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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   8/4 ピリピ(19)ありとあらゆる境遇にあって ピリピ4:10〜14
☆聖書箇所   ピリピ4:10〜14

 10私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあって大いに喜んでいます。あなたがたは案じてくれていたのですが、それを示す機会がなかったのです。
11乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。
12私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
13私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。
14それにしても、あなたがたは、よく私と苦難を分け合ってくれました。

☆説教   ピリピ(19)あらゆる境遇にあって

ピリピの手紙の学びに良く付き合ってくださいました。ま、短い書(***全部で4つの章の短い手紙)でありますけれども、元旦から始めまして、半年以上かかったということになります。
4章の10節〜14節までの区切りを見てまいりますが、10節は後に回しまして、11節からちょっと読んでいきます。

11乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。
【※ここから今日は『どんな境遇にあっても』と説教題を取りました、と藤本牧師】

1)貧しさの中でも豊かさの中でも

(※読み続ける藤本牧師)
12私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

12節の最初にある「貧しくあることも知っており、富むことも知っている」――知っているという点では、私たちも同じだろうと思います。
私たちも貧しかった時のことも知っていますし、日本という国が戦後そうでありましたし、また少しばかりの「富む」ということも知っているに違いありません。

私(藤本牧師)の母(幸子先生)は90歳になりますが、母との思い出の中で一番思い出深いことがあります。前にも申し上げたことがあると思いますけれども、
私は小さな頃から――5歳で川崎に引っ越して来まして――それからひどい喘息で、今のような治療法がありませんでしたので、小学校5年生ぐらいの時に、減感作療法という、とんでもない治療法にはまることになりました。

今はずいぶん改善されたと思いますけれども、要するに注射をして自分のアレルギーを引き起こす原因を調べるわけですね。
その原因となる物質を週に2回位、通いまして注射して入れるわけです。
私は喘息には、減感作療法はやらない方がいいと思っていますが、注射した途端にアレルギー物質が身体の中に入るわけですから、抗体ができるという以上に、ものすごい喘息になってしまうという。

それが日本で始まったその年に、川崎に有名な先生が同愛記念病院という関東大震災で建てられた病院からクリニックを始められましたので、そこに週二回母親と通いました。
それはそれは辛い体験でありまして、高校二年生ぐらいまで私はその治療を続けましたね。高校二年をもって、(治療を)止めました。
なぜかと言いますと、高校二年生の時もう一回検査をした時に、確かに私がアレルギーであった物質に対しては抗体ができていました。
ところが、アレルギー体質というのは、他のアレルギー物質に激しく反応するように変わっていくんですね。
だから「もぐらたたき」のようで(笑)、蕎麦なら蕎麦、それを一生懸命減感作療法で治していますと、しばらくしますと今度は違うものに激しく反応していきますので、
私はあれほど意味のない治療法はないんじゃないかなということを、身をもって体験した人間であります。

川崎のクリニックに南武線で行きました時に、駅のホームにものすごいいい匂いのする立ち食い蕎麦屋があります。
私は母にねだって、それが食べたい、それが食べたいと。
母は必ず連れて行ってくれました。そして母が頼むのは、私は天ぷらうどん、母はかけうどんでありました。
ある時、何回も訊いたことがあります。「天ぷら半分こしようよ」と。
すると母は、「いや、自分は喘息じゃない。大変なのはあんたなのだから、あんたがてんぷらを全部食べなさい」
母はいつもかけうどんでありました。

ま、「貧しくあることも知っており」――という部分であったと思います。
それはかけうどんが貧しいわけではない(笑)。かけうどんはかけうどんなりにうまい(笑)。
そういうことではなくて、自分の人生を振り返ってみて、非常に苦しい大変な時期があった。
今は良い薬のおかげで随分楽になったという、自由に動き回れる自分と言いますかね、そういうものを知っている。
逆に皆さんにとってみれば、年齢と共に様々な制限を感じ、自分の不自由さを感じるようになったという場合もあるでしょう。

ですから、この「貧しくある」ということ、あるいは「富む」ということは、何も経済的なことではないですね。
二つの逆の状況の中、片方が試練かもしれません。逆境かもしれません。片方が順調な時かもしれません。
でもどちらにしても、その両方において、(ピリピ4章)11節の最後に、「満足することを学びました」ということは、これは学ぶことなんだということがよくわかります。
学んでいかなければいけないことなんだと。

箴言の24章の10節、これは別に開かなくても結構ですが、ちょっと読んでいきますね。

<箴言24:10>
10もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い。

ちょっと厳しい言い方ですね。
もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は本当に弱い。
どういうことかと言うと、危機に立たされた時に弱々しいようであっては、私は本当に弱いということです。
あなたの弱さは、逆境に立たされた時に明らかにされる、という意味です。
力ある神を本当に信じているんだろうか? 希望を信仰によって見出すことができるんだろうか?
逆境の中で、喜びと感謝を忘れずに神さまを見上げ続けることができるんだろうか?
そして回復のために全力をもって、力強く神を信じることができるんだろうか?

(著者の)ソロモンは言うわけですね。
「その苦難の日に気落ちしているようであっては、あなたの信仰は本当に弱く、あなたの力は本当に小さい。」
なかなか厳しい教えであると思いますけれども、私(藤本牧師)はある意味で、真理を貫いているように思います。

先日、教会で非常な経済的な困難に陥った方がおられました。
それはそれは、見ていて気の毒であり、大変なことでありました。
経済的な問題でありますので、その厳しさというものが数字から実感できたことであります。
そしてその方が、いつもと同じように月定献金を捧げられました。
献金の担当は圭子(夫人)ですから、圭子はその方から聞いたと言うのですね。
「こういう事態の中にありますけれども、献金は神さまへの捧げ物でありますから、いつもと同じように捧げます」と。

私(藤本牧師)ならどうしただろうかな?とこう考えさせられます。つまり、
「あまりにも厳しい状況なので、神さま、少し月定献金をお休みさせてください」
と、私だったら言うんじゃないかなと。
牧師としてそのように相談されたら、そのように言うと思うのです。
「ぜひ、そのようにしてください。無理をすることは善くないです」
と、私はそう言うのが牧師であろうと思います。

その時、仮に牧師が、
「あなたが信仰を持っているのであれば、その信仰を貫いてください」
と、もし牧師が言ったら、信徒である皆さんは、私に言い返したらいいですね。
「先生も、私のようになったら、本当にするんですね?」と(笑)。
言い返されたらいいと思います(大笑)。
「本当に厳しい状況にあるんなら、そんなに無理をしなくても、神さまは理解してくださいますよ」
とイエスさまに代わって言うことができるのが、私は牧師であろうと思うんですね。

でも、解ったことは、その方が
「信仰を自分は変えない。むしろ逆境であるがゆえに、いつも通り献金をしたい」
と強く奮い立っておられる姿を見て、なるほど箴言の言葉はそういうことかと解りました。
つまり、「苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い」と。
ま、私たちは皆弱いんですよね。そしてその弱さは、苦難の日に、試練の時に明らかになる。
でも逆に、苦難の時に、試練の時に、その弱さを改善していただくこともあり得る。

でもパウロは、貧しさに耐える秘訣は、同じように同じ秘訣として、豊かさの中でも、順調の中でも学ぶ必要があると考えています。
ですから、「私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました」(ピリピ4章11節)。
12節に――「私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも、飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」と。

貧しい時に信仰をきちんとするんだったならば、富んでいる時にも信仰をきちんとすることを学ぶって、一体どういうことなんだろうか?と思いますね。
順調な成り行き、豊さというのは、(信仰の)もう一つの試練、もう一つのテストとなり得る。
ある意味で、こちらのテストにパスすることの方が遥かに難しいと、スコットランドの有名な歴史家のトーマス・カーライル(***男性1795〜1881)という人が言いました。
カーライルの言葉はこうですね。

「逆境は人に辛くのしかかってくる。しかし100人の人間がこの逆境に耐えられるとしたら、その100人の中で、豊かさの中で耐えられる人間は一人ぐらいしかいない。」

逆境の中で、きちんとした信仰を保つことができる人間が100人いるとしたならば、順調な状況の中で、豊かさの中で、同じようなきちんとした信仰を保つ人間というのは、その中で一人ぐらいしかいないと。

様々に順調な時に、豊かになってきた時に、霊的にも経済的にも順調な時の方が、真っ直ぐ信仰を保つのが難しいのは、一体なぜか?
それは、それほど難しい理由ではありません。
逆境というものが私たちにのしかかってきますと、私たちの生活も心構えも、信仰も祈りも単純になっていきます。
生き残らなければならない。嵐を乗り切らなければならない。
その時、私たちは本当に大切なことと、そうではないことを見極める力を自然と働かせますよね。
家族は一致団結するでしょう。心を一つにして祈るでしょう。

私たちのおごる心を捨てて、遜って必死に神さまにしがみつきます。
自分の無力さを感じながら、神さまの憐れみのみを必死で乞います。
そんな時は、一日に何度も祈るに違いありません。

しかしその嵐が一旦治まってしまって、やがて順風に乗って、すべてがうまくいっていったらどうなるでしょうか?
道はそれほど真っ直ぐには見えなくなっていくでしょう。
家族の者はバラバラに動き始めます。一人ひとりが自分のやりたいことを自由に始めます。
そしていつの間にか、私たちの心に「欲」が顔を出します。あれもこれも、自分のものにしようと考えます。

なぜそうなるのか?
それは人間というものは、飽くことを知らないということです。
人間というものは、満足するということを知らないと言いますか、それは自分の生活を振り返ってみれば、少し分かると思いますけれども、
この自由な時間をあれに注ぎ込もう。これに注ぎ込もう。
この余ったお金をこのように貯蓄しよう、このように増やそう、と
私たちはいつもこのように考える傾向性を持っています。

それを人によっては「向上心」と呼ぶかもしれません。
しかし私たちはいつも試練から自由になりますと、より上を目指すために、自分の人生に様々な事を加えていきます。
別にお金の奴隷になるわけではないでしょう。
だけど自分の人生に誉れを得るために、自分の人生に自分が満足するために、
私たちは様々な事を載せていく。
そこに微妙に欲が入り込み、傲慢な自分の心が織り込まれて、自分の人生ができ上がって行くというのは、私は誰にとっても普通に言えることなのではないかと思います。

そう思いますと、トーマス・カーライルの言うように、逆境に耐え得る100人の中で、一人だけが豊かさのテストをパスすることができるというのは、それほど誇張した表現でもないのだろうと思います。

さて、二番目に(ピリピ4章)12節の終わりにパウロが言っています「ありとあらゆる逆境に対処する秘訣を心得ています」という、

2)この秘訣とはいったい何でしょうか?

パウロはそのようにあらゆる境遇に対処する秘訣を学んだんですね。
で、その秘訣が何かということは、ここには詳しく記されてはいませんけれども、
本質的なことが記されています。それが(ピリピ4章)9節です。
ちょっと9節を見ていただけますか?9節を一緒に読みたいと思います。

<ピリピ4:9>
9あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。

いつものように、いつもの信仰を淡々と実践しなさい。
そうすれば、平和の神があなたがたと共にいてくださいます。
「平和の神が私と共にいてくださる」――それを実感するというのが、パウロの言う「あらゆる境遇に対処する秘訣だ」と。

旧約聖書にヨセフという人物が出て来ます(***創世記37章)。
ヤコブの11番目の息子でありました。
異母兄弟の嫉妬の犠牲となり、殺されかけます。
そこを何とか救われ、しかし彼はエジプトに奴隷として売り飛ばされます。
何とも悲惨な青年時代ですね。

でもヨセフは奴隷として売られた家で、主人の信頼を得て、主人の全財産を任される筆頭の執事になります。
なった理由として、聖書は単純にこう記すんですね。
創世記の39章の2節にこうあります。
「主が彼と共におられ」――それが、その逆境の中で彼が守られたというその秘訣の単純な理由です。
「平和の神が彼と共におられ」たので(***ピリピ4:9)――彼はいつの間にか気づいてみたら、いや、彼なりに全力の努力を尽くしたのでしょう――でも彼は立派な家の全財産を任されるような執事になります。

でもそのすぐ後で、罠にはめられ、牢獄に入れられます。
でも監獄の長は彼を優遇します。
再び聖書は、そこでその理由を記します。
創世記39章21節で「主はヨセフとともにおられ」――理由はこれしか書いてないです。
監獄の中でどれ程祈ったとか、どれほど努力したとか、何にも書いてない。
「主はヨセフとともにおられ」ですね。

パウロはピリピの教会への手紙を書きながら、平安の神があなたがたと、また私と共にある。
それゆえ、逆境にあっても、貧しさの中にあっても、満足する秘訣を学んで来たんだということを、彼は書いているわけですね。

さて、今話しましたヨセフは、やがて王に抜擢されて、エジプトの行政を任されるようになります。つまり総理大臣になるんですね。
そして、かつて自分を売り飛ばした兄弟と、エジプトで再会を果たします。
それは兄弟たちが住んでいたパレスチナの地が飢饉に見舞われ、食料をエジプトに買いに来るんですね。
その時ヨセフは、もう十数年も前のその兄弟の顔を見るんですが、兄弟たちはヨセフだとわかりませんでした。
エジプトの総理大臣の風貌をしているわけですから、そりゃ全然分からなかったと思います。
しかしヨセフは一目見て、自分を裏切り、自分を奴隷に売り渡した兄弟であるということに気づきます。

話は少し長いんですけれども、やがて自分の正体を兄弟たちに明かす時が来ます。
その時彼は怒りに燃えて、復讐するんでしょうか?
いえ、いえ、ヨセフは兄弟たちに淡々と言います。
「私の家族を救うために、神が私を先にエジプトに送られたのです。」
ちょっとこれは開いてみません?創世記45章の8節です。

いいですか。ヨセフがエジプトに来たのは、兄弟たちが自分を奴隷としてエジプトに売ったからですが、ヨセフはこういう風に解釈します。
私が7節を読みますので、皆さんが8節を読んでください。

<創世記45:7〜8>
7神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。
8ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。

8節、皆さんが読んでくださった――ヨセフにとって、エジプトの王ファラオは父親同然ですね。そして今自分はエジプト全家の主人ですね。そしてエジプト全土の統治者です。いま自分はそういう立場だ。
でも8節の初めに――「私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。」
いのちからがら奴隷として売られ、主人の家の財産の管理を任され、牢獄にあっては看守の好意を得ることができ、やがてそこから出ることができた時に、彼は行政の長に就くわけですね。
それは全部神さまがそうさせてくださったんだ、という遜った思いで、彼は自分を裏切った兄弟に対面するんですね。
自分はエジプトの統治者ではない。ファラオの子どものような存在でもない。ま、本当はそうなんですけれども。
あなたがたを助けるために、ヤコブの家を助けるために、わが家の助けとなるために、神は私をあなたがたより先に送ってくださったのだ。
私が今ここにあるのは、こうして立っているのは、私のゆえではない、あなたがたのゆえでもない、神のゆえなのだ、と。

アメリカには今テレビドラマがありますよね。もう星の数ほど映画の数ほどテレビドラマはありますが、
そのテレビドラマの最初の頃に、「ルーツ」(***アメリカABCで1977年放送)というアメリカの黒人のルーツをドラマ化する企画がありました。
アレックス・ヘイリー(***1921〜1992)という有名な黒人の作家が小説を書いたんですね。
それが人気ドラマとなり、一躍アレックス・ヘイリーは有名人となりました。

彼の書斎には奇妙な絵が掲げられていました。
それは、家のフェンスの柱の上に乗っている亀の絵なんですね。
一匹の亀が、家のフェンスの柱の上に乗っているという絵が、自分の書斎の机の前に掲げられていました。
みんな訊くわけですね――「なんであんな絵を掛けているのですか?」と。
ヘンリーの答えは、こうです。
「作家として仕事が一段落する時にはいつも、
そしてぼくの言葉や考えが称賛される時はいつも、
そして自分の力を誇りに思う誘惑に駆られる時はいつも、
フェンスの柱にいる亀を見る。
すると心に刻むことができる。
亀はどんなに努力しても、柱の上には登れない。
誰かの助けがあって、誰かが柱の上に置いてくれたから、亀はフェンスの柱の上にいる。

誰かが持ち上げてくれなければ、亀はそこまで登れない。
自分はうまくいった時に、順調な時に、豊かな時に、喜びの中で考える。
神が私を持ちあげてくれなければ、所詮自分の力で上ることができなかったここに、自分は今いない。
それが豊かさの中で謙虚になれる、おごりのない、遜った満足を得る秘訣なんだろうと思います。

「平和の神があなたがたと共におられる」というのは、それは牢獄の中であれ、売られてしまった奴隷の地にあれ、ヨセフを上手に守ってくださる。
でもやがて成功し、エジプトの統治者になった彼も、自分は自分の力で統治者になることができたなんていう思いは、ヨセフにはないですよね。
私は亀のような存在で――運がよかったのではない――神が私をこの立場に上げてくださった。

こういう秘訣は、アレックス・ヘイリーがそういう絵を掲げて、傲慢な思いに陥る度に、その絵を眺めて、自分自身のたましいに刻んだように、私たちは学ばなければいけない。
パウロは「あらゆる境遇にあって満足することを学びました」ということはイコール、
《豊かさの中にあって、謙虚に神に感謝することを学んだ》
《試練の中にあって、決して希望を失わずに、神に信頼することを学んだ》
ということです。
学ばなければいけない。

私たちはなかなか学べないし、そういう洞察も与えられないわけですけれども、14節一緒に読みたいと思います。

3)ピリピの手紙の4章の14節、これは非常に考えさせられます。

14それにしても、あなたがたは、よく私と苦難を分け合ってくれました。

苦難の中にいるのはパウロです。パウロは牢獄にいますから。
でもピリピの教会の人々は、パウロの苦難を分け合ったと、ここに書いてありますよね。

14それにしても、あなたがたは、よく私と苦難を分け合ってくれました。

どういうことか?
そもそもピリピの手紙というのは、パウロがピリピの教会から受け取った贈り物に対する感謝状だと言われています。
その贈り物を受け取ったんですね。
10節をちょっと見ていただけます?こういう風に始まりますので――ちょっとゆっくり目に読んでいきますね。

 10私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあって大いに喜んでいます。
【いや、そうなると、ちょっとまずいですね。つまり、そうなると、今までパウロを案じていた思いが死んでいたかのようですよね?
ピリピの教会は全然パウロを案じていなかったように取れるじゃないですか?
それがよみがえってきたので、それを大いに喜んでいる――いや、それはまずいなぁ(笑)と思って、パウロは言い直しますね、と説明して続ける藤本牧師】
あなたがたは案じてくれていたのですが、それを示す機会がなかったのです。

ず〜っと私のことを案じていてくれたんですね。心配してくれていたんですね。
でも、それを示す機会がなかったんですよね。
そうして送られて来た励ましの贈り物に感謝するわけです。

そして、励ましの贈り物を受け取ったパウロは、こういう風に解釈するんですね。
あなたがたは、その励ましの贈り物を送ることによって、私の牢獄における苦難を分け合ったことになる。
直接に牢獄の苦難を体験しているわけでもないのに、「分け合う」って一体どういうことなんだろうかと思いますね。

パウロは牢獄にあって孤独だったと思います。
誰にも気を留めてもらえない。誰も自分の事を案じてくれない。
でも自分の事を案じてくれる人がいた、ということは、パウロは孤独から解放されたのでしょうね。
牢獄の苦難、耐えがたい牢獄の苦難――ピリピの教会の人々はその牢獄の苦難を味わっているわけではない。
でも何とかパウロを励まそうと思って、贈り物を届け、恐らく手紙も一緒に添えたんだろうと思いますが、
それによって、パウロにしてみると、苦難の厳しさ、苦難の重さが何分の一か減った。
ピリピの教会の人々が、私がいま味わっている苦難を共に担ってくれた、ということを感じたんだろうと思います。

つまり、私たちが試練の中にある人に手紙を書く時に、
試練の中にある人にメールを出す時、
苦しみの中にある人、病の中にある人に言葉をかける時に、
その人のために祈る時に、苦労をしている人たちをねぎらう時に、
励まそうと思って一緒に食事をしようとする時に、
その人を孤独から解放し、
その人が背負っている苦難の何分の一かを取り除いてあげることができる。

『教会は慰めの共同体』と言われます。
『慰めの共同体』というのはこういうことで、ものすごく苦しんでいる人の何分の一かをみんなで分かち合う。
ものすごく誉れを受けている人の、その喜びをみんなで分け合って、その人だけにその喜びが独占しないように、喜びを分けてもらう。

苦しみも涙も分けてもらうために、私たちは何をするのか?
それは互いに交わる以外にないですよ。
教会に一人で来て、誰にも何も言わずに教会から自分の所に帰って行くならば、
パウロがここで言う所の互いを案じる思いというのは、全く伝わらない。
もし伝えることができるなら、自分の孤独な思いを少しでも解放してもらい、自分が背負っている重荷を何分の一かでも共に荷ってもらう。

水曜日の夜の「祈祷会」がありますし、第一日曜日の午後に「祈りの時」がありますし、木曜日に「朝の祈りの会」があります。
時々、そこに出席していない方の祈りが舞い込んで来ます。
今朝、電話がかかってきまして、この事について祈ってください。で、皆で祈ります。
皆で祈るということは、それは祈りの『慰めの共同体』の中に入って、私が抱えている苦難をみんなに分け合い、私が体験している喜び、感謝の思いをみんなに分け合い、それを私たちはいつも共有している。

それが牢獄と離れたピリピの教会であろうが、それが、ま、S子さんのフロリダが、OYさんのスペインが、私たちの日本から一番遠いかもしれません。
一番遠いんでしょうね。でも私たちは祈りをもって、共にその苦難を分け合い、支え合うことができる。
この喜びほど大きなものはないですね。
お祈りをして終わりにいたしましょう。

☆お祈り――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣など、私たちは持っているはずがありません。ですから、私たちは苦難を分け合うだけでなく、この境遇に対処する秘訣をも分け合いたいと願っています。

じっと試練に対しつつも、その中で信仰を磨いている方々を私たちは尊敬します。逆に豊かさの中にあって遜り、一生懸命周囲の方々の世話をし、面倒を看、自分が持てるものをもってそれらの方々を支えている、その姿によって、私たちは豊かさの中にいる秘訣を学び取ることができます。

教会こそが互いに互いを模範として、この秘訣を学ぶ所であり、同時に、教会こそが互いが互いを励ますことによって、苦難も喜びも分け合う所の『慰めの共同体』であるということを、決して忘れることがありませんように助けてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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