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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   7/28 ピリピ(18)最後に……  ピリピ4:8〜9
☆聖書箇所  ピリピ4:8〜9

 8最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。
9あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。

☆説教   ピリピ(18)最後に……

ずっとピリピの手紙から学んで来ておりまして、今日はその18回目になります。
元旦礼拝から始めました。良く付き合ってくださいました。
4章の4節〜7節は7月の頭(※7/7・聖餐式の礼拝説教)に話をいたしました。先週(7/21)は4章の1節〜3節で、今日はこの8節と9節に心を留めたいと思います。

「最後に」(ピリピ4:8)とありますように、手紙はいよいよ終わりに近づいています。
パウロはまだ書きたいことを書きますけれども、「最後に、兄弟たちよ」とこう来る言葉はとても大切であります。

  8最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。

こういう風に始まります。
3つのポイントで短くお話をしたいと思います。先ず第一番目に――

1)この8節の言葉はパウロらしくないと言われています。

パウロらしくない――なぜ、そう言われるのか?と言われるところに心を留めたいと思いますけれども、
それは「すべて真実な事、すべて尊ぶべきこと、すべて清いこと、すべて称賛に値すること」と言ったら、
これは私たちが心を留めて、そして評価する対象というこの裾野は、ものすごく広がって行きます。
言い方を変えますと、すべてというのは、「真実なことは何でも、清いことは何でも、称賛に値することは何でも」ということです。

どうしてこれがパウロらしくないのか、と言いますと、
それはパウロのメッセージというのは、キリストの十字架と復活に関わる福音に集中しているからです。
ちょっと3章の8節を見てください。

<ピリピ3:8〜9>
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、(これは集中するポイントですね、すると、その集中していないすべてを、と説明して)私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、
9キリストにある者と認められるようになるためです。……

このすべて「ちりあくた」だというのは、彼が受けたユダヤ教の教育が中心だろうと思いますけれども、
どれ程パウロという人が、キリストの福音に集中して物事を考えていたか、ということがよくわかると思います。
キリストに集中すればするほど、8節の一つ前の(ピリピ3章)7節に、「自分にとって得であったすべての事を、損と思うようになりました」と言う――こうなりますし、あるいは「ちりあくた」(8節)と思うようになりましたと。
世の中一般のすばらしいことから切り離されて、福音に集中していくという、このパウロの雰囲気を私たちは感じ取ることができます。

キリストの十字架と復活に集中して語って来たパウロは、ここで最後にぐっと裾野を広げていくのは、ま、ある意味で、彼らしくないのかもしれません。
しかも、4章の8節の最後に、「心に留めなさい」とありますが、それはちょっと心の隅に留めておいてくださいということではないです。
9節の真ん中部分に、「見たことを行いなさい」とあるように、「心に留める」ということは、それを実行するという風になります。
あなたがたが(私から)学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを実行しなさい。
心にしっかりと留めて、実行することを意味します。

さて、ある意味でパウロらしくない、キリストの福音に集中してきた彼が、
「すべて、あらゆること」というのは、パウロらしくないと考えても、ま、気持ちはわかりますけれども、
私(藤本牧師)はこういう所に、パウロの健全性というものを考えます。

私がよく話に出します、ジョン・ウェスレー(***1703〜1791英国国教会司祭)という人がいます。
18世紀イギリスの信仰復興運動を率いた人物ですが、それがやがてアメリカに、日本に渡って来ます。
つまりどういうことかと言うと、国教会ではない教会が発展していくスターティング・ポイント、礎になった人です。

見たらわかるように、日本の教会は全部国教会ではないじゃないですか。
ドイツに行けばドイツ福音教会は国教会です。
イギリスに行けば英国国教会、聖公会。英国教会は国教会。
カナダにもオーストラリアにも聖公会は国教会です。
そうではなく、イエス・キリストを信じている人たちが、国、それから性別、年齢、あるいは階級、仕事、背景、それら全部関わりなく、キリストを信じているがゆえに教会の礼拝に集いたい、
そして自分たちが理想とする礼拝形式、制度を自分たちで作って行きたい、という流れの礎になったのがジョンウェスレーで、

彼の言葉には一般に知られている有名な言葉がいくつもありますけれども、
その一つに「私は一書の人である」というのがあります。
それは彼が自分の神学的な思いの集大成として作り上げていた、説教集の序文に書いてあります。
その説教集は、ま、最初は42、それから53、そして出版された全部で150とどんどん増えていくわけですけれども、その序文はいつでも序文としてくっ付いて発行されて来ました。
その序文に、「私は一書の人です」と。

彼は日記を読みますと、馬の上で本を読んでいます。
やがて年齢が行くにつれ、馬の上で本を読んで馬から落ちるようになります(笑)。
「馬から落ちたけれども、骨折しなかったのは神の恵みだ」(大笑)と日記に書いてあるんですけれども、
それ以前に、馬に乗りながら本を読むなよ(大笑)、と私たちは普通にそう思いますよね。
それは神さまから守られたのはよかったけれども、そもそも馬に乗りながら本を読むってのはおかしいだろうと。
それで、彼は馬車を造ります。馬車に本棚を据え付けます(笑)。それほどの読書家ですよね。

彼は説教を始めるにあたって、自分自身は「一書の人」として立ち戻って聖書から語る。
そして聞く人も、読む人も「一書の人」となって、そこから聖書に神の救いの力、救いの道を学ぶことこそが私の目指していることだ、と言いながらですよ、
ウェスレーの説教の中には、キケロ(***イタリア、政治家文筆家、哲学者BC106~BC43)の詩の引用が山ほど出て来ます。
それからシェイクスピア(***イギリス劇作家、1564〜1616)も、ミルトン(***ジョン・ミルトン 1608〜1674 英国詩人、長編叙事詩「失楽園」など)の引用も山ほど出て来ます。
以前はよくわかりませんでした。でも今は全部それぞれがデータベースになっています。
ですからある言葉にマッチングさせると、あ、これはキケロの言葉だったんだ、ということがこうわかるようになったんですね。

実はウェスレーはシェイクスピア全集を持っていました。
当時の世界で、シェイクスピアというのは俗的な世界なんですね。特に18世紀ではそうですよ。
宗教改革の頃は、ま、ラテンの劇、あるいはギリシャ語の劇を行うことによって、その言語に習熟するというその大学的な意図がありましたけれども、
ウェスレーの時代の(18世紀)シェイクスピア劇場というのは、周りに飲み屋ができて、周りに歓楽街ができて、そしてようやくシェイクスピア劇場が成り立つような文化でありましたので、シェイクスピアと言えば俗的なものの象徴みたいな存在でありました。

ウェスレーが死んだ後、なんとウェスレーの弟子たちは、彼が持っていた膨大なこのシェイクスピア全集を焼き捨てます。
これは非常に残念なことで、その全集には彼の書き込みが沢山あったと言われています。
それを見た研究者はいないんですけれども、当時の人の伝記を見ますと、
「ウェスレーはシェイクスピアをこよなく愛し、そして全集には沢山の書き込みがあった。
でも後代の人はそれは聖徒ウェスレーにはふさわしくない。
ウェスレーはもっぱら福音の人であって、伝道の人であって、聖められた人であって、聖書にだけ集中していれば、それでいいんだ」
と言わんばかりに全部焼き捨ててしまいます。
これはとっても残念なことですね。

こういう偏ったことに対して、ピリピの4章の8節に、
「最後に、兄弟たち。真実なことは何でも、尊ぶべきことは何でも、正しいことは何でも、清いことは何でも、愛すべきことは何でも、評判の良いことは何でも、また徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことをしっかりと心に留めなさい」ですね。

簡単に言いますとね、クリスチャンでなくても真理に精通している人はいます。沢山いらっしゃいます。
クリスチャンでなくても愛に生きている人は、もう山ほどいます。

タイに行きますと、孤児院があります。
タイの孤児院は、キリスト教も日本も早い段階で宣教師を送っていますけれども、圧倒的に多いのは曹洞宗の孤児院ですね。仏教ですから。
ですから日本の仏教でタイを助けようと思ったならば、そこに孤児院を建てていく――これは私たちとやっていること同じじゃないですか?
それは、愛に富み、様々な国を助けていく、特に子どもたちの教育を助けていくという意味では、これ共通しているわけですね。
善も聖さも尊さも、これらは教会だけの特権ではないです。
時に教会が恥じるほど、これらのことに真実に仕えている人たちがいます。
そういう人たちを重んじるのは、私たちクリスチャンの態度だと思います。

私(藤本牧師)、以前申し上げました。
現在の釧路教会、インマヌエルは閉じましたけれども、牧師はそういうわけで教会堂に住んでいらっしゃいません。
何とか深川の教会とインターネットで結んで、そして礼拝を持っているんですけれども、釧路というのは、7月8月がようやく15度、17度に上がる。
その夏と、後は全部冬ですよね。
冬と言いますと、そりゃマイナス15度とかになるわけですよね。
すると、教会員が教会に行こうと思っても、10時の礼拝だとしたらですよ、たとえば、8時に行って床暖房を点けて空調を点けないと、皆さんが入れるような所にはならないわけですね。

ちょうど家を捜しておられたという方が、いま牧師館の二階に住んでいてくださっています。
その方が8時にきちっと暖房をセットして、温かくなるようになっています。
人が住まなければ、家屋はどんどん朽ち果てていきますから、住んでいただいていますけれども、確か私の記憶では精神障碍者の施設で働くご夫妻だったと思っています。
そういう意味で、まだクリスチャンではありません。無理やりクリスチャンにしようと私たちは考えていません。
でも彼らを私たちの仲間として考えています。

教会員である私たちが、なかなか愛の働きを実践することができない。
でも神さまは、神さまの弟子とも言える人物をそこら中に散りばめておられる。
それは政治の世界もそうですね。教育の世界もそうですよね。芸術の世界もそうです。
もちろんクリスチャンであればそれに越したことはない。
でも性格の悪いクリスチャン(大笑)であるならば、そうでない一般人の方がよっぽどいい神さまの働きをしているのが現実ではないですか?

クリスチャンは讃美歌しか聞かないのではないですね。
私(藤本牧師)は讃美歌を聞くよりもジャズの方が多いです。
それはジャズの良さが解っているというよりも、妙に心が落ち着くと言いますか(笑)、
讃美歌は、私は共に歌うものだって概念なので、小さい頃から。
讃美歌は聞くものじゃないというのが私なんですね。
讃美歌は歌うものであって、聞く時は讃美歌でないものを聞く。
皆さん好きな歌、好きな小説家、そして好きなその様々な、例えばスポーツ、それは沢山あるじゃないですか。

インマヌエルの大阪の牧師先生はもう熱狂的な阪神ファンですね(大笑)。
私はいいんじゃないかなぁと思いますけれども、阪神が勝った日には、そりゃあもう、礼拝も勢いがありますし(大笑)位の、阪神が勝つか負けるかというのは、その先生にとっては一大事ですよね。
これは、パウロが言う「すべて真実な事、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと」の中に入っているとは、私は思ってません(大笑)。
それは、阪神が勝つというのは、別にそういうジャンルではないです。

でも神さまはね、私たちをこの世に生かすために、色んなすばらしいものを――ま、その人によってそれは違うわけですけれども――与えていてくださる。
例えば和菓子職人とか、例えば何かを販売する賜物を持っている方とか、私たち教会員がそうじゃないですか?
技術の関係、どんなかと?それは、学校の関係、あるいは医療従事者とか、別にクリスチャンはそうである必要はない。
ありとあらゆる世界で、神さまが造り出してくださる、この世を保つための良きことに、良き形で関わるということの大切さ。

十字架の福音をかざすだけでなく、すべての真実なこと、尊ぶべきこと、正しいこと、聖いこと、愛すべきこと、評判の良いことに心を傾ける人になりなさい。
科学の発見に感動し、巨大な建物に感嘆し、すばらしい芸術にため息をつき、いや、ため息をつくだけじゃなくて、それが解るような人になりたいですよね。
ですから、私たちはありとあらゆるジャンルの音楽の、その良さが解るような、素養を身に着けたい。
讃美歌フリーク(熱狂的ファン・マニア)でも結構です。それで結構です。
でもそうでない世界にも、神さまの賜物はあるということは覚えておきたい。
中でもそれが、「神の正しさ、聖さ、神の愛」に通じるような要素であれば、それにしっかりと心を傾けてください。

2)さて、そのようにして「すべての尊ぶべきこと、正しいこと……」と尊重しますけれども、それでも私たちは、パウロらしさを忘れてはいけない。

パウロらしさ、それが(ピリピ4章の)9節ですね。

9あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。……

これはむしろ、あえて8節と区別する必要はないのかもしれませんけれども、
「パウロから直接に学んで、受けて、聞いたこと」というのは福音に対する集中でありましょう。
「それを実行する人となりなさい」とパウロは改めて、キリストの福音へと焦点を絞ります。

それは、すべての真実なこと、尊ぶべきこと――しかし、現実の問題になりますと、私たちよくわかっていますけれども、現実の問題になりますと――
何が真実であり、何が尊ぶべきことであるか、わからなくなってしまう世界に私たちは住んでいます。
何が正しいのか、誰が正しいのか――そんなことが、わからなくなってしまう社会に、私たちは結局のところ住んでいるわけですよね。
私たちは何が間違っているのかっていうのは、往々にしてよくわかるのです。ところが何が正しいのかは往々にしてわからない。

先日妻と話をしていたんですけれど、以前トウモロコシから燃料を作り、そして車を走らせるということをアメリカは盛んにやっていましたよね。
そして非常にお手軽だということで、トウモロコシ――私たちケンタッキーに住んでいたんですけれども、その上にインディアナ州というのがあるんです――一面トウモロコシ畑だらけですね、一面。
そして背丈が伸びていきますよね。そしてコンバインが収穫の時期に働くわけですけれども、
コンバイン労働者とそのコンバインの機械、コーンですよ、コンバインは。
それを収穫する様というのは本当に見ものだと思う位、もう一面のトウモロコシで。

謎は、あのトウモロコシを食べている人をほとんど見ないっていうことですよ(笑)。
どうして作っているんだろう?と不思議に思いますね。
たま〜にトウモロコシのこんなのがコーン状態で出て来ますし、そりゃ確かに缶詰はスーパーに行けば売っていますが、あれほとんど輸出するんだろうなぁと。
あんな一面のトウモロコシ、アメリカ人食べないのにどうするんだろう?

輸出する国というのは、コーンを盛んに食べる国というのは中南米ですので、そうしますと、安〜い値段で輸出していくわけですよね。
それがいったい何になるんだろう?と思っていたところ、
あれを燃料に変えるという画期的な発明と、政府から企業からベンチャーから、もうありとあらゆるものがそのコーンの燃料に投資をして、
そして実際に、(トウモロコシを発酵させたガスで)車が走り始めるわけですよ。

その頃に、中南米のコーンの値段が跳ね上がるわけですよ。
そしてコーンは中南米の主食です。基本はトルティーヤですけれどもね。
これはメキシコ料理で、巻くあのラッピング状のトルティーヤは、コーンからできていますね。
コーンが主食の世界の、その主食の値段が二倍三倍に跳ね上がって、
そして中南米のコーンが全部アメリカに運ばれて、車の燃料になってどうするんだということで、
今は完全にすべてシャットダウンですよ。
(※結局この発明、このプロジェクトは終わります。)

すばらしいと思ったことが、結果、最悪の事態を招くというのは、それは普通に私たちの世界であることではないですか?
一生懸命愛を込めて、誰かのためにと思ってやっていたことが、結局は迷惑だったということもあるでしょうし、
評判の良いことと思って、一生懸命評判を追求している内に、いつの間にか、人の評判ばかり気にするような人間になってしまったということもありますし。

ですから最後はやっぱり福音に戻って来る、という。
私たちは改めて讃美歌にありますように、「♪地の塵にひとしかり、何一つとりえなし」(***福475、イ364)と讃美歌では歌うわけですよ。
「地の塵にひとしかり、何一つとりえなし」というのは、社会で活躍しなきゃいけないんですよ(笑)。大いに活躍していただきたい。
だけど最後、その活躍していた自分が礼拝に来て主の前に立ったら、福音の前に、キリストの前に自分を照らし出したならば、
「地の塵にひとしかり、何一つとりえなし」と遜らない限り、
私たちは正しいことも、尊ぶべきことも、清きことも、愛すべきことも、実現できないという現実と言いますか、
そういう視点、そういう立場、そういう方向性というものを、パウロは改めてここで話しているわけです。

【※ただキリストの十字架と贖いに頼り、自分は罪赦され、神の子どもとされ、復活の力を注がれている者だという、この霊的な現実に最後は集中しなければなりません。
正しい立場と展望、と申しましょうか。】

(私たちが神の御前に遜るという)福音の強調がなければ、すべての尊ぶこと、正しいこと、聖いこと、真実なこと、愛すべきことは、最終的にはバベルの塔を建てることになっていくわけですね。
バベルの塔を建てる、天にまで届くような塔を建てていこうと思って――それは当然届かないんですけれども――私たちは砂のお城を造ることに一生懸命で、
そしてやがて自分が作った砂のお城は大きな波に持っていかれて、何とも言えない空しさに包まれて終わるだけですね。

そういう意味で、自分自身を神の前に持って来る、十字架の前に自分自身を立てるということはすばらしいことです。
福音に集中するんですけれども、福音だけがすべてではないということはよくわかっている。
福音に集中し過ぎて、教会員全員が牧師になったところで(大笑)、何にも意味がないじゃないですか。
皆さんは、神さまのいのちは、神さまの福音は、世界中にあらゆる形でばらまかれているんだと。
その宝をあらゆる所から掘り出し、やっぱり活躍していかなければいけない。

でも私たちは、そんな「人の愚かしさ」も知っているんですよね。
そのように走り回りながら、究極的にはバベルの塔を建ててしまった私たちの愚かしさもよく解っている。
ですから私たちは「地の塵にひとしかり。何一つとりえなし」ですね。

3)三番目に、(ピリピ4章)9節をもう一回見ます。

9あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。……

ここに牧師としてのパウロの姿勢が現れています。
先週学びましたね。
4章の1節に――「ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。」

先週学びました。
パウロは自分の業績でも、自分がどれほどの教会を建てたかというその達成感でも、数の意味する所、働きの多さで、自分を誇りとしていない。
「あなたがたの間で良き働きを始められた神は、必ずキリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成してくださる」(ピリピ1:6)――そのあなたがたこそが、私の冠であり、私の喜びなのだ――それがパウロの牧師としての姿勢ですね。

それが今回もよく出ています。
「(あなたがたが」私から学んだこと、私から受けたこと、聞いたこと、見たことを、あなたがたは実行しなさい」
これはいわば、パウロの体当たり式の伝道、牧会。
パウロは伝道、牧会のために、全身全霊を用いて来ました。
それは決して小手先や口先で、伝道、牧会していないという意味です。

で、私(藤本牧師)も小手先でやっていると思いませんけれども、私は9節のこの言葉は絶対に言えないです。
「できたら、私を倣わない方がいいですよ」というのが、(藤本牧師の)結論でございますよね(大笑)。
3章の17節を見ていただけます?3章の17節を一緒に読みたいと思いますが――

<ピリピ3:17>
  17兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。

私がね、高津教会流に17節を言い換えますので、ちょっと目で追っていただけます?
17節こうなります。高津教会風に言うと――
「兄弟姉妹たち。私に倣う者とならないでください。また、あなたがたと同じようにキリストを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」

別にパウロだけじゃないんです。
手本となるような人は、高津教会に山ほどいる。
で、私はその方々に比べれば、自分がどれほど愚かで何もしていないかということを、少なくとも少しは解っています。
私(藤本牧師)を手本としろと言うよりは、この教会にいる手本となっているような人たちがこれほど与えられているわけですから、みんな互いに学び合おうではありませんか、ですね。

でもパウロの気持ちは物凄く大切です。いいですか。
パウロはイエスさまではありませんから、パウロは一人の人間に過ぎませんから、
「パウロから学んだこと、パウロから受けたこと、パウロから聞いたこと、パウロから見たこと」と言いますけれども、
それは多分に人間パウロの歪みがあったはずで、それは当然のことですね。
それは当然のことです。

しかしパウロは逃げていないわけですよね。
「自分は歪んでいるから、どうせ自分は不完全だから、自分は適当な人間だから、弱い伝道者だから」と、パウロは逃げてない。
彼は全身全霊でいのちをかけて、キリストの模範として生きることを目指して来た。
彼は真実に、信仰の戦いを実行して来た。
だから、「私のように、同じように全身全霊で、いのちをかけてキリストを模範として生きてください」と言っているのですね。
そして何も私だけではない。テモテもそう、エパフロディトもそうです。

信仰者は、私(藤本牧師)はやっぱり目標を持つべきだと思います。
片方でキリストのみが目標でありますけれども、しかし片方で、あなたの手本となる人は沢山いますよ。
それはこの世の中の歴史的な人物かもしれません。現役のクリスチャンかもしれない。
私たちは、誰かの理想像をキャラクター化して作り上げても、あんまり意味がないです。
日本の偉大なキリスト者に内村鑑三(***1861〜1930)もいますし、矢内原忠雄(***1893〜1961)もいますし、
でも本当の内村鑑三を私たちは知りませんので、彼の文章を色々綴りながら、彼の経歴を色々考えながら、「内村鑑三像」というものを作り上げるわけですね。

ですから、私たちはパウロという人物に実際会っていないわけですから、ここに出て来るパウロというのは「パウロ像」ですよね。
そのパウロ像というのは、読み方によっては「こんな人嫌だなぁ」(大笑)と思う場合もあるし、「ああ、こういう人すばらしい」と、この人にはまる場合もあるでしょうね。
私(藤本牧師)はどちらかと言うとペテロみたいな人間ですので――するとペテロに申し訳ないですね(大笑)、そんなこと言ったらペテロに申し訳ないですね(笑)――
でもパウロのその、「次から次にトルコ・ギリシャに教会を建てて、迫害を乗り越えて」というのは、ちょっと(自分とは)違うかな?と思ったりしますね。
もしかしたら、私はトマスのように疑い深いのかもしれませんし、

それぞれキリストにある人間には、人間的な歪みがある。
ま、私たちが手本として考えている人物も、多分それは手本像であって、
でもパウロが言いたいのは、その手本の中に見る所のすばらしさに倣いなさい。
所詮人は一人一人違うわけですから、その人のようになることはできない。なる必要もないです。
でもどこかで自分を向上させるように、「あの人のように……」というあの人は、あなたの周りに沢山いますよ。
教会というのは、そういう所ですよ。
悪いところは見倣う必要はない。でもその人の良いところは、尊重し見倣うといいですね。

パウロは決して自分に目を向けているわけではないですけれども、自分から
「自分が渡したこと、教えたこと、振る舞ったことを、ぜひとも学んでください」と言っているパウロを一緒に見て、
(ピリピ)1章に戻っていただいて、1章の3節〜6節までを読んでお祈りをいたします。
まさにこれがパウロの牧会像(※牧師としての模範的な姿)が一番現れている所ですね。
で、お互いにこのように振る舞うことができたら、こんなに感謝なことはないです。
(ピリピ)1章の3節から6節までを交替に読んで、そしてお祈りいたします。

<ピリピ1:3〜6>
 3私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。
4あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、
5あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。
6あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。

☆お祈りをします――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、教会の交わりを心から感謝いたします。なぜならあなたは、私たちの間で、私たちの内側で、良い働きを完成に向けて始められて、それを進めておられることを心から感謝いたします。

パウロはそれに感動し、ピリピの教会の人々に思いを寄せるたびに神に感謝し、祈るたびに喜びをもって祈り、そのようにして教会の信仰だけでなく、教会員の日常的な働きすべてが福音を伝えることに関わって来た、ということに喜びを見出しています。

この世界で何が正しいのか、何が清いのか、何が最善なのか、よくわからないような世界に住んでおりますから、私たちは礼拝に来て――
「私たち自身が決してバベルの塔を建てているのではない。できることを精一杯しながらも、私たちは地のちりに等しい。しかし、神は私たちを世に遣わし、すべての良きこと、愛すべきこと、清きこと、評判のよいことを打ち立てるために、私たちを用いてくださる。用いてくださる、ご自身の栄光のために」
――どうか、その信仰を私たちにも与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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