☆聖書箇所 Tコリント3:1〜9
1兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。 2私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は今でもまだ無理なのです。 3あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。 4ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。 5アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。 6私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。 7ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。 8植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。 9私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。
☆説教 御霊に属する人
ペンテコステというのは、割と聞き慣れない用語ですね。 しかしキリスト教にとりましては、クリスマス・すなわちキリストの誕生日、そして十字架の金曜日・イースターと並んで、三大聖日の一つ、それが今日のペンテコステであります。
実際の暦では、毎年日付が変わります。 ペンテコステというのは、50番目という意味で、どこから数えて50番目かと言いますと、 それはキリストの復活、つまりイースターの日曜日から数えて50日目です。 そのイースターが毎年変わります。 イースターというのは、春分の日の後の満月の最初の日曜日になりますので、 満月というのが年によって変わりますから、春分の日もどんどん変わっていきます。 そこから7週経過した、8週目の日曜日がペンテコステになります。
イエスさまが天に昇られる前に弟子たちに約束されました。(***ヨハネ14:16,26、15:26) 「わたしはもう一人の助け主をあなたがたの所に送る。 それが聖霊です。その方は、わたしとは違い、あなたがたの内なる助けとなる。 聖霊は神の霊として、またわたしの霊として、あなたがたの内に住む」 と約束され、弟子たちは祈り、待ち望みました。
このペンテコステの日、イエスの弟子たちは約束された聖霊を待ち望んで、一か所に集まって祈っていたところに、激しく地面が揺れ動き、聖霊が弟子たちの上に降り、弟子たちは一変いたしました。 弱々しい、イエスを裏切ったペテロは、大胆に説教し、ペテロの言葉を信じた三千人がその日洗礼を受けます。(***使徒2章) ですから、この日教会が誕生した、と言ってもいいと思います。 そして、この日に最もふさわしいことは、洗礼式を行うことです。 でも割と日本の教会では、クリスマスやイースターに洗礼を受けるというのが多いんだろうと思います。 いつでもいいわけですけれども、今朝はその代わりに献児式があったということに心から感謝しています。
皆さんはどういう方式で洗礼をお受けになりましたでしょうか? 洗礼には大きく3つの方法があります。 浸礼、全浸礼と言いますが、全身を水に浸けます。 これはロマ書の6章にありますように、水に浸けられた時に、キリストと共に十字架につけられ、罪に対して死に、 そして水から上がる時には、キリストと共に復活し、神に対して生きる者となる。 そういう意味で全身を浸けて、そしてきよめられて、もう一度立ち上がります。
潅水礼(かんすいれい)というものがあります。 腰ぐらいまで水に浸かった状態で、バケツのようなもので頭から水を注ぎます。 以前、高津教会は多摩川で洗礼式を行いました。川で洗礼式を行う時は必ずこの方法です。 全身浸かってしまいますと、流されて行く(大笑)危険性がありますので、これは大体この方法ですね。 バプテスマのヨハネが潅水礼だったと考えられます。 これは旧約聖書の人々にとっては、きよめの儀式。 ま、一種の沐浴(もくよく)と考えればよいのかもしれません。
もう一つの方法が滴礼(てきれい)という、これは高津教会の今の方式ですけれども、 頭の上から水を垂らします。びしょびしょにならない程度に、しかし、少しは濡れます。 この方式ですと、季節だとか、年齢にかかわらずに洗礼を授けることができます。 また礼拝だろうが、病院だろうが、場所にもかかわらず、洗礼を授けることができる。 そういう意味で、多くの教会がこの滴礼という方式を採用しています。 その意味する所は、「水によってきよめられる」でありますけれども、それ以上に、 イエスさまがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時に、 「聖霊が鳩のようにイエスさまの上に降った」(***ヨハネ1:32)という聖書の記述のように、 滴礼というのは「聖霊の注ぎ」を象徴しています。 「水によって洗われる」ということ以上に、「聖霊の注ぎ」を強調しています。
そうしますと、ペンテコステというのは「教会の誕生日」を意味しているだけでなく、 「洗礼を受ける人に聖霊の注ぎが与えられる」ということを意味しています。 これが、旧約聖書(神の民)と新約聖書(教会)と一番違う所だと思っても過言ではないです。 もちろん、一番違う所は、新約にはキリストの十字架と復活がありますが、 旧約聖書の50倍、100倍ぐらいでしょうね、「聖霊」という言葉が、あるいは「御霊」という言葉があの小さな新約聖書に出てまいります。
それで今日見ていただきたいのは、第一コリントの3章の1節――
1兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。
「御霊に属する人」と私たちは呼ばれていることに心を留めていただきたいと思います。 これがガラテヤの手紙ですと、6章の最初に「御霊の人であるあなたがたは」というように始まります。 「御霊の人であるあなたがたは」。 もちろん聖霊という存在は世界を包みます。 聖霊は「いのちの御霊」と呼ばれていますけれども、人にいのちを与えるのは聖霊です。神の息吹です。 人のいのちを保ち、聖霊は神に背を向ける私たちに語りかけ、私たちに良心を授け、罪の呵責も悔い改めも信仰も、聖霊によって与えられます。
洗礼を受けた人は、特別な意味で「御霊に属する人」となっています。 ところが、この1節にありますように、「御霊に属する人であるあなたがたなのに、私はそのように語ることができずに、肉に属する人、すなわちキリストにある幼子に対するように、私は語って来た」。 実際は聖霊に属する人なのに、それが不十分である、肉に属する人であるかのように、私はあなたがたに語らざるを得なかった。 2節を見ていただきますと――
2私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
と言う。 「実は、今でもまだ無理なのです」というこの言葉を、今日は心に刻んでいただきたいと思うんです。 先ず第一番目に――短く3つのポイントでお話ししますが――
1)何がミルクで、何が固い食物なのでしょうか?
単純に考えますと、ミルクというのは信仰の初歩の教えで、そして固い食物というのは、もっと難しいキリスト教の本質に迫るような、難しい話だ――こういう風に考えますが、実はそうではないです。 コリントの手紙に書かれているのは、ものすごく難しいです。 これはミルクではなく、私たちにとっては堅い食物で、理解するのが非常に難しいです。 パウロはいったい何を問題にして、語り方の区分けをしているのだろうか?とこう考えさせられます。 ちょっと(Tコリント3章の)4節を見ていただきたいと思うのですが、これはコリントの教会の状況ですね。
4ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。
「御霊の人」と言いながら、普通の人ではありませんかと。 つまり「ただの人」というのは、「霊の人」と対照されているわけですよね。 神の霊を受けなかったかのように、洗礼あずからなかったように、普通の世の人と何ら変わらないじゃないですか。
そして3節に――「あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがある」と、このコリントの教会の党派心というものに、パウロは目を向けます。 党派心というものがありますから、「私はアポロにつく」とか、「私はパウロにつく」とか、教会が分裂していくわけです。
党派心というのは、あまり私たちには関係ないと思う。 皆さんが社会に出ると、これに十分に巻き込まれてしまうんですけれども、 党派心の根源は「ねたみ」だと言われています。「ねたみ」。 「ねたみ」っていうのは、例えばですね、自分のプライドを大切にする思いです。 であるがゆえに、人を羨みます――人が自分よりもよいものを持っていると面白くない、という心が妬みですね。
人が自分よりも良いものを持っていると、自分のプライドが傷つけられ、 誰でもプライド・誇りを持って生きていますから、そうしているうちに、 自分のプライドが守られ、満足させられるようなグループを作るわけです。 自分のプライドが満たされるようなグループを作るのが党派です。 そういう党派は必ず閉鎖的になり、よそ者が入って来て、自分たちのプライドを傷つけることを嫌います。
パウロが言うには、コリントの教会は―― 「あなたがたは肉の人であり、そしてミルクを飲む幼子の域を脱してない。 自分のプライドにこだわり、ねたみと争いに陥って、生まれつきの人間の姿そのものだ。 神の霊を受け、信仰を与えられて生きている者は、そのような状態から解放されて成長していきなさい」。 成長ってなんだ?っていう風に思うわけですよね。
私(藤本牧師)は申し上げましたように、高津教会ではあまり党派心は問題はないと思っています。 でも4節の終わりにありましたように、「ただの人ではありませんか」――この負い目を感じない私たちはいないと思うんです。 「ああ、あんなことを言ってしまって、自分は信仰者のようではなかった」 「こんな風に物事を考えてしまって、これは聖霊を悲しませているかもしれない」 そういうことを私たちは反省しようと思ったら、反省の種は山ほどありますね。 山ほどあります。そういう風に考えていきますと、二番目のポイントで――
2)教会ではミルクのような教えがあり、教会では固い食物のような教えがある、という意味ではない。
そういう意味ではなくて、いったいどういう区別かと言いますと、 これは聞く態度の問題です。 どんな教えであるにしろ、それはその教えを聞く態度の問題ですね。 (Tコリント3章)1節もう一回読みますね。
1兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。
2節にいきますと、「飲ませ」「与え」、それを消化することがまだ無理だった。 理解力の問題ではなく、心の問題であり、そしてそれは聞く姿勢の問題ですね。 みことばをパウロは語ります。しかしそれを聞いた人々は、自分の事として受け取ることができず、消化することができない。 (語る・聞く、という以上に、与える・消化する、でしょうか?)
つまり「ただの人のように歩んでいる自分からいい加減に解放されたい」と私たちが思うなら、 私たちは、主イエスの恵みと憐れみ、主イエスの愛、主イエスの柔和な言葉、主イエスの厳しい言葉を、真実に自分のこととして聞くか、聞かないか――これが一番大切です。 私たちがもしキリストにある幼子であるならば、それを自分のこととして聞けないですよね。 他人事として、私たちの頭の上を通り過ぎていきます。
骨のある、自分の血肉になるような、自分を変えていただくようなみことばを受けた時に、 「何とか消化しよう。何とか一生懸命それをかみ砕いて自分のものとしよう」とする姿勢がない限り、私たちには成長はないんですね。
2章の16節、3章に入る一つ前を見てください。ちょっとこれ一緒に読んでみたいと思います。
<Tコリント2:16> 16「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。 【※脚注:イザヤ40:13、ロマ11:34】【ヨハネ15:15】
この世界で主イエス・キリストの心を知り、主に助言できるような立場にあるのは、神の霊以外にないです。 話の流れはず〜っとそういうことです。神の霊以外にない。 しかし、その神の霊、すなわちここにあるキリストの心を、私たちは持っています。 持っているにもかかわらず、聖書のみことばを、イエス・キリストの福音を、神の愛を、神の真実を聞いた時に、それが私たちの頭の上をす〜っと通り抜けていきます。 自分のこととして捉えることができないし、自分の日常の中でその言葉を消化する、ということができないですね。
以前、ある教会の先生から打ち明けられたことがありました。 地方の教会で、10人ちょっとの教会なんですけれども、ま、婦人の先生で二年位牧会していました。 その先生がその教会に赴任して、そして一年して色々資料を調べていますと、 教会の土地と建物が、きちんと法人登記ができていないということがわかりました。 税金の問題で、色々罰則がかかるそうです。
ということを、教会の役員さんに話したら、叱られた。 「先生、どうしてそんな事情を市役所に話したんですか? 黙っていれば、こんなことにならなかったでしょう。 先生が話したから、罰則が科せられることになりますよね。 これは神さまだけが知っていればいいんです!」(大笑) 市役所は知ってる必要がないと。
先生は、とっさに反論したそうです。 「いえ、私たちは、その神さまの前を歩んでいるわけですから。 その神さまに恥ずかしくないように、御霊の人として、 私たちは色んなことを整えられていかなければいけないんじゃないですか?」
と言った時に、その姉妹は難しくなってしまいました。 教会を休むようになり、そしてある日「私は先生につまずいた」と言って、教会に来なくなりました。 ただの人ですね。
でもしばらくして、その先生から私(藤本牧師)連絡をいただいたんですけれども、 その方が二か月ぶりに祈祷会にやって来られて、そしてもう一度信仰を復活されるんですね。
他人事ではない。それは私たちのことなんですね。 パウロが悩んでいるのは、どういうレベルの教えを語るかではなくて、 私たちは聖書の言葉を自分のこととして受け止めない。 あなたがたには、「キリストの心」が与えられ、「御霊に属する人」なんだけれども、 それを自分のこととして消化する姿勢がない。 ですから、所詮キリストの幼子として全く成長しませんね。
ペンテコステは教会の誕生日で、 「聖霊を注いでください」と私たちは祈らなければいけないんですが、 「聖霊を注いでください」という先ず第一番目に、私たちは自分自身が「御霊の人」であるということを自覚しなければいけない。 でも「御霊の人」であるにもかかわらず、いまだにキリストの幼子であるとしたならば、それを反省しなければいけないということですね。 そして、「キリストの心」をいただいているのであれば、それを消化するように、 もっと「キリストの心」に生かされて生きる自分というものを考えなければいけない。 それがある日、突然やって来るかも知れない、ペンテコステの出来事のように。 でも成長という言葉を使うならば、それは日々成長なんでしょう。
3)私たちはただの人であるにもかかわらず、希望があります。それは9節に出てまいります。
ちょっと(Tコリント3章)9節一緒に読んでいただけますか?
9私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。
「神の畑、神の建物です」――私たちの希望はこの言葉にあるんです。 私たちは神の畑だと。すると、神さまは私たちを耕してくださる。
皆さん、一週間前に来られた時に、教会のビワの木を見て、「あ、今年は生っているなぁ」と思われたんじゃないですか? 私はビワの実を全部取って、今日教会学校の子どもたちに振る舞おうと思って、お手拭きまで全部用意したんですね。昨日ね。 そうしたら、ニュースで「ビワでアナフラキシーを起こした」(え〜!)というあのニュースを見て、「あ、もう止めた」「こりゃ、止めた方がいいな」と、圭子(夫人)と相談して止めて、
そしてあのビワの木はYKさんのお宅のビワをいただいた時に、まだ子どもが小さくて、子どもが種を植えてあの大きさに成長したんですね。 Yさんの所は何百となるのに、うち(高津教会のお庭)は全く生らない。 どうしたらいいのか? 一度、園芸屋さんに剪定してもらった時も生りませんでした。 それで、二年前にNさんとKさん夫妻が大幅な手入れをしてくださいまして、そして今年、見事なまでに実を付けるようになったんですね。 ですから、ビワの実は全部NさんとKさんに持って帰っていただく、という風に、 アナフラキシーを起こしたら、ごめんなさい(大笑)みたいな――そういう結末なんですけれども。
「あなたがたは神の畑です」って言ったら、 神さまはどれほど鋭い鍬をもってあなたがたの土を掘り起こすか?ですね。 どれほど厳しい肥料を入れて、あなたがたに栄養を与えるか? 畑って言っても、放っておいたら雑草しか生えませんよ。 そこに種を蒔いても、先ず農夫は何をします?雑草を抜きに行くんですよ。 でなければ、全部栄養は雑草に持っていかれちゃいますもの。 収穫に至るまでには時間がかかるわけですけれども、 「あなたがたは神の畑です」 と言われたら、こんなに成長が遅い私でも、神さまは私たちを否定されない。 ペンテコステが来る度に、「あなたがたは御霊の人である」ということを思い起こして、 また聖書の中で「聖霊」という言葉が登場するたびに、私たちの内にある聖霊を覚え、 そして神さまに耕してもらいなさい。
皆さん、メンデルスゾーンという大作曲家をよく知っておられると思いますが、 彼は沢山の曲を作るわけですけれども、同時にバッハを有名にした人物として有名ですね。 バッハというのは、メンデルスゾーンの時代にあって、ほとんど名が知られていませんでした。 しかし、マタイ受難曲を彼が演奏することによって、いきなりバッハが表舞台に出て来ることになります。 で、こんな話が残っています。私(藤本牧師)は本当の話かどうか怪しいなぁと思いますが、いい話だと思いますので。
メンデルスゾーンがある町の大聖堂を訪れた時のこと、大聖堂に響き渡るすばらしいパイプオルガンの音。 そして恐らくバッハも弾いたであろう、そのオルガンに自分も触れてみたい、弾いてみたいと思って、彼はオルガンの所に行って、そして老齢のオルガニストに 「すみません、次に私に弾かせていただけませんでしょうか?」と頼んだそうです。 でも、オルガニストは、「これは尊い神に奉げられた楽器ですから、一般の方にはちょっと……」と。 でもあまりにも強い申し出に彼は折れて、とうとうそのよそ者にヨーロッパ随一と言われるオルガンのキーを触らせたというんですね。 でもメンデルスゾーンが弾き始めますと、老齢のオルガニストは驚きと喜びに包まれます。 「こんなすばらしい演奏」にと、唖然と立ちすくんで、
そして、はっと思い、演奏が終わった後に、この霊感に満ちた音楽家の肩に手を置いて、感動しながら尋ねるわけです。 「よろしければ、お名前を教えてください」 「メンデルスゾーンです」 その答えに彼は震えを感じて、言ったそうです。 「何ということだ。メンデルスゾーンにオルガンを触らせまいと、危うく私は断る所だった」
この「危うく私は断る所だった」という言葉を、よく覚えておくといいと思うんですね。 つまり私たちは神の畑で、神さまは――私たちの人生に、私たちの悩みに、私たちの迷いに、 そして私たちがより普通の人から御霊に満たされた人になるように――何度か手を伸ばして来られたにもかかわらず、何度断って来たことか! 神に耕していただくことを。 つまりイエスの福音を自分のこととしてあてはめよう。そのように祈ろう。そのように聖書のみことばを読もう。 主のご計画を自分の計画とし、 自分の憐れみ、自分の妬み、自分の問題、自分の傷、自分の記憶――そうしたものに「触らせてくれ」と仰る神さまに、 「どうぞ触ってください」と言うことができますように、お祈りをしたいと思います。
☆お祈り――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、あなたが手を伸ばして来られるにもかかわらず、私たちはその手を拒むがゆえに、この畑には雑草ばかり生え、何も実をつけず、そのうちサタンが毒麦(の種)を蒔き、いつの間にか、肉の人に戻ってしまうような者を、あなたは決してあきらめず、 「あなたはまだキリストにある幼子だよ、まだキリストにあるよ。 でもいつまでも幼子ではなく、みことばを自分のこととしてあてはめて、消化して、 あなたの骨肉となる神のみことばに生きる者となりなさい」 という、そういうパウロの言葉を、きょう私たちはみな受け取ることができました。
どうか1週間、どこかで「なるほど、そういうことか」と思う程、きちっと聖書を読むことができるように、励まし助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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