼が奇跡を導き出している場面と、彼がとりなしている場面とどっちが多いのか?エジプトにおける十の奇跡がありますから、奇跡の場面もかなり多いでしょう。 しかし、どちらが詳しく記されているのか?どちらがモーセのことばを全文載せているのか?恐らく、モーセがとりなしている場面の方がモーセの言葉数が多い。 そして振り返って考えて見ますと、モーセという指導者はいっつも民の罪を背負って、いっつも神の前でとりなしていたのだということがわかります。
人として、聖書の歴史の中で最大の指導者はモーセです。ダビデではありません。ペテロでもパウロでもありません。それだけ多くの民を率いて何かをしたという人物は、ダントツでモーセです。 モーセこそが人生を注ぎ出して民を率いて荒野を旅した人物です。
その指導者モーセの最大の働きは、民のために将来のヴィジョンを作ることではなく、行政手腕を振るうことではなく、彼はひたすら神さまと交わり、顔と顔を合わせて神さまと語り、いつも民の失敗、民の罪深さ、愚かさを背負い、そしてどこまでもあきらめず、人々のすべてを背負って、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください、赦してくださいと神さまにとりなす人であった。――これがモーセが傑出していたところです。
彼が傑出していたのは、ヴィジョンにあらず、指導力にあらず、民の問題課題を背負い、神の御前にとりなす能力に長けていた。 言い換えると、絶えることのない愛にモーセは満たされていた。――私(藤本牧師)はこれがモーセの指導者(として)の姿であろうと思います。 このモーセの姿はおおよそ聖書の中でさえ、他の誰もまねのできなかったものではないかと思います。
神さまはどのような指導者を一番喜ばれるのか?真実を見抜いて正義の裁きを下せる指導者なのか、将来を見抜いて的確なヴィジョンで民を導く指導者なのか、実はそうではない。 神さまが喜ばれたのは、民を愛し、神さまの恵みの大きさを、どんな状況でも見失うことなく、ひたすら恵みの大きさにすがったモーセの愛でした。
今日は選挙ですけれども、おおよそ世の指導者はそういうことを考えないです。もしかしたらキリスト教の指導者も、そういうことをあまり考えないかもしれない。
今キリスト教会はどこもが牧師の退職ラッシュで、苦労しているわけですから、なかなか教会に牧師を派遣することができない。そういう苦労の中でさまざまに奔走するのですけれども、モーセの姿を見ていると考えさせられます。彼はひたすらとりなしている。
申し上げたようにこの世界の指導者も、恐らくキリスト教の指導者もそういうことをあまり考えない。でも私は失望することはないと思います。 それはこの世界にも、そしてこの教会にも、神さまの恵みの大きさを決して見失わない(人たちが沢山おられるから)。
神さまの恵みの大きさがわからなくなってしまいますと、途端に、罪、咎、そして現状の難しさに圧倒されて、そしてあぁこれでだめだ。あぁこれでもう難しくなったという方向に、私たちの心が傾いていく。
でも、(恵みの大きさを知っている人たちは)「罪がいや増すところには、問題課題がいや増すところには、神さまの恵みはさらに満ち溢れる」(***ローマ5:20)という視点を絶対に見失わない。 そしてひたすら祈り続ける人はこの教会に沢山おられる。 そしてこの日本にもそういうキリスト者が沢山おられる限り、神が私たちの国を憐れんでくださり、この教会を、そして私たちの家族を憐れんでくださるという信仰に立ち続けたいと思います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、この夏、(かつて後の世界戦争で)日本の国が戦争を仕掛け、そして敗北して、天皇という偶像が崩れ去った出来事の中で、多くの教会が、民が苦しむその世界を、私たちは再びさまざまな映像で見ることであります。
そういう時代に他の者たちとは違った心を持っていて、いのちを失っていったキリスト者のことを考えさせられます。どうか、カレブとヨシュアのように、私たちも自分の内側に大切にしている、宝石のような違った心、それを尊ぶことができるように、それを誇ることができるように、別けても「それを持っている限り、神さまは私たちを特別扱いしてくださる」(という)その信仰を失うことがありませんように、恵みを与えてください。
また私たちはさまざまな問題課題に囲まれて生きていますが、決してモーセのようなわけには行かないかもしれません。しかし私もモーセのように、神さまの恵みの大きさを決して見失うことなく、どんな場面にあっても、神さまの大きな恵みにすがり続けるような、祈り続けるような信仰者でありますように。そしてそのような信仰者を日本の教会に沢山与えていてくださるあなたの恵みに心から感謝します。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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