☆聖書箇所 ピリピ3:1〜11
1最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。 2犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。 3神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。 4ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。 5私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、へブル人の中のへブル人、律法についてはパリサイ人、 6その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。 7しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。 8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、 9キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。 10私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、 11何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
☆説教 ピリピ(13)キリストを知っているすばらしさ
さて、今日の聖書の箇所というのは、なかなか壮大なことが書いてありまして、3章の今回と次回というのは、信仰生涯にとってあまりにも壮大なことが記されておりまして、 それがゆえに読む度に励まされ、しかしある意味、読む度に尻込みするような箇所です。 であるからこそ、きちっと読む必要がありますし、また私たちの小さな人生にきちっと当てはめる必要がありますので、しばらく聖書の学びにじっくりお付き合いいただきたいと思います。
いきなり、警戒の言葉から始まります。(ピリピ)3章の2節を見てください。
2犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。……
ピリピの手紙の言葉は、非常に柔らかと言いますか、温かでありますから、 いきなり「犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい」という言葉は驚きを感じます。 恐らくピリピの教会の人々ではなく、ピリピの教会を訪問する伝道者のことを指摘したんだろうと思いますが、強烈な批判です。
どういう人々かと言えば、2節の後半にあります「肉だけの割礼の者」です。 これはずっと割礼派のクリスチャンと、パウロは戦ってまいりました。 それは「キリストを信じる」と言っておきながら、結局はユダヤ教の教えを最優先にする人々でありました。 以前ガラテヤ人への手紙を学びました時に、同じ警戒心からパウロは書いておりました。 そうした人々のことを割礼派といい、割礼派の人々は別の福音を語る人々と言っています。
彼らにとって、十字架は単なる入り口に過ぎません。 十字架を通過する時に、一旦は様々な道徳的な行い、自分が誇りとしてきたよき行いを脇に退けます。 しかし、十字架の入り口を過ぎますと、改めて言われるわけですね。 「十字架は入り口に過ぎません。本当の意味で神の国を相続するためには、あなたがたは割礼を受けて、そしてユダヤ教にある戒律・律法を守って生きていきましょう」 というような、戒律的な人生に戻って行きます。
ちょっとガラテヤ人への手紙を見ていただきたいと思うんですが、 3章の1節から4節までを交読してみましょう。交替に読んでいきます。
<ガラテヤ書3:1〜4> 1ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。 2これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。 3あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。 4あれほどの経験をしたのは、無駄だったのでしょうか。まさか、無駄だったということはないでしょう。
この3章の1節の「ああ、愚かなガラテヤ人」というのは、パウロがガラテヤ人への手紙に書いた一番強烈な言い方ですね。 「せっかく十字架を信じ、イエス・キリストの福音にあずかったのに、あなたがたはもう一度ユダヤ教的な、戒律的な信仰生活に戻って行く。 私の労したことは無駄だったのか?あなたがたが体験したのは無駄だったのか?」 ということを言っています。 「愚かである」というのは、3節にあります「御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。」
これは私たちも気をつけなければならないです。 それは戒律的なクリスチャンってのは、どこにでもいます。 私(藤本牧師)はあまりそうではないですが、私のような人間もまた問題があります(笑)。 それは戒律を踏み潰すことに、喜びを感じるような人間ですので(大笑)、こういうのはもう気をつけなければいけないんですが。
ドイツの神学者ヘルムート・ティリケ―という人は、こんなことを言いました。 「悪魔は敬虔という巣の中に自分のカッコウの卵を置く。」 敬虔というのは、godlyですね。とても信仰深い。その巣の中に、悪魔は自分のカッコウの卵を置く。 カッコウという鳥は他の鳥の巣に入り込んで、その鳥の卵を蹴落として、そして自分の卵を産み付けます。 そして、なんと産み付けられた親鳥たちは、よその卵と知らずに、それを温めていく(笑)。
私たちの心の中に、戒律という卵、律法主義という卵を産み付けられますと、 私たちが真面目であればあるほど、旧約聖書的な教えに戻って、 そして「〜せねばならない」という、「クリスチャンはこうあるべきだ」という一つの戒律的な枠組みに戻って行って、 一生懸命それを温めることによって、自分は信仰生活を全うしようとしてしまうものです。 敬虔なあまりに、最終的に、「律法も戒律も」と言い始めてしまう。
しかしもし私たちが戒律という卵を――あるいは割礼というのは、ま、私たちは割礼までは考えませんけれども――しかし、そういう卵を教会という巣の中で温めて、かえしてしまったら、もはや教会は福音の巣ではなくなってしまいます。
皆さんはとても献金を捧げてくださる方々でありますので、私(藤本牧師)は講壇からあまり献金のことを言ったことはないと思います。 あまりにも言わないものですから、洗礼を受けてから月定献金があるということを初めて知って、洗礼を受けて半年くらいに(笑)、 「先生何も言わなかったじゃないですか」みたいなことで、「私にも月定献金の袋をください」と仰る方も沢山いるくらい、私はなかなか言わないんですね(笑)。
旧約聖書には十分の一献金っていうのは書いてありますけれども、 「神さまから与えられたことの十分の一を捧げなさい」と。 新約聖書には十分の一献金っていうのはないですね。 ですから「十分の一って捧げるべきでしょうか?」って聞かれますと、私(藤本牧師)はいつもお答えします。 「そういう規則、戒律は新約聖書にはありません。 新約聖書には『すべて捧げなさい』と書いてあります(大笑)。 別に十分の一なんて書いてないですよ。 二分の一だろうが百分の百だろうが、すべて神さまのものですから、 そういう風な思いで、喜んで捧げられるベストを、いつも信仰と感謝を込めて捧げてください」 という風に申し上げますが、
非常に戒律的な、あのむか〜し昔、T兄が通っていた教会っていうのがあって、 礼拝に遅れると、確かドアが閉まっているんだよね?(大笑) 一分でも遅れるんだったら、先生に電話をして、「教会開けといてください」ってお断りしなければいけないんですね? 私(藤本牧師)はそれを聞いて、 「そんなことを……家に電話しても誰も出ないですよ(大笑)。 礼拝の前なんて忙しいから電話なんて出ないですので、勝手に遅れてくれ。何の連絡もなしに勝手に遅れてください」と(言うでしょう)。
教会って、もう様々ですよね。そして、皆さんが非常に戒律的な教会に入りますと、割礼派とまでは言いませんけれども、 十字架は単なる入り口で、そこからくぐりますと、びっしりと「〜せねばならない」という世界が待っている。 パウロはそれを嫌いますね。
それをどれほど嫌っているかということを、今日はピリピの手紙から一緒に見ていただきますので、3つのポイントで短く、(ピリピの)3章の続きから見ていただきたいと思います。
1)パウロは、ピリピの教会に対しても、強い口調で言います。
3章の5節から9節までを、ちょっと心を込めて、理解しながら交替に読んでいきたいと思います。 長いですが、5節から9節までです。
5私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、へブル人の中のへブル人、律法についてはパリサイ人、 6その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。 7しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。 8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、 9キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。
いま読んだ中で、強烈な言葉があるとしたら、「ちりあくた」(8節)という言葉ですね。 自分が受けて来たこれまでのパリサイ的な教育、ラビ、ガマリエルのもとで彼は教育を受けたわけですけれども、そうしたもの、ユダヤ教の教育や訓練を「ちりあくた」だと考えている。
これは文脈から正しく理解すべきことですよね。 つまり、パウロは別にこの世の努力や、祝福や、行いや、教育、それら全部を「ちりあくた」と言っているわけではないです。 私たちがなす様々な事というのは、神さまからの賜物であり、祝福であり、そして感謝すべきことです。 正直、律法の知識があったからこそ、パウロは伝道できたわけです。 しかし、もしそれがキリストの福音の邪魔になるなら――
つまり、救いにおいて十字架ではなく、自分の戒律的な人生や、努力、行いを頼りにするようになってしまうなら、それはもうとんでもないことだ。 私にとって、だとしたら、それらはもう損だ。それらはもう「ちりあくた」だと。 私(パウロ)が目指すのは、8節の冒頭にあります――「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに」と、 私はもうそこに生きる。それ以前のことは、全部過ぎ去った過去のことで、 私は戒律的、律法的に生きる人生から完全に解放され、 これから先は「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに」、 私は自分の人生を考えていきたい。
これってとっても、私(藤本牧師)はおおらかで、大切なことだろうなぁと思います。 自分の老後をどうするのか?自分の将来をどうするのか?自分の伴侶者、結婚をどうするのか? 「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに」という、なんか枕詞が入ったら―― これからどういう学校に行くんだろうか?何を研究するんだろうか? 「私の主であるキリスト・イエスを知っているというこの事実は、私にとってあまりにもすばらしく、 主は必ず私を導き、私を助け、私を支えてくださる。 そしてその主のみこころの中を生きたい」 と、大らかに、パウロはこの「すばらしい」という言葉を使うんです。
2)ここに非常に大切なことが記されています。
もう一度、(ピリピ3章)8節の冒頭ですが、 パウロはイエスさまを「私の主」と呼んでいます。 「私の主」というのは、個人的にとても親しみを込めた、私の主ですね。 「知っている」という言葉は、知識の言葉ではありません。 聖書で「知っている」というのは、交わりの中にある、という意味です。
(聖書の中で)一番最初に出て来るのは、 創世記の4章の1節に「それからアダムはエバを知った」という、この二人は結ばれた、という意味ですよね。 それに代表されるように、旧約聖書で「知っている」というのは、それを体験的に実感している、その中を生きている、その知識と自分、相手と自分が交わりの中にある、という意味で、 パウロがイエスさまを知っているという時には、イエスさまもパウロを知っているんですよ。
これがですね、隣のページの4章の6節にこういう形で出て来ますね。 4章の6節を、これ一緒に読んでみたいと思います。
<ピリピ4:6> 6何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
ここにありますよね。 「あなたがたの願い事を、祈りを通して、神に知ってもらいなさい」 こういう人格的な交わりが「知る」ということの意味で、それを通してパウロは「私の主」と、こう言うんです。
私(藤本牧師)もクリスチャン・ホームに育ちましたので、信仰は、ある時期はあるんだかないんだか、ないんだかあるんだか、わからない(笑)みたいな、そういう時期ってあるもんですよね? で、うちの教会にいた相馬さんのような――ギャンブルと女と喧嘩に溺れ、人生が破たんし、そして教会の門を叩き――そしてすべて変えられてクリスチャンになった。 それ以来ずっと教会の役員をやっておられるような方の証しを聞くと、私と全然違う。 相馬さんの拳(こぶし)を見ますとね、ま、この人とは喧嘩をしたくない(笑)。 この拳には勝てないというような、岩のような拳していらっしゃって、あ、この人は本当に強かったんだろうなということを実感させられるような人でしたね。 それが、本当にキリストによって変えられるというのと、私がクリスチャンホームに育ち、信仰を持って来たというのとは、違いますよ。
そういう私が、ま、イエスさまは様々な試練を与えてくださって、パウロのように、「私の主であるイエス・キリスト」と言えるほど、主イエス・キリストに近づく機会をイエスさまは沢山与えてくださる。 パウロが言うには、その一番大切なのは、 「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ4:6) あなたがたの方から神に語りかけて、神に知っていただきなさい。 いつまで経ってもベッドの上で泣いていないで、いつまで経ってもどこかで絶望していないで、いつまで経ってもしょぼくれてないで、自分の願い事を神さまに知ってもらいなさいと。 すると、神さまはあなたを受け留め、私たちに愛の言葉を語りかけ、私たちを強めてくださる。 いつまで経っても、クリスチャンホームの子どもであれば、何かあれば 「お母さん、祈って」――そりゃすばらしいことですね。 だけど、お母さんもたまには言うべきですね。 「聖書の言葉を自分で読んでご覧なさい。きっとその言葉の中から、神さまは直接にあなたに語りかけて来るよ」と。 そういう風にして、私たちはキリストを知り、キリストに知ってもらう。
マタイの福音書を――ちょっとごめんなさい、今日は説教は短いんですが、聖書の箇所を色々と開けますので――マタイの福音書の7章を見てください。 ああ、なるほどなぁという言葉が出て来ます。この「知る」という言葉ですが。 マタイの福音書7章の21〜23節まで、その段落を交読いたします。交替に読んでいきます。
<マタイの福音書7:21〜23> 21わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。 22その日には多く者がわたしにに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』 23しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』
21節には、それらの人々は、「主よ、主よ」と言っていたんですよね。 ところが、23節には、何重にも厳しく書いてあります――
23しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきり言う。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』
私(藤本牧師)は、顔認識機能がない、ということは皆さんにいつもよく解っておられて、 髪型一つ変えただけで別人に見えてしまうほど、顔認識機能が私に備わってないわけですから(笑)、いくら改善しても無理かなぁと言う位、知能的な欠陥だと思ってください。 この先生は知能的な欠陥を持っていると思っていただけると感謝なんですけれども(笑)。 そんな私でも、「どこどこで会いましたよね」と言われましたら、話を合わせますよ(大笑)。 「あ、そうでしたねぇ」と(大笑)。 それで、何となく向こうが話しているうちに、そのどこどこって言うのがどこだったのか、思い起こすんですけれども、一向に解らない時がありますよね。 でもそれはそれでいいんですよ。そうやって挨拶をしてくれて、名前を呼んでくれたら、そこからまた新しい関係を築き直せば。 その方にとっては、10年前から私知り合いらしいですけれど(大笑)、私は今日から知り合いになったと思えば、それで立派に成り立つんですよ。
ところがイエスさまは、「はっきり言う」「全然知らない」。しかも「離れて行け」と言うんですよ。 だから、イエスさまが私たちに向かって、「君のことは全く知らないよ」って言うのがどれほど恐ろしいことか! なぜ、そんなに知らないのか?
で、この話の前に「良い木が良い実をならせる」という、そういう教えが出て来ますけれども(***マタイ7:17)、 要するに、主イエスを知り、主イエスに知られているのなら、「主イエスに祈り」、 主イエスに知っていただいているのなら、「私たちは主イエスの恵みの中を生き、福音にふさわしい生き方をしていく」ということなんです。
主イエスの名前だけ呼び、色々知ってはいる。 だけど祈りもしないし、イエスさまの言葉を聴くつもりもないし、自分はどうしてこんなに不幸なんだろうとか、自分はどうしてこんなに信仰がないんだろうとか、 そりゃ、祈らないからですよ。
まして主の恵みの中を生き、福音にふさわしく生きていこうという姿勢がないのなら、 イエスさまは最後に私たちを突き放す。 「わたしは、あなたのことは全然知らない」と。 非常に悲しい結末で、私たちは名前を知っているだけで、その人のことを知っているように思いますが、 イエスさまは「そういうことではない。知るということは。あなたがわたしを知っているなら、わたしもあなたのことを知っているし、」(と言われるでしょう。) あなたはわたしにもっと近しい交わりを与えるように、様々な事を、あなたがたの思い、煩い、あなたがたの願い事を、神に知っていただきなさい」 と(ピリピ4:6に)あるように、神さまに知っていただくことですね。
さて、ピリピの手紙に戻って、3番目―― 3)パウロには目標があります。
彼の目標は(3章)8節の一番最後から始まります。
8……私がキリストを得て、 9キリストにある者と認められるようになるためです。…… 10私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、 11何とかして死者の中から復活に達したいのです。
キリストの力を知り、そして復活に達したい。 パウロは、「キリストの力を知る」ということに関して、きちっと言い換えていまして、 それは10節の真ん中に「キリストの苦難にあずかり、キリストの死と同じ状態になる」――十字架にあずかる。
要するに、復活の力を知ろうと思ったら、十字架の道を通らずして復活の力を知ることはできないです。 ですから私は喜んで十字架の道を通って行くと――これはものすごく苦悩なんですよね。 パウロにとっては今の牢獄なんですね。
三番目のポイントとして、私たちもこれを目標にしなければいけない。 パウロはここで殉教も考えているわけですから、死者の復活を考えるのは当然ですが、 私たち、今日教会に集まっている私たちは、死者の復活のことはあまり考えてないです。
父が骨折いたしまして、大腿骨を折り、そして私はすぐ病院に駆けつけました。 医者から救急救命室で説明を受け、「二つ選択があります」と。 若いお医者さんで、なんて言うんですかね、普通にジャンパー着て、そこら辺プラプラ歩いているようなお医者さんで(大笑)、話し方がですね、丁寧語なんて全然ないんですよね。 パチンコ屋の前で会話しているような(大笑)会話を、お医者さんとしているわけなんですけれどもね、 「ストレートに申し上げますと」――申し上げますなんて言わなかった。 「ストレートに言いますが、このまま手術をせずに、寝て暮らすこともできますよ。しばらくすれば床ずれもできます。そして段々弱くなります。そして、そのまんま、です。 もう一つの方法は、手術をする。93歳でも頑張って手術をする。そして頑張ってリハビリをして、せめて以前の8割ぐらいの力で歩くところまで頑張る。 この二つに一つしかありません。どうされます?」 と言われたら、そりゃもう「手術してください」と言うしかないですよね。
で、私は本人には尋ねず、お医者さんに「よろしくお願いします」と(大笑)。 そして本人の所へ行って、「手術することになったから」という風に言いました。 ゴールデンウィークで麻酔科のお医者さんがいないので、手術に1週間待たされました。
その間に、父は覚悟も決めたようでした。 私を呼んで、「机の引き出しの上の所に封筒が入っている。その封筒に『天の御国に帰るに際して』という封筒があるから、それを持って来てくれ」と。
私は持って来まして、そしてワープロでびっしり丁寧に書かれていました。 自分が死んだ後にどう処すべきかということが色々書いてありまして、 ま、葬儀のことも書いてありました。「なるべく簡単な葬儀にしてほしい」と。 最後に「家族仲良く支え合って生きてほしい」みたいなことが書いてあって、 あ、もうこれで最後、言うべきことは全部言ったんだなぁっていうような手紙でありました。
ああいう手紙を見ますと、93歳ですから当然と言えば当然で、もう終わりを意識した文章というのは書いておくべきです。 私たちも本当は書いておくべきで、なぜなら、死というのは突然やって来るわけですから、 私たちも書いておくべきなんですが、 私はそれを読んで、しみじみ父を愛おしく思い、そして父の足を拭き、そしてマッサージをしてあげて、話を聞き、話をしました。
父と私というのは同業者ですから、あんまり親子の会話はして来なかったんですね。 仕事の話は、ま、しますけれども、個人的なことも、親子の会話というのはなかなかなかったです。 だけど死を意識して色んなことを全部そぎ落として、後は天国に帰ることしか考えない父を見ながら、私は非常に崇高な思いがしました。
そして病院を出て、「あ、晩御飯を食べなきゃ」と思って、そばのインド料理の店でカレーを食べたら、そこのナンがおいしくておいしくて(大笑)。 もう、「こんなうまいナン食べたことない」と、私は店のご主人にも「色々ナン食べて来たけど、お宅のナンはうまい」。カレーは普通だけど(大笑)、「このナンはうまい」と。 そうしているうちに、全部忘れちゃいましたね(大笑)。やっぱりねぇ(大笑)。
忘れたと言うと申し訳ないんですけれども、あのICUで父と過ごした崇高な時間と、ナンを食べてる内に……段々……思うわけですよ。 「あんな遺書みたいなものを書くのは二十年先でいいかなぁ」と思っちゃうわけですよ。 これは人間の愚かな所でもあり、人間の現実的な所でもあり、それが私たちの日常だって言わないと、 このパウロの言葉と私たち、こんなに(※左手を高く上げて)差ができちゃうんですよ。
私はこのパウロの言葉を、私たちの日常に引き寄せたい。ぐっと引き寄せたい。 それは「キリストとその復活の力を知りたい」ということです。 私たちは日常的に十字架の道を行っているんです。 かなり頻繁に十字架の道を通るんですよ。 そして様々なものに縛られ、でも「十字架の道を通る」ということは、十字架の道でくずおれるとか、十字架の道で倒れるために、その道を行っているのではないです。
十字架の道を行くことによって、「あなたがたの心と思いを神に知っていただく」。 十字架の道を通ることによって、「イエス・キリストともっと近しく歩む者となる」。 そして「近付けば近づくほど、キリストの復活の力というものを、その日常の中で体験できる」。 そのようにして、日常の十字架で復活の力を体験している者が、やがての時に、まさに復活に達する。死を通して復活に達することができる。
そういう意味で、崇高な言葉なんですけれども、「復活の力を教えてください」という祈りは、私たちが日々日常の中で為していい祈りなんだろうと思います。
☆お祈りをいたします。――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、もし私たちが戒律的なことばかり考えているならば、自分が為すことすべて、救いにあっては「ちりあくた」(ピリピ3:8)と思えることができますように。 なぜなら、私たちのベストであっても、私たちの小さな罪の一つも贖うことができず、 私たちはただキリストを信じることによって義とされる、信仰に基づいて神から与えられる義を持つだけであります(同3:9)。
でもそんな私たちであったとしても、「私の主、イエス・キリストのすばらしさ」とあなたと近〜い関係にいる自分自身を育てていくことができるように、パウロが勧めているように、「どんな願い事も神に知っていただきなさい」(同4:6)と。 知っていただくなら、神はあなたのことを知っていてくださる。その苦労も、その寂しさも、その疲れも知っていてくださる。 そしてもし神さまが知っていてくだされば、私たちは必ず十字架を越えて、復活の力を深〜く深く知ることができる。 私たちに喜びをまとわせて(詩篇30:11)ください。疲れをとって喜びをまとわせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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