☆聖書箇所 民数記16:1〜11
1レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、 2会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。 3彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なるものであって、【主】がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、【主】の集会の上に立つのか。」 4モーセはこれを聞いてひれ伏した。 5それから、コラとそのすべての仲間とに告げて言った。「あしたの朝、【主】は、だれがご自分のものか、だれが聖なるものかをお示しになり、その者をご自分に近づけられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近づけられるのだ。 6こうしなさい。コラとその仲間のすべてよ。あなたがたは火皿を取り 7あす、【主】の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。【主】がお選びになるその人がその聖なるものである。レビの子たちよ。あなたがたが分を超えているのだ。」 8モーセはさらにコラに言った。「レビの子たちよ。よく聞きなさい。 9イスラエルの神が、あなたがたを、イスラエルの会衆から分けて、【主】の幕屋の奉仕をするために、また会衆の前に立って彼らに仕えるために、みもとに近づけてくださったのだ。あなたがたには、これに不足があるのか。 10こうしてあなたとあなたの同族であるレビ族全部を、あなたといっしょに近づけてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。 11それだから、あなたとあなたの仲間のすべては、一つになって【主】に逆らっているのだ。アロンが何だからといって、彼に対して不平を言うのか。」 12モーセは使いをやって、エリアブの子ダタンとアビラムとを呼び寄せようとしたが、彼らは言った。「私たちは行かない。 13あなたが私たちを乳と蜜の流れる地から上らせて、荒野で私たちを死なせようとし、そのうえ、あなたは私たちを支配しようとして君臨している。それでも不足があるのか。 14しかも、あなたは、乳と蜜の流れる地に私たちを連れても行かず、畑とぶどう畑を受け継ぐべき財産として私たちに与えてもいない。あなたは、この人たちの目をくらまそうとするのか。私たちは行かない。」
☆説教 神の人モーセ(43)コラの子たち
民数記の16章を開いていただきました。 私(藤本牧師)もずっと連続で聖書を学びますので、「使徒の働き」からパウロをやればず〜っとパウロですし、「出エジプト記」と「民数記」からモーセをやればず〜っとモーセですし、皆さんもいい加減に疲れるだろうと私なりに察してはいます。
そして、時々イースターであったり、ペンテコステであったり、キリスト教の暦に従ってさまざまなことが入りますが、私はしばらくこの「連続」というものを自分に課し、また皆さんに課すということをしています。それはどうしても、聖書を読む時、私たちは偏って、ある章は読みますけれども、ある章は読まない。あるべきことはよく知っているけれども、あるべきことは全く知らない。それでは聖書を神のことばとして、私たちは信じ、学び、それに生きようとしている自分たちの姿勢に偏りがあると思いまして、少し踏ん張っている所であります。
前々回と前回と2回続けて学びました。それは民数記の14章から、荒野を旅し、ようやく約束の地に近づいた時に、イスラエルの人々は十二部族(ごとに)ひとり(ずつ)選び、十二人の偵察隊を約束の地に送り込みます(13:1〜2)。そしてその場所から、ぶどうの一房を持ち帰るのですけれども、なんと二人の男が棒にその房を載せて担いで(13:23)来なければならないほど、ぶどうの房は大きかったという風に記されています。
とても良い土地でありました(13:27、14:7)。でも偵察に行った者たちはヨシュアとカレブの二人を除いて十人は、その地を占領しているアナク人やエブス人(13:28〜29)に恐れを抱いて、「絶対に勝てない、絶対に攻め上れない(13:31〜33)。私たちはモーセ以外、もう一人の指導者を立てて、さっさとあの奴隷のエジプトに帰ってしまおう(14:4)」と神さまの力を疑い、その約束にもその真実にも背を向けてしまいます。
神さまはものすごく失望されます。――わたしは民によって侮られた。その程度の神、主としか、彼らは考えていなかったのか。 神さまはイスラエルの民、モーセに仰います。「(わたしは」あなたがたをエジプトから解放させただけではない。エジプトの軍隊を壊滅させ、多くの奇跡をなし、荒野でパンを与え、荒野で水を噴き出させ、時にあなたがたの不信仰を裁き、それでもなお、あなたがたはわたしを侮るのか(14:11)」。
神さまの裁きが下る前に、モーセは破れの狭間に立って、民のためにとりなしている姿を2回連続して見ました。
そして、16章はそれからまもなくの出来事であります。
コラという人がいます。1節に「レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、」と始まります。このコラという人物を中心に反乱が起きる。 出エジプト以来、イスラエルの歴史の中で一番悲惨な出来事でありました。 最後、コラと共謀した者たち二人、合計三人の家族がモーセの前に立つことになります。すると、ちょっと31節(〜33節まで読まれる)を見てください。
31モーセがこれらのことばをみな言い終わるや、彼らの下の地面が割れた。 32地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。 33彼らとすべて彼らに属する者は、生きながら、よみに下り、地は彼らを包んでしまい、彼らは集会の中から滅び去った。
みんなが見ている前で、コラと共謀した者たちは、生きたまま、地にのまれていくという、その姿を見ます。それは尋常ではない出来事でありました。 それから49節をご覧ください。この反逆に共謀した者たちも裁かれ、
49コラの事件で死んだ者とは別に、この神罰で死んだ者は、一万四千七百人になった。
最大の被害を出しました。現代はこういう神罰は起こりません。しかし、非常に盛んだった教会が二つに分裂してしまうとか、あるいは、何万人も集っていた教会が閉じてしまう。日本では、そもそも何万人規模の教会というのはありません。でもアメリカのメガチャーチの場合は、いくつかは閉鎖してしまった教会もあるのです。
何がいったい原因するのだろうか?そう考えますと、今日学ぶことはとっても大切なことなので、いっしょに考えていただきたいと思いますが、この悲惨な出来事から私たちは何を学ぶのか。
1)コラの反逆
もう一回1節を見てください。
1レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは・・・・・・
つまり、コラのおじいさんはケハテであった。このケハテをちょっと見ていただきたいと思いますね。いま民数記を開いていますが、ちょっと戻して4章を見ていただけませんでしょうか。(民数記)4章の1節以下にこういう風に書かれています。1〜4までを交替に読んでいきたいと思います。
4:1【主】はモーセとアロンに告げて仰せられた。 4:2「レビ人のうち、ケハテ族の人口調査を、その氏族ごとに、父祖の家ごとにせよ。 4:3それは会見の天幕で務めにつき、仕事をすることのできる三十歳以上五十歳までのすべての者である。 4:4ケハテ族の会見の天幕での奉仕は、最も聖なるものにかかわることであって次のとおりである。
と以下ず〜っと、ケハテの一族がどのような働きに任命されたかが記されています。それは「会見の天幕」という「最も聖なるもの」にかかわることでありました。 会見の天幕の中にある神さまに属するものを全部管理するのがケハテ族の務めで、ケハテの孫にあたるコラは恐らく血気盛んな青年であった。年齢から言えば青年であったと理解することが出来るのではないかと、私(藤本牧師)は思います。
でも彼は自分の務めに不満を抱きます。 彼がやりたかったことは、もっと指導的な立場で自分自身に生かしていきたい。同じレビ族なら、アロンのような祭司になりたい。あるいはもっと言えば、モーセのような指導者として用いられたい。 そこで16章に戻っていただいて、ちょっと1節から見ていきますが――
1・・・・・・コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、 2会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。
モーセに反逆を起こすのです。イスラエルの民の中でかなり地位のある、有名な二百五十人とともに、モーセに歯向かっていった。 そしてもっともらしい平等論を掲げます。3節――
3彼らはモーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なるものであって、【主】がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、【主】の集会の上に立つのか。」
イスラエルの民が神の民であり、みな平等に聖なるものであるならば、なぜモーセとアロンだけが皆の上に立っているのか。あなたがたは分を超えている。――いかにも平等論です。
なぜこういう展開になったのかは記されてはいません。四十年荒野をさまようことになったということへの不満が噴出したのか?そもそもコラは、指導的な立場に立つことを願っていたのか?
でもここで突然現れます。現れた彼はモーセのこれまでの犠牲、モーセのとりなしも働きも無視して、自分を前面に出していきます。自分、自分です。 みんなが神の民で、みんなが聖なるものであれば、なぜモーセとアロンだけが指導的な立場にあるのだ?自分たちも政権をとりたい――そんな思いでしょう。
これまでもモーセの指導性に挑戦した人物はいました。一緒に学びましたけれども、姉のミリヤムがそうでありました。 その時も神さまは、ミリヤムを裁かれました。しかしそんなことを覚えてもいないかのように、コラと二百五十人、自分の優位性をどこかで主張するものです。野心、権力をむさぼるような野心です。
2)さて、モーセはそんなコラに何と説得したのか。
コラの挑戦にモーセはショックでありました。4節――
4モーセはこれを聞いてひれ伏した。
ショックだったのだろうと思います。あるいはモーセは謙遜な姿勢で、コラの批判を受け止めたのかもしれません。そして5節にこう提案します。
5それからコラとそのすべての仲間とに告げて言った。「あしたの朝、【主】は、だれがご自分のものか、だれが聖なるものかをお示しになり、その者をご自分に近づけられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近づけられるのだ。 6こうしなさい。コラとその仲間のすべてよ。あなたがたは火皿を取り、 7あす、【主】の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。【主】がお選びになるその人が聖なるものである。(レビの子たちよ。あなたがたが分を超えているのだ。)」
というのは、モーセはコラに挑戦したのです。――そんなに言うなら、やってみなさい。そして神さまはご自分が選ぶ者を近づける。よく聴きなさい。私とアロンは、自分たちが優位に立ちたいからといってこうしているのではないよ。神さまに選ばれた。そして人はそれぞれに、選ばれた役割を果たす。実はあなたにはあなたの立派な役割があるじゃないか。 10節を見てください。
10こうしてあなたとあなたの同族であるレビ族全部を、あなたといっしょに近づけてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。
というのは、神さまはおじいさんケハテから始まる一族、コラあなたを含めて天幕の管理をするように、とっても良い仕事へとあなたがたを召された。神さまがあなたがたを召されて、選ばれた職分があるにもかかわらず、今度は祭司の職まであなたがたは要求するのか。
モーセはとっても残念でした。なぜならコラたちの高ぶり、傲慢というのを見破ったからです。別に神の子らの平等論をうたっていたわけではなかった。コラたちは単純に自分たちが上に立ちたい、そのあまりに反乱を企てたのは、(モーセは)とっても残念でありました。
キリスト教の歴史というのは、皆さんもご存知のとおり、多くの教団・教派に分岐しております。 教団・教派に分岐している中で、カトリックはカトリックとして一つでありますけれども、プロテスタントは最高権威は聖書です。カトリックの最高権威はローマ法王です。
でも、ルターの宗教改革以来、「プロテスタントの最高権威は聖書だ」と言った段階で、これはいかようにも分裂する可能性があります。なぜなら、聖書を解釈するのは私たち人間ばかりですから。 ルターはルターなりに解釈し、カルバンはカルバンなりに解釈し、ウェスレーはウェスレーなりに解釈するという、その大きな解釈から、もう、一人ひとりの牧師に至るまで、「聖書が最高権威であって、人ではない」と言った段階で、逆にプロテスタントはとても難しい状況に追い込まれていくのです。
いまキリスト教会の歴史、プロテスタントの歴史五百年を振り返って見れば、そのように分岐することによって、キリスト教はより豊かになったと。 カトリックも同じですね。カトリックという一つの団体の中で、沢山の修道会ができることによって、より豊かになったというものの言い方ができます。 でもプロテスタントには、反省すべき点も多々ある。 場合によっては、その人の傲慢さ、その人の「自分の考えが唯一正しいものであって、自分たちは自分たちの群れを作りたい」という野心が、教会を分裂させていったと言う現実も、私たちは謙虚に認めなければいけない。
救世軍のとても大きな働きをした――救世軍というのはイギリスから起こるのですが――ブレングルというアメリカの人物で、救世軍の働きを広めた人物がこんなことばを残しています。ブレングルが言っただけに意味があるのですが――
「斧は、木を切ったとき自らを自慢しない。斧は単純にきこりの手に握られていただけだ。きこりが斧を取り、その使い方をマスターし、きこりが見事に斧を使って木を切った。それだけのことだ。きこりが斧を手放した瞬間、斧は鉄の塊に過ぎない。」
ブレングルは自らをそういう風に考えた。――自分は神さまの手に握られた一つの斧に過ぎない。自分を磨き自分を使って何かをするのは神さまであって、私が神さまの手から離れた瞬間、私はただ鉄の塊に過ぎない。
そしてブレングルは私たち一人ひとりがみなそうだと。 教会というキリストの身体を形成している時に、確かに牧師という責任は要るでしょう。しかし、私たちは皆が神の民であり、皆が聖なるものであることは事実です。 そして牧師というその先頭にいる者が、自らに与えられた分を超えて、自らの高慢で教会を振り回したら、皆さんは牧師を罷免したらいいです。
仮に皆さんの中で、自らの分を超えて、自分が牧師になりたいというならば、なればいいです。神学校にいらっしゃって、皆さんの前で説教して、牧会をして、皆さんが認めてくださるような、神さまに認められるような働きをなしたらいい。
誰がどういう責任を負うかではない。今日、ここで問題にしているのは、そのコラが、この反逆の民を率いて先頭に立つのです。そのすべての出来事に存在していた高慢さ――自分の主張を通したい。自分を前に出したい。自分が背負いたい。自分が率いたいというその自分中心のものの考え方。
モーセはブレングルのように、「自分は神の手に握られた斧にすぎない」という、どこまでもそういう意識で民を率いていました。それはしんどい苦しい役割で、彼が望んで引き受けたわけではありませんでした。モーセは最初の段階で何とか断ろうと必死でした。
しかしコラは、進んで上に立とうとします。誰もコラを推薦していない。でも自分たちは平等論を抱えて、進んで前に出ようとするのです。神さまに選んでくれと言わんばかりに、自分たちが前に出ます。
モーセは悲しい眼差しで言ったに違いない。――そんなに選ばれたいなら、やってみたらいい。あなたがたも火皿を取り、そこに火を入れ、香をたいて、神さまの天幕の中に近づいていきなさい。でも、覚えておくといいよ。7節ちょっと見てください。
7あす、【主】の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。(覚えておくといいよ)【主】がお選びになるその人が聖なるものである。
――あなたは自分の役割を自分では選べない。神さまがお選びになる、という現実は覚えておいた方がいいよ。そういうものだよ。
さて、3番目、これが一番大事ですが――
3)モーセの助言を受けた仲間たちの反応を見ていただきたいと思います。
12節、ここからが一番大切です。ちょっと12〜14まで交替に読んでいきたいと思います。
12モーセは使いをやって、エリアブの子のダタンとアビラムとを呼び寄せようとしたが、彼らは言った。「私たちは行かない。 13あなたが私たちを乳と蜜の流れる地から上らせて、荒野で私たちを死なせようとし、そのうえ、あなたは私たちを支配しようとして君臨している。それでも不足があるのか。 14しかも、あなたは、乳と蜜の流れる地に私たちを連れても行かず、畑とぶどう畑を受け継ぐべき財産として私たちに与えてもいない。あなたは、この人たちの目をくらまそうとするのか。私たちは行かない。」
一番最初に「私たちは行かない」、14節の最後に「私たちは行かない」。 それなりの理由が書いてあります。一言で言いますと――ろくでもない指導者の提案に耳を貸すつもりはない。エジプトから連れ出し、荒野に連れ出し、乳と蜜の流れる地に連れて行くといいながら、いまだに到達できない。荒野で四十年をさまようなんて、そんなばかな話があるか。私たちは行かない。
一言で言えばどういうことか。それは、モーセがひれ伏しても、それを諭すように話したことばを、泥足で踏みにじっている姿です。 モーセは自己保身で言っているのではない。ただ若者に言い聞かせているのです。神さまはあなたの一族に尊いお仕事をお与えになった。それに不満で祭司になろうとするのは、君の野心じゃないのかと、モーセはひれ伏して言っているのです。
「でもそんなに自信があるのなら、やってみたらいいじゃないか」と言う、このモーセの提案に対して、「いや、行かない」と大先輩の諭すことばも優しい遜る姿勢も、苛立つ若者たちはいとも簡単に踏みにじる――それを傲慢といいます。
でもコラの周りに集った人々は、今までイスラエルの旅路に何一つ貢献して来なかった者たちです。ある意味、何の教育もなく、これまで払った犠牲も何一つなく、でも不平ひとつで自分たちの主張を通そうとする。
私たちの教会はとっても自由な教会で、私たちの教会の基本はですね、古い方々と新しい方々の区別をしない。 古い私たちは――私も古いのですけれど、私は小学校1年生からですから(笑)――古い人たちは、新しい人たちの新鮮な意見に耳を傾けなければいけないのです。 今まで何十年かかってやって来たから、高津教会はこういうものだ――それは傲慢。 よそでこういうことをやっているとか、こういうやり方もあるんじゃないでしょうかということに気がついたならば、ぜひ仰っていただきたい――私たちはそれをともに考えて、ともに検討していく。 こういう制限がある、高津教会にはこういう課題もあるのだということも知っていただきたいし、でも、できるだけオープンで、私たちはともに成長していくということを考えなければいけない。
それでもこれまで、私(藤本牧師)としては、なかなか受け止められない意見もありました。まぁ、三ヶ月ぐらい来られて、その方は私に提案されました。 「先生、礼拝が終わったら、玄関で挨拶なんかしないで、とても大切だと思われる人とお祈りをしたらどうですか」と。私は、 「大切だと思ってる方は平日いらっしゃればいい。礼拝の後、残ればいい。いっしょにお祈りします。私は来てくださった方々にすべからく挨拶をして、祝福をもって送り出したい」
その方は、私の考え方が気に入らなくて、しばらくして去っていかれます。 私たちは、あぁ、去ってくれてよかった!!(大笑)・・・・・・私は何言われるかわからないのですが(大笑)、そういう方は教会を転々とされますね。そしてどこの教会に行っても、難癖をつけて、牧師や信徒や役員とぶつかり、そしてまた次の教会に移っていく。
私たちのような都会の教会は、そういうことにもう免疫ができているんですね(笑)。 ですから新しくいらっしゃっても、「あ、転会するなら、一年かけて転会してください。高津教会ってこんなもんだと、それをよく理解して転会してください」という風に申し上げるようにしていますが、それは決して閉鎖的だという意味ではないです。ある程度の自己防衛というのは、張らなければいけない。
ぜひ盛んにさまざまな意見を言っていただきたいと思います。そして、私たちは本当に変わっていかなければいけない。次の世代に向かって、次の高津教会の世代に向かって変わっていかなければ、私たちはやっぱり新しい展開は望めないと思います。 でも一人ひとり、新しく来られた方も古くからいらっしゃる方も共通して考えなければいけないことは、――自分の心の中に高慢さはないか?
小さな村の池に二羽のアヒルが蛙と楽しく夏を過ごしていたという話があります。 毎日二羽のアヒルと一匹の蛙が、楽しく一緒に遊び、水の中ではしゃぎ、泳ぎ、でも冬が近づいてきます。水が涸れてきます。 アヒルはそろそろ移動の時期がやって来たことに気がつきます。飛ぶことができる彼らには簡単ですが、蛙はそうはいかない。
そこで二羽のアヒルは考えました。 「ぼくらが口ばしで棒をくわえる。蛙くん、きみはその強力なあごで、この棒をくわえないか。そしたらぼくらがきみを運んで、そして新しい池へと旅立つことができる」 そして本当に旅立って行くのです。
二羽のアヒルが棒をくわえて、その棒を蛙がくわえて飛んでいくその姿に、近所のおじさんが感激して叫ぶのですよ。 「何という友情!何という名案!いったいだれが考えたんだ〜!」と言った時に、蛙は思わずですね、「俺だよ〜!」(大笑)と言った瞬間に落ちるのです。振り向いて、「俺だよ」と言った途端に落ちていくのです。
不思義な原理です。それは落ちる前に何かがある。人は落ちていく前に何かがある。それが高慢だということを伝えたい(話だと思います)。
15節からちょっと見ていただきたいと思いますが、15節からこう始まります。ひれ伏していたモーセ、それが15節に――
15モーセは激しく怒った。そして【主】に申し上げた。「どうか、彼らのささげ物を顧みないでください。・・・・・・」
と断罪が始まるのです。いいですか、こういうことなのです。 モーセが激しく怒ったのは第一回目ではないのです。第一回目の時はモーセは聞いているのです。――君たちがそんなに言うのだったらば、神さまは選ぶ者を近づけるお方だから、君たちもやってみよう。そして君たちが選ばれるのだったら、神さまは近づけてくださる。それはそれでいいじゃないかと。
でもその提案を、泥足で踏みにじる。――私たちは絶対行かない。だいたい、あなたがた二人はろくな指導者ではないから、そんな指導者の提案を今更聞いてどうする――と言った段階で、モーセはさすがに怒った。
つまり私たちは誰もが高慢な部分を持っているのです。誰もが高慢な部分を持っていない人は私はいないと思います。人間誰でも持っている。 でもそれを指摘された時に、助言を受けた時に、若干の指導的なことを言われた時に、それを泥足で踏みにじると、その小さな高慢の種が立派な高慢のもとになる。
高慢の試金石というのは、自分が指導されて批判された時に、助言された時に、それをどのように受け止めるかですべては決まってしまう。 イスラエルの歴史の中で「不信仰」は恐ろしいと思います。でもこのコラの出来事というのは、長々と聖書の中に記されていますが、「高慢」は「不信仰」よりも恐ろしい。
ジョン・ウェスレーのメソジストの働きの中で、ウェスレーはたびたび「きよめられた人の特質」というのを挙げています。 やっぱり何といっても、きよめられた人の特質は、英語で言いますと、ウェスレーの造語だと思いますが、learnability――learnするabilityのことです。学ぶ能力っていうのは、逆を言うと(?)教えてもらう能力。
きよめられた人は、教える能力は問われない。こうした方がいいんじゃないの、こうすべきだよ。こうあるべきだよと、教える能力は問われない。 きよめられた人は、どれほどの教えられる能力、つまり教えてもらうことを許容する能力があるかないかを問われる。 もう少し普通の言い方で言えば、その人は謙虚に学ぶ姿勢を忘れていないかが問われる。 きよめられた人は人に教えてもらうことに抵抗しない。 私たちの謙遜さは、日頃は問われない。でも一旦他の人から指摘を受けたら、それを受け止められるかどうかで、私たちの謙遜さは決まるのです。
ウェスレーが18世紀のイギリスでメソジスト運動を率いていく中、さまざまな問題を抱えます。 たとえば当時のイギリス国教会から、あからさまな嫌がらせと迫害を受ける。 神学論争ではモラビア派やカルバン派との論争が後を絶ちません。
でも彼が一番正直疲弊したのは、メソジストの内側からの問題でありました。 それはトーマス・マックスフィールドという人物で、名誉あるメソジスト信徒伝道者の第一号です。彼が育て、彼が起用した人物です。神学教育はありませんでした。伝道者として採用することに批判の声もありました。
しかしウェスレーは、マックスフィールドの情熱と若さ、そしてその可能性に賭けたのです。彼は用いられます。そしてどんどん高慢に駆られていく。 そしてメソジストの働きが最高点に達した時に、マックスフィールドは自分の取り巻きを作る。
彼は、「聖霊によって完全とされた者は、決して罪を犯さない。もはや律法の教えを必要としない。敬虔の修練も必要ない」と、怪しげな教理を熱心に説いて、メソジストのソサエティーを混乱させ、やがて2000人いたロンドンのメソジスト・ソサエティーが半分になります。 彼は取り巻きをつけて、出て行きます。
ウェスレーはマックスフィールドに手紙を書くのですが、長い手紙の中で、彼らの教えでおかしかった所を全部指摘した後に、次のように記しています。それを読んで終わりにします。
「私にとって最も好ましからぬ点は、あなたがたが兄弟に対して、ソサエティーに対して愛が足りないことです。彼らとの心の結び合いにも、愛情にも欠けています。柔和ではなく、穏やかでもなく、忍耐することなく、矛盾を我慢することもできず、そして愛をもって忠告する人を敵視し、己を愛する人々だけを愛します。」(日記、1762.11.1)
私はここに決め手があると思います。マックスフィールドはコラの子どもたちの一人でした。――愛をもって忠告する人を敵視し、どんな忠告でも忠告する人は敵なのです。そして自分を愛する取り巻きだけをひたすら大事にする。
これがカルトの教会の典型的な姿でありますけれども、ここに――私(藤本牧師)は繰り返し申し上げますけれども――信仰の成熟、ホーリネスの試金石がある。 *愛をもって忠告してくれる人の忠告を、素直に遜って受け止めることが出来るかどうか? *自分を批判する人を愛することができるかどうか?
「忠告は受け取らない。愛するのは自分を愛する人だけ」と言った時に、そんな肉的なクリスチャンはないだろうとウェスレーは言いたいと思いますね。 一言お祈りをもって、私たちの心をきよめていただきたいと思います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、暑い朝でありました。私たちに力を与えてくださり、教会に来ることのできたこの恵みを心から感謝いたします。 主よ、どうか、どうか、私たちの心をきよめて(高慢の種を取り除いてください)。誰しもが高慢から全く解放されることはないでしょう。どこかに火種があり、いやなかったとしても、サタンはその火種を植え付ける。 でももし愛をもって私を指摘してくださる方がおられるなら、そのことばに耳を傾けることができるように、そして自分の取り巻きだけでなく、すべての人と和合して暮らすことができるように、私たちに大きな愛を与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
|
|
LAST UPDATE: 2013.07.30 - 21:25 |
175.133.12.55 - Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 7.0; Windows NT 6.0; SLCC1; .NET CLR 2.0.50727; .NET CLR 3.5.30729; .NET CLR 3.0.30618; InfoPath.1; .NET4.0C)
|