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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   7/21 ピリピ(17)私の喜び、冠よ ピリピ4:1〜3
☆聖書箇所  ピリピ4:1〜3

1ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。
 2ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。
3そうです。真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。この人たちは、いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦ったのです。

☆説教    ピリピ(17)私の喜び、冠よ

前回は聖餐式の前に、一つ飛ばしまして(ピリピ4章)4節〜7節を見ていただきましたけれども、
もう一回戻って。4章の1節〜3節を見ていただこうと思います。
私(藤本牧師)は週報を刷った段階では、説教のタイトルが「主にあって一緒に」だったんですが、タイトルを変えます。
「私の喜び、冠よ」という言葉は(ピリピ4章)1節に出て来ます。

1ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。……

「私の喜び、冠よ」です。
この場面に二人の女性の名前が出て来ます。ユウオディアとシンティケ、前は(第三版は)スントケですね。

ピリピの手紙は個人名が5つ出てきます。
既に見ましたパウロの「霊の子ども」として、パウロの公認でありますテモテ、
それとパウロの「同労者」でありましたエパフロディト、2章に出て来ますよね?
この二人は教会員ではありません。この二人は伝道者です。
そしてこの4章に出て来るユウオディアとシンティケです。
で3節の真ん中ぐらいに、クレメンスという人物も出て来ますけれども、
問題になっているのは、この4章のこの場面では、二人の女性ユウオディアとシンティケです。

まさか自分の名前がパウロ先生の手紙の中に出て来るとは思わなかったでしょうし、
しかもそれが聖書として残り、現代に至るまで知られているとは夢にも考えなかったことでありましょう。

この二人の女性について、パウロは2節に

2……あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。

とこう言っています。つまりすれ違っていた。不仲であったということがよくわかります。
少々不名誉な意味で名前が残ってしまいました。

今日はこの記事から三つの大切なことを勉強していきたいと思います。

1)人はすれ違う、という事実です。

パウロが開拓していった教会において、その始まりは往々にして女性でありました。
多くの女性が奉仕をしてまいりました。
パウロはそれを書簡の最後の方で、必ず記していますが、特にピリピの教会はそうでした。
それは、使徒の働きの16章(14節)を見ますと、ピリピの地方に初めて訪れた時に、紫(布の)商人の女性――今はリディアになっていますけれども、(※第3版はルデヤ)――彼女が川岸で沐浴をしている敬虔な人に混じっていました。

パウロはそこで伝道を開始するわけですけれども、リディアは熱心に耳を傾け、キリストを信じて洗礼を受ける。
その日には彼女の家族も信じて洗礼を受けた(同15節)と記されていますので、
「女性が救われた」ということが、ピリピの教会の始まりでありました。

だとしたら、非常に女性が活躍した教会であることは間違いないです。
その中で、ユウオディアとシンティケが不仲になって行く。
名前が出て来ますので、教会にとっての有力者だったと考えられます。
つまり二人とも真実な教会員であったということです。

すれ違ってしまった理由は書いてありません。
でも神学論争ではないだろうなと思います。
神学論争であったとしたならば、もっと具体的にどちらかのことが言われていると思います。
そうではなくて、割と些細な事、あるいは極めて人間的なことであって、その理由にまで遡って色々コメントする必要はないと、パウロは考えたわけですね。

でもよく考えておかなきゃいけないことは、神学的な違いよりも、信仰的な違いよりも、この人間的な些細な違いの方が厄介であり、そして時に霊的に致命的です。

私たちの教会は、今こういう事態にはないです。
それが私たちの教会のありがたいところと言いますか、霊的に成長が望める教会の状態に今ある。
それは特定の人が不仲ではない。もしも、それに私たちが気がついてないとしたならば、主の御前に悔い改めなければなりませんけれども、
特定の人が不仲の状態にあるということは、教会にとっては物凄くマイナスですね。
それも教会の有力な人物がそういう状態にあるっていうことは、教会は崩壊していきますね。

だいぶ前に話しましたから、覚えているか知りませんが、
アメリカの神学校の先生で牧師でもある、カルビン・ミラーという私の尊敬する先生がいます。
彼は、自分の教会で起こった出来事を、本の中で紹介しているんですけれども、
その教会で新しいオルガンが導入されることになった。
音楽委員会が開かれて、その委員の一人がローラという女性であった。
委員会はアーレン製のオルガンを選びます。うちの教会はアーレンですね。
彼女は、もう一つアメリカで有名なロジャーズのオルガンというのがあるんですけれども、そちらを選びました。

結果的に自分の主張が通らなかったというところから、ま、すべてが始まるわけですね。
その些細な所からすべてが始まり、やがて彼女は牧師と口を利かない。
教会で会っても、町で会っても、挨拶さえ返ってこない。

これは私(藤本牧師)にもあります。私の教団の中であります。
私が歩いて行くと、私をす〜っと避けて、毎回す〜っと避けて、私は「あ、避けてくれてありがとう」(笑)という、そういうケースもありますね。
挨拶をしても返ってこない。それでもしつこく挨拶をします。
敢えて名前を呼んで挨拶をします。でも挨拶は返って来ないです。

これは信仰的な、神学的な違いと、私は理解していません。
何かが気に入らないんだろうと思います。
こういうことっていうのは、往々にして私たちの世界で、信仰の世界で、いや牧師の世界だって、あるということは覚えておかなければいけないですね。

先程のカルビン・ミラー先生の話に戻りますと、ローラは牧師と口をきかない。
陰で嫌な噂を流します。
そして自分の取り巻きを作って、教会の中で。それ以外の人とは挨拶もしない。
ということが4年連続で続いた。

ある夏の聖会で、講師の先生の説教を聞きながら、ローラと和解するように――これまでのことを謝罪してローラと和解するように――聖霊の語りかけを聞きました。
先生は、講師の先生と集会の後で話をして、講師の先生のアドバイスは、
「たとえ向こうが悪かったとしても、4年間、断絶したという状況に対して、彼女に牧師の方から謝るように」勧められて、
次の夜の集会が終わってから、ローラのところに行きました。

「4年間、絶交状態でしたね。そのことを主の前で許してくださいますか?一緒にお祈りしませんか?」と、ミラー先生は言いました。
ところが返事は――
「私は先生と一緒にお祈りしませんよ。私がロジャーズのオルガンがほしかったのを知っていて、先生はわざわざアーレンを選んだんでしょう?
みんなの目があるから、今この聖会の終わった後だったら、私が先生と一緒にお祈りするとでも思ったら、大間違いです。
とんでもないことです」

「いや、そう言わずに一緒にお祈りしましょう」
と言って、先生は座席に座ってお祈りを始めました。
お祈りが終わって、隣にローラがいるかなぁと思ったら、ローラは座っていませんでした。
依然として先生の前に立ったままで、そして上から悪魔のように自分を睨んでいた。

ちょっとしたすれ違いなんでしょうね。
しかもそれはすごく人間的なことなんだと思います。
それを放置しておくということ以上に、
私たちは、「そういうすれ違いの中に悪魔はやっぱり入ってくる」という位、
些細な人間的なすれ違い、不仲の恐ろしさというものを、やっぱり知っておかなければいけないですね。
自分が知らず知らずの間に、それにはまっているという現実も、やっぱり知らなければいけない。

パウロが言いました。
「だれでも人が自分よりすぐれていると思って、謙遜になりなさい」と(***ピリピ2:3)。
自分の方が優れているんだという、そういう思い上がりのあり方というのは、私たちにとって落とし穴、つまずきの落とし穴になり得ると。

ユウオディアにしても、シンティケにしても、ローラにしても、熱心なクリスチャンでありました。
自分が正しいことをしている、と思い続けていたに違いないですね。
自分がやっていることがおかしいとは思わない。
しかしその心はいつの間にか、悪魔に支配されていくという現実の中で、
二番目、パウロはお願いするわけですね。

2)主にあって、同じ思いになってください(2節)

パウロはこの二人の女性を弾劾しているのではないです。
弾劾の言葉は一回も出て来ません。
その真実を認めた上で、昔を思い起こさせ、なおかつ本当のあるべき姿を確認しているのです。
ちょっと(ピリピ4章)3節を見ていただきます?

3そうです。真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。この人たちは、いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦ったのです。

「真(まこと)の協力者よ」というのが、誰を指しているのかちょっとわかりません。
恐らく教会員全員。
また、ここに出て来るクレメンスというのは、初代教会で有名なローマのクレメンスというのは、95年に殉教を遂げています。
そのクレメンスだという人もいれば、いや、別のクレメンスだという人もいますし、その辺りは定かではありませんが、
クレメンスというのは牧師であったということは間違いないです。「同労者」と書いてありますから。

このクレメンスと一緒にユウオディアもシンティケも、「いのちの書に名が記されている」(3節)。
「いのちの書に名が記されている」というのは、洗礼を受けたキリスト者のことです。
洗礼を受けたキリスト者の別名が、「いのちの書に名が記されている」という存在なのです。
ですから(ピリピ)3章の20節を見てください。
3章の20節に「しかし、私たちの国籍は天にあります」と、
洗礼を受けた私たちは皆、天に国籍がある家族です。
時に所属教会は違うかもしれません。時に所属している群れは違うかもしれません。時にプロテスタントであり、カトリックであり、ハリストスであり。
しかし、等しくいのちの書に名が刻まれているのが、キリストによる洗礼を受けている私たちのことなんですね。
それはクレメンスも、ユウオディアもシンティケも、またピリピの教会信徒もみな同じです。
これらの人々全部――3節の最後に――「福音のために私と一緒に戦っ」てきた。
一緒にここまで来たのではありませんか。
これは一つ、説得力のある言葉ですね。

昨年台風の時に、(召された)教会員の名前を刻んだ教会の墓誌が、土台が脆かったという状況もあるんですが、風にあおられて倒れた瞬間に真っ二つに割れました。
それを、WさんとNさんが一緒に直してくださいました。
私も一緒なんですけれど、私は見ているだけで、直してくださっているんです。
とっても仲がいいですね。そりゃ、仲がいいのは昔からよくわかっているんですけれども、
「どうしてそんなに仲がいいんですか?」って聞いたんですよね?
そしたら「同じ時に洗礼を受けた」と。
Nさんと、Wさんと、Wさんの奥さまと、それからもう一人いらっしゃった、という風に仰っていましたけれども。

そうなると、大体その昔、特別伝道集会を開く時にWさんがシルクスクリーンでポスターを作り、
一度、二月の献堂記念の日に、Wさんがこれまで作ったポスターを全部教会に張って並べた時がありましたよね。
あれを作ってベニヤ板に張り、そして町にみんなでそれを出すんですけれども、
当時まだ電信柱にああいうものは針金で括りつけられましたから、それを全部回収するのがNさんの役割です。
恐らくあの時、Nさんはそれを張りつけたんだろうと思います。
でないと、どこで回収したらいいのかわからないですから(笑)、張った人が回収しに行ったんだろうと思いますが。
この二人のコンビで、教会の初期の時代にあって、高津教会の伝道は成り立っていたんですよ。

あるいは皆さんの中には、賛美のチームが今ありますよね。
でも教会学校の教師のチームもありますよね。
あるいはお掃除のチームもあれは、それから聖歌隊のチームもありますよね。
そこで人は色々変わるのかもしれませんけれども、振り返って考えてみると、みな「福音のために私と一緒に戦ったのです」(ピリピ4:3)と言われれば、
「あ、なるほど、一緒に頑張って来たんだ」――この実感を新たに認識することによって、パウロは、「ユウオディアとシンティケが和解する」のみならず、「その和解にみんなで立って、助けてあげてください」(とお願いしているのです)。

私たちは分裂している二派の間に入ったつもりが、両方の言い分を聞いているうちに、いつの間にか右になったり、左になったりするんですよね。
最初の内はユウオディアの方が悪いんじゃないかなぁと思って、こう色々相談に乗っている内に、もしかしたらシンティケの方が悪いんじゃないかと、
そうすると、私たちはどちらかについてしまって、そして分裂が増強していく。

そういう意味で、もし私たちに牧会的な方針があるとしたならば、間に入るのは牧師だけにしてほしい、という思いがあるんです(笑)。
それは妙な形で間に入りますと、中立性が失われて、何となくその分裂が拡大していく、というのが世の中の常でありますので、
完全な第三者に話をして、そして同じ兄弟姉妹であるならば、あ〜んまり深く根に持たないで、「イエス・キリストの血によって水に流せ」という――そういう気持ちで、私(藤本牧師)はお話しするんだろうと思います。
「イエス・キリストの血によって、水に流せ」――それ以外、双方が謝っても結局どこかで心の傷になって引っ張り、そして何かの時にそれを持ち出し、そしてまたそこから始まっていくわけですね。

ですから、この問題というのは、ものすごく大きな問題。
パウロがピリピの手紙に色んな事柄を書きますけれども、敢えて個人名を出さなければいけないほど、この問題は大きな問題であったということがよくわかります。
ですからパウロはこの問題を見逃すことができませんでした。
一番いい方法を、彼は考えたんですね――「いのちの書に名が記されている」ってことはみんな同じ洗礼を受けたということ。
それから、昔を辿って考えてみれば、ず〜っと「一緒に主のために、福音のために戦ってきた」仲間じゃないですか、という原点に立つ。
今は分裂していたとしても、かつてはユウオディアはシンティケのために祈り、シンティケはユウオディアのために祈った仲ではありませんか。

そういう意味で、私たちはやっぱり教会の中に自分を入れて、どんな奉仕でもいいですから自分を入れて、一緒に何かをする。
一緒に礼拝をする、というのは最も尊いですけれども。でも他にできることもあるならば、一緒に何かをするということがとても大切です。
私(藤本牧師)はそのメッセージでいこうと思って、(「主にあって一緒に」という)題名をつけたわけです。
でも三番目のポイントを色々考えているうちに、題名を変更することにしました。(※「私の喜び、冠よ」という説教題になりました。)

3)三番目のポイント、もう一度(ピリピ4章)1節を一緒に読んでみたいと思います。

1ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。

そのようにして、パウロはユウオディアとシンティケの和解を求めるんですけれども、
ここで一番最初に、「私の愛し慕う兄弟姉妹たち」ですよね?「私の喜び、冠よ。」とこう言っています。
これは、ユウオディアとシンティケに当てはまるんですが。

ここをちょっと掘り下げて、さっと説教を終わりますので、ちょっと聖書に付き合っていただきたいと思います。
ここに使われている「冠」という言葉は、信仰生涯の長いレースを走り終えて、最後に勝利者として被せてもらう月桂樹の冠のことです。

それは、例えば第二テモテの4章を見ていただきます?
(※第一テモテと間違って言ってしまい、聖書を開くのに少し間が空き、藤本牧師の言い訳あり――ごめんなさい。先程朝、ちょっと色々頭の中混乱して、山本さんから「先生、大丈夫ですか?」って言われて、大丈夫じゃないかもしれない(大笑)、改めて、親の介護に付き合っているうちに段々疲れちゃって、ほとんど私は何もしていない。姉がしているんですが、ちょっとしただけで疲れちゃって、申し訳ない……と、私たちにも、いつもお祈りをしていますが、 お疲れがよくわかりました。)
第二テモテ4章でも同じ「冠」というギリシャ語が出て来るんですが、Uテモテの4章の6節から8節までを交替に読んでいきます。

<Uテモテ4:6〜8> 
 6私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。
7私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
8あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。

この8節に「義の栄冠」が「義の冠」がです、「私のために用意されて」いますという、この冠は何なのか、と私たちは思いますね。
どんな冠が用意されているんだろう?
福音のために山坂を走り抜いて来たパウロを待っている。イエスさまが、その冠を手にして待っている。
それは勝利の冠であり、神からの誉れです。
で、私たちが普通に考えるならば、それは神からの報い、神からの誉れだと思うじゃないですか?

でもパウロの頭の中では、もしかしたら違うのかもしれません。
パウロは先ほどのピリピの4章の1節で、「ですから、私の愛し慕う兄弟(姉妹)たち、私の喜び、冠よ」とこう言っていましたね。
ということは、神さまからいただく冠と共に、パウロの奉仕の生涯において、別の冠、もっとすばらしい冠があるとしたら、それは自分が伝道して来た一人一人。
自分が信仰に導き、福音の戦いを共に担ってくれた一人一人が自分の冠だと。
ユウオディアもシンティケもそうなんです。
あなたがたこそが、私の報い、私の喜びだと。あなたがたこそが、私の冠だと。

ちょっと、もう一か節だけ開いていただいて、終わりにしたいと思うのですが、
今度は、第一テサロニケの2章の19節です。
この言葉も一緒に読んでみたいと思います。これも非常に胸を打ちますね。

<Tテサロニケ2:19〜20>
19私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。
20あなたがたこそ私たちの栄光であり、喜びなのです。

ここでも「冠」という言葉が出て来て、「喜び」と「冠」が両方出て来ますね。
それはあなたのことだ、とパウロは言っているんですね。
ここにパウロの牧師らしさが出ている、と私(藤本牧師)は昨日説教を作りながら、最後にものすごくこう考え込んでしまいました。

伝道者の喜びは一体どこにあるのか?
ま、単純な喜びは、例えば教会が大きくなるということが喜びでしょうね。
あるいは、用いられて様々な場面で活躍する、それが伝道者の喜びだと考える人もいるでしょうね。それが叶う人と叶わない人もいるでしょうね。
ある人にとっては、様々な成果や結果を喜びとする場合もあるでしょうね。
ある人にとっては、自分がいったい生涯の働きにおいて、何人の方々を救いに導いたかということを誇りにする場合もあれば、
ある人は殆んどそういうチャンスはなかったのかもしれない。でも、自分は主に召された召しを忠実に全うすることができた、ということを自分の喜びとし、冠とする人もいるでしょうね。

でもパウロは、(少々厄介になってしまった)ユウオディアもシンティケも「冠」なんですよ。
「あなたがたこそが、私の喜びで」(***Tテサロニケ2:20)と、そしてそのあなたがたが、先ほどのピリピの4章の1節の最後に「主にあって堅く立ちなさい」と言うように、
そのあなたがたが、「主にあって堅く立っていること」が、(私の喜びであり、)私の冠だ。
そのようなパウロに、私たち牧師は誰もが、その目標とする姿を見出さなければならないです。

私(藤本牧師)は1986年、自分自身が29歳の6月に高津教会に戻ってまいりまして、インマヌエルから辞令をいただいて牧師になりました。
その5年後に、教職の按手礼を受けました。
最初の15年は父が牧師をしていましたので、私にはある程度余裕がありました。
「今でしかできないことを頑張りなさい」
それが私にとっては、自分の研究を何とかして形にまとめることであり、それを伸ばすことであり、特にウェスレーに関しては物凄い時間を注ぎ込みました。
(ウェスレーの)53の説教全部に序文をつけて、それを翻訳する仕事もできましたし、また500ページ近い「ウェスレーの神学」という書物も書きましたし、その間「ウェスレー学会」も立ち上げましたし、のみならず色んな神学校で教える機会も与えていただきました。
それが何か自分の冠であるかのように思っていた時もありました、正直。
今だから反省して言えるんだろうと思います。
「そんなものを誇りにするな。そんなつまらないものを、おまえはよく誇りにしているなぁ」とパウロは言うでしょうね。

ま、父(藤本栄造牧師)が牧師で、私が副牧でありましたので、父が「なるべく他から呼ばれたならば、色んな集会に行きなさい」と。二人講壇に立つ必要はないわけだからと。
で、私は他から呼ばれたら、その要請に応えて、昔はよく特伝に行きました。
で、最初の10年位、父は伝道会以外のメッセージを私にさせてくれなかったんですよね。
月に一回は礼拝のメッセージというのが回って来るんですけれども、あとは月に三回伝道のメッセージしかするなと。
その伝道のメッセージというのがものすごい苦労する(笑)。どこからネタを調べて来たらいいかわからない(笑)。
ま、それによって、自分の読書の幅が広がったというのも良かったんだと思います。
ただ聖書を説き明かすだけでは、何か伝道のメッセージって作れないですよね。
ですから世の中一般の、あるいは人の心情に誰にでも訴えるような話を持って来ない限りできないですよね。
その延長で、私は外の色んな集会に呼ばれるということが多くなりました。
それが時々羨まれることもあります。
だけど、パウロにしてみれば、そんなつまらないことをあなたの冠、喜びとするな、ということです。

自分の牧会している教会が高津教会ならば、「高津教会の一人ひとりが主にあって堅く立ち、福音の戦いを共にし、」
そしてピリピの手紙で私が一番好きなのは、2章の1節なのですけれども、
ちょっと2章の1節を読ませてください。

<ピリピ2:1〜2>
1ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。

これは別にパウロの喜びを満たすだけでなく、キリストの、神の喜びを満たすわけです。
「これが――つまりキリストにあって高津教会に励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあり、同じ思いで、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにしている――という事実こそが、牧師の冠であり、喜びであり、
それを真実にそう思えるような牧師になりなさい」
というのが、パウロの手紙の、言うならばクレメンスに対するメッセージです。

今はピリピの教会はクレメンスが牧会していると考えられます。
クレメンスの喜びは何であったのか?
クレメンスは別に批判的材料としては出されていない。
でも、「いのちの書に名が記されている者たち」が、いかにして愛情とあわれみを共有し、同じ思いとなって、一つキリストの前に立てるか、ということが、伝道者の・牧師の喜びであり、冠となってないとしたならば、そもそも教会が歪んで仕方がないよね、とパウロが言っているような気がします。

私たちは何も牧師の考え、牧師の資質だけで教会が決まるわけではないわけですけれども、
でも私たちは一つ、「一度一緒に福音のために戦ってきた、戦っている、戦っていこうというその実感」をどういう風に共有するのかは、高津教会にあって大きな大きな務めです。
何もできなくても祈ることができるじゃないですか。
何もできなくても祈られることもできるじゃないですか。
お祈りをして終わりにいたしましょう。

☆お祈り――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、互いが互いの冠となることができますように。互いが互いの喜びとなることができますように。その人物が主の前に愛をもって、同じ交わりの中でしっかりと立つことができていることこそが私の冠である――それが高津教会家族であり、それが自分の家族のあり方である――それを追い求めるような一人一人とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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